2005年09月19日

国際盗聴網があなたをねらっている(2)

◆盗聴はキーワードで分類して取り込む

エシェロン国際盗聴網が行っているのは、海底ケーブルと通信衛星から漏れる通信を特殊機器で収集し、コンピューターに蓄積し、必要な情報を翻訳・分析するのが主な作業である。

電子メールのような文書情報だけでなく、電話による音声情報もデジタル化して収集している。電話番号や、話している人物の名前や声紋を探ることで、特定の情報をアクセスすることができるプログラムが利用されているようだ。

こうした文書と音声情報が、UKUSA同盟各国の秘密基地にあるディクショナリーと呼ばれるコンピューターに分類して蓄積される。

蓄積する場合には、私たちがパソコンで行っている検索方法と同じように、いくつかのキーワードごとに分類する。例えば日本の農業に関することなら「日本」「農業」「輸出作物」など、諜報活動に必要と思われるキーワードにもとづいて大量な文書がため込まれる。

NSAの指示にもとづいて、各国の盗聴機関の分析官と呼ばれる職員がこれらの文書を解読、翻訳し、その結果がワシントンのNSAに集約されるシステムとなっているのである。

ニュージーランドの基地は、地勢的位置を利用して、太平洋諸島の国々や日本、あるいはロシアの船舶などの通信を主として手がけている。日本語の文書を英語に翻訳してワシントンに届けるのもニュージーランドの担当である。

ニュージーランドという独立国家が、なぜアメリカのスパイ作業に協力するのかという大きな疑問が生じるが、この秘密ネットワークはニュージーランドの為政者が知らないうちに、米国やオーストラリアから調達された機器を元にして、あたかもニュージーランド軍のための諜報機関を装って作られていたのである。

つまり、米、英、カナダ、オーストラリア、それにニュージーランドの諜報官僚たちが、国境を越えて、政治家たちに知らせることなくちゃっかりと築き上げたのが、このエシェロンという諜報網なのだ。


◆米国NSAがエシェロンの指令基地

ハーガー氏(前回の記事参照)の著書に敏感に反応したのが欧州の国々であった。EUは調査委員会を発足させ、二〇〇〇年七月、エシェロン国際盗聴網の調査を開始し、2001年7月に公式の報告書を発表した。

この報告書によって、エシェロンという符牒で呼ばれる国際盗聴網が存在するということがはっきりした。

エシェロンに所属する機関は次のとおりである。米国安全保障局(NSA)、英国政府通信本部(GCH)、カナダ通信保安庁(CSE)、オーストラリア防衛通信本部(DSD)、ニュージーランド情報通信保安局(GCSB)である。

エシェロンの各国機関にはディクショナリーと呼ばれる大型コンピューターが、窓のない完全空調の建物に設置されており、盗聴対象項目のあらゆるキーワード、個人名、電話番号などを蓄積している。電子メールや短波通信を大量に傍受して溜め込み、各国機関が協力してそれらの文書や通信を翻訳する。

また、暗号の解読技術も極めて高度に発達しており、各国が大使館とやりとりする暗号などのかなりの部分を解読している模様だ。


◆人権団体をも監視か?

EUの調査委員会は、特にエシェロンが各国の経済情報や人権団体の活動を傍受していることに注目している。つまり、エシェロンは軍事関係の諜報だけでなく、経済動向も調査して米英に有利な取引を行ったり、各国の人権団体の動きも監視している可能性が極めて高いのである。

NSAが他国の機関に命令している例のひとつとしてハーガー氏は、03年3月に興味深い文書を入手し、日本の読者のためにその秘密文書を公開している。この文書は英国のオブザーバー誌がすっぱ抜いたものだ。

NSAのフランク・コザという名前の職員の署名による、おそらく英国の諜報部に向けて出したと思われる「最高機密」と指定された文書である。

この文書には、次のような内容が記されている。
「NSAは米国と英国を除く国連安全保障理事会のメンバーが、イラク問題に対してどう考えているのが、どういう態度で決議にのぞむのか、どういう国々と連携しているのかなどを探る作戦を開始した。これはアメリカの政策を有利にするための作戦であり、同時に国際社会の関心をパキスタンに向かせる作戦とも連動している。特に、国連安全保障理事会メンバーであるアンゴラ、カメルーン、チリ、ブルガリア、ギニアを標的として作戦を実行すること。国務長官が国連安全保障理事会に証拠提出をするので、来週半ばあたりに多くの文書が飛び交うだろう。これらの国を対象とした傍受・分析作業に集中して欲しい」
というものである。

つまり、アメリカのイラク侵攻を正当化するために、各国の諜報機関はアメリカ政府に協力せよというのだ。

この文書からわかるのは、私たちが知らないうちに、アメリカ政府はアングロ・サクソンだけの連合国を秘密裏に形成し、その盟主として諜報機関を通じて、国際世論操作を行っているようだ。

さて、EUはエシェロンにどう対応したのであろうか。
まずEUは調査委員会を設置する前に、ダンカン・キャンベル氏という英国のテレビ・ジャーナリストに調査を依頼した。

キャンベル氏は2年かけてハーガー氏の書物の裏付け調査をし、エシェロンがハーガー氏が指摘しているとおりに存在していることと、アメリカの企業がエシュロンを利用してEU企業を国際入札で追い落としたことが二回あるとの調査結果を発表した。

これを受けたEUは三十二人のメンバーによる調査委員会を発足させ、2001年5月にはワシントンを訪れ、NSA当局との面談を要求している。しかしNSAはこの面談の要求を拒否している。にもかかわらずEUの調査委員会は詳細にわたる報告書を完成させ、UKUSA五カ国による国際盗聴網を阻止する行動をとらなければならないという提言をまとめている。

特に英国に対するEU諸国の怒りは相当なもので、フランスがあくまでもアメリカのイラク侵攻に反対するのには、こうしたバックグラウンドもあるということも、考えておく必要があるであろう。

しかしながらエシェロンに対するEUの怒りは、むしろ盗聴によってEU企業の国際競争を阻害しているという点からきているようで、明確な国際法違反である盗聴活動に法的対抗措置を採るという動きには、今のところ発展していない。むしろ、フランスがこのシステムに逆に興味を持ち、自前の国際盗聴システムを構築しようとする動きさえ見せている。

エシェロンはどんな国や団体を対象に、何の目的で傍受作業をしているのだろうか。エシェロン・ウォッチャーによれば、有名な例としては、ジョン・レノン、マザー・テレサ、ダイアナ元皇太子妃などの名前があがっているが、真偽のほどは定かではない。しかし、NSAの元職員などが断片的に伝えているこうした有名人の名前から、米英に対する反体制運動に結びつきそうな人物の通信が、積極的に傍受されていることは間違いがないようだ。(つづく)

★初出「月刊公評03年12月号」 加筆05年9月

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2005年09月04日

国際盗聴網があなたをねらっている(1)

みなさん、
ここしばらく人身売買問題の取材に集中しており、アジア・ジャーナルの更新の時間が取れませんでした。ごめんなさい。みなさんに新しい情報をお届けするために、既出雑誌の出版社に転載のお願いをしています。新しく掲載したものは、すぐには無理ですが、少しずつクリアしていこうと思います。
今回は、一時世界中で騒がれたエシェロン(新聞ではエシ(ュ)ロンと報道されていますが、米国の諜報網なので、ここではエシ(ェ)ロンとします)について、復習してみます。
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◆いまだに健在なエシェロン国際盗聴網

アメリカが中心になって第二次世界大戦の頃から形成してきた国際盗聴網「エシェロン」が、2000年に世界的に知られるようになり、大きな問題になったが、最近はまったくこの件に関しての報道が見られなくなってしまった。
しかし、決して国際盗聴網がなくなったわけではない。
ワシントン郊外の国家安全保障局(NSA)に本部を置くこの国際盗聴網はいまだに健在であり、堂々と諜報活動を続けている。
この盗聴網のしくみについてまだ知らない人のために、その概要について簡単に解説してみよう。
国家安全保障局(NSA)はワシントンDCに隣接したメリーランド州フォートミードに本部を構えている。創設されたのは1952年だが、その前身は1930年代にさかのぼる。
第二次大戦前の米軍は、ドイツを中心とした枢軸国に傍受されないよう、英軍との間でA3と呼ばれる暗号コードを使って、短波通信によるやり取りをしていた。
その後1935年に、この暗号コードはボコーダーと呼ばれる音声合成システム置き換わり、デジタル技術に直接結びつく音声暗号システムに変化して行く。
枢軸国の側は乱数表を使ったモールス信号と短波信号を中心に相互通信を行っていたが、米英側はすでに枢軸国側の暗号を傍受する技術を完成させていたようである。
ワシントンで人気の高いスパイ博物館に行くと、当時の連合国と枢軸国側の傍受の歴史が展示されていて興味深い。この博物館には世界中の有名なスパイや、スパイの小道具が展示されており、伊賀忍術の創始者といわれる百地三太夫も、日本の諜報員のひとりとして展示されている。
真珠湾に関する展示コーナーでは、アメリカは真珠湾攻撃に関連した日本側の暗号をすでに解読していたが、場所が特定できなかったので大きな被害を受けたと解説されている。
つまり、米英軍は第二次世界大戦の当時にはすでに現在のデジタル技術に道を開くシステムを完成させていたと同時に、乱数表などを使った敵国の暗号の解読技術を高度に発展させていたのである。
第二次世界大戦が終結すると、米英軍が傍受する対象は共産圏の動きに変化していった。
1952年には、アメリカの国家安全保障局(NSA)と英国の政府通信本部(GCHQ)が、新たに生まれた冷戦の動きに対応するために、相次いで設立されている。

◆ アングロ・サクソン盗聴同盟

米英が相次いで盗聴組織を作ったのには伏線がある。第二次大戦の最中にアメリカと英国は、英米安全保障協定(UKUSA)と呼ばれる秘密協定を結んでいた。
英語でユークーザと発音されるこの同盟は、最初は英米間の秘密協定だったようだが、いつしかカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの三カ国を含めたアングロ・サクソン国家による国際盗聴同盟に発展していった。
しかし、この国際盗聴同盟は1996年までは国際社会にまったく知られることがなかった。
ニュージーランドのジャーナリストがちょっとしたきっかけから、国際盗聴同盟の支部がニュージーランドに存在することに気づき、慎重な調査をして、その存在を告発した。当時のニュージーランド首相すらその存在を知らなかったほど、国際盗聴同盟は秘密のベールにつつまれていたのである。
当初、米英の盗聴機関はアジア太平洋の情報を盗聴するために、三沢、香港、シンガポールの三カ所に秘密基地を設けて傍受活動をしていたようだが、米英から遠すぎるので、オーストラリアとニュージーランドにもひそかに、傍受基地を設けることにしたようだ。
たまたまニュージーランドのタンギモアナ基地の近所に住む友人を訪ねてきたオーエン・ウィルクスという平和問題の研究家が、その基地に設置されていたアンテナの形状が、盗聴用の傍受専門のアンテナであることに気づいた。
ウィルクス氏は、この傍受基地の建設のいきさつなどを調べ、1983年、ニュージーランドの平和問題研究誌に記事を書き、秘密傍受基地が存在することを告発した。
この告発によって、秘密傍受基地の存在は国会でも問題になり、当時のマルドゥーン首相は、国会で秘密基地の存在を認めざるを得ないという騒ぎになった。
しかし、この秘密基地がUKUSA同盟に組み込まれた国際盗聴網であるということは、国会で答弁をした当のマルドゥーン首相すら知らなかった。

◆日本の三沢基地にも盗聴施設がある

そのことがわかるまでにはさらに、13年の時間がかかった。ウィルクス氏の記事に注目したジャーナリストのニッキー・ハーガー氏が、ニュージーランドに設置されていた秘密基地を慎重に調査し、この秘密基地がニュージーランドの主権を無視したアメリカの出先機関であるという驚くべき事実を突き止めて書物に発表したのは、一九九六年のことだった。
ハーガー氏による入念な調査報告書は世界中の人を驚かせた。最初はまゆつばだと思っていた人々も、ハーガー氏の十分に裏付けをとった調査を読み進むうちに、国際盗聴網の閉ざされた真実に気づき始めた。ついに欧州連合(EU)が腰をあげて調査委員会を設置。エシェロン(フランス語ではエシュロン)という符牒で呼ばれる国際盗聴網の存在が国際的に明らかになった。
日本での報道は、欧州連合の調査を受けて火がついたようだが、基本情報がはっきりしなくて盛り上がりに欠けてしまっている。
無理もない。この問題の全貌を告発したハーガー氏の著書が日本語に翻訳されたのは、やっと2003年の夏になってからだったからだ。
「シークレットパワー・国際盗聴網エシェロンとUKUSA同盟の闇」(ニック・ハーガー著、佐藤雅彦訳、リベルタ出版)というタイトルで翻訳されたハーガー氏の書物は、実に詳細な調査にもとづいており、読み進むほどに、その正確さにうなってしまう。調査報道による説得力の強さに誰しも驚くであろう。
本来なら、こうした重要な書物は原書が出ると同時に読んでおかなければならないのだろうが、いかに重要な書物でも骨の折れる原書にあたる時間はなかなか取れないのが現実である。
日本国内の三沢基地にも国家安全保障局(NSA)に情報を提供するためのアンテナ群が建てられていることが、ハーガー氏の書物でも詳述されており、アメリカによるこうした不法行為に対して、どういったアクションを採ったらいいものやら、考え込んでしまった。(つづく)

 ★初出「月刊公評03年12月号」 加筆05年9月

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2005年03月26日

星の王子さまの涙(2)

▼愛の重圧を知った涙

星の王子さまが地球を訪ねたとき、たどりついたのは、幸か不幸か砂漠地帯だった。人間を探して長いこと歩いてゆくと、バラが咲き誇っている庭にたどり着いた。

ここで王子さまは大きな発見をすることになる。自分の星にいるバラの花は、たった一本だが、ここにはそっくりそのままのバラの花が五千本もあったのだ。
「もし、あの花が、このありさまを見たら、さぞこまるだろう・・・やたらせきをして、ひとに笑われまいと、死んだふりをするだろう。そしたら、ぼくは、あの花をかいほうするふりをしなければならなくなるだろう。だって、そうしなかったら、ぼくをひどいめにあわそうと思って、ほんとうに死んでしまうだろう・・・」

さらに王子さまは、こうも考えた。
「ぼくは、この世に、たった一つという、めずらしい花を持ってるつもりだった。ところが、じつは、あたりまえのバラの花を、一つ持ってるきりだった。あれと、ひざの高さしかない三つの火山――火山も一つは、どうかすると、いつまでも火をふかないかもしれないぼくはこれじゃ、えらい王さまなんかになれようがない・・・」

そういうと、王子さまは、草の上につっぷして泣きだしたのである。
つまり、自分がひとつだけだと思っていた大事なものとそっくりそのままのものが、あまりにもたくさんあって驚いたのである。
通り魔殺人という犯罪を犯す人々には、大衆というものが個人の集団であるということが見えないらしい、「むしゃくしゃしたのでやった」などというわけのわからない動機が報道されると、人々はやりきれない思いをする。最近は、通り魔殺人の病原菌が大国の為政者たちにも感染しているようだ。
サン=テグジュペリは、ひとつの大事なものがたくさん集まればどうなるかということを、庭に咲くたくさんのバラの花でたくみに解説している。

王子さまはなぜ泣いたのだろうか。 

いままでは、小さな自分の星では、一つのバラを大事なものと考えていれば事足りていた。しかし、地球という大きな星で、五千本もの大事なものを同じように愛さなければならないという、とほうもない重圧を知り、「ぼくはこれじゃ、えらい王さまなんかになれようがない・・・」と泣き出したのだ。
では、えらい王さまになるためには、どうしたらいいのであろうか。

▼うわばみの絵の謎

「星の王子さま」はうわばみがゾウを飲み込む絵から、話が始まっている。この逸話に関して、文学の世界では「ゾウはフランスを表している。そのフランスをドイツといううわばみが飲み込もうとしていることを示している」などの解釈があとを絶たない。もちろん、そうした解釈をしてもサン=テグジュペリは怒りはしないだろうが、そうした解釈では、星の王子さまがなぜうわばみの絵の中身が見えるだけでなく、箱の中のヒツジも見えるのだろうか、ということがさっぱりわからない。

子どもの頃に初めて「星の王子さま」に接した私は、このうわばみの絵をなぜ王子さまがわかるのかが理解できず、悩んでしまった。いくらあの茶色い、うわばみの絵を眺めてみても、その中身が目に浮かんでこなかったからだ。

そして、そのしくみは描いた人の心に住んでいるのだということを知ったのは、だいぶあとになって、ある児童画の研究家に出会ってからのことだった。

子どもの絵の中に描かれている心の表象を正確に読み取って、子どもの絵は脳の縮図であると発表した小学校教員がいた。盛岡県雫石町の浅利篤さんである。生前の浅利さんは日本児童画研究会を組織し、全国の仲間とともに悪しき美術教育と戦っていた。

この悪しき美術教育というのは、今でも日本の大部分の初等教育をおおっている、間違った写実画教育のことである。つまり子どもの絵をまったく理解できない小学校教師たちが、子どもの創造性の芽を摘み取ってしまっている教育との戦いであった。

浅利さんが盛岡市内の小学校の校長を勤めていたときの話だ。小学校二年生の女児が泣きながら校長室に駆け込んできた。

「校長せんせ。お屋根にひさしが、なくってもいいよね」

浅利校長は、とっさにこの子が描いた絵のことだと検討がついたそうだ。
「おお、ひさしはなくってもいいぞ。だってお日さまが照っているんだろ?」
女児は、この言葉を聞いて泣きやみ、喜び勇んで教室に戻っていった。

真相はこうだ。女児は図工の時間に画用紙に家と太陽とチューリップの風景を描いた。それを見た担任の先生が、「このおうちには、ひさしがないわね。雨が降ったら壁が濡れてしまうでしょ」と注意したのだ。

女児は憤懣やるかたなかった。「太陽が出ているのだから、壁は濡れない」と言いたかったのだろうが、低学年児が教師に向かってそうした抗弁の出来ようはずがない。日頃、自分たちの絵を見てほめてくれる校長ならわかってくれると思って、教室を飛び出して校長先生に直訴したのである。

浅利校長は、この子の担任を呼び出してきついお灸をすえている。

「君は、ウサギをこどもたちに見せて、見たとおりに描くように指導している。『あら、目を黒く書いてるわね。よく見てごらんなさい。目は赤よ』『ウサギの毛は雪のように真っ白よ、ほらさわってごらんなさい。ちゃんと白く描くのよ』。絵というものは、自分で思いついた自分の世界を紙の上に展開するものだ。ウサギが白かろうと、紫だろうと、何色で描くかは子どもたちの自由だ。それが創造というものだ。君の教育は、絵画教育ではなく、理科教育だ。ところで君、太陽の色は何色かね」
「赤です」
「ははーん。太陽を見たことがないらしい。これじゃ、理科教育のほうもあやしいな。校庭に出て、太陽の色をじっと観察してから、次の授業を開始しなさい」


▼心の投影を覗き込む

浅利さんに、絵は心の世界の投影であるということを教えてもらった私は、こうしてうわばみの絵の謎を解くことができたのである。

つまり、サン=テグジュペリは、絵というものは描いた本人の世界であって、王子さまには、その本人の世界を覗き込む力があったということをいいたかったのである。ゾウをフランスだとかドイツだとか解釈するのは、解釈する本人の心の世界である。そうした想像も自由であるが、「星の王子さま」の逸話を通じて、見えない世界があるということを自覚することのほうが先決ではないだろうか。

「星の王子さま」のはしがきでサン=テグジュペリは、この本を、レオン・ウォルトに捧げている。サン=テグジュペリより二二歳年上のユダヤ人で、当時ナチスの迫害から逃れるためにフランスの山岳地帯にひっそりと身を隠していた男性である。レオン・ウォルトとは消息不明になる直前まで手紙のやりとりをし、自分の書物の批評をしてもらっていた仲であった。

わたしは、この本を、あるおとなの人にささげたが、子どもたちには、すまないと思う。でも、それには、ちゃんとした言いわけがある。そのおとなの人は、わたしにとって、第一の親友だからである。もう一つ、言いわけがある。そのおとなの人は、子どもの本でも、なんでも、わかる人だからである。いや、もう一つ言いわけがある。そのおとなの人は、いまフランスに住んでいて、ひもじい思いや、寒い思いをしている人だからである。どうしてもなぐさめなければならない人だからである。こんな言いわけをしても、まだ、たりないなら、そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたいと思う。おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。そこで、わたしは、わたしの献辞を、こう書きあらためる。 子どもだったころのレオン・ウェルトに 「星の王子さま オリジナル版」(岩波書店)



(c)2005 加筆 菅原 秀 初出 月刊「公評」04年12月号 

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2005年02月26日

星の王子さまの涙(1)

▼星の王子さまの時代

星の王子さまは、作者サン=テグジュペリとの会話の中で二度涙を見せている。
最初は、バラを食うヒツジの話をしたあと。そして、二度目はバラの花が咲き誇っている生垣を見たあとでだ。

星の王子さまはあのときにヘビにかまれて死んでしまったが、その魂は自分の星に帰っていったに違いない。そして、今度生まれ変わってふたたび地球を訪ねてきたとき、彼は驚くに違いない。

というのは、あの頃よりも、彼が心配していたバオバブの木が、当時の三本どころか、あちこちに生い茂っており、バラを喰うヒツジが世界中をわがもの顔で闊歩しているからだ。

そのことを考える前に、サン=テグジュペリが「星の王子さま」を書かざるを得なかった時代背景をふりかえってみよう。

ふつう外国人の名前は、サン・テグジュペリのように書かれる。内藤濯(あろう)さんの秀逸な訳で日本語版が出版された一九五三年の初版本には、サン・テグジュペリと書かれている。

しかし、この作者の名前はSaint-Exupéryなので、TとEの間がリエゾンされることから、その後、中点(なかてん)を使うことをさけて=を使うようになったようだ。

サン・テグジュペリは空軍のバイロットであっただけでなく、ジャーナリストとしてすぐれた記事を書いている。サン・テグジュペリの生き方は、多くのジャーナリストに影響を与えている。

日本にも影響を受けている人がたくさんいるわけだが、最近「星の王子さまの天空ジャーナリズム論」という副題で「地球メディア社会」(リベルタ出版)を書いた元共同通信記者、山本武信さんの解説から、「星の王子さま」が書かれた時代背景を引用させていただく。
 
戦争が好きな米国は、本土への攻撃を受けたことがない。唯一の例外が2001年の米中枢同時テロだった。だから、国中が震撼した。これに対しヨーロッパにとって、戦争とはつねに本土決戦だった。
二つの世界大戦の谷問で生き、そして死んだサン=テグジュペリの思想と行動はこうした極限状況を抜きにしては語れない。サン=テグジユペリは危急存亡の中で人間の真のあり方を追求し、現下の世界危機にどこまでも責任を持とうとした行動の人である。人問の生存や営みを脅かすものに対しては、ペンや飛行機を武器にして容赦なく立ち向かった。

1942年に出版した「戦う操縦士」は米国でベストセラーになり、フランスでも発刊された。同書はヒトラーの「わが闘争」への民主主義者の反論だった。その中に「ヒトラーは愚者である」という一文があった。これが検閲に引っかかって騒ぎになった。一九四三年にはドイツ語版が発禁処分になっている。「星の王子さま」が世に出たのは、この年である。『地球メディア社会』(リベルタ出版)207ページ

サン=テグジュペリは1940年から三年間アメリカに滞在している。当初はアメリカに祖国の窮状を訴えるために四カ月滞在する予定だったが、祖国に新ナチスのビシー政権が成立したので滞在期間を引き延ばして、一時的にアメリカに亡命せざるを得なかったようだ。

しかし、このアメリカもなかなか好きになれなかった。英語を習得しようとせず、亡命したにもかかわらず、簡単な会話すら行おうとしなかった。なぜ英語を話そうとしないのかと友人に聞かれると、次のような愉快な弁明をしている。
「コーヒーが一杯欲しいときには、カフェテリアのかわいいウェィトレスのところに行って、カツプと、受け皿と、スプーンと、コーヒーと、クリームと、砂糖とを身ぶりで示せばいい。そうすれば彼女はにっこりする。わざわざ英語の勉強に行って、その徴笑を失ってしまう理由がどこにあるのかね」「戦う操縦士」(みすず書房)
 
さてサン=テグジュペリが「星の王子さま」を書いたのは、このアメリカでの滞在期間中だった。サン=テグジュペリは、食堂の紙ナプキンに絵を描く癖があった。いつも描くのは、ガウンを着た王子さまの絵だった。本人にいわせると、モーツアルトの子ども時代のイメージがいつも心に浮かんでくるということだ。
 
ニューヨークのある編集者が、その絵のことを尋ねた。
「いつも心に浮かぶ、ただの小さな坊やさ」

その答えに興味を持った編集者が、その坊やをテーマに絵本を作ったらどうかという提案をした。数々の書物で賞をとり、フランスでは道を歩けばサインをせがまれるような有名人であったサン=テグジュペリは、絵本を書かないかという提案に興味を持ったようである。

といっても、初めての試みなので、何をどう書いていいかがわからなかった。

そうこうしているうちに、ナチスがロシアを攻略し、さらに北アフリカに戦線を進めた。サン=テグジュペリは、今まで出版し続けてきてシリアスなドキュメンタリーとはまったく違う形で、今、人類が考えなければならないことを絵本の形にすることを決意したようだ。


▼最初の涙

さて、王子さまが最初に泣いた場面を思い出してみよう。
 
砂漠に墜落した飛行機の修理に没頭しているサン=テグジュペリに、王子さまは次々に質問を浴びせかけた。ボルトとカナヅチで壊れた部分をぶっ飛ばそうと考えていたので、王子さまの質問にまともに答えなかった。

王子さまは言った。
「だのに、きみは、ほんとにそう思ってるんだね? 花ってものは・・・」
 サン=テグジュペリはあわてて言い訳をした。
「ちがうよ、ちがうよ、ぼく、なんとも思ってやしないよ。でたらめに返事したんだ。とてもだいじなことが、頭にひっかかってるんでね」
 
王子さまは、あっけにとられてサン=テグジュペリの顔を見て言う。
「なに、だいじなことって?」

そして王子さまは、飛行機の修理に没頭しているサン=テグジュペリの態度に腹を立てる。
「ぼくの知ってるある星に、赤黒っていう先生がいてね、その先生、花のにおいなんか、吸ったこともないし、星をながめたこともない。だあれも愛したことがなくて、していることといったら、寄せ算ばかりだ。そして日がな一日、きみみたいに、いそがしい、いそがしい、と口ぐせにいいながら、いばりくさってるんだ」
 
王子さまはサン=テグジュペリを赤星先生になぞらえた上で、大事なこととはなんであるかを語る。
 「だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花がすきだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。そして、〈ぼくのすきな花が、どこかにある〉と思っているんだ。それで、ヒツジが花をくうのは、その人の星という星が、とつぜん消えてなくなるようなものなんだけど、それもきみは、たいしたことじゃないっていうんだ」

そこまで話した王子さまは、続きを話せなくなり、わっと泣き出してしまうのだ。

文学の世界では、この一輪のバラの花は、サン=テグジュペリが愛する妻コンスエロか、あるいは祖国フランスのことだと解釈されているようだ。

しかし、この解釈はどちらも間違いだろう。というのは、ナチスに占領されていたフランスから亡命せざるを得なかったサン=テグジュペリにとっては、人類を抑圧する邪悪な力こそが、戦わなければならない相手であり、抑圧されている人々のひとりひとりこそが大事な人々であったからだ。その行動原理は、「人間の大地」をはじめとする一連の書物の中に何度も出てきているからだ。

山本武信さんはこう書いている。

責任という思想を理解せずに「人問の大地」や「星の王子さま」を感傷的物語として読むのは不適切である。責任という考え方がなかったら、サン=テグジュペリはファシズムと戦わなかっただろうし、両作品もこういう形では結晶しなかったに違いない。「人間の大地」や「星の王子さま」は大空を飛ぶことに夢中な作家が、占領された故郷を離れ、人問と生活を踏みにじる不条理な戦争のただ中に身を置いたからこそ生まれた傑作である。『地球メディア社会』208ページ


▼集団と個人、そして責任

近代戦が生まれて以来、安全圏から見えない敵を攻撃するという悪習が為政者たちにこびりついてしまった。ピンポイント爆撃を行っているので市民を巻きぞえにする可能性はほとんどない、と記者会見で述べながら、相手国の市民を殺戮し続けている。一発でも誤爆があれば、まさに無実な人に対する「殺人」である。そうした事態が発生すれば、直ちに戦争を停止して、「殺人事件」がなぜ起きたかの捜査をし、犯人を逮捕するのが当然だ。しかし、世の中はそうは動いていない。戦争だから仕方がないというナンセンスを口実に、国家の面子をたもとうとする。
 
たとえ為政者たちがそうであっても、われわれは、戦争だから仕方がないという口実を許してはいけないのだ。

サン=テグジュペリの言う「責任」とは、こうした個々の人間が自由に生きる権利を保障されなければならないということである。

サン=テグジュペリは「戦う操縦士」の中で、次のように書き、この問題を深く思索している。

不正義の牢獄からただひとりの人間を救出するために千人が死ぬということがなにゆえ正当なのか? わたしたちはまだその理由をおぼえてはいるが、徐々に忘れはじめている。しかしながら、わたしたちをきわめて明確に蟻塚から区別するこの原作のなかにこそ、なによりもまずわたしたちの偉大さが存するのである。『戦う操縦士』(みすず書房)

「戦う操縦士」を書く以前から、サン=テグジュペリは「集団」と「個人」と「自由」の関係について考え続け、しかも行動している。
 
不時着した砂漠でサン=テグジュペリは、マウル族に囚われて奴隷にされていたバルクという名の年老いたイスラム教徒を、大金をはたいて買い戻している。そして故郷に帰れるように20フランを与えている。さて、その元奴隷は、やっと自分の自由を得て、何をしただろうか?

元奴隷のこの男は、町に出ていって、自分が自由になったことを確認するためにぶらぶら歩いた。奴隷としてふたたび捕まらないことを知り、徐々に自由の身であることを確認していった。そのことを確信するようになると、町にいる貧民の子供たちに目がとまった。そこで、信じられない行動を起こしたのだ。近所の店に入って大勢の子どもたちのために大量に安物のおもちゃを買ってきて、惜しげもなく分け与えたのである。まわりの「馬鹿な奴だ。金を大事にしろ」と止める声も聞かずに。 

サン=テグジュペリは、この元奴隷のこの行動を見て、こう書き記している。

彼は自由だったから、基本的な富は、愛される権利も、北なり南なりに向かって歩く権利も、労働によってパンを得る権利も所有していた。いったい、そんな金銭がなにになるというのか……。だが他方、バルクは、ひとが深い飢えを感じるように、人間たちのなかで、人間たちに結ばれた人間であることへの要講を感じていたのだ。(中略)アラブ人の露店商たちも、往来の通行人たちも、すべてが彼のうちなる自由人を尊重し、彼とともに平等に彼らの太陽を頒ち合いはしたが、だれひとりとして、彼を必要としているという態度は示してくれなかった。彼は自由だった。限りなく、もはやこの地上に自分の重みを感じないほどまでに、彼には、歩みの枷となるかの人間関係という重み、かの涙、かの離別、かの非難、かの歓び、ひとつの身ぶりをするたびに、ひとりの人間がいとおしんだり、引き裂いたりすることになるいっさいのもの、おのれを他の人間に結びつけ、おのれをずっしりと重いものにしてくれるかの無数の絆が欠けていたのだ。だが、バルクのうえには、すでに子どもたちの無数の期待が重くかかっていたのである……。(中略)バルクは、かつて羊たちのなかに埋もれていたように、子どもたちの潮のなかにつかり、世界のなかに最初の航跡をしるしながらすすみ出た。明日、彼はおのれの家族の貧困のなかに立ち戻ってゆくだろう。彼の老いた腕がおそらくは養いうる以上の生命に責任を持つだろう。しかし彼は、すでにここで、おのれの真の重みをどっしりと持っていたのだ」「人間の大地」(みすず書房)
 
サン=テグジュペリにとって大事な存在とは、バルクのような人であり、子どもたちであり、そして世界中の個性を持つ人々であった。もちろん文学者たちが論争している妻コンスエロも、祖国フランスの人々も大事な存在であった。いや、アメリカや敵国ドイツの人々も大事な存在なのである。
 
サン=テグジュペリは、1942年に「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」と「カナダ・ド・モントレアル」に意見広告を出している。当時のフランスは、ナチスがフランスの裏庭である北アフリカにも進撃を開始し始めたにもかかわらず、ナチスに迎合する政党と、ナチスを打倒しようとする政党との議論ばかりが続けられていた。そのことで祖国が分裂することへの危機感からだった。
 
「あらゆる地域に住むフランス人男性への公開書簡」と題したこの意見広告で、サン=テグジュペリは、フランスの男性は今すぐ政争をやめて和解し、祖国フランスを守るために一致して戦おう、と呼びかけている。
 
アメリカとカナダのメディアに掲載された意見広告へのフランス人からの反応はにぶかったようだ。サン=テグジュペリは1944年、自分が呼びかけた言葉に従ってフランスに戻り、40歳をすでに過ぎているにもかかわらず、フランス空軍の偵察隊に復帰した。そして、コルシカ島からフランスに向けた偵察飛行に出撃し、消息不明となったのである。
  
サン=テグジュペリは、大事なものを守るという責任を果たすために、なんとしてもナチスというバオバブの木を絶やさなければならないと考えていたのだ。

(2)に続く

(c)2005 加筆 菅原 秀 初出 月刊「公評」04年12月号 



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2005年02月12日

アジアの言語と報道(2)

▼名前を呼ぶ風習も大違い

また、中国人の場合、姓と名前がワンセットになっている。日本のような家族制度がないので、「王さんが」とか「黄は語った」などの表現は、名前の特定度が稀薄になってしまう。
各社の中国在留特派員は、中国人の名前を姓名で打電してくる。「周氏が……」などという風に直すのは外信部のデスクか整理部の記者である。現場を見ていない人間はもっと現場を尊重すべきである。

つまり周恩来の両親は、息子に向かって「チョウ・エンライ!ライ.バ」(周恩来!こっちに来なさい)と呼んでいるのだ。家族ですら名前を単独で呼ぶ風習はあまりない点に注目していただきたい。

名前だけ呼ばれるのは幼児の場合や、兄弟同士、あるいは恋人同士などで、親がちゃんと子を呼ぶ場合は、姓名一緒である。
文化大革命の時代も毛沢東(マオ・ツォトン)同志と呼ぶことがあっても、毛同志と呼ぶことはなかった。これは中国文化理解の上で注意すべき要素である。
日本式に言えば、中国は夫婦別姓である。つまり姓と名の組み合わせが個人を特定するのである。大事なことは姓の概念は、日本の氏(うじ)制度とはまったく異なった物だということである。

世界各国の氏名制度のほとんどは「父○○の子供」、「母○○の子供」と言う組み合わせが多い。そこで、ミドルネームという表記が生まれたりする。
中国が氏名をワンセットとしてとらえるのに対し、モンゴルなどは、氏のほうは単に父の名前を意味する記号であり、本人を特定して呼ぶ場合は下の名前だけとなっている。またビルマなどは、前述したように姓の概念がなく、ひとりひとりの個人が占星術に基づいた独立した名前を持つという変わったシステムになっている。
結婚して相手の氏に入るシステムを持っているのは、日本だけだと考えたほうが、間違いを犯さないで済むようだ。

さらに蛇足ながら、戸籍制度は日本にしかない。朝鮮にもあると主張する人もいるが、日本が侵略した時に創氏改名政策が失敗したという史実ひとつを検討しただけで、そういう考え方はナンセンスであることが証明できるであろう。
日本人なのだから「しゅう・おんらい」でいいのではないか?という意見は多いようだ。しかし、この方法を採用する限り、日本語以外の言語に移しかえる時にまったく対応でき
なくなってしまうのである。あ<までも、国際情報にすばやく対応するためには、「アジアの言語と報道1」で述べたように、トーマス・ウェード式に憤れておいたほうが便利なのである。

在日している中国人民主活動家、趨南(ツァオ・ナン)さんが、東京地裁で日本への亡命を否定された時のことだ。

外国人特派員協会での記者会見の英語の通訳は、趨南さんの中国語を日本語に通訳し、さらに別の人が英語にするという二重通訳だったのでZhao Nanという彼の中国名を知らずに、チョーナンと発音した。英語のわからない当人の趨南さんはそれをチェックできなかった。
その結果、一部の日本人記者の手による英語紙にChou Nanと表記された。
英語のわかる中国人がこの記事を読んでも、誰のことを指しているか判断できない。Zhao Nanと書けば、「ああ『北京の春』事件に関連した民主活動家だな」とすぐに連想されるはずであるのだが。

たとえめんどうであっても、マスコミがこの原則、つまり漢字・カタカナ併記を採用すれば、中国語や韓国・朝鮮語固有名詞に対する機動力が増し、対外惰報交換のときに底力を発揮できるようになるのではないか。

▼中国側が日本語表記を採用するのは不可能

「それなら中国人も日本語を、東京(トンジン)、田中(ディェンツォン)などと発音せずに、『とうきょう』『たなか』という風にすべきだ」という意見も多い。しかしそれは不可能である。

中国語はすべてを漢字で表記する言語であり、日本語のようにひらがなやカタカナがない。さらに「とうきょう」や「たなか」に対応する発音や漢字がないのである。
無理に漢字をあてはめたとしても、「ターウーチョウ」「ダーネイグー」など日本語からかなりずれた発音しかできない結果になってしまう。それでは、せっかく日本語的な発音を採用した意味がなくなってしまう。
つまり英語のvfrを正確に日本語で表記できないのと同様、日本語のか、き、け、こ、さ、せ、て、と、ぬ、の、む、め、ゆ、などに対応する発音や漢字が中国語にはないの
で、日本語への対応が難しいのだ。

例えば、はやりのカラオケも中国語では、「カーラーオウケイ」という風に発音されている。
台湾に行った時のことだ。カーラーオウケイ・クラブにいた現地の女性が、
「私は日本の歌手ではバタヤキが一番好きです」
といっていた。バタヤキなどというバンドは聞いたことがないので、漢字で書いてもらったところ八代亜紀だった。彼女のファンにとってはバタヤキと呼ばれるのは心外だろうが、中国語での彼女の漢字の名前から連想するイメージは非常に印象がいいそうである。

「やしろあき」と聞こえるように、「牙西洛阿葵」などと漢字で表記する努力をしてみたが不可能だった。
「変な名前ねえ」
と苦笑する台湾人の彼女に、八代亜紀の発音を正確に伝えるすべがない私は、一緒に苦笑するしかなかった。

中国では何種類かの外来語辞典が発行されているが、どれも統一されておらず、外国語を取り入れる際の混乱がうかがい知れる。しかし、新たな方法論が工夫されてゆくことは確実である。考えられるのはヨーロッパなどのような多重表記が常識化してゆくことだろう。
中国の地名や人名を報道するのに、今のまま漢字の日本語読みを続ければ、日本のマスコミは中国の国際化に比例して、さらに多くの困難に直面するに違いない。 了

(c)2005加筆、菅原 秀 初出「公評」1997年9月号
         


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2005年01月30日

ネパール政府がチベット人救護施設を閉鎖

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05年1月27日付の「カトマンズ・ポスト」がネパール政府が突然、ダライ・ラマ法王ネパール事務所とチベット難民救護事務所を閉鎖したと報道した。チベット難民救護事務所はチベットから逃れてくる難民を保護する機能を果たしており、事務所の閉鎖は今後、チベット難民に深刻な影響を与えることになると思われる。チベット政府は2001年の王室殺人事件での政変以来、国会の機能停止と、マオイストとの戦争による混乱が続いている。現在の政府は王室殺人事件ののちに王位についたギャネンドラによる王政独裁の形になっているが、今回のチベット人に対する新しい人権侵害措置が今後どう展開するか、予断を許さない。 
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▼予告なしの突然の閉鎖

報道によれば、ネパール政府は何の予告もなく1月21日、首都カトマンズにあるダライ・ラマ法王ネパール事務所とチベット難民救護事務所の閉鎖を命じた。「ネパール政府に閉めろと言われれば、閉めるしかありません」とチベット亡命政府ネパール代表のワンチュック・ツェリングは、カトマンズ・ポストの記者に対して述べている。

ネパールには毎年数百人以上の難民がヒマラヤを越えて流入している。ヒマラヤの山道を徒歩で逃亡してネパールにたどり着いたチベット難民は、凍傷や疲労からくる疾病に罹患していることが多く、この救護施設は1959年に開設されて以来数多くのチベット難民の救護活動をしてきた。救護されたチベット難民は主にインドのダラムサラなど、世界各地に散らばっており、ネパール国内には2万人程度の難民がいると思われる。

「カトマンズ・ポスト」のインタビューを受けたプラカシ・シャラン・マハット外務大臣は、「今回の措置は中国政府からの圧力によるものではない。ネパール政府に正式に登録しないで活動していたからだ」と回答している。

しかしこの説明はこじつけとしか言えない。チベット難民救護事務所は40年以上も前に活動を開始しており、国連高等難民弁務官事務所の協力を得ながら、各国に送り出されるチベット人難民の一時救護所として今までネパール政府から認められていた機関であったからだ。

▼人権侵害に転じた王政独裁政権

ネパール政府は2003年5月に4人の子どもを含む18人のチベット難民を中国に強制送還しており、この事件をきっかけに、チベット人難民を国連高等難民弁務官事務所にゆだねてきた今までの政策を停止しており、国際社会から強い非難が起きている。

今回の報道を受けてアメリカの人権NGO「ヒューマンライツ・ウォッチ」が28日声明を発表し、ネパール政府に対し、事務所閉鎖措置をただちに解くように要請している。

http://www.hrw.org/english/docs/2005/01/28/nepal10085.htm

「ヒューマンライツ・ウォッチ」のアジア担当のブラッド・アダムス氏はこの事務所について「迫害されている何千人ものチベット人難民に対する極めて重要な安全保護機関であり、事務所が閉鎖されれば、これらの人々にはなんら保護が与えられないことになる」と警告している。

▼混乱の元凶は現国王

現国王ギャネンドラは、ネパール国内では2001年の王室大量殺人事件の真犯人ではないかと疑われている。事件が起きた当日に唯一パーティーに参加していなかったのが、ギャネンドラであったことと、妻、息子が事件に遭遇したにもかかわらず無傷だったことなど、数々の疑惑が取りざたされている。各政党が国王の命令を無視し続ける異常事態が続いており、国会も憲法も機能していない。その結果、ギャネンドラ国王が専制政治を推し進めることになってしまい、さらに王政に全面的に反対するマオイストとの武装抗争で、国全体が戦闘状態になっている。マオイストとの武装抗争の結果、両者の戦死者は1万2千人を超えており、イラクと同様、国全体が危険な状態に直面している。

(c)2005 菅原 秀

参照URL
http://tibet.cocolog-nifty.com/blog_tibet/2005/02/post_1.html
posted by 菅原 秀 at 12:43| Comment(1) | TrackBack(1) | アジア基礎知識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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