2013年08月20日

ビルマ(ミャンマー)へのビジネス進出の条件(上)

先日、ジャーナリストのバーティル・リントナー氏から「ぼくの本がヤンゴン市内で売られているよ」という連絡があった。ヤンゴン市内の露天商がニコニコしながら、雑誌や新聞と一緒に、リントナーの本を並べて売っている写真が添えられていた。時代は明らかに変わっている。
 現在、ミャンマーの国会では検閲に関する法律の改正について、活発な議論が行われている。テインセインとアウンサンスーチーの二人三脚体制は、保守派に何度も押し戻されながらも、少しずつ進展している。しかしながらUSDA(連邦団結発展協会)が国会議席の多数を占める現状は、極めて不安定であることをしっかりと把握せずに、ミャンマー進出を考えるのは、いささか性急である。
ピルマ(ミャンマー)事情の基本をしっかり把握して、カントリーリスクを最小限に抑えるために、私のメルマガやブログに時折、目を通して欲しい。
  ここしばらく家族の看病で、何もできない状態が続いて、発行が遅れていたことをお詫びしたい。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■まだ早いミャンマーでのビジネス

ミャンマー(ビルマ)が26年ぶりに軍事独裁から民主化路線への舵取りを行うことになった立役者は、民主化のシンボル、アウンサンスーチーではなく、軍事組織を支える側から大統領に選ばれたテインセインだった。
 
 軍政の側に密かに芽生えていた良識が、ミャンマーの再生にとって民主化が必要であると認識していた結果ではあるものの、今回の民主化はあくまでも、長年にわたってビルマ国民を苦しめてきた軍事政権の側から提起されたものであるということをしっかりと見すえない限り、この国との友好関係を強固なものとすることで出来ない。いや、出来ないどころか、1990年代に経団連がリードして大失敗をした対ミャンマー投資の二の舞になりかねないのである。

 とはいえ、四半世紀にわたって続いてきたミャンマーの鉄の支配が、テインセインという良識派の出現によって明るい兆しを見せているこのチャンスを逃す手はない。長年にわたって幽閉状態に耐えてきたアウンサンスーチーも、国政に参加するだけでなく、欧米に出国することも出来るようになり、テインセイン大統領とも頻繁に連絡しあっているようで、今までとは比較にならないほど風通しが良くなっているからだ。
 
 テインセイン大統領は、元ビルマ軍大将で、軍ではナンバー4の地位だった人だ。一昨年に国家元首(大統領)を引退したタンシュエ上級大将の忠実な部下であり、タンシュエ自身が引退するにあたって後継者として指名されている。

 ミャンマー軍政には汚職がつきもので、多くの幹部が汚職の罪で失脚してきた。テインセインはそうした汚職には一切手をそめて来なかったといわれ、軍内部でも国民からもクリーンなイメージを持たれており、非難されることがなかったことも強みである。
 鉄の支配を貫徹し続けたタンシュエは強硬派として悪名が高かったので、イエスマンであるテインセインも、今までの強引な弾圧を継続するのではないかと思われたが、大統領に就任すると同時に住民が反対している巨大ダム、ミッソン・ダムの建設停止を打ち出し、ビルマ国民だけでなく国際社会からも驚きの目で見られることになった。

 その後テインセインは矢継ぎ早に、メディアの自由化、少数民族反政府勢力との対話、アウンサンスーチーとの対話、国際社会への参加表明、政治囚の一部釈放などに着手し、「軍事政権はどうも本気で民主化の方向を歩もうとしているのではないか」という観測が生まれるようになった。

■欧米諸国は懐疑的

 とはいうものの、国際社会がテインセインの改革を素直に信じるのは無理な話である。この四半世紀の民衆抑圧の歴史があまねく知られていたからだ。したがって、今までの軍事政権が一気に民主化への道を歩んでゆくだろうという考えには懐疑的にならざるを得ないのである。
 
 ご承知のようにアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)は1990年に行われたビルマの国民議会総選挙で8割を超える圧倒的な議席を確保し、ビルマの民主化は一気に進むと思われた。しかしその後、ビルマ軍はこの選挙結果を無視し、違法なクーデター状態を続行し、当選した国会議員の大部分を逮捕または幽閉し、全土を掌握してしまった。

 さらに国民に問うこともなく、今まで使われていたビルマという国名を、ミャンマーとし国際社会に対し、国名の変更を通知した。

 ミャンマーという国名はもともと、この国で使われていた呼び名であり、ビルマと同義語の古い言い方に過ぎない。いわば日本を大和と呼びかえるようなもので、国民にとっては大きな違和感がなかったようだ。しかし、議会手続による国名変更を経ることなく、クーデターで政権を掌握したのち自らも暫定政権を標榜していた側が、勝手に国名を変更したことから、欧米各国はミャンマーという呼び変えにとまどい、日本が先進国の中ではいち早くこの呼称を受け入れたものの、それ以外の先進各国はビルマの呼称に固執し続けてきた。

 アメリカやヨーロッパ諸国は、ビルマ人亡命民主活動家を積極的に支援し、世界各地で国際会議を開いてビルマ軍事政権を孤立化させるために、経済制裁を持続した。ビルマ軍事政権にはあまり厳しい態度をとらずに、比較的親しい間柄を維持しようとする日本に対しても、欧米は圧力をかけ続けた。その結果、日本政府はヤンゴン空港の整備支援やバルーチャンダムの修復支援などを行ったものの、その後の援助は福祉や農村開発などに限定した草の根援助レベルにとどまることを余儀なくされた。


■日本の対ビルマ支援は上から目線である

 日本の支援の形が国際的に強く批判された極め付きは、ヤンゴン総合病院に対する高額な医療機器の支援だった。

 自宅幽閉を解かれたばかりのアウンサンスーチーが日本政府の支援に対し、「この病院は誰のための病院ですか?ビルマ市民はシャットアウトされ、医療の恩恵を受けることが出来るのは軍事政権の幹部だけ。日本政府は、エリートのためだけの病院に国民の血税をつぎ込もうとしているのです」

 実のところ1988年の反政府デモの際に、このヤンゴン総合病院で数多くの民主活動家が軍隊に襲撃されて命を落としたという、いやな思い出があり、アウンサンスーチーにとってもそうした場所へいち早く支援を再開する日本政府に対して、昔の事実を見据えてほしいという気持ちがあったのかも知れない。

 アウンサンスーチーからのこうした率直な批判を受けてしまった日本政府は、一時は経団連のミッションを送るなどして軍事政権との経済交流を図ろうとしたものの、欧米の圧力に徐々に屈せざるを得なくなっていったのである。
 その後、ビルマの経済支援を行う国は、中国、北朝鮮、隣国タイなど、ごく少数の国々に限られねることになり、国際社会から嫌われた軍事政権の下、ビルマの人々は自由が訪れることを望み続けながら、苦しい経済生活に耐え続けてきた。

■ついにオバマが訪問した

 そんな状況を一番良く観察していたのはアメリカだが、そのアメリカのオバマ大統領が、昨年11月にミャンマーを訪れた。アメリカ大統領としては初のミャンマー訪問であり、テインセイン大統領の民主化政策を評価し、さらに必要な支援を表明するためのものであった。

 それに先立ち米国務省は03年に開始した経済制裁を、一部の事案を除いては解除すると発表した。

 一部の思案と言うのは、ビルマ軍事政権の資金源とされていたルビーや翡翠などの宝石類の対米輸出である。ビルマの宝石の利権は軍事政権が確立されて以来、軍の幹部によって独占されており、独裁者として長いことビルマを支配したネウィンの娘サンダウィンが、宝石貿易全体をコントロールする中心人物だとされている。

 制裁によって繊維製品の輸出などが出来なくなったビルマの産業は大打撃を受けたのだが、宝石貿易以外は解除されるとのことで、事実上、経済制裁の全面的解除といって差し支えないであろう。
 さらに国務省は、経済制裁の解除と引き換えに、北朝鮮との関係断絶、少数民族反政府勢力との和解、腐敗の一掃などの一連の改革を迫っている。

 オバマ大統領はこの国の呼称についても、今までビルマ一辺倒で通してきたアメリカの態度を軟化させ「ビルマでもミャでンマーでもどちらでも良い」と述べている。

 ヤンゴン大学での講演の冒頭では「ミャンマー、ナインガン、ミンガラーバ」(ミャンマー国のみなさん、こんにちは)とビルマ語で挨拶し、今回の訪問の理由について次のように述べている。

「私は就任演説の中で、民衆を抑圧する政権が、そのこぶしを少しでも緩めるなら、民主化のために手をさし伸べると語っています。私がアメリカ大統領として始めてこの国にやってきたのは、支援の手を差し伸べると述べた約束を果たすためです」
と語りながら、民主主義の条件について詳しい演説をおこなっている。
  オバマ大統領のミャンマー訪問に関して、アウンサンスーチーは躊躇し、アメリカ国務省に対して時期尚早であると申し入れたとのことである。また在米の民主化グループ代表のアウンディン氏も、ホワイトハウスに書簡を送り、時期を延ばしてくれるように要請している。

 今、ミャンマーへの制裁解除に踏み切れば、もし民主化の動きが後退したときに取っておけるカードがなくなってしまう懸念からだ。

 しかし就任二期目のオバマ大統領にとっては、オバマ外交の成功例を国際的にアピールする絶好のチャンスだったことと、ミャンマーと親密な関係にある中国をけん制し、民主化に対するアメリカの取り組みが中国とは違うものであることを強調するためは、どうしても必要な訪問であるとアウンサンスーチーを説得し、実現にこぎつけたのである。

 報道ではオバマ大統領がアウンサンスーチーを抱きしめ、頬にキスをする場面が何度も放映されたが、スーチーの心の本音は、あくまでも今回のミャンマー訪問に対しは、懐疑的気持ちを持っていることが、キスを受けてはずかしそうにしているその表情からも伺える。(続く)      初出 2013年3月 月刊「公評」


posted by 菅原 秀 at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | アジア基礎知識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月23日

イチゴに秘められた平和を生み出すパワー

イチゴの季節が大好きだ。特に私が好きなのはここ10年ほどスーパーの店頭販売の大分を占める「とつおとめ」や「あまおう」などの大粒の甘いイチゴだが、昔から栽培されてきた比較的小粒なイチゴの甘酸っぱさも好きだ。イチゴには不思議なパワーが秘められているようだ。イチゴには人と人との関係を和ませる働きがあるように思えるのだ。今回のエッセーは、中東和平を生み出したイチゴのパワーにまつわる話だ。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■難解な交渉の入り口を開いたノルウェーの努力

パレスチナ問題は、いまだに中東の火種になりかねない状態が続いているが、1993年9月、ワシントンにイスラエルとパレスチナの代表が集い、クリントン大統領の立会いのもと和平の道筋を示す合意書のサインが行われた。
日本から参加したのは当時の羽田孜外務大臣。それにごく少人数の外務事務官に過ぎなかったので、とのイベントのすごさを実感した人ごく少ない。
しかし、世界の首脳がワシントンに集まり、固唾をのんでこの調印式を見守っている場に参加するチャンスを得て、このイベントの印象は羽田さんの脳裏に深く刻み込まれることになった。
 その後、私は平和醸成の仕組みを作るために、各政党の議員に呼びかけて日本に民主化支援機構を作る運動を開始することになった。この夢はいまだに実現していないのだが、羽田さんは国会議員が党派を越えて結束するために、運動開始の時点から大きなパワーを発揮してくださった。
「ワシントンでの現場を見てボクはわかったよ。敵同士でも話し合いによって解決する道があるということを。こうしたことをノルウェーやアメリカにばかり任せていてはいけない。日本もすぐ参画しなければ」
そういって、自民党から共産党にいたるまで、すべての党派が結束して民主化支援機構を作るように声をかけ、2001年にはすべての政党が参加したシンポジウムを行うことができた。シンポジウムで超党派の協力による方向性は生まれたものの、財源を確保する目途が立たないことから、残念ながら日本のこの分野での国際参加はいまだに実現していない。
 さて、羽田さんをそこまで突き動かしたワシントン和平の道筋を生み出したのは、ノルウェーの官民の連携による交渉だった。
 そしてその交渉が決裂に至る寸前に、それを修復したのがノルウェーの交渉の現場の裏庭で栽培されていたイチゴだった。

■ノルウェーが双方に与えたものは

当時のイスラエルとパレスチナには双方が敵対していただけではなく、敵とお互いに話し合うことを行えば利敵行為とみなされ、重罰に処すという国内法があった。
従って双方の心ある関係者が和平のための努力をすることは不可能だった。
打開のアイデアを思いついたのがノルウェーのシンクタンクの所長だったテリエ・ラーセンだった。幸いにもラーセンは、イスラエル、パレスチナ双方の政策決定者とコンタクトできる立場にいた。
ラーセンは考えた。
「秘密裏に双方の代表をノルウェーに招いて、和平交渉の道筋を作り、国際的な場での調印に持ち込もう」
 幸いにもラーセンの妻は外務省の職員であり、外務大臣と直接話ができる立場にいた。
ごく一部の外務省幹部だけに事実を伝え、ひそかに双方の代表をノルウェーに招く工作はこうして始まった。もちろん、警察や入管、あるいはマスコミに嗅ぎ付けられれば交渉が行えないだけでなく、ラーセンとコンタクトした双方の関係者は重罪に処せられることになる。外務大臣とモナそれにごく少数の関係者だけが知るこの交渉の舞台は、オスロから数十キロ離れた場所に設定された。昔、ノルウェー王室が使っていた別荘を借りて、時間をかけた話し合いが開始された。
のっけから双方の、ののしり合いが開始された。ラーセンは興奮しながら相手の悪口をこぼしてくる双方の代表者の不満の気持ちのはけ口になることだけに意識を集中し、交渉内容への介入は一切行わなかった。
 別荘に閉じ込められた双方の交渉代表にとっての慰めは、別荘の料理人による手料理だった。
 双方の激論は連日深夜まで続いた。コーヒーとタバコの煙の中で複雑な議論とののしり合いが延々と続く。それを慰めたのがノルウェー側のもてなしの手料理と上質なワインだった。

■イチゴが打開の道を開いた

 王室の別荘での会議は、その都度双方が自国に持ち帰って検討するということが繰りかえされた。数回目の会議の場所は別荘の改修のためにマナハウスという名の別な別荘に設定された。
 そこでも連日、話し合いは険悪なムードが続き、ラーセンは双方のはけ口としての聞き役にまわり続けた。
 ある日、オスロの仕事を終えて着かれきったラーセンが別荘にたどり着くと、夕食の席には双方の笑い声とジョーク飛び交っていた。
 このときの様子は「ノルウェー秘密工作」という本に描写されている。

オーナー夫妻は実に親切で、夕食のときはウェートレスと執事の役を務めた。そして二人が雇ったシェフが、サケ、マスその他の魚をレモン、ワイン、クリームを加えて約ノルウェー風の豪華料理を作った。デザートには、かごに何杯ものイチゴが出だ。客たちはなんと8キロものイチゴを胃袋に詰め込んだ。そのうち5キロ以上をヒルシュフェルドが一人だ平らげた。

 イスラエル側の学者であるヒルシュフェルドは、おいしいイチゴで心を和ませ、一気にパレスチナ側の交渉ポイントの打開点を見つけ出し、この日の交渉に臨んだ。やっと会議には笑いとジョークがもたらされた。

イチゴに秘められたバイブレーションこそが、あの和平交渉を打開する力だったのではないか、私はイチゴを食べるといつもこのエピソードを思い出す。 
 
posted by 菅原 秀 at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 涙は止まるか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月10日

NSCー戦争を生み出すシビリアンたち(下)

領土紛争は戦争を引き起こすきっかけになりやすい。そのためどの国も採用しているのが、領土問題を棚上げにして、経済や民間交流の推進を先行させる外交手段だ。日中韓にとって今必要なのは、騒ぎを大きくすることではなく、棚上げをする一方で、互いの国民の信頼醸成をはかることだ。しかしお互いの国に挑発者が生まれると、ことは厄介になる。特に今度の安倍首相は、以前から近隣外交に挑発的な態度をとり続けてきた人物なので、とても心配だ。その安倍首相が「いざ戦争」を想定して作ろうとしているのが、NSC(国家安全保障会議)である。アメリカで生まれたこのシステムは、シビリアンコントロールを標榜しているが、戦争好きなシビリアンにコントロールされ続けてきた。前回に引き続いて、アメリカのNSCについて解説する。
------------------------------------------------------------------

◆危険なシビリアン・コントロール

 ブッシュ大統領を補佐して対テロ戦争をどう行うか決定する機関は、国家安全保障会議(NSC)である。大統領を議長として首席補佐官が司会をし、副大統領、国務長官、国防長官、統合参謀本部議長、CIA長官などを中心として協議する最高意思決定機関であるが、非公開で行われ、国民の意思が反映されないものの、国務長官や国防長官などのシビリアン(文民政治家)が権限を持つことで、軍部が勝手な動きをとれなくする仕組みを作り出している。そのNSCでは推定百人以上の事務局員が戦争に関する情報を分析しながら、シビリアンたちの意見を補完するための活動を行っている。

ところがこのアメリカ型のシビリアン・コントロールこそが戦争を暴走させている元凶なのである。戦争の現場を熟知している軍の将軍たちの意見よりも、戦争を履行することで政治的基盤を確立しようとするシビリアン政治家たちの意見が優先されるからだ。

イラク戦争の場合は、大量破壊兵器という嘘の理由をごり押しして開戦したラムズフェルドとその手下のウォルフォウィッツなどのシビリアンが先頭に立った。しかもブッシュ政権時代には、NSCの事務局にワシントン市内のシンクタンクから、ネオコンたちの息がかかった研究員たちが大量に送り込まれ、ラムズフェルドやウォルフォウィッツの意見を合理化する文書を大量に作って、大統領とNSCメンバーたちを煽っていたのである。

戦争の厳しさを知っている軍部の意見は無視された。例えば「イラクの戦後処理には数十万人の米軍部隊が必要」と進言したエリック・シンセキ陸軍参謀総長の意見は否定され、少数精鋭部隊による戦争を主張するラムズフェルドとウォルフォウィッツの怒りに触れ、軍から追放されてしまった。ラムズフェルドはこうして口うるさい軍の幹部たちを黙らせて、NSCの実権を握り、自分の子飼いの軍人である中央司令官トミー・フランクス将軍にイラク攻撃の指揮をさせている。フランクス将軍は、コンピューター・ゲームでも操るかのようにイラクの中枢部に総攻撃をしかけ、あっというまにイラク政権を崩壊させ、ブッシュ大統領を喜ばせた。しかし、ラムズフェドがフランクスに指示した少数精鋭作戦は、アメリカを長期戦の泥沼に引きずり込んでしまい、「軍事ケインズ主義」に浮かれている余裕がないほど、アメリカを疲弊させてしまったのである。

なぜアメリカを守るはずの国家安全保障委員会(NSC)は、シビリアン・コントロールの機能をきちんと盛り込んでいるにもにかかわらず、戦争を助長し続ける機関になってしまったのだろうか。

結論から言うと、NSCはウォールストリートの投資会社出身のジェームズ・フォレスタルとポール・ニッツェのふたりが、ワシントンに乗り込んで作り出した「戦争特需マシン」なのである。

◆NSC68という戦争教科書

フォレスタルは、ウォールストリートの投資会社の社長だったが、戦後、ルーズベルト大統領から特別補佐官に就任しないかという誘いを受け、ワシントンにやってきた。やがて海軍次官に転進し、そこで商才を発揮することになる。軍需産業にテコ入れすることによって戦争特需を生み出し、国家予算の増大に貢献したのである。その手腕が認められ、国防総省が設立されると初代長官に任命された。今度はトゥルーマン大統領の下で働くことになるが、戦争特需システムを恒久化するために、出来たばかりのNSCを利用しようと考え、トゥルーマンの共産主義に対する恐怖を利用することにした。

そこで、投資会社の部下だったポール・ニッツェをワシントンに呼び寄せた。フォレスタルはニッツェを自分の補佐官として雇い、さらに国務省に送り込んで、NSCを担当する政策分析官のようなポジションにつけたのである。1950年には、その後のアメリカの冷戦政策の指針となっている国家安全保障会議文書68号(NSC68)という文書を完成させている。

68というのは単なる政策文書の通し番号であるが、のちに、このNSC68がアメリカの軍事作成策定の基礎となるバイブルのような存在になったのである。ブッシュ大統領が何度も「ディズニー・ワールドに行こう」と演説したのも、NSC68の軍事理論を基礎とした発言なのである。

『アメリカ・力の限界』(アンドリュー・ベイセビッチ著、菅原秀訳、同友館)の中から、NSC68について書かれた部分を要約しながら解説してみよう。

ニッツェはNSC68の中で、まずソ連の脅威について次のように説いている。
 「ソ連は新しい熱狂的な信念に煽られており、その絶対的権威を世界全体に及ぼそうとしている。強大な軍事力に支えられながら、他国への侵入と脅しを継続しながら、自分たちの支配による自由世界を形成しようとしている」

ソ連が考えている自由世界についてニッツェは、こう書いている。
「ソ連の計画は、非ソ連圏の国々の政府および社会機能を、強制的に完全に破壊しつくすことである。破壊した後に、ソ連中央によるコントロールに従う機能と組織を持つソ連世界に置き換えるのである。それを実現するために、危機、紛争、覇権主義を継続し続けているのがソ連の政策である」

つまり共産主義による世界支配のことであると定義づけているのである。
それに対してアメリカについては、
「寛容な精神に基づいて世界を展望し、気前のよい建設的な推進力を持ち、国際社会関係に欲望を持たない国家である」
と解説している。

第二次世界大戦の余波によって、国際連合が生まれることになり、自由という考え方が独裁政権、専制制度、あるいは奴隷制度に対する戦いの旗印となった。

NSC68は、国連が生まれた直後に作られた文書であるが「自由思想は歴史上最も受け入れられやすい考え方である」とした上で、ソ連は自由思想の存在を「永久に続く脅威」と位置づけていると解説している。ソ連はその脅威を打破するために全世界の自由機関を攻撃している、赤軍の存在はそのソ連の凶悪な意図の証明であると述べ、「ソ連は自国の領土を守るための必要性をはるかに超えた軍事力を保持している」と警告している。

ニッツェの分析によれば、ソ連は戦禍からの復興段階なのにもかかわらず、すでに国力をつけているのは明らかだという。そこで、こうした前例のない脅威に対応するためには、3つのオプションしかないであろうと述べている。孤立主義、予防戦争(核による先制攻撃を意味する)、アメリカの軍事力の急速な増強である。NSC68は、最初のオプションについては降伏を意味するとして拒絶している。さらに二番目のオプションについても、「不快」な上に「道義的に不純だ」として否定している。したがって三番目のオプションしか残されていないわけである。

ニッツェの提案は、水素爆弾を早急に開発すべきであることを強調する巨大な国防予算を伴うものであった。さらに、国防の助言者たちを訓練して友好国に送り込む。国内の治安を強化し情報機関の能力を高める。そして、ソ連圏内での「騒乱や反乱を扇動し支持する」ことを目的として秘密工作を活性化させるといった提案も行っている。この提案によってCIA(中央情報局)が生まれている。

そのためにNSC68は国内予算の切りつめと、再武装のための増税案も盛り込んでいる。その結果、この「ニッツェ・ドクトリン」ともいえるNSC68がアメリカを恒久に軍事化することを決定づける文書となり、アフガン戦争とイラク戦争のときにも、アメリカの軍事教科書として利用され続けてきたのである。 

◆銃を売ったお金で食糧を買えば国は繁栄する?
 
 増大する軍事費は一般のアメリカ人に倹約させることを意味しているわけではなく、NSC68は「軍事支出による経済効果は、軍備や海外援助による支出を吸収し、それ以上のものをもたらすと思われる」との展望を持っている。つまるところ、アメリカ合衆国は銃と食糧の両方を手に入れる事ができるというわけだ。確かに、銃を製造してその収入で食糧を手に入れる事ができるのは事実だ。

ニッツェにとってこれは最大の売り込み文句である。国の長期的経済発展より以上に、莫大な軍事支出こそが実質的な繁栄のための手段を供給するわけで、戦争に膨大な軍事費をつぎ込むことによる疲弊の心配はないからである。
 
 NSC68を手にしたトゥルーマン大統領は、武装が経済的豊かさをもたらすとしている考え方に納得していなかったものの、すぐに朝鮮戦争という形の不幸にめぐり合うこととなる。

政敵に包囲されていたトゥルーマンにとって、朝鮮戦争は脅威だった。しかし、ニッツェにとっては願ってもないタイムリーな出来事だった。北朝鮮の共産主義者による南進は、NSC68の分析そのものの証明と思われたからだ。ソ連の指導の下に国際共産主義グループが、明らかな侵攻を開始したからである。

しかしこれが最後ではなかった。1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻はさらなるNSC68の分析の正しさの証明になった。NSCのシビリアンたちににとっては地球規模の事件が起きたことであり、そこそこに満足できる事態であった。

こうしてNSC68は独断的な教義となったのである。国防費は3倍以上の規模に拡大され、増えた予算の大部分は朝鮮戦争のために使われたのではなく、ニッツェが提案した一般的な再武装のために費やされた。こうしてアメリカの軍事戦略の本格化が開始されたのである。

もしこのNSC68が単なる机上の文書に過ぎないのだとしたら、歴史的関心を持つ必要はない。ところが、この文書はそれ以上の意味を内包しているのである。現在のアメリカ人はこの文書の内容については詳しくないだろうが、ニッツェによるこの名人芸のような作品は、その後数十年経ったにも関わらず、現代アメリカ政策そのものに深く関与しているのである。ちょうどワシントンの辞任演説やモンロー・ドクトリンが19世紀アメリカの政策と密接に関わっていたのと同じように。
 
おそらくオバマ政権のNSCのメンバーも、この古臭いNSC68の理屈にとらわれていることだろう。ニッツェの時代の「ソ連」という言葉を「テロリスト」と置き換えさえすれば、軍需産業を支え続けた人脈に連なるNSC関係者は安泰だからだ。オバマ政権がいくらグリーン・エネルギーや福祉を強調しても、有権者たちは豊かなアメリカン・ウェィ・オブ・ライフを守ることに腐心し、それを脅かすかもしれない外敵におびえ続ける。政治家たちは外からの脅威に対決してアメリカを守ることを公約にしない限り、生き延びることができないことをNSCのシビリアンたちは熟知しているからだ。

アメリカの戦争経験はわれわれに、シビリアン・コントロールの危険さを、こうして明確に教えてくれるのである。(了)

*さらに詳しく知りたい方は『アメリカ・力の限界』(アンドリュー・ベイセビッチ著、菅原秀訳、同友館)を参照してください。









               
posted by 菅原 秀 at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 民主主義とは何だろう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月22日

NSC――戦争を生み出すシビリアンたち(上)

☆日本が真似ようとしているNSCはきわめて危険な戦争マシンだ

第二次世界大戦までは「軍の暴走」によって戦争が始まる例が多かった。典型的なのがドイツと日本の軍部の暴走だった。そこで戦争抑止のアイデアとしてシビリアン・コントロールの仕組みが生まれたのである。しかしシビリアン・コントロールによって作られたアメリカのNSC(国家安全保障会議)は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争と次々に戦争を生み出してきた。
つまるところ、シビリアン・コントロールで戦争が抑止できるというのは、間違いであることが、アメリカのNSCの存在によってはっきりと証明されたのである。にもかかわらず日本の政治家たちは、アメリカのNSCと同じような組織を日本にも作りたくてうずうずしている。政治家が欲しがるのは、外交のための切り札としての軍事パワーである。つまり自分たちシビリアンが、軍事面での強力な発言権を持てば、力ずくの外交が成功すると考えているのである。危険な動きである。
NSCとは何か、先ずは、モデルとなっているアメリカのNSCとは何かということを知ることが緊急の課題なのである。

☆戦争をしかけるアメリカ

 ベトナム戦争の手痛い経験があるにもかかわらず、アメリカはアフガニスタンとイラクで、再び大きな失敗をしてしまった。
 アメリカという国の権威は失墜し続け、ここ5年ほどの間に、アメリカ人が見知らぬ国で一人旅をするのが危険なものになってしまった。
 もちろん個々のアメリカ人の責任ではない、軍事力を過信してしまったアメリカ政府がその責任を背負わなければならないのは当然だ。 
にも関わらずアメリカは、もはや世界中からそっぽを向かれてしまった古い価値観、つまりアメリカこそが自由の旗手であり、民主主義のリーダーであるという独りよがりの思い込みを捨てることが出来ないでいるようだ。
 アメリカは過去の経験から、何も学ばなかったのだろうか。
ちょうどブッシュ政権が「対テロ戦争」の名目でイラクに侵攻した直後の2003年、私自身、米国民主基金のフェローとしてワシントンで研究生活を送ったことがある。意外だったのは、ワシントンで私が出会ったアメリカの学者や政治家たちのほぼ全員が、イラク進攻を強行したブッシュ政権を強く批判し、自分たちが戦争を阻止できなかったことを反省していたことだった。
もちろんフセインの独裁は容認できないものの、「大量破壊兵器の存在」をでっち上げてイラク進攻を強行したアメリカのやり方を、ワシントンの知識人たちは強く批判していたのである。
なぜ彼らは、イラク戦争を阻止できなかったのだろう。私は自分が抱えていた研究テーマと平行して、アメリカが好戦的な政策を採る本当の理由を知りたくて、積極的にネオコン(ネオコンサーバティブ)と呼ばれる人々の講演会に出かけ、あるいは議会図書館の雑誌を読みこんで、その理由を知る手がかりを探した。

☆票を握るのは地方の保守票だ

ワシントンにはさまざまなシンクタンクがあり、イラク戦争を合理化するために、戦争を支持する論客によるシンポジウムが時折開かれていた。政権の中でも強硬派と言われているチェイニー副大統領や、オルフォウィッツ国務次官補につながる学者たちで、ブッシュ政権の助言者として盛んにホワイトハウスに出入りしている人々だった。
そこで分かったことは、ネオコンと呼ばれる人はアメリカ全体を支える保守層から根強い支持を受けており、9・11事件への報復としての「対テロ戦争」を推進するイデオローグとして強く歓迎されているという事実だった。
首都ワシントンの知識人たちの中では、こうしたネオコンといわれる人々は少数派だった。なにせ世界中の外交官が集まって一種の国際都市を形成しているワシントンである。アメリカの国益だけを中心に物ごとを考えているネオコンたちは仲間はずれになっているようだった。しかし、ネオコンたちの講演を何度も聴いているうちに、彼らの論理はワシントンというリベラルな都市ではさして目立たないものの、幅広い層のアメリカ人に支持されており、他の都市に行けば、圧倒的に支持されていることを知った。
ネオコンの論理はこうだ。アメリカこそが自由と民主主義を実現している国であり、その恩恵を他国にももたらす使命がある。アメリカはそうした約束の下に独立を宣言し、奴隷を解放し、黒人への公民権を回復した。自由のために闘うアメリカに対して、イスラム原理主義者たちはテロの脅威を与え続けている。アメリカは世界の抑圧された人々の自由ために闘わなければならない。テロリストの側に立つか、自由の旗のもとで闘うか、選択肢はふたつにひとつである。
私たちからすれば、ネオコンの理屈は歴史検証を抜きにした自画自賛にしか聞こえない。アメリカの独立宣言は、ごく少数のエリートによる共和国の樹立宣言であり、公民権を回復したのは抑圧されていた黒人たちであり、イスラム原理テロリストを育てたのはCIAではないか、という疑問を持つ。
しかしアメリカ人の圧倒的多数が、ネオコンたちが主張するこうした一種のアジテーションを素直に受け入れているのである。
だからワシントンの知識人たちがいくら反対したところで、アフガニスタンに続いてイラクに侵攻したブッシュ政権の軍事路線を阻止することは出来なかったのである。

☆外敵は政権維持の絶好のチャンス

アメリカ人がこうした軍事侵攻を歓迎した背景には、長年にわたってソ連を敵視してきた「脅威をもたらすのは常に外敵である」という思考法がある。9・11事件でも、自分たちの国防組織のひとつであるCIAが作り出したアルカイダに報復されたのであるという事実を検証することなく、アメリカに敵対するテロリストという「外敵」を作り出すことで、ネオコンたちのアジテートに乗ってしまっている。
それではネオコンたちは何を求めているのだろうか。彼らが口々に語るのは、自由と民主主義を守るということであるが、彼らが言う民主主義を保障しているのは、アメリカが謳歌してきたアメリカン・ウェイ・オブ・ライフという裕福な生活である。そして裕福な生活を生み出すのは、なんと、軍拡そのものなのである。
ブッシュ政権になると、本拠地のニューヨークからワシントンに集まってきたネオコンたちは、志を同じくする国防長官のラムズフェルドや国防次官のウォルフォウィッツなどを通じて、ブッシュ大統領の戦争に関する業務をサポートする国家安全保障会議に介入するようになり、腹心たちを事務局員として大量に送り込むようになった。
そこで繰り広げられたのは、シビリアンコントロールによる軍事支配だった。
つまり、イラク戦争はブッシュ政権に上手に取り入ったネオコンたちの「思い」を実現させるためのものであり、軍拡によってアメリカの豊かさを維持し、さらにテロリストたちを壊滅することで中東にネオコンが望む形の民主主義を根付かせ、アメリカを中心とした世界秩序をもたらそうという戦略だったのである。
こうしたネオコンたちの考え方に真っ向から対立する論客も、アメリカにはたくさんいる。一貫してアメリカの軍拡路線を批判し続けてきたノーム・チョムスキー、チャルマーズ・ジョンソン、ジョン・ダワーなどだ。残念なことに、チョムスキーとジョンソンは数年前に亡くなっている。
またバリバリの軍人でありながら、アメリカの軍拡路線に強い警鐘を鳴らし続けてきたアンドリュー・ベイセビッチもいる。カナダの論客のナオミ・クラインも、アメリカの軍拡路線と資本との関係について鋭い告発を行い、アメリカの世論に働きかけている。
彼らはアメリカの軍需産業の構造が虚構であることにメスを入れ続け、そこから生まれるはずの富は、すでに破綻していることを実例をあげて告発している。
経済学者のジョゼフ・スティグリッチは、イラク戦争に費やされた戦費を3兆ドルと見積もっているが、日本の国家予算の4倍もの軍事支出がアメリカ国民に重くのしかかっているにもかかわらず、ブッシュ前政権はやみくもに経費を出し続けた。オバマ政権はさすがに経費の大きさに悲鳴を上げ、軍事費の削減を予定しているものの、アフガニスタンとイラクで費やされている戦費の不足分については、次々に米議会に追加予算の承認を求め続けているだけだ。

☆戦争をすれば国が豊かになる

こうした手法を揶揄する意味での「軍事ケインズ主義」という言葉を最初に使ったのは、チャルマーズ・ジョンソンだと思う。アメリカが遭遇してきた第二次世界大戦や朝鮮戦争などの軍拡は、経済を疲弊させるどころか、軍需産業を中心として産業全体を活性化し、アメリカに好景気をもたらすのだという考え方を指す言葉である。
軍拡によって豊かさが生まれ、その富が自分たちに自由をもたらしているのだというアメリカ人独自の感覚は、第二次世界大戦直後に極限に達した。真珠湾攻撃をきっかけとした日本の無謀な政策のおかげで、アメリカの軍需産業は肥大化し、国内に景気をもたらした。その結果アメリカは超大国として台頭することになり、その豊かな生活は世界の人々にとっての羨望の的となった。それに続く朝鮮戦争でも、軍需産業には好況が続き、豊かなアメリカン・ウェイ・オブ・ライフは、いささかも揺るぐことがなかった。
 国外での戦争を継続していたにもかかわらず、アメリカの多数派である白人の立場だけを考えれば、世界で最も自由な国であった。第二次世界大戦の最後の時点でアメリカは、世界の金保有量の3分の2近くを占め、世界の工業の半分以上の生産力を持ち、全世界の輸出量の3分の1を占めていた。英ポンドに代わってドルが国際通貨の地位を占めるようになり、ブレトン・ウッズ体制による国際通貨基金の枠組みによってアメリカは世界の金融マネージャーとなった。
 アメリカの平均的な家庭にとっては、第二次世界大戦こそが大恐慌時代に終止符を打った出来事であった。戦時特需による繁栄も戦争そのものによって吹き飛んでしまうのではないかという恐れは、杞憂に終わり、「軍事ケインズ主義」が生まれる余地を与えた。
1948年にはアメリカの一人当たりの所得は、英国、フランス、西ドイツ、イタリア4カ国を平均した一人当たり所得の4倍を超えていた。所得拡大と、抑えられていた需要が複合することによって国内の巨大な市場が生み出され、アメリカの工場は活況を呈し、働き口を生み出した。
この考え方は、9・11に遭遇したブッシュ政権にも受け継がれている。
テロとの戦いという名目で、アメリカ合衆国は数十年も続くかもしれない世界戦争に乗り出したというのに、ブッシュ大統領はわざわざ税を減らしたのである。戦争特需をあてこんでの減税である。
 そして、贅沢を戒めるように求めたのではなく、何事も起こらなかったように事を運ぶことを呼びかけたのである。世界貿易センターが崩壊してわずか2週間後には、アメリカ国民に対して「さあ働こうじゃないか。国中でビジネスを展開しよう。どんどん観光旅行をしよう。フロリダのディズニー・ワールドに行こう」と呼びかけているのである。
 アメリカ人は悲しみに打ちひしがれていた。ツインタワーでは多くの人々が亡くなり、国全体が喪に服していた。9・11直後、人々はディズニー・ワールドに群れることに躊躇したし、航空会社は倒産寸前のような状態に追い込まれた。
突然人々が控えめになったことで、消費帝国が崩れるのではないかという脅威を感じた大統領は急遽「家族を連れてエンジョイしよう。せいいっぱい楽しもう」と呼びかけることになったのである。
ブッシュ大統領は、同じ内容の演説を何度も繰り返すこととなった。その後、2006年12月になり、イラクの状況が厳しくなったにもかかわらず、自分が戦時大統領であることを忘れたかのように、ブッシュ大統領は国民に、「みなさん全員が、もっと買い物をすることを奨励する」とさらなる消費の努力をすることを勧めているのである。(つづく)

*さらに詳しく知りたい方は『アメリカ・力の限界』(アンドリュー・ベイセビッチ著、菅原秀訳、同友館)を参照してください。






posted by 菅原 秀 at 12:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 民主主義とは何だろう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月20日

ニューヨーク大停電の経験

暑いというよりも熱い! こんな日は冷房をつけたままで寝るに限る。電気会社は、大停電が起きたら大変なことが起きるといっているが、大変なことが起きないことはすでに実証済みだ。9年前にアメリカとカナダで5000万人が被害を受けた大停電の翌日、私は、電気がまったく通じていないニューヨークを訪ねた。人々が不便を強いられたのは確かだが、日常生活が完全に破壊されるような不測の事態は起きなかった。
電力会社の儲けを支えるための節電キャンペーンにだまされないためにも、この記事を読んでいただきたい。大停電が起きても、一日や二日我慢すればいいだけの話だ。
   ---------------------------------------------------

◆大停電の中のNY行き

「2003年ニューヨーク大停電」の8月14日夜、ワシントンにいた妻と私は翌日にニューヨークを訪れればいいのかどうか、迷っていた。
 ニューヨークの郊外、ロングアイランドに住む、日本国憲法の起草者として有名なベアテ・シロタさん(当時80)を訪ねる予定だったからだ。

14日夕方から、カナダから北東アメリカ全体の電話と携帯が通じなくなったので、確認しようがない。テレビでは14日深夜になっても、「列車も、航空機も、地下鉄も回復の見込みはない。町は全域停電で、電話もまだ回復していない」という放送を繰り返すだけだった。

ロングアイランドはニューヨーク市内とはいえ、東西に細長い巨大な島で、ベアテ・シロタさんが住むアマガンセットはその一番東端にある。ニューヨークから列車で三時間もかかる場所なのだ。

ベアテさんは10年前からこの村に小さな別荘を借りて、夏になるとご主人のジョセフ・ゴードンさん(当時83)、それに孫たちと一緒に数カ月をすごすことにしている。以前は貧乏な画家たち住んでいるだけの寒村だったが、今では避暑地となり、ポール・マッカートニーなどの芸能人が住む村として有名になり、お城のような別荘も建ち始めている。おかげで、どのホテルも一晩3万円程度と強気だ。心配したベアテさんが、知り合いの安い民宿を手配してくれていた。ベアテさんに負担をかけるわけにはいかない。
「こうなったら行ってみるしかない」

 幸いなことだったが、旅行を安く上げようと思って、格安長距離バスのグレイハウンドを予約していた。列車と飛行機は止まっているが、バスなら確実にニューヨークにいける。そのあとはなんとかなるだろうと、あとのことは考えずに早朝、ワシントンを発った。

 10時頃にバスがニューヨークに入ると、まさに異常な風景が広がっていた。摩天楼すべての窓が真暗で、中性子爆弾に直撃されたような世界だった。以前、グラビア入りの科学雑誌て読んだことがあるので、そう連想したのだが、人は殺すが建物は破壊しないという恐怖の爆弾だ。
しかし、地上に目を移すと路上には人があふれている。昨夜は一睡もできなかったらしく、ビルの前の階段などでうたたねしている人がいた。多くの人々は疲れきった顔つきで、おのおのの方向にぞろぞろ移動している。

◆大停電の直接の死者は一人だけだった

 いまだに停電したままなので、街角のデリや、レストランは真っ暗だ。それでも人々があふれていて、昨日の売れ残りのサンドイッチと生ぬるいコーラをのどに流し込んでいる人がたくさんいた。新聞によると、多くの店が「半額セール」などで、徹夜組にサービスしたようだ。9・11の記憶を忘れずに人々は助け合っているようだ。今回の大停電での直接の死者はひとりしかおらず、14日夜の犯罪はゼロだったというのは、ニューヨーク人の誇りとして永遠に残るだろう。

 人ごみをかき分けながら、ロングアイランド列車の始発駅、ペンシルバニア駅に向かった。生まれてはじめてのニューヨークで、人ごみの中で何度も何度も道を尋ねながら、歩いてゆくのだから容易ではない。妻は泣きそうになっている。

 ペンシルバニア駅は全体が地下駅だ。構内に入ると出るか出ないかわからない列車を持つ人々でいっぱいで、ものすごいむし熱さだ。5分も経つと汗だらけだ。人づてにロングアイランド列車の入り口を探し当てると、入り口に大勢のガードマンがいてロープを張り、汗をかきながら乗客が入り込まないようにブロックしている。ガードマンたちに列車が出るのかどうか聞いてみたが、「一切わからない」との返事だけ。

 やっとロングアイランド列車の職員を見つけ出すと、「ロングアイランドの入り口のジャマイカまでの臨時バスを運行するので、そこまで乗っていって欲しい。アマガンセット?そんな遠くまでいけるかどうかわからないけど、ジャマイカに行ってから考えてくれ」との返事。
 職員から指定された場所に行くと、ロングアイランドの西の拠点、ジャマイカ近辺に住む人々が大勢並んで、バスに乗り込もうとしている。

 やっとのことで乗り込んだ人々は、みな疲れきった表情だった。汗だらけのシャツで、座席に座れないものは床に座り込んでいる。乗客は次々に携帯電話を取り出して自宅に電話をしようとしているが、通じなくてあきらめの表情だ。
 通常は市内から30分程度の距離だという。しかし、マンハッタンまで家族を迎えに来た人たちの車のせいだろう、すごい渋滞だ。歩いてマンハッタンを脱出した家族を迎えに来たものの、会えずに泣く泣く手ぶらで帰ってゆく車もたくさんあったに違いない。
 
 バスがジャマイカの駅について、人ごみの中でアナウンスをじっと待っていると、親切な駅員がこう案内してくれた。
「幸いなことに、ディーゼル列車を手配できますので、バビロンまで運行します。そのあと、次のディーゼルを手配できれば、そこから先も運行します。ディーゼル列車の都合がつかなかったら、バスを運行します。え、アマガンセット?何とかなるでしょう。とにかく乗ってみてください。今日は全員無料ですよ」

 バビロンというのが果たしてどこなのかもわからず、私たちは、止まったり運行したりする列車とバスを乗り継いで、はるか東の端のアマガンセットまで、12時間かけてたどりついた。

◆元気に迎えてくれたベアテさん

 途中でやっと携帯が通じるようになった。その間、何度通話を試みたことか。
 ベアテさんは、とても心配していた。
「まあ、まさかいらっしゃらないと思ったわ。今日はニューヨークから誰も来れないようなので、民宿もキャンセルしちゃったのよ。でも、安心なさい。うちの孫たちもニューヨークから来ることができないので、今日は部屋が空いているの。そこにお泊まりなさい。まあ、アメリカ人の孫たちが来れないのに、外国人のあなた方が訪ねてくるなんて、すごいわね。とんでもない災難だったわね」
 と流暢な日本語の会話で応対してくれた。

 かくして、私たちはベアテさんとジョセフさんの奇麗な小さな別荘に泊めていただくはめになった。
 ジョセフさんは私たちを歓迎し、軍隊時代に日本で覚えたという「リンゴの唄」を披露してくださった。日本語の歌詞を全部覚えている素晴らしい記憶の持ち主だった。
 ベアテさんの数奇な運命については彼女の自著『1945年のクリスマス』(柏書房)をご一読いただきたい。
 
 80歳とは思われないはつらつしたベアテさんは、まぎれもない私たちの憲法起草に加わり、特に、日本の女性解放に大きな足跡を残した人その人だ。彼女がGHQの法律担当者とやりあいながら私たちに与えてくれた第24条は、家庭に縛られていた戦前の日本女性を社会に進出させるきっかけを作った。
「日本で講演すると、よく日本国憲法は押しつけだと言われます。私はこう反論します。米国憲法にもない良いものがたくさん日本国憲法に盛り込まれています。自分たちですら欲しいものを人に差し上げることを押しつけというのでしょうかと」

 アマガンセットの美しい浜辺を散歩しながら、ベアテさんはアフガニスタンとイラクの女性に思いをはせていることを熱心に語った。
「アフガニスタンとイラクの女性の立場は、終戦直後の日本女性の立場とまったく同じです。日本では土井たか子さんのような女性の党首もいますし、女性のニュースキャスターが連日テレビに登場しています。日本の女性が、直接その事実を伝えてくれたら、どれだけの励みになることでしょう」
 ベアテさんは、私たちに会った直後に日本を訪問し、青年劇場による「真珠の首飾り」の全国公演に同行している。その際にアフガニスタンとイラクの女性に手を差し伸べるように、各地で日本女性に呼びかけている。

 反アメリカ感情が広がっている今日、アメリカ人が女性に手を差し伸べようとしても、現地のかたくなな男たちによって「アメリカの押し付けだ」として拒否されるかも知れない。当然の権利を中東の女性が手にするために、ベアテさんの経験に基づいたアイデアを生かすためにも、私たちは支援の輪を広げていかなければならない。

別荘で語るベアテさん

ベアテ.jpg
       ---------------------------------------------------
さて翌日、私たちは開通したロングアイランド鉄道で再びニューヨーク市内に戻った。街は平常を取りもどしていた。停電の影響であちこちにゴミの山が放置されていたのにも関わらず、どの商店も営業をしており、店々で売られている清涼飲料水も、いつもと同じく冷えていた。新聞には大停電の原因について、はっきりしないと書かれていたと同時に、徹夜組や家まで歩いて帰った人々の談話が写真入でたくさん出ていた。さらに被害者を助けたり、お金のない人には無料で食料を食べさせた商店やレストラン談や、見ず知らずの疲れきった人を迎えの車に乗せた話、病院の患者を安全な場所に運んだ話などの美談もあふれていた。大変な二日間を過ごしたニューヨークの人々は、明るい表情で、忙しくそれぞれの仕事を再開していた。

【初出】『もうひとつの国際貢献』(リベルタ出版)2003年

posted by 菅原 秀 at 15:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 民主主義とは何だろう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月05日

エーミールの涙(6)ドイツに生まれた民主化支援システム

---------------------------------------------------------------------
この4月には、野田首相がオバマ大統領と会談し、ビルマ(ミャンマー)の民主化支援を共に進めようという約束をした。同じ日に玄葉外務大臣がネパールとエジプトを相次いで訪問し、両国に対して民主化支援の分野で支援するとの約束をした。

私が心配なのは、日本は今までに「民主化支援」に関しては、ごく一部の国の法制支援をしただけで、まだまだ未経験であるということである。

この仕事を行うことになるであろう外務省も、その傘下のJICAもこの分野を手がけたことがないことを率直に認めており、文化が違うだけでなく、社会制度がまったく異なる国に対して、単一民族国家の視点しか持たない日本が民主化支援に乗り出す際、さまざまなトラブルが起きるのが心配だ。

民主化支援とは「独裁国家を民主化する活動」「選挙監視と支援」「報道の自由を生み出す活動」「議会制民主主義を確立する活動」「法律策定を支援する活動」「市民団体作り」「行政システム作り」「労組作り」「軍隊の民主化」など、どれもセンシティビティーの高い活動ばかりだ。崩壊したばかりの独裁国家は民主制度のインフラとシステムを持っていないので、そのために海外から支援財団を通じて資金を投下するのが一般的だ。

なぜ支援財団かといえば、民主化そのものが相手国の政権の利害と馴染まないために、外交的圧力をさけて長期的な民主化活動支援を継続するためである。

例えば2011年12月にエジプト当局が、カイロ市内のNGO数十団体を「無登録で海外から資金を得ている」として捜査し、40人以上(うち19人は外国人)を逮捕し、裁判にかけている。外国人はアメリカのIRI(共和党国際研究所)、NDI(米国民主党国際研究所)、フリーダムハウス、それに加えてドイツのコンラート・アデナウアー財団の職員だった。

もちろんアメリカのクリントン国務長官はこの逮捕劇に激怒し、表面上は「エジプトへの援助停止も辞さない」としているが、あくまでもこれらの団体は米政府機関ではないので、アメリカとしてもワンクッションを置いた対応が可能なのだ。

日本の場合は、民間団体を通じて相手国の民主化を支援するという機能を持っていないので、政府対政府の外交による民主化支援を行うことになる。したがって、相手国政府の意にそわない民主化支援を避けることになってしまう。そこで、「日本からの援助はエリート支配を強化する形になっています」(アウンサンスーチー)などの批判を受けることになってしまいがちなのである。

さて、途上国の民主化の際に見え隠れする民主化支援財団のアイデアを最初実生み出したのはドイツである。ナチスの思想を一掃し、ドイツ国内に民主的考え方を定着させるのが最初の目的だった。やがてその手法は海外の独裁国家の民主化を支援するという形に発展して言った。民主化支援を考える意味でドイツの民主化支援財団の歴史を、きちんと押さえて置く必要がある。

-----------------------------------------------------------------------

■ドイツ国民の再教育の開始

さてエーミールの涙(5)では、(メルマガ購読者はアジア・ジャーナル35号参照)で、アデナウアーが行った国内外のナチス被害者への賠償の経緯について述べた。http://p.tl/4FxY

アデナウアーが行った一連の動きとともに、ドイツ政府は国民の再教育を重視する政策を採ることとなった。1953年には連邦政治教育センターが設立され、各共和国で青年たちを対象とした民主教育が開始されている。とはいっても国民運動としての民主教育は、政府が音頭を取っただけではなかなか進まない。政府の動きに呼応して、各共和国の市民団体が受け皿となったり、あるいは教会と組んだ自発的な動きを開始し、少しずつドイツの過去に向き合う動きが進められていった。 

そうした市民レベルの活動を財政的に支援したのが、その後、世界の民主化活動をリードすることとなった政党財団である。このドイツ特有の組織は、民主化教育にとって極めて有効性の高いものだったので、その後、アメリカをはじめ先進各国が設する民主化支援財団のモデルとして注目を集めることとなった。 
しかしドイツ人にとっては、先ず自分たち自身への民主化教育が必要であった。10年以上にもわたってかけ続けられていたヒトラーの催眠術から、自分たちの心を解き放つ作業が、どうしても必要だったのである。その経験が、期せずして海外の民主化活動支援に役立つことになったのである。 

政党財団の中で、戦後いちはやく活動を開始したのが、フリードリヒ・エーベルト財団である。もともと1925年に設立されたものの、1933年にナチスによって非合法化され休眠していた。1947年に再建されると同時に、民間の非営利団体として社会民主主義の理念と基本的価値を追求する目的で、活発な活動を開始している。 

ドイツの初の民主選挙で選ばれた初代大統領フリードリヒ・エーベルトの遺志を継いで設立されたことから命名された財団であり、新しい出発にあたって、「民主主義と多元主義に基づく政治・社会教育を行なう若い人材の育成」「国際理解・協力への貢献」などをうたっている。 

フリードリヒ・エーベルト財団は、ドイツ社会民主党と密接な関係を保ち、共通の理念を持つものの、「政党財団」と「政党」との関係は、それぞれ違う役割を持つものとして、お互いに干渉をしない取り決めがなされている。 

つまり、「政党財団」は民主主義の理念を広めるための教育活動や、民主主義を阻害するシステムを改善するための具体的な活動をするものである。それに対して「政党」はその政治綱領に基づいて、議会制民主主義を通じて政治活動を行なうものであるという明瞭な住み分けがなされているのである。 

■次々に生まれた政党財団 

その後ドイツには、他の政党財団が生まれることとなるが、「政党」と「財団」の住み分けが明瞭な形で、しかも自然に行われているという特徴がある。フリードリヒ・エーベルト財団の手法をモデルとして作られたからに他ならない。 

どの財団もその出発に当たって、自分たちの政党が全体主義化するのを本能的に恐れ、政党から独立した「政党財団」を社会とのつながりを保つ機能として位置づけたのではないだろうかと思う。

現在、ドイツには次の六つの政党財団がある。 
@ ドイツ社会民主党を母体とするフリードリヒ・エーベルト財団(FES)
A キリスト教民主同盟を母体とするコンラート・アデナウアー財団(KAS)
B キリスト教社会同盟を母体とするハンス・ザイデル財団(HSS)
C 自由民主党を母体とするフリードリヒ・ナウマン財団(FNS)
D 緑の党を母体とするハインリヒ・ベル財団(HBS)
E 民主社会党を母体とするローザ・ルクセンブルク財団(RLS)
である。

最後の二つは、それぞれ1980年代、1990年代にできた新政党を母体とする財団である。 

これらの財団の中で、フリードリヒ・エーベルト財団は、戦後すぐに活動を開始し、全国で青少年を対象とした教育活動を開始している。労働組合と密接な関係があったことから、東ドイツやポーランドとの関係構築にも大きな役割を果たし、政府ができないことを行なう「民間外交」の役割を果たしている点も注目に値する。 

在日30年になるドイツ人ジャーナリスト、ゲプハルト・ヒールシャーさん(元外国人記者協会会長)にお会いした際に聞いたのだが、すでに1950年代にアウシュビッツを訪ねていたそうである。

「戦争が終わったとき私は9歳でした。その後、高校生のときに、アウシュビッツを訪問し、そこで起きた悲惨な出来事を学ぶことができました」

当時のポーランドは、東ドイツ在住の人々にとっても入国が難しい状態だった。ヒールシャーさんは、西ドイツの住民でありながらポーランドの労働組合とも友好関係を結んでいたフリードリヒ・エーベルト財団による青少年を対象とした活動の一環として、ポーランドを訪れることができたのである。

フリードリヒ・エーベルト財団に続いて1958年に設立されたのが、自由民主党(FDP)を母体とするフリードリヒ・ナウマン財団である。同じく全国の青少年を対象にした民主教育、職業訓練教育などをスタートさせている。 

キリスト教民主同盟が類似した財団を発足させたのは、アデナウアーが首相を引退した翌年の1964年である。その名もコンラート・アデナウアー財団と命名されている。おそらくアデナウアーの現役時代には必要がなかったのであろうが、設立されてからの活動は目覚しく、フリードリヒ・エーベルト財団と競争するかのように、ドイツ国内だけでなく、海外でも幅広い民主化活動を展開している。

ドイツ人にとっては自国の民主化活動も海外の民主化支援も、ナチス時代の過去との格闘なのである。その格闘は、各政党財団のアクターたちによって、さまざまな思惑に翻弄されながらも、少しずつ進展していったのである。ドイツの政党財団については拙著『もうひとつの国際貢献』(リベルタ出版)で詳述しているので、興味のある方は参照していただきたい。

(続く) 
posted by 菅原 秀 at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | エーミールの涙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。