2012年01月21日

アフリカに出現した「チーター世代」

国連のミレニアム開発目標では、2015年までに一日1ドル以下で暮らす人を半減させることになっているが、そのゴールまでわずかに3年。多くの識者がその達成を危ぶんでいるが、ここにいたってBOPビジネスが世界の貧困問題を解決するのではないかという希望が芽生え始めた。とくにアフリカ諸国では、自分たちの手で地元にビジネスを起業する「怒れる若者たち」が次々に出現している。BOPビジネスと「チーター世代」が私たちに突きつける課題について考えてみよう。


■ 希望を運ぶ「チーター世代」

「チーター世代」と呼ばれる若者が出現し、貧困にあえぐアフリカ各地にさわやかな風を吹き込んでいるのをご存知だろうか。

「チーター世代」という言葉が始めてマスコミに登場したのは、2010年9月、米国のCNNがアフリカに関するシリーズを報道したときだった。

このシリーズは、アフリカ17カ国が独立50周年を迎えたことをきっかけとしたものだが、「チーター世代」という言葉によって番組全体に、今までのアフリカ番組になかった新しいいろどりが加えられることになったようだ。

この言葉を作ったのはガーナ出身の経済学者で、現在はワシントンDCのアメリカン大学で教鞭をとっているジョージ・アイッティ教授だ。

番組の中でアイッティ教授は、次のように語った。

「現在のアフリカは、広大な鉱物資源に恵まれていながら、未だに貧困の泥沼にはまり込んでいる大陸である。アフリカ大陸は、リーダーシップの圧倒的な不在、あるいはリーダーたちの破局的な失敗とも言える状態によって生み出された苦しみにあえいでいる。1960年以来アフリカ諸国には210人の首長が生まれたが、その中で、これぞと思う人を10人上げることが出来るだろうか」

「マンデラ、エンクルマ、ニエレレなどの名前を思い浮かべることができても、すぐに続かなくなる。しかし私が『チーター世代』と呼んでいる新しいグループには希望が持てるのだ。チーター世代というのは、アフリカに関する問題を、まったく異なって視点で捉える、怒れる若い世代の新しいアフリカの大卒者と専門家グループのことである」

 
■ 援助づけを当然としてきた「ヒッポ世代」

チーター世代に対して、アフリカを援助漬けにしたまま、未だに「アフリカの貧困は先進国による植民地政策に責任がある」と言い続け、自らが行っている汚職だらけの政治のあり方を改革しようとしないリーダーたちを、アイッティ氏は「ヒッポ世代」(カバの世代)とこき下ろす。

この対比の仕方が愉快だったことと、「チーター世代」というスピード感のある言葉を産み出すことによって、視聴者には「今、アフリカに必要なのは、同情による援助ではなく、自らの力で産業を産み出す能力だ」ということが強く印象付けられた。

さらに「ヒッポ世代」という言葉は、アフリカがあらゆる分野で遅れを取ってきたその原因を端的に物語っている。

「ヒッポ世代」が培ってきた知性は、植民地時代を引きずるつぎはぎだらけの教育によって、ゆがんだままに凝り因まっている。彼らは白人が黒人に対して犯した不正に関しては、鋭い観察眼を持っている。しかし、自分たち自身が黒人の仲間に対して行った不正については、絶望的なほど盲目である。

さらに、ヒッポ世代は60年代のメンタリティーを持っており、使い古された「植民地主義と帝国主義によるアフリカ支配」というずんぐりと重苦しい考え方を持つだけでなく、あいかわらず国家の有効性という幻想に固執し続けている。そして、物事を近視眼的にとらえている。

事実を直視することをせず、空調の利いた政府のオフィスにしっかりと座り、国がアフリカの問題のすべてを解決してくれることを信じて安堵している。国にとって必要なものは、さらなる権力と外国からの援助であると思い込んでいる。彼らは自分たちに富をもたらす領域を擦猛になって守ろうとする。

「ヒッポ世代」は国全体が崩壊してもあまり気に留めない。自分のいる池が安全ならそれで満足なのである。そして、カバは他のどの動物よりも、多くの人間を殺すのである。

■ NHKを通じて日本にも伝わった「チーター世代」の存在

CNNの番組に刺激されたわがNHKも、2011年5月のクローズアップ現代で「アフリカを変えるチーター世代」という番組を放映した。

NHKの番組では、欧米に留学して自国に戻ったアフリカの若者が、伝統的な産業を再生させようとする努力や、小額の資金でも起業ができるさまざまなチャンスにチャレンジしているエピソードがいくつか紹介されていた。

その中でもっとも印象的だったのは、モザンビークでメディア事業を展開しているエリック・チャラスさん(35)だった。モザンビークはポルトガル語の国だが、彼は流暢な英語で自分の仕事について熱心に語っていた。

番組でのチャラスさんの熱のこもった話に興味を持った私は、その後、この人物について調べてみた。チャラスさんは南アフリカに留学し、ケープタウン大学工学部で学んだ。卒業の後は南アフリカの企業および公共機関でエンジニアの仕事をしていたが、モザンビークに戻って自分の力でビジネスを起こすことにした。留学先の南アフリカは英語圈なので、チャラスさんの英語が流暢なのも当然だった。

最初はテレビ事業を開始しようと思ったそうだが、あまりにも許認可の規制が厳しすぎるので、活字メディアの可能性について検討をした。モザンビークの国民の多くは、新聞や本とは無縁の生活をしている。図書館は皆無で、首都マプトでいくつか発行されている新聞の部数も千部から五千部程度しか印刷されておらず、ごく一部の富裕層が講読しているに過ぎない。

モザンビークの人々は、外界で何が起きているかを知ることなく、貧困にあえいでいる。「人々に外部の情報をもたらすためにはどうしたらよいか」。チーター世代のチャラスさんが出した結論は、テレビと同じようなお金を取らないシステムが必要だというものだった。つまり「無料の新聞の発行」にチャレンジしようと考えたのである。

「どうすれば無料の新聞を発行できるのだろうか?」

■ 無意識に作り出されたBOPビジネス

すでに先進諸国には、無料新聞のモデルがたくさん生まれている。チャラスさんは広告によって無料化を図るという方法でなく、最初から無料の新聞を出し、無料による広がりの中から、参加者がビジネスチャンスを見つけ出せるようにしょうと考えたのである。

先進国を席巻している「フリー媒体」の考えは、モザンピークのような途上国でも通用することがわかった。紙媒体を欲しがっていた携帯電話会社が、資金を出してくれた。さらに郵便や雑貨を扱うモザンビーク特有の地域ビジネスネットワークが、自分たちのビジネス拡大に役立つことに気づき、協力してくれることになった。これはキオスクの一種のようなものらしい。

こうして無料の新聞「ヴェルダーダ」(真実)を週に一回発行する体制が整った。無料なので、紙資源を欲しがっている人々が、どんどん持ち去っていってしまうのではないかと心配したが杞憂だった。「他の人も読みたいだろうから」といって、一部か二部しか持っていかないのだ。

新聞を配送するための黄色い三輪車を「ヴェルダーダ」のシンボルとして調進した。新聞配送をしない日は、タクシーとして活用することにして、配進員たちの生活を支える工夫をした。

発行部数は40万部。あっという間にモザンビーク唯一の活字メディアの地位を確保することになり、創業3年日で経営は安定した。

テレビにも新聞にも触れることがなかった人々の生活は、首都マプトを中心に変化していることをチャラスさんは実感している。

今までの選挙では、古くからの政治家に自動的に投票するだけだったが、「ヴェルダーダ」の読者たちは、自分の意見をはっきりと述べて立候補した人々を支持するという形で、政治的に成熟していった。

海外に対するものの見方も変化していることがわかった。ある日、チャラスさんの家に通っている家政婦が、途中で入手した「ヴェルダーダ」を手に持ったまま、興奮した面持ちで出勤してきた。政治的なことや国際情勢には一切の興味を示さない彼女だったが、チャラスさんの顔を見るなり、泣きそうな顔になりながら彼女は語った。

「日本の人たちが可愛そうで、いても立ってもいられません」

そこに出ていたのは東日本大震災の記事と写真だった。

エリック・チャラスさんが立ち上げた無料新聞は、今まで情報から遮断されていたモザンビークの国民も、世界を知ることによって、自分たちが何をすべきかを知る力を発揮できることを明確に示している。

アイッティ教授が語る「チーター世代」は、こうしてアフリカ各地で、今までの企業が思いもつかなかった形でのビジネスを立ち上げている。

広大な自然と資源に恵まれたアフリカ諸国に「チーター世代」が生み出すビジネスは、政府や国際機関の思惑とは無関係に、発展からのドロップアウトを強いられてきた人々のネットワークを作り出している。

アフリカ諸国に貧困を産み出してきたのは、アフリカの多様性に気づかずに、先進国の制度を移入すれば人々が幸せになるという固定観念であったことが、誰の目にも明らかになる日は、思いのほかすぐにやってきそうだ。

初出 ウィナーズ・アンド・カンパニー(梶j「まめ情報」2012.1.3


posted by 菅原 秀 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会起業とBOP | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月28日

空気で走る自動車は可能か(中)

前回「空気圧で走る自動車」の紹介をしたところ、「空気圧で自動車が走るというのは理論的におかしい。理論的に説明せよ」という批判があいついだ。残念ながら私は物理についてはまったくわからないので、疑問を感じる人はMDI社に問い合わせていただくしかない。フランスのニース郊外に工場と社屋があるので、直接訪ねてゆくのが一番効率的だと思う。

また「空気圧自動車」が実際に動いている動画が同社のホームページに出ているので、ご覧いただきたい。http://www.mdi.lu/ もちろん前回の原稿を批判した皆さんにとっては、「この動画は理論的におかしいので信頼性はない」ということなのだろうが、私は理論的な説明はできないものの、空気圧自動車開発の努力を否定することこそが、古い常識にとらわれているのではないかと思う。

さて2007年にタタ・モーターズがエアカー製造に乗り出すという発表をした頃から、MDI側は今まで明らかにしていなかった仕様や技術的な部分を積極的に発表するようになった。

■ エアカーの略称は”CAT”

タタ・モーターズが最初に想定しているエアカーは3人乗りの「ワン・キャット」と呼ばれるシリーズだ。「キャット」というのは「圧縮空気技術」(Compressed Air Technology)の略称で、今後、エアカーの総称となると思われる。

圧縮空気を装填するためにははエア・スタンドが必要だが、MDIのギー・ネグレ会長の解説では約2秒で満タンにでき、100キロ以上の走行が可能だという。また現在の試作車の最大時速は135キロとのことである。

圧縮空気の充填には電気が必要となるが、エア・スタンドでの充填の場合には満タンにするのに約2ユーロで済む。既存のガソリンスタンドにエア・スタンドを併設するのが極めて容易であると同時に、自宅での充填も可能であり、家庭電源を使った場合は4時間で満タンに出来るという。

圧縮空気は、あっというまに膨張してしまうので、ごく少ない量をピストンに送り込んで効率化をはかる必要がある。そのためにシリンダーは6気筒、あるいは少なくとも4気筒となっており、圧縮空気がピストンを動かしてエンジンを動かすと同時に、そのピストンが空気を圧縮してボンベに送り込むという作業が行われる。

したがって走行中に圧縮空気が補填されることとなるので、初回の空気圧縮の際に必要な電気を除けば、国連が規定しているゼロ・エミッションの理念を実現できることになる。オイル交換のほうも4万8千キロに一回で済むとのことで、極めて経済的だ。

またエンジンには発電機が併設されており、チャージされた電気によって発進、停車、駐車場入れなどに必要な動力源を得るしくみとなっている。ある意味ではハイブリッド車であるとも言えよう。

ボディーのほうも炭素繊維でできており、ボンベやエンジンが比較的重い欠点を軽量さでカバーしている。

現在のMDIの試験車両は、エンジンの特殊性とボディーの材質のせいで、走行時に「パタパタ」という騒音が発生する。愛嬌のある音なのだが、この音を軽減する工夫も必要であろう。


■ 低価格車路線への批判

タタ・モーターズではこの新しいエアカーを同社の軽乗用車「ナノ」シリーズのひとつに加え、2000ドル台という脅威の低価格での販売に踏み切るという攻勢を計画しているようだ。

そのために経費のかかるエアコン装置などを装填しないモデルの発売に踏み切る計画で、愛嬌のある騒音もそのままにする可能性が高い。「燃料はタダの上に価格はモーターバイク並」という路線を貫こうという考えのようだ。

しかしタタ・モーターズがスポンサーともなっているTERI財団のパチャウリ博士(2007年ノーベル平和賞受賞機関IPCC議長)は、同社の低価格車販売作戦を以前から強く批判し、「国民の誰もが車を購入できるようになれば、インド国内の空気汚染は深刻化し、都市機能が完全に麻痺する」という強い警告を出しており、その批判を受けてインド当局や各シンクタンクが交通政策全体を見直す動きを見せている。

エアカー自体のアイデアはパチャウリ博士を納得させるものとなったとしても、低価格競争によってガソリン車の台数が増えたのでは元も子もない。タタ・モーターズはそうした懸念をなくす形で、スムーズにエアカーを発表することができるのだろうか。

■本社と広報本部の分裂 

さて、前回述べたようにMDIはバルセロナを広報本部として、なかなか具体的なことを伝えないできた。しかしタタ・モーターズとの契約をきっかけにMDIのニースの工場から直接、息子のチェリル氏が中心になって英語での発信をするようになった。設立当時にはほとんど英語ができなかったチェリル氏だが、今ではテレビの前で技術的なことを英語で説明できるほどに上達した。

バルセロナの国際広報がなかなか進展しないうちに、チェリル氏はタタ・モーターズと話を進め、提携にこぎつけたようだ。その結果、MDI本社とバルセロナとの関係が冷えることになり、08年2月に両者は袂をわかっている。

しかしバロセロナのセラデス氏側も、スウェーデンとスペインの自動車メーカーとのライセンス合意を取り付けており、今後MDIを中心とした開発と、セラデス氏側の「エアカー・ファクトリー」を中心とした開発の二本立ての競争が始まることになりそうだ。

MDIの側では、タタ・モーターズのほかにアメリカのニューヨーク州に本拠のある小さなベンチャー企業「ゼロ・ポルーション・モーターズ」と提携し、アメリカでの事業展開を計画している。またパリ市で導入するシティーカー制度(市内に入る車はすべてレンタカーにする)の入札に向けて新しい「シティー・キャット」の試作に取り掛かっている。


(続く) 
posted by 菅原 秀 at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 無限の代替エネルギー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月30日

空気で走る自動車は可能か(上)


石油の埋蔵量がどの程度残っているのかは、はっきりしないものの、20世紀になって人類が石油を動力として使うようになって以来、この新しい動力源は、発電、工業、モータリゼーションの分野で目一杯使われ、世界のGDPを押し上げて続けてきた。

それに加えて、石油をあっというまに消費する最大の分野は戦争である。大量の火器と人員を投入する石油消費型の戦争が、あいかわらず世界各地で続いている。

イラクとアフガニスタンでの対テロ戦争で、こうした石油消費型戦争は終結するのかと思ったが、そうは問屋が卸さないようだ。同規模の戦争がいくつか起きれば、石油資源はあっという間に枯渇するかも知れないという危機に瀕しているのだ。

今の形の産業構造と、軍事力に頼る紛争解決法を続けている限り、この有限な動力源である石油が突然枯渇しかねない。われわれはそうした危ない文明の橋を渡っているのだ。
 
地球温暖化の危機が訴えられているが、地球温暖化という時間軸の長い危機であるのに対して、石油の枯渇問題は、それこそ待ったなしの危機なのである。まごまごしていた私たちはいつの間にか、この危機を回避するという理由で原子力発電を作ることを許してしまった。廃炉のコストと事故が起きたときのリスクを隠したままに「最も安価なエネルギーだ」と主張する彼らの口車に乗せられてしまったのである。

燦々と降りそそぐ太陽と、水と緑にあふれたこの地球には、すでに十分なだけの代替エネルギーの可能性が与えられていた。しかしわれわれは、広大な自然エネルギーに眼をそむけて、危険極まりない原子力発電を受け入れてしまい、挙句の果てにはチェルノブイリに次いで、全世界に放射能を撒き散らす加害国家になってしまったのだ。

ただちに原子力発電に代わる代替エネルギーを開発し、世界に先駆けて国内の原子炉すべてを廃炉にするのが、私たちの日本人の義務であると心しなければならない。

代替エネルギーとしては、太陽光、バイオマス、風力などが注目されているものの、今までのやり方では石油にとって代わるだけの量に達するのはまだまだ先の話になってしまう。

特にランニングコストがあまり良くない太陽光発電だけが脚光を浴び、すぐにでも可能な小水力発電、振動発電、天然ガス、地熱、あるいは忘れ去られた太陽光湯沸し器などが無視されているのも気になるところだ。日本には実に多様な代替エネルギーが存在しているのにもかかわらずだ。

本来なら1974年の第一次石油ショックの時に、省エネのキャンペーンに加えて代替エネルギーの開発に着手しなければならなかったのだ。
 それでは、ここまで切羽詰まった今、抜本的な手立てとして何が考えられるのだろうか。

●ゼロ・エミッション車の可能性

トヨタの「プリウス」、ホンダの「インサイト」をはじめ、燃費を飛躍的に伸ばしたハイブリッド車が注目を集めている。

ヨーロッパでは燃費の良いディーゼル車の開発が進んでおり、厳しい排ガス規制をクリアできる性能を持ち、かつ低燃費の車が全車両の50パーセントにせまる勢いで売れている。

ハイブリッド車の場合は、車の発進や操作性向上を目的とした発電機や電池を搭載しており、EV車(電気自動車)の特性も兼ね備えている。ハイブリッドを開発している乗用車メーカーは、ガソリンが枯渇した場合にそなえてEV車にシフトしやすい状態を想定しているに違いない。

もちろんEV車は、まだ一般人が購入できるような価格にはなっていない。しかし石油が枯渇したあとの動力としての電気は極めて有効である。現在製造されているEV車の場合、燃料費もCO2排出量も、ともにガソリン車の20%程度で済むと試算されており、CO2排出量削減のためにきわめて有効である。

しかしEV車の動力源である電力を生み出す時点ですでにCO2が排出されているという矛盾も考える必要がある。石油の枯渇の可能性や、電力確保の難しさは、常についてまわる問題だ。ではそうした心配のいらないゼロ・エミッション・カーの可能性はあるのだろうか。

そう思っていた矢先2007年5月に、ゼロ・エミッション・カーに関する大きなニュースが世界中のメディアをにぎわせた。残念なことに日経テレコンやヨミダスを調べてみたが、日本の新聞には報道されなかったようだ。  

インドのタタ・モーターズが圧縮空気を動力としたエアカーの開発者との間でライセンス契約を行ったと発表したのである。

タタ・モーターズが契約した相手先は、フランスのニース郊外のモーターズ・ディベロプメント・インターナショナル(MDI)という小さな自動車開発会社である。

タタ・モーターズが発表したプレスリリースは、MDIについて次のように紹介している。

「MDIグループは、ギー・ネグレ氏が率いる会社であり、圧縮空気のみを燃料とするエンジンのパイオニアとしての夢を追求するために1990年代に設立された。圧縮空気エンジンは、おそらく今まで作られたエンジンの中では最も環境に優しい究極的なものと思われる。同社が開発したエンジンは効率が良く、燃費に優れ、小型であり、さらに発電機などの他の分野にも応用できるものである。(中略)MDIは南フランスに位置するニース近郊のカロスを本拠とする家族経営の会社である。ギー・ネグレ氏とチェリル・ネグレ氏が、技術者のチームと共に、経済的なエネルギーと、環境保護の厳しい要請を満たし、かつ市場で勝てる価格の新しいエンジンを開発し続けてきた」
(タタ・モーターズ・プレスリリースより 2007年2月5日)

● 町工場の海外広報戦略

ギー・ネグレ氏は元航空機製造技術者であり、のちに自動車エンジンの開発を手がけるようになった。一時はF1のエンジンの設計に携わったこともあるらしい。ニューヨーク・タイムズのリチャード・チャン記者が調べたところでは、ネグレ氏はAGSのF1に自分自身の12気筒エンジンを持ち込んでいるとのことである。F1のグランプリには採用されなかったものの、1990年のルマンでのレースのノルマM6に採用されているとのことである。(ニューヨーク・タイムズ08年2月27日)

 
F1レースのマシンに搭載するエンジンを自力で作るほどの技術者であるネグレ氏は、1993年に息子のチェリル氏と共にニース郊外に小さな工場を作り、空気だけを動力とする自動車の開発を開始した。

圧縮空気だけで動くエンジンが完成したのは2001年。さらに翌年にはエアカーの原型を完成させている。同時にネグレ氏は、実用化を目指すための投資戦略を行う代理人として、スペインのミゲル・セラデス氏と契約をし、国際広報を彼に任せて、自分たちは開発に専念することにした。ネグレ氏はフランス語しか出来ないので、貿易に詳しくフランス語とスペイン語が堪能なセラデス氏に国際広報とマーケティングを任せたのである。

MDIはスペイン語圏の国際貿易に詳しいセラデス氏を代理人にすることで、先行投資をつのり実用化を早めようとしたのだろうが、この作戦は結果的には遠回りになってしまったようだ。

海外からの問い合わせをすべてバルセロナにあるセラデス氏の事務所で扱うことにしたのだが、当然、エアカーの技術的な側面についての問い合わせが圧倒的に多い。セラデス氏側の対応は「技術的に完全であるが、その仕組みについては投資家にしかご説明できない」といったものが多く、エアカーに興味を示す人々からは逆に「ガセネタではないのか」という不信感を招くようになった。

私も何度かセラデス氏に問い合わせのメールを送ったのだが、ほとんど返事がなく、電話をしてもスペイン語での応対しかしてくれないので、MDIのエアカーの実情をなかなか知ることが出来なかった。やっと英文での返事が来たかと思うと、MDIへの株の投資を促す文書だけで、エアカーがいつどういった形でデビューするのかについては触れられていなかった。

それでも断片的な情報から、このエアカーがどうも本物らしいことがわかってきた。

最初の頃のマスコミからの質問は、圧縮空気ボンベの耐用性に関するものが多かった。エアカーには300気圧ほどの圧縮空気を詰め込んだボンベを搭載するというので「ボンベが走行中に爆発することはないのか」といった疑問が生じるのは当然であろう。

MDIでは最初の試作時点では、特殊な合金を使ったボンベを採用していたようである。空気を充填したボンベに至近距離からピストルの弾丸を撃ち込むという実験を何度も繰り返し、頑丈であることを証明する努力をしていた。

それを知った私は「事故時の衝撃はかなり大きいものと予想されるので、ピストルの弾丸の照射実験では信頼性が低いのではないか」という質問をしている。それに対して「ご指摘ごもっともなので、将来は大砲の試射によるテストなども考慮したい」という返事が届いている。

しかしその心配はすぐになくなった。合金が爆破した場合、断片が弾丸のように飛散することがわかり、炭素繊維で作ったエアバス社製のボンベを採用することになったからである。

(続く) 
posted by 菅原 秀 at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 無限の代替エネルギー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月20日

エーミールの涙(5)ナチズムを「犯罪」とするドイツ基本法

-------------------------------------------------------------------
私たちは、多数決や選挙が民主主義の有効な手段だと習ってきている。しかしこの多数決や選挙には大きな落とし穴がある。ヒトラーは多数決によってナチズムの政策を作り上げ、多数決によってナチスの総裁に選ばれ、選挙の力によってドイツの総統に就任したのである。

戦後、西ドイツ政府は自分たちが作った暫定憲法(ドイツ連邦共和国基本法)の中にナチズムを標榜する自由を制限する条項を盛り込んだのである。この概念は「戦う民主主義」と呼ばれている。

もちろん日本国憲法には「戦う民主主義」のような表現の自由を制約する条項は盛り込まれていない。しかし多数決が正しいとされ、少数派を抑圧する口実として利用される風潮が多いのは事実だ。定型的な例が学校や職場で多発しているいじめだ。いじめる側が多数派だと、いじめられる側には生きてゆく場所がなくなってしまう。

国会もそうである。民主的な熟議を保障するために、調査会や委員会などさまざまな仕組みが整備されているのにもかかわらず、数多い法案の成立をあせる議員と職員は、熟議による問題点の検討よりも国会のスケジュールを優先し、多数決によって一気に法案を通そうとする。

民主主義システムには少数派の声も受け入れる力がある。「12人の怒れる男」がそのひとつのモデルである。少数意見を熟議しない限り、民主主義はナチスレベルにとどまらざるを得ないのである。

なぜドイツに「戦う民主主義」という概念が生まれたのか。考えてみよう

--------------------------------------------------------------------
▼ アデナウアーとドイツ連邦基本法

1949年、西ドイツでの初めてのドイツ連邦議会選挙が行われた結果、コンラート・アデナウアーは連邦議員に当選し、キリスト教民主党(CDU)の幹事長に就任する。選挙後初の議会で行われた首班指名の投票で、アデナウアーは社会民主党(SDP)のクルト・シューマッハーを抑えて、首相となった。以後、老齢に関わらず、アデナウアーは14年間にわたって西ドイツ首相として、経済復興と外交の復活の舵取り役を行なう立場になった。

さて、アデナウアーが首相になる直前のことだが、連合国の管理化で、将来のドイツに重大な決定を及ぼす作業が行われていた。ドイツ連邦共和国基本法の成立である。

戦後のドイツは英米仏ソの4カ国によって分割統治されていた。しかしドイツ全体の国家体制を規定する憲法が、ヒットラーの第三帝国の崩壊とともに消滅していたことから、お互いの意見が一致せず、混乱が続いていた。 

そこで1948年、英米仏、それにベネルクス3国が加わり、ソ連占領地区を除いた地域に適用するための憲法を作ることが同意された。専門委員会が草案を作り、ドイツの各共和国議会で承認された結果、49年5月に公布されることとなった。実質的には西ドイツ憲法であるが、ドイツが統一されるまでの暫定的な憲法にしようという申し合わせのもと、ドイツ連邦共和国基本法という名称で呼ばれることになった。東西ドイツが統一したのちも、基本法の名称を憲法と変更する手続きは行われておらず、現在でもドイツ連邦共和国基本法と呼ばれ続けている。

かつてナチスの台頭を許したことへの反省から、このドイツ連邦共和国基本法には、ドイツに再び独裁政権が生まれないように、いくつかの工夫がなされている。

その代表的なものが「戦う民主主義」という考え方の導入である。つまり言論や結社の自由があるのを利用して、民主主義そのものを否定する言論を流布させて新しい独裁国家を作る者が現れることを予防するために、民主主義体制をくつがえす自由に対しては制限を加えることとしたのである。

そのために、国民に対して憲法(基本法)を擁護することを義務付け、民主主義をくつがえす可能性のある言論や結社に関連した行動を制限することにしたのである。 

具体的には連邦裁判所によって裁定されるのであるが、この基本法のもとでは、ヒトラーをたたえるときに片手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と叫ぶ敬礼をすることや、ヒトラーの著書である『我が闘争』を始めとするナチス礼賛の印刷物の発行は一切禁止されている。もちろんネオ・ナチなどの政治結社を作ることも禁止されている。 

アデナウアーを首班とする戦後初の議会政治は、こうしてナチスの遺産を否定するというドイツ連邦共和国基本法による露払いが行われた後に出発しているのである。

▼過激な戦後処理を回避したアデナウアー保守政治

フランスとの和解を求めたことでも理解できる通り、(「はじめてドイツ人をゆるしたフランス人女性」参照http://p.tl/OIcA)アデナウアーはキリスト教の理念に基づいた平和を求める人物であったものの、左翼的な考え方はなかった。あくまでも中道路線を採る調整型の政治家であり、比較的保守的な政治姿勢を貫いている。戦後のドイツにおいて、この保守的な政治家が最初の舵取りをしたということはドイツにとっても幸いなことだった。 

アデナウアー時代の内閣は、キリスト教民主同盟(CDU)、自由民主党(FDP)それにキリスト教社会同盟(CSU)による連立内閣だった。 

ドイツ基本法に基づいてナチスの考え方は否定されるようになったものの、「七月二十日事件」に対する評価は一様ではなかった。スイスのマウンテンハウスでイレーヌの心を開くきっかけをつくったのが、この「七月二十日事件」に加わって処刑されたアダム・フォン・トロットという外交官の夫人だったことを覚えておられるだろう。 

新生ドイツにとって難しかったのが、国防を担う軍隊をどう再建するかという問題であった。全世界を戦火に引きずり込んだ旧ドイツ軍のマイナスイメージを払拭するのは至難の業である。 

アデナウアーは「七月二十日事件」に関わった軍人たちを復権させることで、旧ドイツ軍の中にも立派な軍人がいたというプラスのイメージを作り出そうと考えた。

この事件に関しては、「ドイツ人の良心」として評価する声がある一方、上官の命令にそむいて外国と通じた売国奴による犯罪だという考えも根強かった。そこで、アデナウアーは政府主導による復権を行なうことで世論を押さえ、軍の中にも良心があったのだということを内外に示そうと考えたのである。 

アデナウアー政府は1951年に声明を発表し、「七月二十日事件」はドイツを危機から救おうとする愛国的軍人と外交官による最終手段としての戦いだったと認定し、処刑された200人に上る反逆者の名誉を回復すると宣言したのである。 

旧軍のエリートたちは、ヒトラーに協力したという過去を持つ弱みを持っていた。アデナウアーは「七月二十日事件」を踏み絵とすることで、シビリアンコントロールの効いた新しいドイツ軍を創設する作業に、旧軍関係者も協力させようと考えたのである。 

この思惑は成功し、1956年の新生ドイツ軍の創出にあたって、入念な思想検査が義務付けられ、面接では「七月二十日事件」をはじめとする反ナチス運動に対する考え方も問われるようになり、軍人になるためにはドイツの過去の犯罪を学習することが義務づけられた。それによって近隣諸国がドイツに抱いていた再軍備の恐れを軽減させることに成功したのである。 

▼アデナウアーの妥協とユダヤ人補償

次にアデナウアー政府が行なわなければならなかったのは、ユダヤ人団体との補償交渉である。 

アデナウアーの連立内閣内部では、600万人以上ともいわれるユダヤ人の抹殺に対する贖罪の意識は乏しかった。そのため、アデナウアーも演説の端々で「ナチス時代の忌まわしい犯罪」「過去のドイツによる遺憾な侵略行為」などの発言をしていたものの、ユダヤ人に対する具体的な補償の問題に取り組むことを先送りにしていた。 

これに対して、痛烈な非難を浴びせたのが野党の社会民主党(SPD)だった。首班指名でアデナウアーに負けたSPDのシューマッハー党首は、ユダヤ人に対する犯罪をきっちりと認識しなければならないとして、アデナウアーにイスラエルとの補償交渉を開始するように迫ったのである。 

閣僚たちは、財政不足とアラブ諸国や国内の右派の反発を理由に、シューマッハーの提言を拒否すべきであると考えた。しかしアデナウアーは、シューマッハーの意見を支持すると主張し、連立内閣の意見は二つに分かれた。 

議会での討議の結果、社会民主党がアデナウアー派を全面的に支持したことから、イスラエルおよび国外に住居を持つユダヤ人も含め、総額34億5千万マルクを賠償するルクセンブルク協定が1952年に成立することとなった。さらに1953年には連邦補償法が成立し、ナチスの被害を受けた内外の人々を対象とする補償が開始されることとなる。 

しかし、ナチスによって虐殺された人々は1万人を越え、ヨーロッパ全土に居住している。ルクセンブルク協定と連邦補償法を皮切りに、ドイツ政府は内外の被害者からのさまざまな形の保障要求に応じて、数多くの補償法を整備していくこととなる。ドイツは過去の罪を背負いながら、こうして巨額の補償金を支払う作業を開始したのである。 

一連の補償法に基づいた補償金総額は1千億マルクを超えているといわれているが、それでも次々に新しい被害事実が発見され続けるという現実が続いている。 

一方、アデナウアーは、ドイツ国内の戦死者、傷痍軍人、戦没者遺族、近隣諸国からの引揚者などに関する法律も整備し、総額7500億マルクあまりを補償している。国内の戦争被災者を手厚く保護することで、ドイツ国民もナチスの被害者だったという意識を定着させることに成功したのが、アデナウアー流の戦後補償政策だったといえよう。 

さて、そうした動きとともに、ドイツ政府は国民の再教育を重視する政策を採ることとなった。 

1953年には連邦政治教育センターが設立され、各共和国で青年たちを対象とした民主教育が開始されている。

続く

c菅原秀2010 (初出『ドイツはなぜ和解を求めるのか』(同友館)
posted by 菅原 秀 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | エーミールの涙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月28日

エーミールの涙(4)ユダヤ人をかくまったドイツ人裁判官

多忙のため、間をあけてしまったが、前回の「エーミールの涙(3)」は、元東ベルリンにあたるミッテ区北部の閑静な住宅街にあるプロテスタント教会にあるASF(償の証:Action Suhnezeichen Friedensdienste)の事務所を訪問した話だが、その続きをお送りする。ドイツが抱える負の遺産であるナチス時代の傷跡は、今でも近隣諸国の人々の心をさいなんでいる。何せ第二次世界大戦のドイツとの対戦国は80カ国を超える。人命や土地や財産だけでなくさまざまな精神的なトラウマが、今でも被害者やその家族の心にのしかかっている。それらのトラウマを解消する民間団体による努力は並大抵のものではない。ASFのヨハネス・ゼルガー広報部長は、この団体がどんな活動をしているのか、静かに語り続けた。
------------------------------------------------------------------
▼被害を受けた村を立て直そう

ゼルガー広報部長の話は続く。「クライズィヒは、アウシュビッツの生存者を探し出して、償いのために何ができるかを聞こうと考えたのです。しかし当時、ドイツ人がポーランドで活動するのは無理な話でした。ポーランド政府と東ドイツ政府の許可が必要だったからです」

クラウズッヒが仲間とともに自転車で初めてアウシュビッツを訪れたのは一九四七年前後と思われる。 

クライズィヒは東ドイツ生まれだったので、戦後は東ドイツに所属することになった。東ドイツの人々はクライズィヒの考え方を支持しなかった。つまり自分たちこそナチスから祖国を解放した側に立っているという驕おごりの心に支配され、ナチスに対して十分に反抗しなかった自分たちの過去を顧みることはなかったのである。 

クライズィヒは西ドイツの教会でも、自身の考えを訴え続けた。ベルリンの壁ができる前には、東西の教会の交流が可能だったのである。その結果、西側の聖職者や政治家に少しずつ支被害国で黙々と奉仕活動をするドイツの若者たちの支持者が増えていき、最終的には東西プロテスタント教会全体でクライズィヒの考えを承認しようという風潮が芽生えることとなった。 

一九五八年、クライズィヒは東西の福音派の代表が集まった会議で重要な演説を行なった。

「私たちドイツ人は第二次世界大戦を開始しただけでなく、人類に対し計り知れない損害を与えました。ドイツ人がその手で数百万人のユダヤ人を殺害しましたが、これは神に対する極悪非道な反逆です。生き残った私たちは、好むと好まざるに関わらず、それを阻止できなかったのです。私たちドイツ人の手による暴力の犠牲になった人々が住む国々に出向き、私たちの手によってその犠牲の償いをすることを許してもらわなければなりません。村を建て直し、集会所を作り、病院、さらには被害者の要請に基づいて、償いの印を示さなければなりません。最初にポーランドで開始しましょう。次にソ連、そしてイスラエル。この奉仕の仕事をさせてもらう私たちを助けてくれるように、彼らに請いましょう。これは、彼らに対する支援といったようなものではなく、平和のための許しを請う小さな労働に過ぎません」

この演説によって、クライズィヒの考えは明瞭な形として人々に伝わった。つまり、被害を与えた側を助けるのではなく、許してもらうために被害者側からの助けを求めるという、ひたむきな考えだったのである。

▼和解が生まれたきっかけ 

演説の三年後、ドイツの東西の交流は遮断されることになる。クライズィヒが属していた教会は東ドイツ側でしか活動できなくなり、東西の教会は個別に活動することを余儀なくされることとなる。そうした中でも、ASFの活動は少しずつ開始されていった。当初の活動は同じくナチスによる強制労働の被害を受けたオランダやノルウェーで開始された。 

クライズィヒは、ナチスによる犠牲者が多かったポーランドとソ連での奉仕活動を強く望んでいた。ナチスが引き起こした戦争による死者はヨーロッパ全体で六千二百万人と言われているが、そのうち、ポーランドでの死者は五百五十万人、ソ連での死者は二千七百万人と推定されている。その大部分が兵士ではなく、一般市民なのである。 

とはいっても、東西のイデオロギー対立で分断された結果、ポーランドとソ連での奉仕活動を行なうことは、将来の課題とするしかなかった。 

海外での奉仕活動に参加しようとする若者たちは年々増えていった。海外への旅費や滞在費は教会関係者の寄付でまかなう。ひとりの若者の奉仕期間は十八カ月とした。参加者する若者にも、青春の一時期を長期にわたって奉仕活動に捧げるという、それなりの覚悟が必要な期間である。 

そうした本格的な奉仕活動だったからこそ、相手国も好意的に受け入れてくれたのであろう。オランダで手がけたのは、働く人々のためのリクレーション・センターの建設だった。ノルウェーでは身体障害を持つ子供たちのための施設が建設された。さらに、フランスでは戦火で失われたシナゴーグ(ユダヤ教会)をユダヤ人のために再建した。ギリシャでは上水道敷設工事が行われた。英国ではカトリック修道院の集会場を建設した。そしてイスラエルでは盲学校が建設された。 

やっとポーランドでの活動が開始されたのは、一九六五年になってからだった。東ドイツのASFの若者たちが、アウシュビッツを巡礼の旅という形で訪れ、収容所の生存者を訪ねたり、ポーランドの若者と過去について語り会うなどの活動を開始した。同時に朽ち果てようとしていた収容所を記憶の場所として修復する活動も開始している。 

ポーランド政府はASFの動きに対して冷たかったようだが、それとはうらはらに地元の人々はドイツ人の若者たちを暖かく迎え、地元キリスト教新聞二紙が、ASFのポーランドでの活動を大きく報道した。 

しかし、東ドイツ、西ドイツのマスコミはASFの活動を無視し続けた。ドイツ人全体が、こうした活動の必要性を感じるようになるには、まだまだ時間が必要だったのである。「私たちの活動を知っていただくためには、ビデオが一番良いでしょう」

ゼルガー広報部長は、アメリカでのASFの活動を紹介した番組のビデオを見せてくれた。 
ニューヨークの音楽大学に留学したドイツの若者が、アウシュビッツの生き残りだったユダヤ人の老人を訪ねて行き、昔何が起きたのかを少しずつ理解していくという番組だった。 

マンハッタンのアパートでひっそりと生き続ける老人を訪問するたびに、若者は、過去のドイツで行われた犯罪と、その中でユダヤ人が保とうとした人間の尊厳を学んでいく番組だった。そして学ぶのは、ドイツ人の若者だけではなかった。ドイツの若者と対話をするユダヤ人の老人も、ドイツ人の心に輝き続けている良心の光を発見していくのだった。

続く

c 菅原秀2010 (初出『ドイツはなぜ和解を求めるのか』(同友館)
posted by 菅原 秀 at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | エーミールの涙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月04日

外務省の邦人保護能力への大きな疑問

■邦人保護のノウハウと外務省

アフガニスタンで日本人ジャーナリスト常岡浩介さんが何者かに誘拐されたらしいというニュースが届いた。日本の外務省は邦人救出のノウハウをほとんど持っていない上に、マスコミも無節操にどんどん取材合戦を繰り返して人命を危険にさらす傾向が強い。特に人質事件の場合には現地の事情に詳しい交渉人を、マスコミの動きを抑えながら、早急に送り込むというロー・プロファイルな技術の確立を急がなければならない。これが、日本にはまったくないので、今後が心配だ。

そうした中、先月27日にアフガニスタンから戻ってきた中田孝同志社大学教授が4月2日にtwitterを通じて次のように発言している。

常岡氏がタリバン支配地に入る前に、タリバン側から、「我々の方では貴兄が来ることに問題はないが、我々と接触したことが分ると、アメリカとアフガニスタン政府の諜報員にタリバンの犯行に見せかけて殺害されることが心配だ」との連絡があり、それでも敢えて行く、ということで彼は出発しました。

中田氏のTwitterによる発言によって、安直にタリバン犯行説に結び付けようとする世論をある程度抑制することに成功している。アフガニスタンにはタリバンだけでなく、アルカイダやアフガン政府関係者などを含むさまざまな武装グループが跋扈しており、身代金目的や、宿敵を陥れるための目的など、外国人を虎視眈々と狙っているのである。タリバン犯行説のようなものが一人歩きすれば、アフガニスタンの今後の和平にとってマイナスにしかならない。そうした複雑な事情を知らしめる上で、中田氏のtweetのタイミングは適切だった。

しかし、通信社からの情報がリレーされる間にタリバン犯行説が独り歩きする可能性はまだまだある。4月3日にはフランスのAFP通信の配信を受けたオーストラリア・メルボルンの有力紙「ジ・エイジ」が、「タリバン、日本人ジャーナリストを誘拐」という見出しをつけて発表している。AFPの配信記事にはタリバンが誘拐したとは一言も書かかれていないのだが、「ジ・エイジ」の編集部が勝手に先入観に基づく見出しをつけてしまったのだ。

従って私たちは、今回の件に関して、とにかくマスコミが先入観を持った報道をしないようにウォッチし続け、「ジ・エイジ」のような誤報が生まれれば、いち早くチェックして担当者にそれを訂正させるといった市民レベルの努力が必要である。

■イラク人質事件の教訓を思い出そう

その意味で、2004年のイラクでの人質事件のときの実情を振り返ることは重要なことである。あの時点では、実行犯を刺激するような事態が起きることを憂慮した市民団体のメンバーたちが、フランスにいたイラク人たちのネットワークとコンタクトして、いち早く犯人と接触し、3人がイラク人の敵ではないことを伝えると同時に、解放交渉を行った。

その一方で川口外務大臣(当時)は、事情を把握していないいもかかわらず、「自衛隊を撤退しない」という犯人側を刺激する発表をしてしまい、3人の命を危険にさらしている。今後の教訓として、当時、何があったのかを振り返って見ることにしたい。以下の文章は、当時私が翻訳仲間と一緒にイラク戦争のウォッチ作業をしていたときに作った本のあとがきとして書いた文章である。それに若干の加筆をしたものである。

2004年4月8日に人質事件のニュースが飛び込んできたとき私の頭に浮かんだのは.「このままでは3人は殺されてしまう。なんとかしなければ」という気持ちだった。というのは、外務省はこういうときは何もしないということをいやというほど知っていたからだ。外務省がらみのいくつかの事件が頭をよぎった。

ひとつは、1985年のボスニアに住んでいたリビチ郁子さんが、ジャーナリスト水口康成さんによって救出されたとき外務省がとった態度だった。当時の外務省は、なんの救出活動もしなかったどころか、リビチ郁子さんと水口さんの命を危険にさらし、さらに「感謝状を書け」という要請すらしていたのである。参照:『ボスニア戦記』水口康成著、三一書房。

もうひとつは、1998年にタジキスタンで秋野豊さんが殺害された事件だ。彼は、外務省から国連タジキスタン監視団(UNMOT)の仕事を引きうける人を探すように頼まれていた。電話をかけてきた秋野さんに私は答えた。

「死にたくないよ。そんなに必要なら外務省の職員に行くように突き返したら?」

しかし、外務省から行く人はいなかったので、秋野さんは悩んだ末、自分自身でこの仕事を引き受け、悲惨な結末を迎えることになってしまったのである。残された奥さんは記者団にこう語った。

「秋野の死を無駄にしないで下さい。たくさんの若者が後に続くように願っています」

これだけでなく外務省は昔から邦人保護をネグレクトしてきている。古くはカリブの棄民と呼ばれる移民政策の対応で数々の問題をひき起こしてきたことが明らかになっている。また2000年のアメリカでの9・11テロの邦人被害者24人の家族に対する外務省の対応も実にひどいものだった。この件についてはまだ詳しく報道されていないので、いずれ書かなければならないと思うが、外務省はアメリカ政府や救援機関からの支援についてきちんと遺族たちに説明をしておらず、亡くなった被害者が勤めていた会社が複雑な手続きの肩代わりや、翻訳、通訳作業を行って被害者家族を救済したのである。そうした会社に所属していなかった被害者家族に対して、外務省はアメリカ政府発行の分厚い書類を郵送しただけで、家族からの説明会を求める連絡に対しても、何の対応もしなかった。その結果、何人かの遺族はいまだ補償金を手にしていないと思われるのである。

また2007年にビルマでのデモの取材中に殺害された長井健司さんに対しても、外務省は遺族からの訴えに耳を貸していない。警察庁は犯人の特定に関してビルマ当局に問い合わせをし、遺留品の返還などを強く求めたものの、肝心の担当当局である外務省は、通り一遍の遺憾の表明をしただけで、真相解明のための実務的党問い合わせ作業や補償交渉などを一切ネグレクトし、長井氏の遺族と会社に対していまだにつらい思いをさせ続けているのである。

9・11の件や長井さんの件では、外務省内部からも、その対応のお粗末さを反省する声が聞こえているが、今後どうするかといった具体的な対応策や、危機管理教育プログラムなどはまだ生まれていない。おそらく省内部できちんとした対応策を提案する勇気を彼らは持ち合わせていないのであろう。従って邦人が誘拐されたり人質になったりした場合に対応するシステムは、今のところ外務省内部には作られていないのである。日本の警察はある程度頼りになるのであるが、海外での事件となれば頼れるのは在外大使館と領事館だけだ。あてにならない外交官たちを前に、私たちはどうすれば良いのだろうか。

■命を救ったのは市民による救援活動だった

さて、人質事件の翌日、私は永田町に出かけて片っ端から各党の議員の部屋を回って歩き、外務省とは別の救援グループを組織するよう頼みこんだ。すでに逢沢一郎氏(当時・外務副大臣)を代表とする政府派遣団がアンマン入りしていた。逢沢代議士は人権意識のしっかりした信頼できる人であるが、同行している外務省の職員たちの今までのことを良く知っていたので、彼らの不注意によって3人の命が危険にさらされることがとても心配だったからである。反応が思わしくなく、だめかと思っていたときに民主党の若手が「われわれは野党なのだから、自衛隊撤退と言ってもいいんじゃないか」と党幹部に造反し始めた。その空気に押されてか、急濾、民主党から藤田幸久国際局長がアンマンに飛ぶことになった。飛行機に乗る寸前に会った私に藤田氏は、
「イラクの連絡先がわかったら出来るだけ教えてください」と言い残したまま飛び立った。

私は電子メールでヨルダンやイラクのNGOと接触し、さらに、今だからこそ名前を出せるのだが、イラクとの中継作業に奔走していたフランスのコリン小林さんに電話をかけながら3人の無事を確認し、アンマンに到着した藤田氏に連絡した。3人を心配したイラク人のグループがすでに拉致グループと接触をしていたことは、拉致された翌日である9日のうちに小林さんのもとに届いていた。同時に日本のNGOのメンバーたちもアラビア語放送局に依頼して、3人がイラク人の敵ではないことを訴えたメッセージをたくさん流し、そのメッセージがどんどんイラクに届いてゆくのが報告されてきた。拉致グループが.3人を丁寧に扱っているという情報も届き、ほっとした。

しかし、イラクのNGOから「拉致グループは明日までに解放する準備をしている」という情報がマスコミに流れた直後、外務省は川口順子外務大臣による「私たちはお金をかけて自衛隊を派遣してイラクのために貢献しています」という放送を流し、イラク人の気持ちを逆なでしたのである。外務省はこの言葉が3人を危険にさらすということを一顧だにしなかったのである。日本政府がイラクの自衛隊を撤退しないのだという強い意思を持っていたとしても、あの時点で「撤退しない」と言う必要はまったくなかったにも関わらずである。

さらに翌日、外務省は、犯人との仲介役を自称する元フセインの警護隊関係者に振り回されるという失態を犯している。私たちはこの男が金目当てで動いているということをすでに知っていたが、犯人を刺激する危険な発言をしている外務省に対して、そのことを伝えるものは誰もいなかった。あの時、外務省は完全に市民から見放されていたのである。

そうこうするうちに、外務省は各国の政府に電話をかけて犯人逮捕を依頼しているだけで、自分たちで拉致グループを探し出して交渉することをしていなかったことも、アメリカを始めとする各国の政府関係者を通じて私たちに伝わってきた。政府は市民団体からはるかに遅れて、アメリカやヨルダン政府に電話をかけて無関係な情報ばかり追いかけていたのである。3人の救援のために拉致グループと交渉したのは、イラクの民衆であり、それをフランスの小林さんが私たちにリレーしてくれたのである。

何もしなかった外務省の実態を知らない小泉内閣のご歴々は、解放された3人を次々に批判し始めた。むしろ邦人保護の仕事をまっとうしなかった外務省に、国税を浪費した責任を取らせるべきなのに、3人を自作自演と非難し、それが通用しないと見るや、自己責任という言葉を言い出し、3人に賠償させろと騒ぎ出す始末だった。海外のメディアがこの騒ぎを見て一斉に「こうしたメンタリティーが生まれることは信じがたい。日本人は邦人保護をしないのか」というコメントをしたことが、今でも恥ずかしい思いとして心に残っている。

先進国たるもの、海外で刑事事件を起こした邦人がいたとしても、その邦人を弁護するなどの保護活動をするのが常識である。ましてや素手のまま誘拐された邦人の解放作業すら出来ない上に、市民の手で救援された人質に罵詈雑言を浴びせたのが当時の政府だった。こういった恥ずかしいことが決して起きないよう、海外で邦人が災難にあった場合に迅速に動けるような官民の協力関係をきちんと作り出さなければならない。
                            
初出 2004年5月『世界は変えられる』(七つ森書館)「あとがき」。10年4月4日加筆。 
posted by 菅原 秀 at 14:22| Comment(0) | TrackBack(0) | アジア基礎知識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。