2008年05月02日

コッチェビの涙(4)ケソンの労働者たち

韓国の大統領が代わると同時に北朝鮮は、南北の共同開発の象徴である城」(ケソン)産業コンプレックスの韓国企業に圧力をかけた。この工業団地は韓国統一省が窓口になって、現代俄山社を仲介企業とし、北朝鮮と連絡を取りながら運営している経済特区である。全体の一割程度が完成されているが李明博大統領が当選して以来の動きが不透明になっている。さて、どんな場所なのか。統一省によればまだ日本の政治家は訪れておらず、ビジネス関係者と少数の記者が見学したに過ぎない。昨年3月、韓国記者協会による外国人記者団の北朝鮮訪問の旅の一環として、日本にはほとんど知られていないこの「開城」(ケソン)産業コンプレックスを訪れることができた。その時の見聞の一部をお伝えする。


▼10年計画の巨大プロジェクト

韓国統一省の将来を見すえた事業のひとつが、現代俄山社(ヒュンダイアサン)が中心になって、ソウルの北方80キロにある北朝鮮領内の開城(ケソン)市に産業コンプレックスを整備する巨大事業だ。

開城市は板門店から軍事国境線を北上し、38度線の手前に位置する高麗王朝の古都である。朝鮮戦争で米軍が死守しようとしたが、結局、北側に属することになってしまった都市である。現在の人口は約35万人。北から南下してきた避難民が足止めを食い、最大数の離散家族を生んだ都市で、市民の7割が離散家族だという。

その開城市の東部の原野を開拓し、10年計画で従業員40万人を越える産業コンプレックスを作ろうというのが「太陽政策」の柱だ。東海岸の北朝鮮領金剛山と違って、こちらの方は一般の人が訪問するのは難しい。すでにパイロット・プロジェクトは完成しており、現在、北朝鮮労働者12000人、中国籍朝鮮人労働者12000人が勤務し、アパレル製品や手工芸品を生産している。

北朝鮮領内なのに、給料はどうなっているのか、それで食べてゆくことができるのか、政府や企業はどれだけ搾取するのかなど、記者団にとって興味津々なことばかりだった。

私たちが訪ねたのは、その広大な造成地区のごく一部、敷地全体の1%程度のところに建てられた20社ほどの工場群である。広大なコンプレックスの敷地は、造成中であり、あちこちに巨大な重機が入っている。これらの土木作業をしているのは韓国人男性労働者。連日700人ほどが泊り込んで、土ぼこりの中での作業を継続している。

最初に案内されたのが、800人の労働者が働いているというアパレル企業である。現代俄山社の担当者から「従業員には決して声をかけないように。もし声を掛けた場合は、見学を中止します」というきついお達しを受けた。

といっても、朝鮮語ができる人はほとんどいないので、声のかけようがないのであるが。私たちは1000平方メートルほどある生産ライン現場に案内された。20代から40代の女性200人ほどが、一台ずつのミシンに向かって縫製作業をしている。別な部署では、巨大な裁断作業台や、アイロン台の前で、黙々と女性たちが働いている。

工場内は極めて清潔で、労働者も清潔なユニフォームを着ている。そこに、140名の外国人の記者団が、どどっと押しかけたのであるから、彼女たちにも緊張感が走っているのがわかる。全員が「外国からのお客様が来るからしっかり作業するように」といわれたのだろうか、一切の私語もせずに、真面目に作業をし続けている。私たちと目を合わせようともしない。

そこを私たち全員が、バシバシと写真を撮る。私たちは朝鮮語が出来ないので、無言のまま写真を撮る。異常な光景である。

さらに私たちは、2階、3階と案内され、別な生産ラインや、北側従業員がパソコンで会計管理をしている部屋、従業員休憩室などを見学した。

私は、トイレに行くふりをして、最初に見学した大きなミシン工場に降りていった。やはり、思ったとおりだ。外国人見学者がいなくなったあとの彼女たちは、お互いに冗談を飛ばしあいながら、私たちが見学していたときとは打って変わって、リラックスして作業をしていた。彼女たちはロボットではない、同じ人間なのだ。

興味深かったのは従業員休憩室である。小さな休憩室はあちこちにあるのだが、コンプレックス内のどの会社の従業員も利用できる独立した休憩室(ヒュゲシル)という建物に案内された。すると中は、礼拝堂になっているのである。真ん中に祭壇があって十字架がはめ込まれている。

北朝鮮の共産主義のもとでも、人々のよりどころがキリスト教になっていたことを知って、考えさせられた。共産主義は人の心を支配することは出来ないのだ。

しかし、ここは北朝鮮。従業員の賃金は「開城経済コンプレックス労働法」に基づいて支払われている。現代俄山社の担当者が、従業員の給料は残業を入れて月あたり60ドル弱。給料の一部は各社が預かって現物に変えて支給している。との説明をした。

▼経済支援か、北の労働者の新手の搾取か?

しかし記者団は納得出来ない。「国際基準から考えても極端に安い給料ではないか。現代俄山は北の人々に就労の機会を与えているのではなく、北朝鮮が賃金を安いことにつけこんで、搾取をしているのではないか」などの質問が次々に発せられた。

担当者は、「私たちとしてももっと支払いたいのですが、北側政府が決定した賃金であり、当然北全体のバランスを考慮しなくてはなりません。しかしここの工場で働いている人々は、皆、喜んでいます」喜んでいるといわれても、従業員に話し掛けていけないのだから、どんな風に喜んでいるのか、われわれは把握しようがない。

各工場の裏手の自転車置き場には、従業員たちの自転車が並んでいる。どの自転車にもナンバープレートがついている。ここ北朝鮮では、自転車は登録制度なのである。

その自転車で、開城市の自宅からここまで、約30分の道のりを通ってくるのである。

平壌政府の思惑と、韓国統一省の思惑、さらに開発を任せられている現代俄山社の思惑が合致したところで、建設されているのがこの開城経済コンプレックスなのであろうが、ここは新聞でよく報道される幻の経済特区ではなく、まさに北と南が真剣勝負に出ている経済特区であるということだけは、この目ではっきりと確認できた。

開城経済コンプレックスを見学せずに、北朝鮮の問題について語ってはいけないということを、心の底から実感できる場所でもある。

北と南は、ソウルからここ開城と平壌を経由して、さらにモスクワ、パリ、ロンドンに至る鉄道を開通させる計画を持っている。ソウルと平壌の鉄道はすでに開通しているので、政治的問題が解決すればいつでも運行可能なのである。

太陽政策というのは、単なるイデオロギーではない。統一が実現した場合に、南側はかなりの経済負担に耐えなければならない。それに耐えられるようなソフトランディングを目指すための産業開発が、開城経済コンプレックスという具体的な事業として進行しているのである。

こう見てくると、南も北も、将来必ず統一するという合意に向かって、さまざまな手立てを整えていることがわかる。韓国人が求めるのは突然の性急な統一ではない。あらゆる立場の韓国人が口をそろえて「統一には時間が必要だ」と語るのは、そうした意味である。

最近になって北朝鮮がこの経済コンプレックスへの韓国人の出入りを制限するなどの揺さぶりをかけているが、開発の巨大さを目の当たりにすれば、北朝鮮特有の「ゴネ徳」路線で、新政権からのお土産を期待していると考えればほぼ正解であろう。北にとっては決して手放せないのがこの開城経済コンプレックスなのである。

李明博政権によって北と統一が遠のくと考える人もいるようだが、韓国の人々でそう考える人はほとんどいないであろう。韓国全体が「統一」に向けた作業をこれからも継続することは、こうして現地を確認することで得心できる。つまり机上のプランではなく、すでに膨大な金額を投資した基盤作りが開始されているのである。体制の違う分断国家の統一には、長い時間をかけた基盤作りが必要だということを、彼らは良く理解している。

拉致問題の解決の道筋を見つけるためには、まず、こうした南北の融和の動きの中から交流のカードを探し出す必要がある。日本の政府関係者に心して欲しいのは、「カードなしでは拉致問題は解決しない」ということを肝に命ずることである。

さて開城経済コンプレックスを最初に訪問する日本の国会議員は、誰だろうか?

了                 (c)菅原 秀 2008
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2007年11月16日

ノーベル平和賞を受賞するにはどうすればいいか

最近下火になったが、「日本国憲法にノーベル賞を!」というキャンペーンが行なわれてきた。

日本国憲法には、官僚がNPOをいじめるときによく使う憲法89条をはじめ、おかしな条文や時代遅れな条文がたくさんあるが、戦争を絶対にしないという憲法9条だけは、ぜひとも後世に残すべき人類の知恵である。

「日本国憲法にノーベル賞を!」と言っている団体の人々に聞いてみたところ、オスロのノーベル委員会に皆で手紙を書いているという。下手な鉄砲数打ちゃ当たるのかな?と思ったものの、とても気になる。そこでオスロを訪問した折にノーベル財団を訪ねてみた。

▼平和賞の本部はストックホルムではなく、オスロだ
 
ノーベル財団の本拠地はストックホルムにあるが、オスロのノーベル財団はノーベル平和賞だけを扱うために、ノルウェー国会の管理のもとに運営されている。オスロの中心街からタクシーで10分ほど行った郊外にある古い建物でいかにも北欧の研究所という感じだ。一階の吹き抜け天井がとても高いのが印象的だった。

さっそく応対してくれた女性の担当者にたずねて見た。

「日本国憲法に平和賞をという動きがあることをご存知ですか」
「ええ、知っています。よく手紙が届きます」
「その手紙をどうしているのですか」
「返事は書きません。というか所定の推薦者以外の人からの手紙への返事は
書けないことになっています。推薦の要件を満たしていないからです」
「推薦の要件というのは、どうなっているのですか」
「推薦の資格を持った人による推薦書でなければだめです」
「では、推薦の資格を持った人が日本国憲法を候補として推薦すればいいわけですね」

「いいえ、推薦を受ける人は人物か団体でなければなりません。日本国憲法を推薦するというのは面白いアイデアですが、それを作った人とか、守っている組織とかでなければ受賞の対象になりません」

そう説明した彼女は、ノーベル賞の推薦システムの解説書を私に渡しながら、付け足した。

「この件では、たくさん手紙が届いているのですが、アン・プロダクティブであるということを日本の皆さんに伝えていただけませんか。推薦は資格を持った人が1通だけ、英文によるできるだけ詳細な推薦理由を書いて送ってくださればいいのです」

▼ノーベル委員会が受賞者を選考、推薦の多数とは無関係

ノルウェー国会は、5人の平和賞委員を任命し、極秘の審査ののちに授賞者を決定する。各国からデータを集めるのは、ノルウェーのノーベル財団であり、財団によって分析された後、5人の委員に届けられる。この5人へのロビー活動などは決して認められず、ノルウェー国会もその決定作業に関与することはできない。

ときどき「○年のノーベル賞にノミネートされた○○博士」などという文章を見かけるが、ノミネートの発表などは、一切なされないそうである。そうした文書を見たら詐欺師だと思ったたほうが良いだろう。

しかし最終選考に残った人物だけは発表されるので、「最終選考に残った○○」という表記なら、詐欺行為に当たらないであろう。

平和賞候補を推薦する資格があるのは、「今までの平和賞受賞者」「列国議会同盟メンバー」「国際法学会メンバー」「元ノーベル委員」などである。

この中で、列国議会(IPU)というのは耳慣れない団体であるが、この団体は全世界の国会議員が加盟する団体であり、日本の衆参両院の国会議員も自動的に加盟することになっている。従ってノーベル賞を与えたいなと思う人がいたら、国会議員に頼むのが一番近道だろう。

日本の国会議員も、時には推薦状を書く活動をしている。かつては日本の議員が中心になって佐藤栄作を強く推し、ノーベル平和賞受賞を実現した経緯がある。その後も、日本の国会議員は、中国の人権活動家や、日本のNGO活動家を強く推したことがあるが、最近の日本からの推薦活動は、下火のようである。

また、新聞で報じられている通り、佐藤栄作への授賞については、ノルウェー側もノーベル平和賞の趣旨にかなわないものではなかったかと考えているふしがある。ノーベル財団が学者に頼んで書いた歴代受賞者を詳述した書物の中でそのことに触れられている。残念ながら日本語訳は今のところないようだ。

佐藤栄作の受賞理由は、非核三原則を導入して、日本を核を持たない国にする努力をしたというものである。日本の核武装を恐れる国際社会に対して、強い安心感を与えることになった。しかし、ノーベル平和賞には、「受賞の是非を問う論争の的にならない人物」を選考するという基準がある。

佐藤栄作の場合は、日本国内での是非を問う論争が持ち上がり、特に野党支持者の人々がノーベル平和賞の権威を認めないようになってしまったという経緯がある。こうした結果が生じるような選考は、ノーベル賞が持つ信頼醸成を損なうことになる。ノーベル委員会はより慎重にならざるを得ないことになったのである。

その意味では07年のゴア氏の受賞も、アメリカ国内での環境グループからの批判が強いことから、将来、問題が起きる可能性があるといえよう。もちろん、委員会は米国内で騒動が起きるなどとは予測せずに、純粋に地球温暖化阻止のシンボルとして選考したのであろう。いささか調査不足であったと言えよう。

ノーベル財団の事務局長の話では、平和賞候補は毎年百人以上いるそうである。また過去には75万通の推薦の手紙が届いた候補もいると言う。その候補は、受賞することが出来なかったとのことだ。つまり組織票は役に立たないということを証明している。

従って、推薦の手紙の数は、財団への心理的圧力にはなるかも知れないが、選考への影響は極めて少ない。ではどうやって選考するかといえば、ノーベル財団の職員が推薦状に書かれている内容をもとに、候補者の経歴や業績を調べ上げ、事務局長がその膨大な資料を編集して、5人の委員に提出する。委員たちは8カ月にわたって、これらの資料を読み、不明点があれば何度もノーベル財団に質問し、追加調査を依頼する。

推薦状の締め切りは毎年1月の末頃である。(私の記憶が間違っているかも知れないので詳しくは直接ノーベル財団へ 電話+47 22 12 93 00 )

あなたもぜひ、これはと思う人の詳細な推薦状を作成して、知り合いの国会議員に頼み込んで、ノーベル財団に送ってみてはいかがだろう。そろそろ日本からノーベル平和賞受賞者を出してみたいものだ。
                      


posted by 菅原 秀 at 22:52| Comment(1) | TrackBack(1) | ノーベル平和賞のしくみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月26日

コッチェビの涙(3)「金剛山」の楽団員たち

金剛山(クンガムサン)の観光センターには大きな劇場が設置されている。観光客に北朝鮮の踊りや劇を見てもらおうという趣向だろうが、入山料にセットされているようだ。しかし、この劇場で行なわれた平壌芸術団という出し物に、ひとつの歴史と和解へのキーが隠されていた。南北の憎悪の結果生まれた一つの物語。さて、どんな物語か。


▼金剛山のすごいオーケストラ

金剛山に入るには日本円で約5万円近くの入場料を納めなければならない。この入場料に、バスツアーとホテル宿泊、それに加えて温井閣(オンジョンガク)観光センターでのサーカス見学などが組み込まれているらしい。

北側ガイドが「さあ皆さん、これから平壌芸術団を観劇します。世界最高の技術を誇るセーフネットなしの危険なパフォーマンスが4時から始まります。会場に急いでください」とせかす。

1000人ほど入る大劇場に入ると朝鮮語と英語でしつこいほどの注意が開始された。
「上演中は決して写真を撮らないで下さい。団員たちは命綱もセーフネットもない状態で危険な技術をお見せします。写真を撮ることで彼らを危険にさらさないよう、お願いします」

やがて暗転。オーケストラの伴奏で、さまざまな空中サーカスが繰り広げられる。記者たちはフラッシュをオフにして、しきりに写真を撮り始めた。すかさずシャッター音を聞いた係官が飛んできて、制止する。また別の記者が写す。係官は必ずそれを見つけて制止に走る。

私たち記者団は大劇場の一番奥の方の座席に案内された。従ってわれわれのシャッター音は舞台に聞こえるはずがない。しかし係官たちは飽きることなくわれわれを制止し続ける。この国には公務員が何人でもいるらしい、記者の挙動をじっと観察しながら、こっそりカメラを構えるのを見つけ出すと、パッと飛んでゆく。

ハラハラさせるような曲芸は確かにすごいのだが、こうしたレベルのパフォーマーはどこの国にでもいる。しかし、先ほどから気になったのは、上手2階のオーケストラピットで演奏している20人ほどの楽団である。これが実に上手いのである。

かなり複雑なメドレーなのにもかかわらず、まったく乱れることなく緩急自在、日本に良く来日するボリショイバレーの楽団よりもずっと上手である。しかも急テンポのパソドブレや、裏ビートを強調したジャズ風のアレンジなども楽々とこなしている。音のダイナミズの表現は、ベルリンフィルにもひけを取らないほど完璧。3度と6度のハーモニーの幅を平均率より狭めているのも、アマチュアには決して真似の出来ない超一流のオーケストラの特徴だ。

出し物が代わるたびに、録音してある音楽と生演奏が入れ替わるが、その切れ目がまったくわからない。オーケストラ員が一人ずつフェードインやフェードアウトをして、観客に気づかれずに切り替えているのである。

圧巻は、ピエロのパフォーマンスの動きにぴったり合わせて音を完全に同調させる技術だった。ピエロが玉を受け取る微妙なタイミングでオーストラリアがユニゾン(全員同じ音を出すこと)で衝撃音を出す。

私は感心しなが、隣にいたテレビ記者に耳打ちした。
「彼らは音をシンクロさせるのにどんな技術を使っているんだろう。デジタル機器を持っているんだろうか。どこでコントロールしてるんだろう」
「いや古いオープンリール・デッキでシンクロ信号を流して、それを指揮者がヘッドホンで拾っているんだろう」

とにかく、私が知っている30年前のオープンリール録音機を利用した手段では、ここまでの同期演奏は不可能だ。

さてその秘密は夕方になってわかった。


▼KCIAの拉致が産んだユニサン・オーケストラ


現代峨山(ヒュンダイアサン)社が、記者団一同の歓迎パーティーを開いてくれた。幸いなことに私の席は現代峨山の副社長の隣だった。さっそくオーケストラのことを聞いてみた。

「曲芸よりもオーケストラの方が気になりました。北朝鮮にこんなにレベルの高い楽団があるなんて信じられません。彼らは南から来て出演しているんですか」
副社長はにっこり笑いながら言った。
「韓国にはこれだけのレベルの楽団はありません。この楽団は国際的に有名な平壌のユニソン・オーケストラです」
「え、ユニゾン・オーケストラ?」
「いえ違います。創始者の名前ユニサンを記念してこう呼ばれています。ユニサンの名前はご存知ですよね」

朝鮮語のリエゾン(繋ぎ音)に暗い私だったが、日本ではユン・イサン(尹伊桑)と呼ばれている著名な作曲家の名前を思い出した。

「昔ベルリンからソウルに拉致された作曲家の尹伊桑のことですか?」
「そうです。そのユニサンが金正日に資金を出してもらって育てたのが、今日あなたがたが聴いた楽団なのですよ。いや、気づいてもらって嬉しい。音楽の同期(シンクロ)の技術も、すべてデジタル技術に頼らずに行っているのですから、曲芸団員以上の繊細さを持っているのが彼らなのです。現代峨山では彼らを世界のヒノキ舞台に出したくて、その機会を作るために、できるだけ外国人にその音楽を聞いてもらう工夫をしているのです。」

30年ほど前のことだ、作曲家の林光や高橋悠治が中心になって尹伊桑の講演会を東京で行なったことがある。金大中が拉致される前の話である。その講演会で尹伊桑が暴いたKCIAのやり口と拷問は実に卑劣なものだった。

しかし当時の日本でも、そして韓国でも尹伊桑を広く支えようという運動は拡がらなかった。尹伊桑の数々の作品は、日本でもかなり評価されており、クラシックファンからすれば、神様のような存在である。にもかかわらず、彼が止むに止まれず訴えた韓国の抑圧政権に対する批判を、日本で大きく広げることはかなわなかったのである。

軍事抑圧政策が続く韓国に戻れなかった尹伊桑は、代わりに平壌を訪れ、同じ同胞にベルリンで学んだすべてを伝えた。その後、尹伊桑はベルリンに戻り、1995年に客死している。何の罪もないのにKCIAに拉致され、故郷を追われた彼に同情する声は韓国でも強く、政府に対して公式に名誉回復を宣言するよう、せまる声も強いそうである。

平壌で尹伊桑から直接音楽のすべてを、そのオーケストラの団員が未だに保持し、さらにその技術に磨きをかけていたのである。

副社長は語る。
「彼らの楽器はもうぼろぼろです。バイオリンの一級品などはとても高くて入手できません。もし海外のオーケストラと交流できたら、そして新しい楽器が手に入ったらどんなに素晴らしいことか。ぜひこのことを日本の皆さんに伝えてください」

(つづく)                 
 
posted by 菅原 秀 at 21:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 涙は止まるか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月15日

コッチェビの涙(2)人工の自由空間「金剛山」

南北統一を進めるための拠点として開発された金剛山(クンガムサン)はどんな場所なのだろうか。確かに風光明媚な場所である。しかし、自然の中に作られた一連の施設は、まさに人工の自由を無理無理生み出しているのではないかという印象だった。この地を訪れた日本人は合計で数百人しかいないそうである。そのため、よく政治話題に出てくるこの場所が、どんなところであるか、ほとんど知られていないのである。今回は、この不思議な場所を紹介しよう。

▼非武装地帯の北側は賽の河原だ

バスはいよいよDMZ(非武装地帯)を越えて、北朝鮮領に入る。車窓からの撮影は一切禁止されている。しかし、朝鮮戦争以降人が踏み込んでいない南側2キロ、北側2キロのDMZをしっかりとその目に刻み込まなければならない。記者たちはノートを取り出し、その風景を描写し続けた。

38度線のDMZ(非武装地帯)は、ずっと人が入っていないので、小動物たちの天国なそうだ。車窓から小動物は見えないが、南側DMZには潅木に覆われた自然が広がっている>

迷彩服の韓国兵がひとりで守っている南側DMZの歩哨詰所を越えると、いよいよ北朝鮮だ。一行の緊張は高まり、全員が窓から北側DMZの光景を食い入るように眺める。

私たちの目に映ったのは、驚くべき極端な情景の変化だ。南側が潅木の茂る平原だったのに対して、北側は道の両側に数十メートルの高さの岩山が迫り、草木が極端に少ない賽の河原のような景色が急激に広がる。

CIQ(入国・検疫事務所)は、2003年に金剛山入りの陸路が合意されてから設置されたわけだが、100人を越す外国人が始めて陸路を通過するということで、かなり緊張していた。

しかし、さすが観光のために開発されたルート。CIQのスピーカーが8ビートに乗った「パンガップスムニダ(ようこそいらっしゃい)」の軽快な歌を流し続けている。そのロック歌が流れる中、直立不動で歩哨に立つ兵士たちが、無表情のまま、勝手に動き回る私たちを遠くから監視している。


▼自然の中にぽっかり生れた異空間

やがてバスは、金剛山地域に分け入り、温井閣(オンジョンガク)という観光センターに到着する。ここには温泉、劇場、ホテル、カラオケ、体育施設など、観光客が金剛山のトレッキングを終えた後にくつろぐための施設が設置されている。離散家族の面会所も急ピッチで建設されている。夏までには竣工するという。金剛山という政治的な異空間は、まさに離散家族が出会う場所として準備されたかのようだ。

いったん金剛山の観光施設に到着すれば、緊張感はまったくない。唯一感じるのは、観光施設の合間から遠めに観察できる一般住民の村々にカメラを向けたりすると、すかさず私服の北側監視員が飛んできて、静止するときぐらいのものである。

一連の施設が集中している温井閣(オンジョンガク)という地域には、スパや大劇場があるが、同時に離散家族のための滞在施設も建設されていた。

現代俄山の張桓彬(チャンファンビン)国際担当副社長が、この金剛山についてブリーフィングを行なった。

「2000年から開始された金剛山地ツアーは05年に年間27万人に達したのですが、06年の核騒ぎによって20万人に落ち込みました。しかし、今年は六カ国協議の好結果を受けて順調に回復しており、40万人を見込んでいます」


▼北の従業員の給料は月60ドル以下

温井閣(オンジョンガク)の施設には1500人の従業員が働いているが、うち800人が北の住民で月に57・5ドルの給料。残り700人は中国籍朝鮮人で、月300ドルの給料とのことだ。

北の従業員への賃金に関して記者たちと現代俄山の社員との間で、かなりのやり取りがあったが、いまだに腑に落ちない。

「共産国家ですから住居、食事代はかかりません。また給与基準は平壌が決めます。私たちは毎年、賃金を上げるように交渉しているのですが、なかなかウンといいません」。果たしてそうだろうか。それにしては中国から出稼ぎに来た朝鮮人への給与も安すぎるのではないか。

北の従業員は胸に金正日バッジをつけているので、すぐにわかる。カメラを向けると逃げていってしまうので、なかなか撮れない。施設の向こうに遠目に見える村々の入り口を撮ろうとするとどこからか監視人が飛んできて、静止する。

しかし138人もの一癖も二癖もあるジャーナリストの集団だ。表面上は北朝鮮側の言うことを聞くふりをするが、監視人の目の届かないところで、カバンの中に隠して持ちこんだ小型望遠レンズをマウントしたカメラで遠くの村人の情景をこっそり撮影している者もいる。

遠目から見る近隣の村々は、実に質素だ。みな土壁の平屋に住んでおり、黒か褐色の作業衣を着て、とぼとぼと歩いている。自転車の数はきわめて少ないようだが、たまに通りかかると大量の荷物を運んでいる。大きな竹カゴを左右にぶら下げていたり、穀物らしきものが入っている布袋を積んでいたりする。ぼろぼろのピックアップトラックを見かけたが、乗用車やバンのようなものは村人とは無縁なようだ。

一行は、金剛山ホテルに宿泊することになった。10階建てのこざっぱりしたビジネスホテルという感じだ。床はオンドルになっており、トイレとシャワーがついている。早速トイレを使ったが水が出て来ない。フロントに「トイレの水が出ない」と言ったが英語も日本語も通じない。

韓国人記者が、どの部屋も水が出ないといったところ、ホテル中の従業員が上を下への大騒ぎで、メンテナンス要員を呼びに行った。

ロビーにたくさん花が飾られていたが、それらの花に近づいた日本人女性記者が「全部造花だわ」と目を丸くしている。「人工の自由空間に人工の花を飾っているわけね」彼女は、するどく、この金剛山の本質を指摘した。

(つづく)               (c)2007 菅原 秀 


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2007年07月08日

コッチェビの涙(1) 北朝鮮の子供たちに愛を

▼切り札を持たない日本政府

拉致問題が広く知られるようになって以来、北朝鮮に対する私たちの印象はどんどん悪くなってきた。決死の覚悟で豆満江を渡る脱北者たち。飢えに苦しむ子供たち。寒空で餓死し道端に倒れている若者たち。北朝鮮から密かに持ち出される映像に、私たちは思わず固唾を飲む。「こんなとんでもない軍事政権が倒れない限り、北朝鮮の人々は救われない」と誰しもが思う。

しかし、どうすればいいのか? 

私たちは、日本政府になんとかして欲しいと考える。しかしその政府も、6カ国会議の合意に対して「拉致問題の進展が得られるまで、エネルギー協力には不参加」と表明している。

拉致問題が解決済みだ」と主張している北朝鮮に対して、日本はそれを進展させることができる切り札を持っているのか? 膠着した状態の中で、家族はあと何年待てばいいのか。解決のためには、北側の心をしっかり捕らえる心理戦が必要だが、政府に何らかの準備があるのだろうか。

この間6カ国協議では、この問題で頑なだった中国とロシアが動いた。また韓国には今までの対北朝鮮宥和策に加えて、徐々に人権問題を取り上げる動きも見え始める。南北統一という課題を達成の悲願を持つ当事者だからこそ、真剣そのものである。

まず、北朝鮮問題を考えるためには、南の人々。つまり韓国人が何を考え、どんな動きをしているかを知ることから開始しなければならない。北朝鮮を動かす力が最も強いのが、同じ言葉を使っている南の人々であるという事実をよく考えずに、北朝鮮を論じる学者や評論家がたくさんいる。

私たちは、当事者の実情や感情を考慮することのないそうした偏狭な論陣に耳を貸す必要はない。大事なのは、北朝鮮問題に韓国がどう対応しているか、さらに世界各国がどう対応しているかを知ることだ。少なくとも、韓国の政治と世論の動きを踏まえずに、この問題で駒を進めるのは、危険極まりないことを理解すべきである。


▼07年3月、大勢の西側ジャーナリストが38度線を越えた

今年の3月、世界65カ国から集まった138人のジャーナリストが、4台の大型バスを連ねて、韓国と北朝鮮を分断する38度線を越えた。目的地は朝鮮半島の東海岸、38度線を越えてすぐ北側にある金剛山(クムガムサン)だ。

2千の峰々を持つというこの金剛山は、金剛経を出典として名づけられ、四つの名刹(めいさつ)を持つ仏教修行地でもあった。在日も含む韓国・朝鮮人にとっては「一生に一度は行ってみたい」という憧れの景勝地で、古来、多くの詩人がその景勝の素晴らしさを詠い、数多くの水墨画が描かれてきた。

500頭の牛を連れて板門店を越えて平壌を訪れた現代(ヒュンデ)グループの鄭周永(チョンジュヨン)会長が、金正日と合意して金剛山の観光特区開発に着手したのが1998年。彼はここから40キロ南の通川(トンチョン)という村の生まれで、この地にはとりわけこだわりを持っていた。80歳を越える高齢だった鄭会長は、五男のチョンモンホン鄭夢憲氏に北朝鮮での開発事業を委任し、現代俄山(ヒュンデアサン)という会社を設立した。

手始めに海路で38度線を迂回するルートの合意を取り付けた。ベトナムのサイゴン川で稼動していた豪華クルーザーを買い取り、「海金剛」(ヘクムガン)と名づけた。南の観光客を運び、金剛山入り口の港に停泊させてホテルも兼ねるというものである。

最初は、細々と開始されたらしいが、2000年の金大中の電撃的平壌訪問をきっかけに、観光客を迎え入れるインフラの整備が進んだ。さらに離散家族の面会や、南北会談の場所としても機能するようになっていった。

その後、北朝鮮との話し合いで、陸路でのルートも可能になった。近隣諸国の政治的な動きや、北朝鮮のミサイル発射騒ぎの都度、訪問客が極端に減るという状態での運営だったが、ホテル、レストラン、スポーツ体育館、劇場、会議場、スパなども建設されてきた。

鄭周永会長にとって、金剛山へ人々が自由に出入りできるようになることは悲願だった。グループの中に会社を作り、息子のひとりに任せたのは、その悲願を実現すためだった。

南からの観光客が年間20万人から30万人訪れるという金剛山だが、北側の許可を待って始めて訪れることが出来るという事情のために、ここを訪れる日本人は年間100人程度ということで、その実情は日本にはほとんど知られていない。

そこに138人もの外国人記者団が訪れたわけである。

世界各国からのジャーナリストに実際に北朝鮮の一部を見てもらうこのアイデアを実行したのは韓国記者協会(会長・鄭日鎔、チョンイルヨン)。韓国のマスコミの縦断組織として最も大きい職能団体で7000人が参加している。世界各国のジャーナリストを招くために、国際ジャーナリスト連盟(IFJ、本部ブリュッセル、会長・クリストファー・ウォーレン)の協力を得ることとした。

会員数50万人の世界最大の記者団体であるIFJの呼びかけに答え、40カ国以上の国々から選りすぐりのジャーナリストたちがソウルに集まったのである。

▼銀塩カメラを持ち込めない北朝鮮

私たちが乗る4台の大型バスは、ソウルからまっすぐ日本海に向かい、海岸沿いを北上する。余談だが、韓国ではこの呼称を嫌い、東海と呼んでいる。

北に持ち込むことができないものは、録音機、130ミリ以上の望遠レンズつきカメラ、パソコン、銀塩カメラなど。ニセ金の持ち込みも不可という北側の指示に思わず笑ってしまう。

もちろん全員の携帯電話を南側の入国管理事務所に預けなければならない。小さな携帯デジタルカメラは持ち込み可能なのだが、銀塩カメラがダメというのは、出国の際に撮った映像がチェックできないからだという。

まさか映像チェックはしないのではないかと高(たか)をくくっていたが、北朝鮮の軍人は手馴れた手つきで、全員のデジタルカメラの映像を覗き込み、参加者何人かの映像が彼らの手で消去されることとなった。

今後、北朝鮮を訪れる人は、帰国の際に映像チェックがあるので、どうしても持ち出したい映像は小さな記録メディアに移して、気づかれない場所に隠しておき、カメラには残しておかないことをお勧めする。もちろん、カメラの映像を全部消去してしまえば、逆に疑われることになるので、相手の心理を読む技術が必要である。

さて、南の入国管理事務所を通過するとすぐ、北側の入管職員が私たちのバスに乗り込み、一人一人のパスポートのチェックをする。普段は軍服の男性職員が乗り込んでくる緊張の一瞬なそうだが、20歳ぐらいのその女性職員は、実に気さくな感じで、私たちを監視するのではなく、安全に案内したいという態度が切々と感じられた。

しかし、彼女はマイクを取って、これから北に入る際の注意事項を語る。南側ガイドがそれを逐一英語に通訳する。

「車窓からは絶対に撮影してはいけません。また北朝鮮領に入ってバスから降りた場合、決して北朝鮮人民や軍人を撮影してはいけません。村民のプライバシーを尊重してください。もし、違反した場合には厳重な対応をとることになりますので、慎重にお願いします」

(つづく)

 (c)2007 菅原 秀 

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2007年06月30日

封建主義からの脱出に苦しむネパール(続き)

▼裸の王様と王子様

 ギャネンドラの悪評は、2001年の王室殺人事件にさかのぼる。王室一家9人を殺害した真犯人ではないかとうわさされていたからである。妻、息子が事件の現場にいたにもかかわらず、無傷だったのは、ギャネンドラがこの事件を影で操っていたのではないかといううわさだ。

 しかもギャネンドラの息子パラス王子は、札付きの不良である。自分の車で死亡事故を起こした後、捜査の警察官に銃を突きつけて無罪放免させるなどの悪業を数多く繰り返している。国民は王室事件の直後に国王になったギャネンドラを、まったく信用していなかったのである。

 ネパールは1990年の民主化闘争以来、絶対王政の権限が縮小され、立憲君主国家として歩みはじめていたというのが一般的理解だ。しかし私は、ネパールは王の絶対支配による制度を現在まで抱えてきた地上最後の封建国家であると考える。国民が貧困であえいでいるにもかかわらず、ネパール王室は世界の王族の中でも飛びぬけた富を所有し、それを浪費し、国民を省みることなかった。

 そして議会政党は、長年にわたって国王の臣下としての地位を疑うことなく受け入れてきた。というよりは、議会に入るということは王室と親交関係を持つエリートとして、支配階級になることを意味したといえる。

 その議会と軍は国王を支え続け、反抗する人々に対して容赦のない弾圧を加えてきた。そうした封建的王政に始めて組織的に反抗したのが、ネパール中西部に拠点を構えたマオイストと呼ばれるグループである。

▼なぜマオイストが生れたか

 ネパール在住のライター小倉清子は、このマオイストについて継続して取材しており、『ネパール王政解体』(NHKブックス)の中で、貧困にあえぐ人々がなぜマオイストになったかについて書いている。克明なインタビューを行い、「マオイストになるか死か」という状況がネパール各地で展開されていたことを明らかにしているのである。

 つまり王室とそれを支える政治政党による長年の封建主義による悪政がマオイストという武装闘争集団を生み出したのである。マオイストは警察や軍から武器を収奪しながら、ネパール全土の7割までその支配を拡大していった。

 ギャネンドラの政権掌握宣言は、明確に国民を覚醒させることとなった。「王政封建主義がある限り、自分たちは永遠に檻の中に捉えられたままだ」ということを理解したのである。その結果、国民はギャネンドラに協力してテロリストを討伐することを拒否し、そのテロリストとの対話をするという奇策に出たのである。

 この奇策は成功し、マオイスト側は議会政党との協力を開始した。最初の協力はカトマンズでの最大規模のデモによって、王に対する国民の「ノー!」を突きつける作戦だった。06年4月に行なわれた100万人とも言われる規模の、あまりの大きさに震え上がった王は4月24日、行政権を国民に戻すことを宣言した。

 さらにマオイストと議会政党は、武装蜂起や議会制回復のロードマップなどの協定を作り、国連に提出した。

 その結果、マオイストの武装解除が国連の手で、進行したのは承知の通りである。

▼まとめ役不在のネパール政治

 ネパールに民主主義が訪れるためには、まだまだ時間がかかるであろう。人々はいまだに封建主義とカースト制度のくびきから逃れていない。

 長年にわたって王室に使えてきた既成政党は、象徴性王政を残して立憲君主国にしようとしている。マオイストは生まれて初めて国会議事堂に入ることになったが、あくまでも王の存続には反対である。今後の対立の火種がくすぶり続けている。

さらに今回のまとめ役になったコイララ首相が高齢で肝臓病を抱えている。コイララに代わるまとめ役がいない今、ネパールの今後は相変わらず目が離せない状態だ。 

 
(了)                  (c)2007 菅原 秀


posted by 菅原 秀 at 19:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 民主主義とは何だろう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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