2009年12月06日

エーミールの涙(3)ナチスの時代に、すごい人がいた!

ベルリン市内を西から東にゆったりと流れる美しい川がシュプレー川だ。さほど川幅が広くないのが幸いして、観光船で下ると、四季折々の花々に囲まれた両岸の建物や名跡を間近に見ることができる。

今でこそ、西ベルリンから東ベルリンへ向かってこの川を下ることは可能なのだが、壁があった時代には、この美しい川さえも、フリードリヒ通り駅を境にして分断されていた。

そのシュプレー川を下って旧東ベルリンに達すると、行政の中心になっているミッテ区だ。ミッテ区北部の質素なプロテスタント教会の敷地に、私たちの訪問先の建物があった。ASF(償の証:Action Sühnezeichen Friedensdienste)の事務所である。 

迎えてくれた広報部長ヨハネス・ゼルガー氏の話を、私たち記者団一同は身じろぎもせずに聞きいった。

■ナチスによる身障者の粛清

反対者を粛清し続けていたナチスの時代に、ヒトラーに対して正々堂々と闘いを挑んで、粛清を免れて戦後まで生き延びた人がいた。

しかも、その人の戦後の活動も驚嘆に値する。日本ではほとんど紹介されていないこの団体の創設者の人生は、国家が犯した罪を、国民一人一人がどう償ったらいいかという重い問いかけへの一つの回答でもあった。 

ドイツではASFの略称で知られるこの団体「償いの証」(つぐないのあかし)を設立したのは、ナチス時代にベルリンで判事の仕事をしていたロター・クライズィヒである。ゼルガー広報部長は語る。

「クライズィヒは、大学で法学を修め、判事の資格を得た秀才でした」

1898年、ザクセンに生まれたクライズィヒは、第一次世界大戦には志願兵として参戦したほどの愛国心あふれる青年だった。復員の後、ドレスデンの大学で法律学を学んだ。やがて、ベルリンの隣町ブランデンブルグで地方裁判所判事の仕事をすることとなる。赴任したのは1937年、ヒトラーが政権を把握してから四年後である。 

裁判官として、知的障害者や身体障害者施設の書類を扱っていたクライズィヒは、障害者の死亡数が異常であることに気づいた。

クライズィヒたち裁判官が、申請に基づいて、障害者施設からの障害者の移動の命令書を書くと、その移動先で死亡する頻度が急に増えていたのである。ところが、その死亡の理由に関する書類のほとんどが不備だった。

人知れず障害者の殺害が行なわれているとしか思えない。1939年ごろになると、その頻度が極めて高くなってきた。クライズィヒは密かに調査を進め、政府当局関係者が障害者を次々に殺害しているという感触を得た。

司法省に出向いていたクライズィヒは、この件について報告した。障害者を施設から移動する書類が頻繁に届けられてくることは異常事態であり、その移動先で次々に障害者が死亡している。障害者施設職員によるやみくもな移動申請は違法であり、さらに移動先で死亡している事例が極めて多い。これは司法の怠慢によるものであり、この事態は受け入れがたいので、厳密に調査して原因を究明すべきだ、といった内容を裁判官としての立場から訴えたのである。

しかし司法省当局は、その後、何の対応もしようとしなかった。

1940年、クライズィヒは司法当局を動かすために次の手段に出た。司法省の頭ごなしに身障者の移動を命令し続けていた総統官房長官のフィリップ・ブーラーを殺人罪で告発したのである。

告発の後、しばらくして司法省長官のフランス・ギュンターからクライズィヒ宛てのファクスが届いた。

「一連の動きは総統のご意志である。告発を取り下げよ」

クライズィヒは、厳格だったはずのドイツの司法が、すでに完全に崩壊していたことを悟った。ゼルガー広報部長の話は続く。


■ 東部の農村に潜伏したクライズィヒと戦後の旅


「クライズィヒは司法省によって免職されました。もちろん当局から目をつけられたのですが、逮捕されずに生き延びることができました」 

クライズィヒは迷った。「闘うべきか、妥協すべきか」 

ゲシュタポはクライズィヒを亡き者にする理由を探し続けているに違いない。しかし戦いを継続しなければならない、場合によっては逮捕されて強制収容所で殺されてもいたしかたないと思いつめていた。 

そうした中、ヒトラーは抹殺の対象を障害者からユダヤ人に拡大していった。そこで友人たちはクライズッヒに、戦いの継続をいったん中止して隠遁生活をし、ヒトラー亡き後にドイツの再興のための仕事をするべきであると諭したのである。

友人の助言に従ったクライズィヒは、ベルリンから離れた農場に移り、秘密裏にユダヤ人を海外に逃す活動を細々と続けた。農場では、二人のユダヤ人女性を終戦までかくまい続けている。 

クライズィヒを責め続けたのは、裁判官である自分が、国家による殺人の罪を見逃してしまったという罪の意識であった。 

終戦の翌年の1946年、クライズィヒは、新しい政府から裁判官として復職するように要請されたが、拒否して福音派教会の牧師となった。司法によって人を救うことに限界を感じ、自らの良心の声にしたがって生きる聖職者の道を選んだのである。 

牧師となったクライズィヒはすぐに自分の教区の代表となり、プロテスタント教会の中でも一目置かれる存在となっていった。精力的に教会の活動を行ないながらも、クライズィヒは、ドイツ人が過去に犯した罪を償うべきだと訴え始めた。ところが世間の反応は鈍かった。

「罪を犯したのはナチスであり、私たちはその被害者である」というのが当時のドイツ人の考え方であった。

また、「ユダヤ人は、イエス・キリストを信じなかったために、天罰を下されたのだ。ユダヤ人の側に大いに責任があるのだ」と考える教会の指導者たちもたくさんいたのである。 

ドイツ人が過去に犯した罪を償うべきだ、というクライズィヒの訴えは、無視され続けた。ゼルガー氏は続ける。

「思い余ったクライズィヒは、過去の罪を償う行動に出ようと考えました。志を同じくする若者数人とともに、自転車に乗ってポーランドへ向かったのです。正式に国境を通過することは無理だったので、国境警備員の目が届かない場所を選び、野宿をしながらポーランドに入りました。目的地はアウシュビッツ収容所跡です。しかし、ポーランドでの償いの活動を開始するまでには、その後、十数年もかかることになったのです」 

アウシュビッツ収容所跡を訪ねたクライズィヒ一行の目には何が映ったのだろうか。恐らく廃墟として朽ち果てつつあるコンクリートの一群の建物の跡が残っていただけであろう。この廃墟で何が起きたのかを記録し、語り継ぎ、そして生存者を探し出して協力を求め、ナチスによって殺害されたユダヤ人たちのための償いを行なうためには何が必要か。クライズィヒは、アウシュビッツ収容所跡を自転車で周遊しながら、自身の心の中の良心に耳を傾けながら思索し続けたに違いない。

続く 

(c)菅原 秀 2009 (初出『ドイツはなぜ和解を求めるのか』同友館)

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2009年11月28日

コッチェビの涙(5)アメリカと北朝鮮

北朝鮮当局による拉致問題、さらに北朝鮮の人権状況を考える上で、日本人の大多数が忘れている事柄があまりにも多すぎる。一番大きな事柄は、「朝鮮戦争はいまだに終結していない」という認識の欠如である。

朝鮮戦争は停戦の合意がなされたものの、終戦のための平和条約締結などはまだなされておらず、戦争状態が続いているのである。38度線をはさんで韓国軍と北朝鮮軍が対峙していることは誰しも知っているが、その背景にある北朝鮮とアメリカとの確執についてしっかり認識している政治家、官僚、学者があまりにも少ない。日朝の対話は小泉訪朝以降まったく行われていないだけでなく、一時は北朝鮮も積極的に参加した6カ国協議もなかなか進展しない状態が続いている。そうした中、なぜ北朝鮮はあいかわらずアメリカだけを引っ張りだすことに躍起になっているのだろうか。

 アメリカの反応を得るために行った大陸弾道弾ミサイルの発射は、ことごとくアメリカ側に無視された。逆に隣国日本を怒らせて経済制裁の強化という副作用を引き起こすだけの結果となった。そんなときに北朝鮮人民軍兵士が、中国と北朝鮮の国境でアメリカのテレビ記者が取材活動をしているのを発見した。
 
アメリカを誘い出す絶好の機会を逃さないために、北朝鮮当局はテレ
ビ記者たちを拘束し、重罰を課して収容することにした。果たして、アメリカは北朝鮮の誘いに乗らざるを得なくなった。


■ クリントンとカーター、ふたりの元大統領の訪朝

クリントン元大統領は北朝鮮当局に拘束されていた米人テレビ記者2人の釈放を求めて09年8月4日、平壌を訪れた。
ミサイル発射という恫喝によって、アメリカとの対話を求め続けた北朝鮮の瀬戸際外交政策を無視し続けたものの、その後、米人記者2人が拘束されてしまったことから、アメリカ側としても腰を上げざるを得なかったのである。

幸いなことにクリントン元大統領は2人の記者の釈放交渉に成功し、特別機で一緒に帰国するという成果を得ることができた。
その裏では、むしろ北朝鮮のほうが、クリントン元大統領を引っ張り出すことに成功したことを喜んでいると思われる。

国営朝鮮中央通信が「対話の方法で問題を解決することで一致した」として、金正日総書記が記者2人の特赦を命じたことを報じ、クリントン氏の訪朝を高く評価していることからも、そのことがわかる。

クリントン元大統領と金正日総書記が並んでいる写真を見て、マッカーサー司令官と昭和天皇の戦争直後の写真を思い出したむきも多いだろうが、私が思い出したのは1994年にカーター元大統領が訪朝した出来事だった。そのとき新聞に載ったのは、カーター大統領と故金日成主席が握手をしている写真だったのだが。

今回のクリントン元大統領の訪朝が、今後の米朝関係にどういった影響をもたらすかを知るためには、1994年のカーター訪朝によって何が起きたかを調べる必要がある。さらに日本の懸案である拉致問題の今後をどうすればよいかということを探る上でも、カーター訪朝の分析は大事である。

国と国とが面子をかけて張り合う中で、欧米諸国が時々採用するのが、元大統領や元首相の手による半官半民の外交活動だ。
こうした形を取れば、公式な外交課題に載せにくい問題にも踏み込むことができるし、相手国もおいそれと無視するわけにはいかず、国家首脳が応対せざるを得ないので、一定の成果を上げることが可能だ。


■問題を引き起こしたのはアメリカだった

1994年のカーター元大統領の訪朝の時は、一定の成果どころか、危機一髪のところまで迫っていた米朝戦争の危機を回避するという大きな成果を上げている。

さて、どんな危機だったのだろうか。

当時は金日成主席が存命していたのだが、読者の皆さんの多くは、「北朝鮮側が、アメリカを挑発し、戦争の脅威を煽ったのではないか」と考えられることと思う。

しかし事実関係を丹念に拾っていけば、戦争の危機を生み出した責任の大半は、アメリカ側にあるということがわかる。もちろん、時とともに変化する国際外交の舞台にはいつも「卵が先か、ニワトリが先か」という論議がつきまとう。北朝鮮にも問題がなかったわけではないが、1994年のカーター訪朝の前に起きた戦争の危機を最初にあおったのは、停止を約束していた韓米合同のチーム・スピリット合同演習を勝手に再開したアメリカ側である。

 実はこのときの危機は、朝鮮戦争の戦後処理に、アメリカがきちんと対応してこなかったツケによるものである。つまり朝鮮戦争の停戦後に再び戦火が起きないための平和協定を結ぶはずだった約束を履行せず、そのまま放置し続けてきたのである。こう話すと驚く人が多いが、朝鮮戦争はまだ終結していないのである。つまり単に停戦状態のままであり、38度線を挟んで北朝鮮軍と韓国軍が対峙せざるを得ない戦争状態が、国際法上、現在も続いているのである。

半世紀以上もこうした状態を無視してきたアメリカに対して、頼るべきソ連も消滅してしまった今、北朝鮮は単独でアメリカと交渉をする道を探るしかなかったのである。

つまり北朝鮮の一連の瀬戸際外交政策をひき起こしてしまった責任の大半が、朝鮮戦争をそのままほったらかしにしていたアメリカの無作為の外交に発しているのである。

さらにその後、1993年から94年にかけて高まった北朝鮮の核開発にまつわる危機は、対米交渉のカードとして核を利用しようとし始めた北朝鮮もさることながら、それに対する大人の対応が出来なかった当時のブッシュ(父)政権によって、ひき起こされたのである。

ただしアメリカの軍事力を背景とした対外外交は大統領や国務省だけによって作られているのではない。省庁、大統領府それに軍参謀本部の横断組織である国家安全会議(NSC)が策定し、大統領や省庁がそれを履行するという仕組みになっている。この国家安全会議というのはアイゼンハワー大統領時代に作られた一種の賢人会議なのだが、ブッシュ(息子)時代にはイラク戦争を遂行するネオコンの司令機関になっている。

軍の暴走を避けるためにはシビリアンコントロールが大事だといわれるが、アメリカの場合は国家安全会議のシビリアンたちが、暴走してきたのである。北朝鮮を挑発するためにチーム・スピリット合同演習再開を決定したのも、このシビリアンたちである。こうしたアメリカの軍事行動の決定過程については次の本に詳しいので参照していただきたい。『アメリカ・力の限界』(アンドリュー・ベイセビッチ著、菅原秀訳、同友館)    
 

■南北の共存を認めた北朝鮮

それでは、カーター元大統領が訪朝する寸前の米朝関係は、どうなっていたのだろうか。

89年のベルリンの壁崩壊と、それに続く91年のソ連崩壊は、北朝鮮の指導者に強い孤立感をもたらしたことは想像にかたくない。その頃の北朝鮮は経済不況に見舞われ、さらに水害などによる農業被害が拡大していた。北朝鮮の指導者たちは、深刻な体制不安に見舞われたことと思われる。

それまでの北朝鮮は、韓国を吸収することによって統一をはかるという気炎を吐いていたのだが、91年になって金日成主席は「穏やかな形態の連邦制」を求めるという「新年の辞」を発表して、今までの方針を大転換したことから、そのことがうかがえる。

発表の直後には、アメリカに特使を派遣し、米軍の韓国駐留を容認するかわりに米朝の交渉を開始したいと申し入れている。さらに同年9月には、電撃的な国連加盟を申請し、南北同時加盟を果たした。
自分たちの主導による統一コリアを主張していた面子をかなぐり捨てた北朝鮮は、翌92年2月には、韓国との間で「南北基本合意書」を策定し、さらに「朝鮮半島非核化共同宣言」を発効させている。

深刻なエネルギー危機に見舞われている北朝鮮にとっては、少ない燃料で効率的に発電する原子力発電所の建設は緊急の課題であった。そこで北朝鮮は核非拡散防止条約(NPT)を批准することで、韓国と協調した核の平和利用を宣言し、朝鮮半島の非核化に踏み切ることにしたのである。北朝鮮の核武装を恐れる韓国にとっても、朝鮮半島の非核化はぜひとも実現したかったので、話はとんとん拍子に進んだのである。

最近の日本には「国際社会と連携して北朝鮮に核武装放棄を迫り、東アジアを非核地域にしよう」という運動が起きている。しかし、すでに92年に、その肝心の北朝鮮が韓国とともに非核化宣言を出していたという事実をしっかりと押さえておく必要がある。つまり92年の「朝鮮半島非核化共同宣言」とその後の変化について北朝鮮当局と話をせずに、「東アジア非核化宣言」などを行えば、北朝鮮との関係は今以上にこじれてしまうからだ。

さて、当時のアメリカは、北朝鮮がここまで譲歩したにも関わらず、これらの提案に取り合わず、「朝鮮半島非核化共同宣言」を額面どおりに認めるということすらせずに、北朝鮮に再び核開発を行わせる結果をもたらしたのである。

こうした中、ブッシュ(父)政権は、北朝鮮は韓国をだまして「非核化宣言」を行う一方で、密かに核兵器の開発をしているのではないかという推測をしていた。

アメリカがそうした疑いを持つようになったのは、北朝鮮が国際原子力機関(IAEA)の査察をすんなりと受け入れようとしなかったからである。北朝鮮は、駐韓米軍基地の核査察を行うならわれわれもそれに従うという主張をしていた。当時の駐韓米軍司令官はあっさりとOKを出したのだが、面子をつぶされたホワイトハウスが査察を受け入れず、こう着状態が続いた。すったもんだの挙句、北朝鮮は92年になってIAEAの核査察を6度にわたって受け入れることになる。しかし一連の査察の中で今度はIAEAが、北朝鮮がプルトニウムを抽出しているのではないかという疑いを持つようになり、プルトニウム抽出の有無を検証するための特別査察を要求した。北朝鮮はIAEAにはアメリカのバイアスがかかっているとして、特別査察をはねつけたのである。

アメリカはこうした動きを牽制するために軍事圧力を加えることを考え、93年に今まで停止していたチーム・スピリット合同演習を再開した。10万人以上の米韓兵士が参加するこの演習は、ソ連と北朝鮮を威嚇するために70年代から繰り返し行われていたものであるが、ソ連の崩壊を機会に中止されていたのである。
北朝鮮は、この合同演習に激怒し、NPTを脱退するとの宣言を行ったのである。

(続く)    

初出:月刊『公評』09年10月号「北朝鮮への対処術」

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2009年08月02日

エーミールの涙(2)初めてドイツ人を許したフランス女性

●フランスの元レジスタンスの女性に届いた招待状

この話は、ヨーロッパとアメリカでは、何度も語られてきた話だ。もちろん日本にも伝わっている。しかし、何度でも繰り返し語り継がれなければならない話だ。「ヒロシマ」の語かたりべり部と同じように。 といっても、この話は「ヒロシマ」とはまったく質の違う話である。犯した罪の事実を知る話ではなく、犯した罪にどう対応すればいいかという話なのである。人間精神そのものにかかわる、重要な話である。 第二次大戦が終わった翌年の一九四六年、フランスの国会議員イレーヌ・ローのもとに、一通の招待状が届いた。

少女時代から、周囲の恵まれない貧乏な人々をどうやって助けたらいいかということばかりを考え続けていたのがイレーヌだった。困った人を見逃すことのできない性格のイレーヌは、土建業のビジネスマンだった父親の靴下をこっそり家から持ち出して、貧乏な労働者に分け与えるといったことを繰り返していたそうである。 そんな彼女は看護師となり、マルセイユの船乗りで社会主義の活動家でもあった

ビクターと意気投合し、やがて結婚した。ナチスがフランスに脅威を与えるようになると、夫とともに反ナチ・レジスタンス運動に加わり、苦しい戦いを続けることとなったのである。

フランスを占拠したドイツ軍のゲシュタポは、次々に仲間たちを捕えては殺害した。食糧の配給もとどこおり、子供達は栄養失調に苦しんだ。イレーヌは機関銃を持ったドイツ兵の監視の中でレジスタンスの仲間をかくまい、苦しい運動を持続した。そうした経験による心の傷が、ドイツに対する恨みとなって彼女の心の中を渦巻いていた。「ドイツ人はこの世から滅びて欲しい。ドイツという国の存在そのものをヨーロッパから消し去らなければならない」 しかし、行動的な彼女は、そうした憎しみを打ち払うかのように戦後第一回目の国政選挙に打って出て、みごとに国会議員として当選したのである。

さて、招待の主は、アメリカ人の牧師フランク・ブックマン博士だった。スイスの山村の古いホテルで、ヨーロッパの復興のための国際会議を行うので、出席して欲しいという要請だった。 ブックマン博士はロンドンに滞在しながら、フランスのレジスタンスに物心両面での応援をしてくれた人物でもあった。その博士が、戦火で疲弊しつくしたヨーロッパの復興に乗り出すことを知って嬉しかった。早速、出席する旨の返答をした。 そのホテルはジュネーブ湖に面したコーという山村にあった。まるでお城のような建物で、アルペンスキーに訪れる客のために建てられたものだという。戦前は冬季オリンピックの選手団の宿泊所として世界中のアスリートたちを集めていた豪華なホテルだったが、第二次世界大戦のために長いこと休業していた。そのホテルをブックマン博士たちがヨーロッパの復興のための国際会議の場としてマウンテンハウスと名づけて再生させたのであった。

湖を見下ろす小高い山の中腹に建ったマウンテンハウスは素晴らしい建物だった。にもかかわらず、隣国スイスでの戦後初めての国際会議に参加したものの、イレーヌは落ち着かなかった。大勢の参加者がドイツ語を話しているのを耳にしたからである。 イレーヌにとって、ドイツ語の響きは、はらわたが煮え返るくらい不愉快なものだった。フランスを奈落の底に引きずり降ろし、レジスタンスの仲間を次々に殺害した悪魔の響きであった。 

ブックマン博士としては、この会議にどうしてもドイツ人を参加させる必要があった。一九四六年当時のドイツ人は占領軍による特別査証がない限り、国外に出ることは許されなかった。ところが博士がアメリカ人であったということも幸いしたのであろう。連合国占領軍との粘り強い交渉により、百五十人のドイツ人が、このマウンテンハウスの国際会議への出席を許されたのである。 

ドイツ語を耳にしたイレーヌは、心の底に眠っていた憎悪が、ふつふつと煮えたぐってくるのを感じた。居ても立ってもいられなかった。そこで、荷物をまとめて帰国することをブックマン博士に伝えた。

博士は語った。「ドイツなしで、これからのヨーロッパをどうやって統合すればいいのですか。あなたはこれからのヨーロッパの平和を作り出すために、ここに来たのではありませんか」 イレーヌは博士の言葉にショックを受けた。部屋に戻るとそのまま閉じこもって、二日間考え続けた。「自分のこの憎しみの感情をどうやって消せばいいのか。この憎しみと復讐心は、自分が本当に求めていたものだったのだろうか」


●ドイツ人を赦したイレーヌ・ロー 

イレーヌは決心して、三日目の昼食に参加した。イレーヌのテーブルに、ひとりのドイツ人の女性が座っていた。イレーヌは彼女に向かって堰を切ったように語り始めた。「あなたたちのおかげで、フランスは信じられない苦しみを味わいました。あなたにはその苦しみはわからないでしょう。大勢の人々があなた方の手で殺されました。わが子であるルイが受けた苦しみがわかりますか? ドイツ兵は息子にあらゆる拷問を行ない、言葉を発することができない生ける屍しかばねにして、私の両腕に押し付けたのです」 ドイツ人の女性はテーブルの上に置いた手をぶるぶると震わせながら、イレーヌの話をじっと聞き続けた。「あなたたちによって、愛する仲間たちを失ったこの憎しみを、どうやって消し去ればいいのでしょう?」 

ドイツ人の女性はイレーヌの問いかけに、長いこと黙りこくっていた。やがて、静かに口を開いた。「もし許してもらえるのでしたら、話させてください。私の夫はヒトラーを暗殺しようとしたグループの一人です。夫は捕まり、絞首刑になりました。二人の子供は連れ去られて、偽名で孤児院で暮らすことになりました。終戦の後、やっと子供たちを取り戻すことができました。私たちはもっと早くナチスに対して抵抗をしていればよかったのですが、不十分でした。もっと大きな抵抗運動をすべきでした。そのためにあなた方に無限の苦しみを与えてしまいました。心からお詫びします」 

その女性は、ヒットラーの暗殺に失敗して殺されたアダム・フォン・トロットの未亡人だった。アダム・フォン・トロットはナチス時代の外交官だった。イギリスに駐在していたときにヒトラーのユダヤ人虐待を知り、それを止めるために一九三八年に帰国した。しかし、ナチスはすでに恐るべき殺人集団になっていた。トロットはやむなく、ヒトラー政権を打倒することを目的に設立されたクライザウ・サークルという小さなグループに加わった。やがてこのグループは軍の中枢部の人々とともにヒトラーを暗殺し、クーデターを起こす計画を立てたのである。

「七月二十日事件」または「ワルキューレ作戦」と呼ばれるこの暗殺計画は失敗し、関係者はことごとくナチスによって虐殺された。 話を聞いているうちに、自分以上の苦しみを味わってきたトロット夫人に深く同情したイレーヌの喉から嗚咽がこみ上げてきた。

二人は手を取り合って泣きじゃくり、お互いを許すことにしようと約束した。 翌日、イレーヌは集会場に集まっていたドイツ人たちの前で、自分の心の内を語った。「私はドイツ人を心の底から憎んでいました。ヨーロッパの地図からドイツを消し去りたいと思っていました。しかし、ここに来て気づきました。私が抱いていた憎悪は間違ったものだったということを。ここにいるドイツ人の皆さん、どうか、あなた方を憎悪していた私を許してください」 

居合わせたドイツ人たちは、次々に言葉を発した。「許しを請うべきなのは、私たちドイツ人です。ナチスによる侵略と虐殺を止めることができなかった私たちを許して下さい」 その場に、後に西ドイツ首相となるコンラート・アデナウアーがいた。アデナウアーはイレーヌの「許して下さい」という言葉を聞き、衝撃を受けた。 


●「和解」を訴える旧敵国ドイツへの旅

その後、アデナウアーはイレーヌを西ドイツに招待し、ドイツ各地で講演会を開くことになる。講演会でイレーヌの話を聞いた聴衆は、次々に自分たちの許しを求め、フランスとの和解を求めた。イレーヌの西ドイツ・ツアーをきっかけに、和解の気持ちを演じるためのミュージカル劇団が組織され、その後、ヨーロッパ各国で公演が行われるようになっていった。

それまでの歴史には、和解という概念がなかった。あったとしても、せいぜい戦争当事国同士の和解交渉の範囲で使われる言葉に過ぎなかった。戦争の犠牲者は国民である。その国民同士が、負けるか勝つかという弱肉強食のルールとはまったく違うレベルで、お互いの和解という平和の手法を生み出したのである。 今でこそ、各地の悲惨な戦争の戦後処理のプログラムに、相手国の個々の人々との和解を醸成するプログラムが作られるようになったが、その原形が生まれたのが、一九四六年のマウンテンハウスでの国際会議だったのである。 

もちろんイレーヌのドイツ・ツアーでフランスとドイツの和解が一気に進展したわけではない。ドイツは正しかったと考える人が大多数の時代がずっと続いた。しかし、ドイツとフランスとの間での最初の和解のきっかけは、こうしてアメリカ人牧師ブックマン博士の力によって、開かれたのである。 ブックマン博士は、なぜこのような国際会議を開いたのだろうか。 博士は、英国の大学で教えながら、ナチスのような恐ろしい考えを阻止するためには、心の道徳を再武装しなければならないと訴え続けていた。博士のもとで学んだ生徒たちはこの考え方を世界中に広めるために、博士の訴えを「道徳再武装運動」(モラル・リアーマメント・ムーブメント:MRA)と呼び始めた。 

MRAの運動を展開するためには、国際会議が開催できて大勢の指導者たちが宿泊できる施設が必要だ。そうした中、スイスの休眠していたホテルに着目したブックマン博士の弟子たちは、ホテルを管理していた銀行と交渉した。 再建をあきらめかけていた銀行は、ホテルを平和構築のための国際会議場にしたいというアイデアに興味を持った。現地の地方自治体も世界各地からのVIPの会議場へというアイデアを歓迎した。その結果、破格の値段で売却してくれたのである。 

こうして、このマウンテンハウスには全世界からの政治家や、財界指導者が集まることになったのである。マウンテンハウスは一貫して、異なった立場の人々と協調し和解するためにはどうしたら良いか、というテーマでの国際会議を行う場として機能し続けることとなった。MRAは現在ではイニシャチブ・オブ・チェンジと名前を変え、全世界で静かな運動、つまりお互いの誤解を解く運動を展開している。

(続く)      (c)菅原 秀 2009 

先を読み進みたい方は『ドイツはなぜ和解を求めるか』(菅原秀著、同友館)をお求め下さい。   

 
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2009年05月28日

クメールの涙 司法無視のフン・セン首相

▼カンボジアから届いた今回の事件は、今のところ日本のメディアには報道されていない。小さな裁判事件にしか見えないからかも知れない。しかし、カンボジアの人々は、未だにきちんと司法や立法にアクセスできない状態に置かれているのである。まさにその状態を象徴する出来事として注目すべきである。(菅原秀)

●カンボジアの大虐殺に気づかなかった日本

カンボジアのど真ん中にあるトンレサップ湖は、人々に大量の魚をもたらす恵みの湖だ。はるか遠くのヒマラヤからの水は、いったんこの広大な湖に貯め込まれて魚介類に栄養をもたらし、さらにカンボジアの農地に恵みの水をもたらしながら南下してゆく。しかし雨期になるとメコンの流れは北に向かって逆流し、トンレサップ個を何倍もの大きさに膨れ上がらせ、場合によっては近隣の村々をも飲み込み、田畑を水浸しにしてゆく。

だからカンボジアの農民は「浮き種」というモミを水田に蒔くという農法を古くから行ってきた。トンレサップ湖の魚から作られる魚油と、たっぷりと水につかりながら育ったコメが、カンボジア人の命綱だ。そうしたつつましやかな生活を続けてきたクメール人(カンボジア人)に最大の厄災をもたらしたのがクメール・ルージュ(ポルポト派)だった。

彼らによって虐殺された人々は200万人とも300万人とも言われるが、その実数は未だにわからない。当時、共産主義を標榜したクメール・ルージュ政権の友邦国であったユーゴスラビアのテレビ・クルーが、首都プノンペンの人々の数が異常に少ないことに気づいて、極秘の調査を進めるまでは、大量虐殺は一切外部には伝わらなかった。ユーゴスラビア当局者が秘密裏に調査をし、虐殺が行われていることを国際社会に伝えたが、それが事実と分かるまでには長い時間がかかっている。

日本もご多聞に漏れず、そうした事実を認めたのは欧米の友邦国が事実を確認したずっとあとのことだった。かつてプノンペンに支局を持っていたマスコミ各社も、1975年に一斉に現地から撤退していたにもかかわらず、虐殺の事実をまともに調査しようとはしなかった。

クメール・ルージュ政権崩壊後の1979年には、カンボジア難民が命からがらタイ東部に逃れていき、日本のNGOとマスコミに虐殺の事実を訴え続けたのだが、マスコミはその報道をためらい続け、その後10年間に渡って多くの記者が「カンボジアの大虐殺の噂は嘘だ」といい続けてきたという有様である。

そのカンボジアは国連の介入による選挙を経て、ひどい回り道をしながら民主化を目指してきた。

しかし人民党のフン・セン首相は98年の選挙でその座を手に入れて以来、徹底的に野党を弾圧しながらその政権を維持してきている。フン・セン首相の下で蔓延しているのは国全体の汚職である。役所の手数料の上乗せ請求、学校教師の生徒からの賄賂、医療機関が求める賄賂、さらに極めつけは森林伐採に関する伐採権をめぐる賄賂や、取締官への賄賂などである。

危機感を抱いたアジア開発銀行は2000年にカンボジア政府に対して、森林伐採の全面禁止の勧告を行っている。収入の大部分を海外に依存しているカンボジア政府は渋々その勧告に従い、悪質な伐採業者3社を放逐しさらに、今までの業者にもモラトリアムの規制を行ったようだが、世界各地の環境団体がカンボジアのモラトリアムは機能しておらず、森林は消失する寸前であるという強い警告を出し続けている。

先進各国はこうした状況に危機感を抱き、フン・セン政権に対し、汚職をなくし、民主化を推進するよう強く迫っているが、当のフン・センは耳を貸さない。それどころか国内で汚職撲滅を強く訴え続けるサム・レンシー党の議員たちを集中的に弾圧し、開会中に逮捕することをほのめかして、議員が亡命せざるを得ない状況を作るなど、気ままにふるまっている。

遠く離れた地域で起きている危機に特に鈍感なのが、日本の政府とマスコミである。これから書こうとする出来事も、すでに国際社会が注目し始めているにもかかわらず、日本の政府とマスコミがだんまりを決め込んでいる例だ。


●クメール女性の尊厳を守る戦い

日本にも来日したことのあるカンボジアの元女性大臣ムー・ソクアさんが、フン・セン首相を訴えたのが今回の事の始まりである。

ムー・ソクアさんをローマ字綴りにするとMu Sochua。クメール語では子音が呑み込まれるので、ソッファという風に発音するそうだが、日本ではムー・ソクアさんとして知られている。

ムー・ソクアさんは1954年生まれ。ベトナム戦争の最中、高校を出るとと同時に海外に逃れざるを得なくなり、フランス、イタリア、アメリカで18年間にわたって亡命生活を続けた女性だ。その間、カンボジアにとどまっていた両親の行方は分からなかった。 

ポルポト派の崩壊後、彼女はタイの難民キャンプに向かい、ボランティア活動をしながら両親を探したが、情報を得ることはできなかったようだ。

1989年に新生カンボジアに帰国した彼女は、フンシンペック党のメンバーになると同時に、女性問題と人権問題に真剣に向き合い続け、1998年にはダッタンバン州選出の国会議員に当選、女性・復員軍人省の大臣になる。

その間、カンボジアが直面している女性や子供の人権問題や人身売買問題を積極的に取り上げ、アジア各国のNGOと連携しながら問題の解決に取り組んだ。来日した際も日本政府やNGOとの活発な会議をこなし、カンボジアから日本に売られてくる人身売買のルートを根絶するための最大限の努力をしている。そうした活動は各国から評価され、ヒラリー・クリントンが主催する財団「バイタル・ヴォイス」の国際人権賞を受賞したのを皮切りに、数々の賞を得ており、ノーベル平和賞にも例年のように推薦され続けている。

2004年に大臣の任期を終えたムー・ソクアさんは、野党第1党のサム・レンシー党に移籍し、カンボジアの最大の問題である汚職問題に取り組むようになった。サム・レンシー党は海外からの支援は国民に届くことなく、独裁者として君臨するフン・セン首相の政権維持とのために機能しているに過ぎないと、厳しく啓発し続けてきた。そのグループに彼女も加わったのである。


●発端はフン・セン首相の侮辱発言

サム・レンシー党の汚職追放活動を快く思っていなかったフン・セン首相は09年の4月、明らかにムー・ソクアさんに当てつけた侮辱的な発言を行ったそうである。現地のプノンペン・ポストの報道によればフン・セン首相は、4月上旬カンポット州に出向き、「カンポット州にはチェウン・クラン(強い脚)の女がいる。あえてその女の名前を言う必要もないが、その女は人々を扇動して政府を攻撃することしかしていない。選挙戦の最中にも男に抱きついて、自分にキスをさせるためにブラウスのボタンをはずす始末だ」といった内容の侮辱的な発言を行ったとのことである。

「チェウン・クラン」というのは女性を侮辱する極めて強い言葉だとのこと。この言葉に対し、クメール女性として最大の侮辱を受けたと考えたムー・ソクアさんは4月23日、プノンペン地裁にフン・セン首相を相手取って名誉棄損罪の提訴を行った。請求金額は500リエル。日本円にすれば約12円程度の少額で、フン・セン首相側が謝罪してくれることを求めたものである。

これに対してフン・セン首相は24日、「彼女を名指ししたわけではないので、こうした訴訟は不当である。名誉を傷つけられた」としてムー・ソクアさんとその弁護士のコン・サム・オン氏をされぞれ名誉棄損罪で逆提訴した。ふたりへの請求金額それぞれ100万リエル。日本円で約25万円。公務員の月給が3千円程度のカンボジアでは、かなり大きな金額なので、敗訴した場合はふたりに大きな経済的負担がかかることになるだろう。

フン・セン側が雇った弁護士はキー・テック氏。元弁護士会の会長だ。このキー・テック氏はフン・セン首相の意向を受けて、ムー・ソクアさんが依頼した弁護士コン・サム・オン氏の弁護士の資格を剥奪する動きに出た。フン・セン氏は定員123人のカンボジア国会の圧倒的多数を占めるカンボジア人民党の
党首として、強い権力を保持している。

カンボジアの弁護士協会は、そのフン・セン首相を永久会員として遇しており、元会長の鶴の一声で、コン・サム・オン氏の聴聞作業を開始している。容疑は「政治的意図のもとにカンボジア首相を告訴した」と報道されている。自分が告訴されたことに腹を立てて、弁護士資格を剥奪する動きに出るなどというのは、
司法そのものを否定する行為である。司法の独立をまったく尊重しないフン・セン首相の体質が露呈されたと言えよう。

さらに与党人民党は、ムー・ソクアさんの議員不逮捕特権を剥奪する動議の準備をはかっている。「議員の不逮捕権を剥奪するなんて簡単なことだ」という24日の記者会見でのフン・セン首相の発言は、そうした可能性を示唆するものである。

フン・セン首相は、ムー・ソクアさんが告訴を取り下げれば自分も告訴を取り下げると語っているとのことだが、ムーさんは「フン・セン氏の側から取り下げない限り、取り下げない」としている。しかし弁護士が懲罰委員会にかけられている今、彼女の裁判をあえて引き受ける弁護士はいないであろう。弁護士なしでの法廷を戦わざることになる可能性が大きいのである。

こうした動きを知ったプノンペンのNGO9団体は、政府に弾圧されるという危険を承知で声明文を出した。さらに海外、特にアメリカのラジオ局が一連の動きをフォローしているが、アメリカの「ヴォイス・オブ・アメリカ」からの質問に対して各NGOの代表が次のように語っている。

「女性の尊厳を訴えてささやかな告訴をしてムー・ソクアさんに男らしく謝罪することができないどころか、強圧的な態度で抑えようとするフン・セン氏は、女性が声を出そうとするのを頭ごなしに抑えて、おびえさせている。今、私たちが声を上げなければ、せっかくここまで築き上げてきた女性の声が政治に反映されなくなる」セン・テアリーさん(NGO社会開発センター代表)

「政府も野党も、1992年に女性差別をなくすための条約である「女性に対するあらゆる形態の差別撤廃条約」(CEDAW)を批准して、共に女性差別をなくそうと立ち上がったはずではないか。その精神をないがしろにする不法行為である」プン・チック・ケックさん(NGOリカド代表)

東京在住のメコン・ウォッチャーとして著名なバーナード・クリッシャーさん(元ニューズウィーク東京支局長は日本政府に対して次のように問いかけている。

「他国に干渉しないという原則は、ヒトラーが6百万人のユダヤ人を絶滅キャンプに送り、ポルポトが200万人のカンボジア人を殺害することを許した。今、そうした不干渉主義によって、アウンサン・スーチーの刑務所への収監を許容されようとしており、ムー・ソクアとその弁護士への弾圧が許されそうとしている。隣の家で子供が虐待されているのに何もしないのは人道主義に反する」(カンボジア・デイリー09年5月18日号)

相手国に対して人権侵害をただちに停止するよう明確なメッセージを発することをめったに行わないのが日本政府の外交方針である。しかし、それを知って自国の民主化に手をつけようとしないフン・セン首相のような独裁者をこれ以上甘やかし続けてよいのだろうか。苦しんでいるのは支援する相手国の最下層にいる人々なのである。
                      
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2009年03月09日

エーミールの涙(1)ベルリンで見たエーミールの痕跡

▼ケストナー好きの機内乗務員

ベルリンと聞くと私が真っ先に思い出すのは、エーリヒ・ケストナーによる子供向けの物語『エーミールと探偵たち』だ。子供の頃の私はこの物語を、胸を躍らせながら、おそらく十回以上も読んだものである。それほど面白い本だったのはなぜだろうか。あの山高帽の詐欺師を大勢の子供たちでやっつける場面は、子供の心にとって実に爽快だったからと
いう理由だけだろうか。恐らくケストナーの描写力に、子供の魂を揺り動かす何かがあったに違いない。二〇〇七年五月、そのベルリンヘ向かうために私は、六人の記者団の一員としてルフトハンザの機内の客になっていた。今回の旅は、ドイツ文化センター(ゲーテインスティトゥート)の企画によるものだった。日本の記者をベルリンに招いて、ドイツ
の各機関が過去の清算をどう行ってきたのかをつぶさに見てもらおうという、しごく生真面目な企画である。

九日間の旅であったが、五人の記者と大学教授一人による総勢六人の一行は、忙しい中でスケジュールをやりくりしたので、飛行機の座席についてからやっと、下調べを開始するという状態だった。それぞれ眠い目をこすりながら、これから訪ねていくベルリンの各機関の資料を読み込むのに余念がない。

私の前の座席には四十歳ぐらいの日本人の母親と、小学低学年の男の子が座っていた。ベルリン行きの直行便はないので、この飛行機はミュンヘン行きだ。その親子はミュンヘンに赴任している父親を訪ねての旅だということが話の端々からうかがえた。数時問後、椅子で眠っていたと思ったその母親が立ち上がり、棚の荷物を降ろそうとして手を伸ばした
とたん体がふらついた。そのままよろけて通路に倒れてしまった。通路をはさんで隣に座っていたドイツ人の若い女性と私が思わず立ち上がり、ふたり同時に手を伸ばして母親を助け起こした。「ドシン」と音がしたのだが、通路に打ったのは頭ではなく、お尻のようだった。怪我はないようだが顔面は蒼白だ。子供が泣きながら「お母さん、お母さん」と叫んでいる。

恐らく、例の「エコノミー症侯群」というやつだろう。母親はしきりに「大丈夫です。大丈夫です」というものの、「エコノミー症候群」を心配した私は、とりあえずトイレに行くように促した。さらに私は、母親がトイレに行っている問に日本人の乗務員を呼んできて、隣のドイツ人女性と一緒にことのいきさつを説明した。

トイレから戻ってきた母親の顔面に赤味が差していたので、ほっとした。心配顔の日本人乗務員が何度も母親の席に来て、薬やタオルの類を運び、声をかけてくれる。献身的な彼女は、私や隣のドイツ人女性にも、「お怪我はありませんでしたか」と気を使ってくれる。

「いやあ、日本人の乗務員がいてくれて、助かります」
という私の言葉を聞いた彼女は、
「私は子供の頃にドイツの本を読んで、ドイツが好きになり、ルフトハンザに就職したのです」
にっこりしながら、自分のことを話し始めた。
「へえ、どんな本を読んだのですか?」
「ケストナーです。全部読みました」
私の大好きな作家の名前が出たので、驚くとともに嬉しくなった。

「え、あのエ-リヒ.ケストナーですか。私も大好きで、子供向けの本は全部読んでいますよ」
「ケストナーはナチスが大嫌いだったんです。子供の目線に立ってナチスを批判し続けたケストナーがいる国に行きたい。そう思ってケストナーのことを調べているうちに、ドイツ語を勉強するようになり、その結果、こうしてルフトハンザで働くことになりました」
「それは素晴らしい。ケストナーのおかげで仕事が見つかったんですね。ルフトハンザには日本人は何人勤めているんですか」
「四百人です」
「え、そんなに大勢、働いているんですか」
「でも、大きな会社ですから、日本人は少数派ですよ」
四百人もいるのに少数派だなんて、驚いた。ルフトハンザはそんなに大きな会社だったのか。と同時に、この四百人という数は日本とドイツの長い交流の歴史を物語っているのではないかとも思った。

私は、『エーミールと探偵たち』のあらすじを思い浮かべながら、とても大事な質問をした。

「私はベルリンが初めてなんですが、ケストナーの小説に書かれているベルリンの町の名前や通りは全部覚えています。今でも残っているんでしょうか」
彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「ベルリンに行ったらびっくりしますよ。エーミールたちが集まった広場も、山高帽の男が泊まったホテルも、映画館も、郵便局も、駅も、もちろん新しくなってはいますが、皆昔の場所に残っています。『エーミールと探偵たち』を手にしながら、ベルリンを回って歩く文学ツアーをしている人もいるんですよ。


▼ベルリンの町にはエーミールの足跡があった


今回の旅は、ドイツの戦後補償の実態を知る視察旅行だ。難しい話の連続で疲労困響る旅になるかも知れないと思つていたが、ルフトハンザの乗務員のおかげでベルリン行きの別の楽しみが生まれた。

さて、ミュンヘンで国内便に乗り換えてベルリンに着いた私たちを迎えてくれたのはヴォルフガング・バウアーさんという学者だ。今回の私たちのための通訳兼旅行案内人だ。北海道大学大学院で八年問経済学を研究した人で、最近ドイツに戻り、仕事を探しているうちに案内人の話を引き受けることになったとのことだ。ドイツでは彼のように四十歳を過
ぎても就職していない人はざらである・高等教育機関で長いこと研究活動をして実績を積んでから、しかるべきポストを探すという人生の生き方を選んでも通用する社会がドイツという国なのだ。

私たちを迎えてのオリエンテーシヨンは、その日の夜。シュプレー川の美しい川面に接しているホテルのテラスで行われた。のっけからビールを注文しながら、バウアーさんが翌日からの視察計画を説明する。

「明日から、かなりタイトなスケジュールが始まりますが、朝の一時間ほどを使ってベルリンの町をミニバスで一周しましょう。ベルリンがどうなっているかをいったん頭に入れることで、今後の旅の参考になると思いますから」

この提案に、私は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「エーミールの探偵事件の足跡を見て回れる!」
他のメンバーは、なぜ私が大喜びしているのかわからなかったようだ。長旅で疲れているのにミニバスから町を眺めるだけのために、わざわざ朝早く出発するのは面倒くさいという顔をしていた。しかし、私がバウアーさんの提案を全面的に支持したので、翌朝の特別観光旅行が決行されることとなった。

私はミニバスの一番前に座って、バウアーさんに質問をし続けた。

「なるほど、これが動物公園(ツォー)駅ですか。この近所にノレンドルフ広場というのがあるはずですが、どっちの方向ですかね」
バウワーさんと運転手が、ああだこうだと議論しながら、ノレンドルフ広場を見つけてくれる。

「ノレンドルフ広場に面した場所に、中庭つきのホテルがあると思うんですが、ホテルの向かいには地下鉄の入り口があるはずです。ケストナーの小説ではホテルの名前は、ホテル・クライトになっていますが。
「え、ケストナーって、あのエーリヒ・ケストーのことですか」
「ルフトハンザの乗務員から聞いたのですが、『エーミールと探偵たち』に出てくる子供たちが活躍した場所は、今でも残っているそうですね」

そのうち、バウアーさんと運転手さんも私の話に乗せられて、古いベルリンの町を探る旅に付き合いだした。記者団の仲問たちにとってはいささか迷惑だったのかも知れない。エーミールが大金を盗まれて困り果てていることを知ったベルリンの子供たちは、このノレンドルフ広場を拠点にして山高帽の犯人を見張り、工ーミールの応援を開始し始めた。そ
の一方で子供たちは、ニコルスブルグ広場にも連絡拠点を構えた。広場の近所の金持ちの家の子が、連絡係に指名された。何せ自宅には電話があったからだ。子供たちは自転車を使ってベルリン中を移動し、応援の仲間を集める。どうやって犯人を追い詰めるのかは、ぜひ小説を読んでいただきたいが、スリルあふれる尾行劇の中でケストナーが描いている
のは、活き活きとしたベルリンの街角と、そこに生きた人々だ。

エーミールが、いとこのポニーと待ち合わせるはずだったフリードリヒ通り駅前の花屋さんは、東ドイツに組み入れられた後も営業していたそうだが、残念ことに壁崩壊後の再開発で消えていた。駅のガード下に花屋さんがあったので、聞いてみた。

「うちは戦後始めた店だから、エーミールの花屋さんと関係ないわ。でも、うちの店の写真を記念に撮っていく人がたくさんいるわ。お蔭様で宣伝になっていますわ」
ということだった。

どうしても見っからなかったのが、カイザー通りという地名だった。山高帽の男は、動物公園駅で市電に乗り、カイザー通りを下っていく。エーミールは自分の大事なお金を盗んだ山高帽の男を逃がすまいと、無賃乗車で市電に乗る。そのカイザー通りを見つけることができなかったので、その日の夜、シュプレー川べりのホテルに戻った私はベルリン地図
を広げながら、ホテルのフロント係にカイザー通りのありかを調べてもらっていた。
「エーミールが動物公園駅から乗った二両編成の市電は、カイザー通りを走っていったと書いてあるんです。駅の近くにその通りがあるはずなのですが、戦後は通りの名が変わったということを聞いていませんか」


▼私に話しかけてきた老婦人の生い立ち


フロント係と私の話を聞いていた八十歳ぐらいの老婦人が、明瞭な英語で話しかけてきた。
「カイザー通りというのは、この大きな教会のある通りよ。昔は市電が走っていたのよ」
彼女は私がケストナーの足跡を探していることに興味を持って、話しかけてきたのである。
ベルリンで生まれた彼女は、ナチスからスイスに逃れた両親と共に移住し、ずっとジュネーブで育ったとのことだ。

「ケストナーという人は、変わった人で、焚書事件の時、わざわざべーベル広場の現場に出かけて白分の本を燃やされるのを見ていたのをご存知?」
「いや、焚書事件というのは知っていますが、ケストナーが現場にいたんですか?」

焚書事件というのは一九三三年五月に発生した言論弾圧事件だ。ナチスが組織したヒトラー・ユーゲントや自警団が、国家を侮辱する内容の本をリストアップして、全国一斉に本を燃やすデモンストレーションを行ったという、とんでもない事件である。

その老婦人は、ケストナーは仲間たちがフランスやスイスにどんどん亡命していったのにもかかわらず、戦争が終わるまで国内に踏みとどまってナチスに精神的に反対し続けようと決意し、ずっとドイツを離れなかったのだと語ってくれた。踏みとどまったケストナーは、その後、何度かナチスにっかまっているが、生き延びることに成功し、戦後は西ドイ
ツ・ペンクラブの会長としてドイツ文学の復興に全力を捧げている。

「いろんな本が燃やされましたが、文学書で狙われたのはヘミングウェイなどの外国のものが多かったのです。ドイツ文学ではハインリヒ・マン、トーマス・マンそれにエーリヒ・ケストナーの三人の作品が目の仇にされました」
「ケストナーのどんなところがナチスにとって気に入らなかったのですか」
「ケストナーは自由思想の持ち主です。物事を奔放に白由に見る態度が退廃的だと思われたのでしょう。焚書についてはヒツトラーが直接命令したのではなくて、大学教授と学生が中心になって、ドイツの国威発動に不都合な書物を選び、ヒトラーユーゲントやSA(突乳隊)がそれらの本を集めて回ったのです。マスコミもそれに同調して国民運動として広がっていったのです。学問の自由を大学自らが否定し、思想の自由をマスコミが否定したのが焚書事件です。大勢の国民がヒトラーという悪魔に手を貸して、おべっかを使ったのが焚書事件です。私の父はずっとそう語っていました」

「お父さんは何をしていらしたのですか」
「フンボルト大学の助手でした。自分自身も物事を深く考えずに焚書に手を貸してしまったので、スイスに亡命して新しい人生をやり直そうとしたらしいです」
初日目から、ナチスの爪あとに触れる旅になってしまった。
しかし、この老婦人に会えたことはおそらく偶然ではないだろう。エーミールたちが活き活きと活躍していた戦前のベルリンの魂が、七十年以上の時空を越えて私たちに語りかけてくれたのだ。ベルリンの旅は、こうして始まった。

続く



     
 


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2008年05月25日

ビルマ軍事政権にこれ以上騙されるな(1)

▼サイクロンの被害を受けた国民100万人を何もせずに放置し、そのどさくさを利用して憲法策定の投票作業を強行したビルマ軍事政権。国際社会は怒りを持ってこの非道な政権に対峙し、彼らに支配された国民を一国でも早く解放しなければならない。▼ビルマの軍事政権をつけあがらせてきた国が中国であるが、今回の四川地震ではおおむね国民を守ろうとする姿勢を維持しているようだ。この機会にぜひ反省してもらい、ビルマへの支援政策を見直すように働きかけていかなければならない。▼中国ほど知られていないものの、日本もビルマ軍事政権を甘やかしてきた国の一つである。軍事政権がこれから強行しようとする「でっちあげ国民投票政策」を容認すれば、いつまで経ってもビルマの人々に平和と自由は訪れない。日本がどうなってビルマを甘やかしてきたかを2回にわたって報告する。(08年5月25日 菅原 秀)



◆軍事政権を国家承認してしまった日本の失政


 ビルマ軍事政権は、国家平和開発評議会(SPDC)という任意団体である。この任意団体は88年の発足当時は国家秩序回復評議会(SLORC)という仰々しい名前をつけて「国家の秩序を維持するために国を統治する」と宣言した。権力掌握と共に「秩序維持と平和の回復」「交通インフラの確保」「経済活動の保証」「複数政党制への民主化実現」を約束した布告1号を発表した。

しかしどの約束も、いいかげんな朝令暮改でごまかしてきたことから、信用を回復するために人気のないSLORCという呼び名を廃止して、SPDCとして再デビューした。しかしデビュー後も、軍備拡張以外には何の仕事をしようともせず、20年間に渡って権力の座に居座ってきた。

 この任意団体SPDCが軍事組織を保有しているのだから、始末に終えない。 

 07年9月のヤンゴンのデモで長井健司さんを殺害し、さらに08年5月のサイクロンでは自国民被害者100万人に救いの手を述べることなく放置し続けた。

 ビルマ軍事政権の信用を国際的に失墜させただけでなく、その軍事政権を甘やかし続けてきた日本政府の信用も問われなければならない、重大問題なのである。

 さて、この私の文章を見て、
「なんでビルマと書くのだろう。あの国はだいぶ前にミャンマーと国名を変更したのではないか」
と思われる人が多いかと思う。実は日本と違って他の国々には、この国の呼称変更を認めない人が多く、特に世界のジャーナリストの大部分は未だにビルマと呼称しているのである。

 まずそのことから説明しないと、話がわかりにくくなる。ビルマの人権問題と深く関わっているからだ。
 1989年6月、ビルマ軍事政権は国連に対して、英語での呼称の変更を届けた。それまでのユニオン・オブ・バーマを、ユニオン・オブ・ミャンマーとしたのである。国連のルールでは議席を持っているその国の政権が国名変更を届ければ、自動的に受理しなければならない。したがって国連での国名変更は自動的に行なわれた。

 しかしこの変更に対して、アメリカ、ヨーロッパ各国、北欧各国などが強く反発した。1990年の総選挙でアウンサンスーチー率いるNLDが圧勝したにもかかわらず、政権を委譲せず、そのまま居座っている軍事政権が、国民の信を問うことなく勝手に国名変更することは容認できないと考えたのである。(アウンサンスーチーの日本語表記は、新聞ではアウン・サン・スー・チーだか、本人はビルマの人名表記原則を尊重してアウンサンスーチーにして欲しいと言っている)

 さて変更の理由は何か。
 事情に詳しい田辺寿夫氏は、次のように解説している。

「ビルマ語による国名は、ピダウンズ(連邦)・ミャンマー・ナインガン(国)のまま変わっていない。国名の変更にあたって軍事政権の担当者は、英語のバーマのもとになったバマーがビルマ族をさし、ほかの多くの民族が共住する連邦国家としては、そのすべてを包含するミャンマーという呼称のほうが寄りふさわしいと説明した。しかし、この説明が正確でないことを、内外の多くの識者が指摘している。バマーとミャンマーはもともと同じ語源の言葉で、おもにビルマ族とその国土を指すことは明らかであるからだ。バマーは交互としてよく使われ、ミャンマーはもともとビルマ語の国称として使われているように文語的な表現である。人々はこれまで、この二つを同じ意味の言葉として、とくに意識せずにごくふつうに使ってきた」『ビルマ 発展のなかの人びと』田辺寿夫著 岩波新書

 現軍事政権を認めていない英語圏ではこの国を今でもBurma,北欧諸国はBirmaと呼び、各国のマスコミもそれに習っている。(ビルマという日本語の呼び方は北欧形なので、江戸時代にオランダから伝わったと思われる)

 にもかかわらず日本政府とマスコミは、軍事政権の提案をいとも簡単に受け入れている。

 まず89年に7月から外務省と内閣法制局が今までのビルマ呼称をやめてミャンマーとすることを決定。それを受けた日本新聞協会は「現地の呼び方を尊重する」という理由で、89年8月からミャンマーという表記に切り替えている。

 前提となったのが、89年1月の閣議決定である。88年9月にビルマ軍はヤンゴンのデモを軍事力で制圧、数千人を殺害しビルマ連邦の全権を掌握した。軍は戒厳令をしくと同時に、国家秩序回復評議会という暫定国家管理組織をつくり、治安を押さえ込み、総選挙を行なうと明言した。日本政府はこのグループが治安を回復したことを評価し、閣議決定としてこの国の国家承認をしてしまったのである。


◆マスコミはビルマ表記に切り替え直すべきだ

 90年6月、約束どおり総選挙は実施され、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が485議席のうち392議席を獲得した。軍事政権支持政党である民族統一党(UNP)はわずか10議席というありさまであった。しかし、その結果は反故にされ、逆に当選したNLDの国会議員たちを全員逮捕して、軍事政権をそのまま維持したことは周知のとおりである。

 日本政府は、ここで国家承認を取り消せばよかったのだが、ODAを一時凍結しただけで様子見をすることにした。この時点で本質を見誤ったのである。

 ここから日本政府と国際社会とのボタンのかけ違いが始まることになる。
 そうした経緯の結果、見事なほどすっきりと国名呼称がミャンマーに切り替わったのが日本だ。ビルマ軍事政権の対日心理工作はみごとに成功したのである。

 しかし英語圏からのニュースであるCNNやBBCなどの国際ニュースを聞いていただきたい。どのニュースのアナウンサーも、あいかわらずBurmaと呼称していることに気づくはずだ。

それに対して、ビルマ軍事政権を支持する国であるロシア、中国、シンガポール、北朝鮮などから発信される英語放送を聞いていただきたい。これらの国の放送局では必ずMyanmarと呼称している。

 また両者を混合している国もある。タイ、バングラデシュ、マレーシア、それに加えてASEAN諸国の、ビルマと深い利害関係を持つ国々である。これらの国々は好むと好まざるに関わらずビルマとの接触を続けなければならない運命にあり、全体的にコンストラクティブ・エンゲージメント(建設的関与)という外交手段を採っている。これらの国々では、政府系メディアはミャンマー、反政府系メディアはビルマという形で報道し、それぞれの番組や記事の中では、ばらばらにふたつの呼称が併用されている状態である。

 つまりビルマ軍政を支持する人々はミャンマー、軍政の居座りを許容しない人々はビルマという風に、全世界の世論を二分し、呼称自体が政治的なものになってしまったのである。

 日本では、在日ビルマ人による民主化団体と、日本人の支援団体がこの国の民意抜きの呼称変更を認めずに、ビルマと呼んでいる。テレビや新聞などのマスコミは別段ビルマ軍事政権を支持しているわけでもないのに、一律にミャンマーと呼んでいることから、大部分の日本人がマスコミの報道を受け売りしてミャンマーと呼ぶようになった珍しい国が日本だ。

 私は、選挙結果を無視し、国会の機能を17年間も停止し続けたまま権力にしがみついているこの軍事政権を許容するわけにはいかないので、ビルマと書き続けている。ジャーナリズムには、表現の自由を守る使命がある。表現の自由を完全に否定している政権が勝手な国名変更をしたことを許すのはジャーナリストの職業倫理と矛盾しているからだ。さらに国際ジャーナリスト連盟(IFJ、会員数1億5千万人)を始めとするジャーナリスト団体のほとんどが、言論の自由を否定するこの政権に抗議する立場でBurmaの表記を採用しており、国際的なジャーナリズムの連携をはかるうえでも、Myanmarという「踏絵的」な表記は不適切であるからだ。

 こうした説明をすると、多くのジャーナリストが賛意を示してくれる。しかし、いったん呼称を切り替えてしまった日本のマスコミにも面子がある。ビルマ学者の投稿などにビルマ(ミャンマー)と記載してお茶を濁している程度が精一杯のようだ。ここで各メディアの記者は勇気を持ってビルマ表記を社内に通用させるようにして欲しい。 

 長井さんの死を無駄にしないためにも、せめての抵抗の意味で堂々とビルマと書き直していただきたいのである。言論を弾圧した軍事政権が民意に基づいた手続きをおこなわずに変更した国名を垂れ流すのは、言論の自由を守るジャーナリストという立場に相反するのだということを熟慮していただきたい。

さて89年の流血の弾圧の直後に国家承認をして、ビルマ軍事政権を甘やかし続けてきた日本だが、その後現地に派遣された歴代の大使たちも、民主化勢力に対する弾圧に対して毅然とした態度を採っていないのが目立つのが日本の外交だ。
特に93年から大使を務めた田島高志氏と、95年から大使を務めた山口洋一氏は、一貫して軍事政権の側を支持し、軍事政権と外務省の蜜月時代を築いてきた。その悪影響は今でも続いている。


◆ビルマとの蜜月時代を演出した大使たち

山口氏が大使になった頃、私はオスロに本部のあるNGOワールドビュー・ライツの職員としてビルマ民主化支援活動を開始した。
さっそくビルマを担当する外務省南東アジア1課を訪問し、今後の活動への協力を要請した。そのとき応対したM課長は、私に対して次のように語った。

「日本ではミャンマー国民の大多数がスーチーのNLDを支持していると報道されていますが、それは90年の選挙のときだけの一時的な現象です。今では彼女を支持する人はビルマ全体で500人程度しかいません。軍事政権がまじめに国を運営しているのにもかかわらず、NLDは欧米から資金を得て、嘘の情報を流し続けています。決してNLDや亡命政権であるNCGUB(ビルマ連邦国民連合政府)などの情報に振り回されないようにお願いします」

 私は開いた口がふさがらなかった。
500人という不思議な数字にまず驚いた。当時日本に在留していたビルマ人の数だけでも一万人がいた。大部分はノンポリであるものの、大使館の職員やその家族を除いては、軍事政権の支持を表明する者はいなかった。つまり日本にいるビルマ人の少なくても9割以上はNLDを支持していたのである。90年選挙のときのパーセンテージは日本に来ても同じだった。M課長は、日本だけでもNLDを支持する9千人以上のビルマ人がいるのに、ビルマ本国に500人しか支持者がいないと言ったのだ。

 しかし、それが山口洋一氏の受け売りであることがあとからわかった。山口氏があちこちで「スーチーは欧米から資金を得て政府を苦しめる策略をしているが、彼女の支持者は全体で500人程度しかいない」と話しているのを知ったからだ。

 田島氏と山口氏は、ビルマへの最大の援助国として常に国賓待遇で扱われており、彼らの著書の中で軍事政権から数々の便宜供与を受けていたことを自慢している。

 ゴルフ接待から始まり、地方視察の際の特別機や特別列車の提供など、自分たちの家族も含めて王侯貴族のような扱いを受けていた。国際公務員がこうした便宜供与を受けることには倫理上おかしいと思うので、国際法の専門家が私宛にご意見を寄せていただければありがたい。

 さて山口大使の時代に、ある出来事が持ち上がった。自衛隊や外務省などの日本政府職員7人が、ビルマとタイの国境の難民キャンプを視察し、食糧事情や水道事情を調査したのである。難民キャンプの住民を支援しているビルマ国境コンソーシアム(BBC)という国際NGOからの要請による草の根無償支援の実態調査のためだった。調査団はその結果を本庁に報告し、700万円の食糧支援を行なうことが決定された。

 しかしその決定は実行されず宙に浮いたままだった。情報をキャッチしたフォトジャーナリストの山本宗補氏が外務省に問い合わせたところ、「ビルマ軍事政権からカレン民族同盟(KNU)の武器に流用される恐れがあるので、支援しないようにと言われ棚上げになっている」という話だった。

 真相はこうだった。バンコクの日本大使館の職員がこの草の根支援の計画を聞きつけて、日頃親しく付き合っているバンコクのビルマ大使館の職員に電話をした結果、ビルマ側が支援をしないように強く要請したのである。

 大量の難民を生み出した抑圧側政権に電話をすれば、こうした答えが来るのは当然であり、外交官の責任を大幅に逸脱した背信行為である。この対応に対して市民団体が強い抗議をした結果、宙に浮いていた支援はBBCに届けられた。

 そのBBCの本部を訪ねた私は、翌年も草の根資金援助の申請をするのかと尋ねた。責任者はこう答えた。

「もうこりごりです。突然日本大使館に呼び出され、授与式で日本の大使とタイ外務大臣に対する感謝の言葉を述べよと言われたのです。私たちはさまざまな国からの支援を受けていますが、官僚に対するお礼を強要されたのは初めてです。私たちの活動が外交上の取引に利用されていることを知って、正直がっかりです」

 さて山口元ビルマ大使は、長井さんが殺害された事件の直後から不思議な行動を開始している。雑誌、テレビ、あげくの果てには外国人記者クラブにも登場して、ビルマ軍事政権擁護の発言をし続けているのである。

 その論理があまりにも変わっているのでマスコミは飛びついた。「軍事政権が一般市民、ましてや外国人ジャーナリストに発砲することはありえない」「スーチーは市民に金を渡してデモに参加させた」「スーチーは96年に自動車での移動中市民から、外国人女は出て行けと言われた。こわくなったので警察に泣きついてその後、軟禁という形で保護してもらっている」「スーチーは英国に操られ、ビルマを混乱に陥れようと策動している」などの独特の論理をまくし立てたのだ。


続く                 (c)菅原 秀 2008
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