2012年05月05日

エーミールの涙(6)ドイツに生まれた民主化支援システム

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この4月には、野田首相がオバマ大統領と会談し、ビルマ(ミャンマー)の民主化支援を共に進めようという約束をした。同じ日に玄葉外務大臣がネパールとエジプトを相次いで訪問し、両国に対して民主化支援の分野で支援するとの約束をした。

私が心配なのは、日本は今までに「民主化支援」に関しては、ごく一部の国の法制支援をしただけで、まだまだ未経験であるということである。

この仕事を行うことになるであろう外務省も、その傘下のJICAもこの分野を手がけたことがないことを率直に認めており、文化が違うだけでなく、社会制度がまったく異なる国に対して、単一民族国家の視点しか持たない日本が民主化支援に乗り出す際、さまざまなトラブルが起きるのが心配だ。

民主化支援とは「独裁国家を民主化する活動」「選挙監視と支援」「報道の自由を生み出す活動」「議会制民主主義を確立する活動」「法律策定を支援する活動」「市民団体作り」「行政システム作り」「労組作り」「軍隊の民主化」など、どれもセンシティビティーの高い活動ばかりだ。崩壊したばかりの独裁国家は民主制度のインフラとシステムを持っていないので、そのために海外から支援財団を通じて資金を投下するのが一般的だ。

なぜ支援財団かといえば、民主化そのものが相手国の政権の利害と馴染まないために、外交的圧力をさけて長期的な民主化活動支援を継続するためである。

例えば2011年12月にエジプト当局が、カイロ市内のNGO数十団体を「無登録で海外から資金を得ている」として捜査し、40人以上(うち19人は外国人)を逮捕し、裁判にかけている。外国人はアメリカのIRI(共和党国際研究所)、NDI(米国民主党国際研究所)、フリーダムハウス、それに加えてドイツのコンラート・アデナウアー財団の職員だった。

もちろんアメリカのクリントン国務長官はこの逮捕劇に激怒し、表面上は「エジプトへの援助停止も辞さない」としているが、あくまでもこれらの団体は米政府機関ではないので、アメリカとしてもワンクッションを置いた対応が可能なのだ。

日本の場合は、民間団体を通じて相手国の民主化を支援するという機能を持っていないので、政府対政府の外交による民主化支援を行うことになる。したがって、相手国政府の意にそわない民主化支援を避けることになってしまう。そこで、「日本からの援助はエリート支配を強化する形になっています」(アウンサンスーチー)などの批判を受けることになってしまいがちなのである。

さて、途上国の民主化の際に見え隠れする民主化支援財団のアイデアを最初実生み出したのはドイツである。ナチスの思想を一掃し、ドイツ国内に民主的考え方を定着させるのが最初の目的だった。やがてその手法は海外の独裁国家の民主化を支援するという形に発展して言った。民主化支援を考える意味でドイツの民主化支援財団の歴史を、きちんと押さえて置く必要がある。

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■ドイツ国民の再教育の開始

さてエーミールの涙(5)では、(メルマガ購読者はアジア・ジャーナル35号参照)で、アデナウアーが行った国内外のナチス被害者への賠償の経緯について述べた。http://p.tl/4FxY

アデナウアーが行った一連の動きとともに、ドイツ政府は国民の再教育を重視する政策を採ることとなった。1953年には連邦政治教育センターが設立され、各共和国で青年たちを対象とした民主教育が開始されている。とはいっても国民運動としての民主教育は、政府が音頭を取っただけではなかなか進まない。政府の動きに呼応して、各共和国の市民団体が受け皿となったり、あるいは教会と組んだ自発的な動きを開始し、少しずつドイツの過去に向き合う動きが進められていった。 

そうした市民レベルの活動を財政的に支援したのが、その後、世界の民主化活動をリードすることとなった政党財団である。このドイツ特有の組織は、民主化教育にとって極めて有効性の高いものだったので、その後、アメリカをはじめ先進各国が設する民主化支援財団のモデルとして注目を集めることとなった。 
しかしドイツ人にとっては、先ず自分たち自身への民主化教育が必要であった。10年以上にもわたってかけ続けられていたヒトラーの催眠術から、自分たちの心を解き放つ作業が、どうしても必要だったのである。その経験が、期せずして海外の民主化活動支援に役立つことになったのである。 

政党財団の中で、戦後いちはやく活動を開始したのが、フリードリヒ・エーベルト財団である。もともと1925年に設立されたものの、1933年にナチスによって非合法化され休眠していた。1947年に再建されると同時に、民間の非営利団体として社会民主主義の理念と基本的価値を追求する目的で、活発な活動を開始している。 

ドイツの初の民主選挙で選ばれた初代大統領フリードリヒ・エーベルトの遺志を継いで設立されたことから命名された財団であり、新しい出発にあたって、「民主主義と多元主義に基づく政治・社会教育を行なう若い人材の育成」「国際理解・協力への貢献」などをうたっている。 

フリードリヒ・エーベルト財団は、ドイツ社会民主党と密接な関係を保ち、共通の理念を持つものの、「政党財団」と「政党」との関係は、それぞれ違う役割を持つものとして、お互いに干渉をしない取り決めがなされている。 

つまり、「政党財団」は民主主義の理念を広めるための教育活動や、民主主義を阻害するシステムを改善するための具体的な活動をするものである。それに対して「政党」はその政治綱領に基づいて、議会制民主主義を通じて政治活動を行なうものであるという明瞭な住み分けがなされているのである。 

■次々に生まれた政党財団 

その後ドイツには、他の政党財団が生まれることとなるが、「政党」と「財団」の住み分けが明瞭な形で、しかも自然に行われているという特徴がある。フリードリヒ・エーベルト財団の手法をモデルとして作られたからに他ならない。 

どの財団もその出発に当たって、自分たちの政党が全体主義化するのを本能的に恐れ、政党から独立した「政党財団」を社会とのつながりを保つ機能として位置づけたのではないだろうかと思う。

現在、ドイツには次の六つの政党財団がある。 
@ ドイツ社会民主党を母体とするフリードリヒ・エーベルト財団(FES)
A キリスト教民主同盟を母体とするコンラート・アデナウアー財団(KAS)
B キリスト教社会同盟を母体とするハンス・ザイデル財団(HSS)
C 自由民主党を母体とするフリードリヒ・ナウマン財団(FNS)
D 緑の党を母体とするハインリヒ・ベル財団(HBS)
E 民主社会党を母体とするローザ・ルクセンブルク財団(RLS)
である。

最後の二つは、それぞれ1980年代、1990年代にできた新政党を母体とする財団である。 

これらの財団の中で、フリードリヒ・エーベルト財団は、戦後すぐに活動を開始し、全国で青少年を対象とした教育活動を開始している。労働組合と密接な関係があったことから、東ドイツやポーランドとの関係構築にも大きな役割を果たし、政府ができないことを行なう「民間外交」の役割を果たしている点も注目に値する。 

在日30年になるドイツ人ジャーナリスト、ゲプハルト・ヒールシャーさん(元外国人記者協会会長)にお会いした際に聞いたのだが、すでに1950年代にアウシュビッツを訪ねていたそうである。

「戦争が終わったとき私は9歳でした。その後、高校生のときに、アウシュビッツを訪問し、そこで起きた悲惨な出来事を学ぶことができました」

当時のポーランドは、東ドイツ在住の人々にとっても入国が難しい状態だった。ヒールシャーさんは、西ドイツの住民でありながらポーランドの労働組合とも友好関係を結んでいたフリードリヒ・エーベルト財団による青少年を対象とした活動の一環として、ポーランドを訪れることができたのである。

フリードリヒ・エーベルト財団に続いて1958年に設立されたのが、自由民主党(FDP)を母体とするフリードリヒ・ナウマン財団である。同じく全国の青少年を対象にした民主教育、職業訓練教育などをスタートさせている。 

キリスト教民主同盟が類似した財団を発足させたのは、アデナウアーが首相を引退した翌年の1964年である。その名もコンラート・アデナウアー財団と命名されている。おそらくアデナウアーの現役時代には必要がなかったのであろうが、設立されてからの活動は目覚しく、フリードリヒ・エーベルト財団と競争するかのように、ドイツ国内だけでなく、海外でも幅広い民主化活動を展開している。

ドイツ人にとっては自国の民主化活動も海外の民主化支援も、ナチス時代の過去との格闘なのである。その格闘は、各政党財団のアクターたちによって、さまざまな思惑に翻弄されながらも、少しずつ進展していったのである。ドイツの政党財団については拙著『もうひとつの国際貢献』(リベルタ出版)で詳述しているので、興味のある方は参照していただきたい。

(続く) 
posted by 菅原 秀 at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | エーミールの涙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月20日

エーミールの涙(5)ナチズムを「犯罪」とするドイツ基本法

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私たちは、多数決や選挙が民主主義の有効な手段だと習ってきている。しかしこの多数決や選挙には大きな落とし穴がある。ヒトラーは多数決によってナチズムの政策を作り上げ、多数決によってナチスの総裁に選ばれ、選挙の力によってドイツの総統に就任したのである。

戦後、西ドイツ政府は自分たちが作った暫定憲法(ドイツ連邦共和国基本法)の中にナチズムを標榜する自由を制限する条項を盛り込んだのである。この概念は「戦う民主主義」と呼ばれている。

もちろん日本国憲法には「戦う民主主義」のような表現の自由を制約する条項は盛り込まれていない。しかし多数決が正しいとされ、少数派を抑圧する口実として利用される風潮が多いのは事実だ。定型的な例が学校や職場で多発しているいじめだ。いじめる側が多数派だと、いじめられる側には生きてゆく場所がなくなってしまう。

国会もそうである。民主的な熟議を保障するために、調査会や委員会などさまざまな仕組みが整備されているのにもかかわらず、数多い法案の成立をあせる議員と職員は、熟議による問題点の検討よりも国会のスケジュールを優先し、多数決によって一気に法案を通そうとする。

民主主義システムには少数派の声も受け入れる力がある。「12人の怒れる男」がそのひとつのモデルである。少数意見を熟議しない限り、民主主義はナチスレベルにとどまらざるを得ないのである。

なぜドイツに「戦う民主主義」という概念が生まれたのか。考えてみよう

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▼ アデナウアーとドイツ連邦基本法

1949年、西ドイツでの初めてのドイツ連邦議会選挙が行われた結果、コンラート・アデナウアーは連邦議員に当選し、キリスト教民主党(CDU)の幹事長に就任する。選挙後初の議会で行われた首班指名の投票で、アデナウアーは社会民主党(SDP)のクルト・シューマッハーを抑えて、首相となった。以後、老齢に関わらず、アデナウアーは14年間にわたって西ドイツ首相として、経済復興と外交の復活の舵取り役を行なう立場になった。

さて、アデナウアーが首相になる直前のことだが、連合国の管理化で、将来のドイツに重大な決定を及ぼす作業が行われていた。ドイツ連邦共和国基本法の成立である。

戦後のドイツは英米仏ソの4カ国によって分割統治されていた。しかしドイツ全体の国家体制を規定する憲法が、ヒットラーの第三帝国の崩壊とともに消滅していたことから、お互いの意見が一致せず、混乱が続いていた。 

そこで1948年、英米仏、それにベネルクス3国が加わり、ソ連占領地区を除いた地域に適用するための憲法を作ることが同意された。専門委員会が草案を作り、ドイツの各共和国議会で承認された結果、49年5月に公布されることとなった。実質的には西ドイツ憲法であるが、ドイツが統一されるまでの暫定的な憲法にしようという申し合わせのもと、ドイツ連邦共和国基本法という名称で呼ばれることになった。東西ドイツが統一したのちも、基本法の名称を憲法と変更する手続きは行われておらず、現在でもドイツ連邦共和国基本法と呼ばれ続けている。

かつてナチスの台頭を許したことへの反省から、このドイツ連邦共和国基本法には、ドイツに再び独裁政権が生まれないように、いくつかの工夫がなされている。

その代表的なものが「戦う民主主義」という考え方の導入である。つまり言論や結社の自由があるのを利用して、民主主義そのものを否定する言論を流布させて新しい独裁国家を作る者が現れることを予防するために、民主主義体制をくつがえす自由に対しては制限を加えることとしたのである。

そのために、国民に対して憲法(基本法)を擁護することを義務付け、民主主義をくつがえす可能性のある言論や結社に関連した行動を制限することにしたのである。 

具体的には連邦裁判所によって裁定されるのであるが、この基本法のもとでは、ヒトラーをたたえるときに片手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と叫ぶ敬礼をすることや、ヒトラーの著書である『我が闘争』を始めとするナチス礼賛の印刷物の発行は一切禁止されている。もちろんネオ・ナチなどの政治結社を作ることも禁止されている。 

アデナウアーを首班とする戦後初の議会政治は、こうしてナチスの遺産を否定するというドイツ連邦共和国基本法による露払いが行われた後に出発しているのである。

▼過激な戦後処理を回避したアデナウアー保守政治

フランスとの和解を求めたことでも理解できる通り、(「はじめてドイツ人をゆるしたフランス人女性」参照http://p.tl/OIcA)アデナウアーはキリスト教の理念に基づいた平和を求める人物であったものの、左翼的な考え方はなかった。あくまでも中道路線を採る調整型の政治家であり、比較的保守的な政治姿勢を貫いている。戦後のドイツにおいて、この保守的な政治家が最初の舵取りをしたということはドイツにとっても幸いなことだった。 

アデナウアー時代の内閣は、キリスト教民主同盟(CDU)、自由民主党(FDP)それにキリスト教社会同盟(CSU)による連立内閣だった。 

ドイツ基本法に基づいてナチスの考え方は否定されるようになったものの、「七月二十日事件」に対する評価は一様ではなかった。スイスのマウンテンハウスでイレーヌの心を開くきっかけをつくったのが、この「七月二十日事件」に加わって処刑されたアダム・フォン・トロットという外交官の夫人だったことを覚えておられるだろう。 

新生ドイツにとって難しかったのが、国防を担う軍隊をどう再建するかという問題であった。全世界を戦火に引きずり込んだ旧ドイツ軍のマイナスイメージを払拭するのは至難の業である。 

アデナウアーは「七月二十日事件」に関わった軍人たちを復権させることで、旧ドイツ軍の中にも立派な軍人がいたというプラスのイメージを作り出そうと考えた。

この事件に関しては、「ドイツ人の良心」として評価する声がある一方、上官の命令にそむいて外国と通じた売国奴による犯罪だという考えも根強かった。そこで、アデナウアーは政府主導による復権を行なうことで世論を押さえ、軍の中にも良心があったのだということを内外に示そうと考えたのである。 

アデナウアー政府は1951年に声明を発表し、「七月二十日事件」はドイツを危機から救おうとする愛国的軍人と外交官による最終手段としての戦いだったと認定し、処刑された200人に上る反逆者の名誉を回復すると宣言したのである。 

旧軍のエリートたちは、ヒトラーに協力したという過去を持つ弱みを持っていた。アデナウアーは「七月二十日事件」を踏み絵とすることで、シビリアンコントロールの効いた新しいドイツ軍を創設する作業に、旧軍関係者も協力させようと考えたのである。 

この思惑は成功し、1956年の新生ドイツ軍の創出にあたって、入念な思想検査が義務付けられ、面接では「七月二十日事件」をはじめとする反ナチス運動に対する考え方も問われるようになり、軍人になるためにはドイツの過去の犯罪を学習することが義務づけられた。それによって近隣諸国がドイツに抱いていた再軍備の恐れを軽減させることに成功したのである。 

▼アデナウアーの妥協とユダヤ人補償

次にアデナウアー政府が行なわなければならなかったのは、ユダヤ人団体との補償交渉である。 

アデナウアーの連立内閣内部では、600万人以上ともいわれるユダヤ人の抹殺に対する贖罪の意識は乏しかった。そのため、アデナウアーも演説の端々で「ナチス時代の忌まわしい犯罪」「過去のドイツによる遺憾な侵略行為」などの発言をしていたものの、ユダヤ人に対する具体的な補償の問題に取り組むことを先送りにしていた。 

これに対して、痛烈な非難を浴びせたのが野党の社会民主党(SPD)だった。首班指名でアデナウアーに負けたSPDのシューマッハー党首は、ユダヤ人に対する犯罪をきっちりと認識しなければならないとして、アデナウアーにイスラエルとの補償交渉を開始するように迫ったのである。 

閣僚たちは、財政不足とアラブ諸国や国内の右派の反発を理由に、シューマッハーの提言を拒否すべきであると考えた。しかしアデナウアーは、シューマッハーの意見を支持すると主張し、連立内閣の意見は二つに分かれた。 

議会での討議の結果、社会民主党がアデナウアー派を全面的に支持したことから、イスラエルおよび国外に住居を持つユダヤ人も含め、総額34億5千万マルクを賠償するルクセンブルク協定が1952年に成立することとなった。さらに1953年には連邦補償法が成立し、ナチスの被害を受けた内外の人々を対象とする補償が開始されることとなる。 

しかし、ナチスによって虐殺された人々は1万人を越え、ヨーロッパ全土に居住している。ルクセンブルク協定と連邦補償法を皮切りに、ドイツ政府は内外の被害者からのさまざまな形の保障要求に応じて、数多くの補償法を整備していくこととなる。ドイツは過去の罪を背負いながら、こうして巨額の補償金を支払う作業を開始したのである。 

一連の補償法に基づいた補償金総額は1千億マルクを超えているといわれているが、それでも次々に新しい被害事実が発見され続けるという現実が続いている。 

一方、アデナウアーは、ドイツ国内の戦死者、傷痍軍人、戦没者遺族、近隣諸国からの引揚者などに関する法律も整備し、総額7500億マルクあまりを補償している。国内の戦争被災者を手厚く保護することで、ドイツ国民もナチスの被害者だったという意識を定着させることに成功したのが、アデナウアー流の戦後補償政策だったといえよう。 

さて、そうした動きとともに、ドイツ政府は国民の再教育を重視する政策を採ることとなった。 

1953年には連邦政治教育センターが設立され、各共和国で青年たちを対象とした民主教育が開始されている。

続く

c菅原秀2010 (初出『ドイツはなぜ和解を求めるのか』(同友館)
posted by 菅原 秀 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | エーミールの涙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月28日

エーミールの涙(4)ユダヤ人をかくまったドイツ人裁判官

多忙のため、間をあけてしまったが、前回の「エーミールの涙(3)」は、元東ベルリンにあたるミッテ区北部の閑静な住宅街にあるプロテスタント教会にあるASF(償の証:Action Suhnezeichen Friedensdienste)の事務所を訪問した話だが、その続きをお送りする。ドイツが抱える負の遺産であるナチス時代の傷跡は、今でも近隣諸国の人々の心をさいなんでいる。何せ第二次世界大戦のドイツとの対戦国は80カ国を超える。人命や土地や財産だけでなくさまざまな精神的なトラウマが、今でも被害者やその家族の心にのしかかっている。それらのトラウマを解消する民間団体による努力は並大抵のものではない。ASFのヨハネス・ゼルガー広報部長は、この団体がどんな活動をしているのか、静かに語り続けた。
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▼被害を受けた村を立て直そう

ゼルガー広報部長の話は続く。「クライズィヒは、アウシュビッツの生存者を探し出して、償いのために何ができるかを聞こうと考えたのです。しかし当時、ドイツ人がポーランドで活動するのは無理な話でした。ポーランド政府と東ドイツ政府の許可が必要だったからです」

クラウズッヒが仲間とともに自転車で初めてアウシュビッツを訪れたのは一九四七年前後と思われる。 

クライズィヒは東ドイツ生まれだったので、戦後は東ドイツに所属することになった。東ドイツの人々はクライズィヒの考え方を支持しなかった。つまり自分たちこそナチスから祖国を解放した側に立っているという驕おごりの心に支配され、ナチスに対して十分に反抗しなかった自分たちの過去を顧みることはなかったのである。 

クライズィヒは西ドイツの教会でも、自身の考えを訴え続けた。ベルリンの壁ができる前には、東西の教会の交流が可能だったのである。その結果、西側の聖職者や政治家に少しずつ支被害国で黙々と奉仕活動をするドイツの若者たちの支持者が増えていき、最終的には東西プロテスタント教会全体でクライズィヒの考えを承認しようという風潮が芽生えることとなった。 

一九五八年、クライズィヒは東西の福音派の代表が集まった会議で重要な演説を行なった。

「私たちドイツ人は第二次世界大戦を開始しただけでなく、人類に対し計り知れない損害を与えました。ドイツ人がその手で数百万人のユダヤ人を殺害しましたが、これは神に対する極悪非道な反逆です。生き残った私たちは、好むと好まざるに関わらず、それを阻止できなかったのです。私たちドイツ人の手による暴力の犠牲になった人々が住む国々に出向き、私たちの手によってその犠牲の償いをすることを許してもらわなければなりません。村を建て直し、集会所を作り、病院、さらには被害者の要請に基づいて、償いの印を示さなければなりません。最初にポーランドで開始しましょう。次にソ連、そしてイスラエル。この奉仕の仕事をさせてもらう私たちを助けてくれるように、彼らに請いましょう。これは、彼らに対する支援といったようなものではなく、平和のための許しを請う小さな労働に過ぎません」

この演説によって、クライズィヒの考えは明瞭な形として人々に伝わった。つまり、被害を与えた側を助けるのではなく、許してもらうために被害者側からの助けを求めるという、ひたむきな考えだったのである。

▼和解が生まれたきっかけ 

演説の三年後、ドイツの東西の交流は遮断されることになる。クライズィヒが属していた教会は東ドイツ側でしか活動できなくなり、東西の教会は個別に活動することを余儀なくされることとなる。そうした中でも、ASFの活動は少しずつ開始されていった。当初の活動は同じくナチスによる強制労働の被害を受けたオランダやノルウェーで開始された。 

クライズィヒは、ナチスによる犠牲者が多かったポーランドとソ連での奉仕活動を強く望んでいた。ナチスが引き起こした戦争による死者はヨーロッパ全体で六千二百万人と言われているが、そのうち、ポーランドでの死者は五百五十万人、ソ連での死者は二千七百万人と推定されている。その大部分が兵士ではなく、一般市民なのである。 

とはいっても、東西のイデオロギー対立で分断された結果、ポーランドとソ連での奉仕活動を行なうことは、将来の課題とするしかなかった。 

海外での奉仕活動に参加しようとする若者たちは年々増えていった。海外への旅費や滞在費は教会関係者の寄付でまかなう。ひとりの若者の奉仕期間は十八カ月とした。参加者する若者にも、青春の一時期を長期にわたって奉仕活動に捧げるという、それなりの覚悟が必要な期間である。 

そうした本格的な奉仕活動だったからこそ、相手国も好意的に受け入れてくれたのであろう。オランダで手がけたのは、働く人々のためのリクレーション・センターの建設だった。ノルウェーでは身体障害を持つ子供たちのための施設が建設された。さらに、フランスでは戦火で失われたシナゴーグ(ユダヤ教会)をユダヤ人のために再建した。ギリシャでは上水道敷設工事が行われた。英国ではカトリック修道院の集会場を建設した。そしてイスラエルでは盲学校が建設された。 

やっとポーランドでの活動が開始されたのは、一九六五年になってからだった。東ドイツのASFの若者たちが、アウシュビッツを巡礼の旅という形で訪れ、収容所の生存者を訪ねたり、ポーランドの若者と過去について語り会うなどの活動を開始した。同時に朽ち果てようとしていた収容所を記憶の場所として修復する活動も開始している。 

ポーランド政府はASFの動きに対して冷たかったようだが、それとはうらはらに地元の人々はドイツ人の若者たちを暖かく迎え、地元キリスト教新聞二紙が、ASFのポーランドでの活動を大きく報道した。 

しかし、東ドイツ、西ドイツのマスコミはASFの活動を無視し続けた。ドイツ人全体が、こうした活動の必要性を感じるようになるには、まだまだ時間が必要だったのである。「私たちの活動を知っていただくためには、ビデオが一番良いでしょう」

ゼルガー広報部長は、アメリカでのASFの活動を紹介した番組のビデオを見せてくれた。 
ニューヨークの音楽大学に留学したドイツの若者が、アウシュビッツの生き残りだったユダヤ人の老人を訪ねて行き、昔何が起きたのかを少しずつ理解していくという番組だった。 

マンハッタンのアパートでひっそりと生き続ける老人を訪問するたびに、若者は、過去のドイツで行われた犯罪と、その中でユダヤ人が保とうとした人間の尊厳を学んでいく番組だった。そして学ぶのは、ドイツ人の若者だけではなかった。ドイツの若者と対話をするユダヤ人の老人も、ドイツ人の心に輝き続けている良心の光を発見していくのだった。

続く

c 菅原秀2010 (初出『ドイツはなぜ和解を求めるのか』(同友館)
posted by 菅原 秀 at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | エーミールの涙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月06日

エーミールの涙(3)ナチスの時代に、すごい人がいた!

ベルリン市内を西から東にゆったりと流れる美しい川がシュプレー川だ。さほど川幅が広くないのが幸いして、観光船で下ると、四季折々の花々に囲まれた両岸の建物や名跡を間近に見ることができる。

今でこそ、西ベルリンから東ベルリンへ向かってこの川を下ることは可能なのだが、壁があった時代には、この美しい川さえも、フリードリヒ通り駅を境にして分断されていた。

そのシュプレー川を下って旧東ベルリンに達すると、行政の中心になっているミッテ区だ。ミッテ区北部の質素なプロテスタント教会の敷地に、私たちの訪問先の建物があった。ASF(償の証:Action Sühnezeichen Friedensdienste)の事務所である。 

迎えてくれた広報部長ヨハネス・ゼルガー氏の話を、私たち記者団一同は身じろぎもせずに聞きいった。

■ナチスによる身障者の粛清

反対者を粛清し続けていたナチスの時代に、ヒトラーに対して正々堂々と闘いを挑んで、粛清を免れて戦後まで生き延びた人がいた。

しかも、その人の戦後の活動も驚嘆に値する。日本ではほとんど紹介されていないこの団体の創設者の人生は、国家が犯した罪を、国民一人一人がどう償ったらいいかという重い問いかけへの一つの回答でもあった。 

ドイツではASFの略称で知られるこの団体「償いの証」(つぐないのあかし)を設立したのは、ナチス時代にベルリンで判事の仕事をしていたロター・クライズィヒである。ゼルガー広報部長は語る。

「クライズィヒは、大学で法学を修め、判事の資格を得た秀才でした」

1898年、ザクセンに生まれたクライズィヒは、第一次世界大戦には志願兵として参戦したほどの愛国心あふれる青年だった。復員の後、ドレスデンの大学で法律学を学んだ。やがて、ベルリンの隣町ブランデンブルグで地方裁判所判事の仕事をすることとなる。赴任したのは1937年、ヒトラーが政権を把握してから四年後である。 

裁判官として、知的障害者や身体障害者施設の書類を扱っていたクライズィヒは、障害者の死亡数が異常であることに気づいた。

クライズィヒたち裁判官が、申請に基づいて、障害者施設からの障害者の移動の命令書を書くと、その移動先で死亡する頻度が急に増えていたのである。ところが、その死亡の理由に関する書類のほとんどが不備だった。

人知れず障害者の殺害が行なわれているとしか思えない。1939年ごろになると、その頻度が極めて高くなってきた。クライズィヒは密かに調査を進め、政府当局関係者が障害者を次々に殺害しているという感触を得た。

司法省に出向いていたクライズィヒは、この件について報告した。障害者を施設から移動する書類が頻繁に届けられてくることは異常事態であり、その移動先で次々に障害者が死亡している。障害者施設職員によるやみくもな移動申請は違法であり、さらに移動先で死亡している事例が極めて多い。これは司法の怠慢によるものであり、この事態は受け入れがたいので、厳密に調査して原因を究明すべきだ、といった内容を裁判官としての立場から訴えたのである。

しかし司法省当局は、その後、何の対応もしようとしなかった。

1940年、クライズィヒは司法当局を動かすために次の手段に出た。司法省の頭ごなしに身障者の移動を命令し続けていた総統官房長官のフィリップ・ブーラーを殺人罪で告発したのである。

告発の後、しばらくして司法省長官のフランス・ギュンターからクライズィヒ宛てのファクスが届いた。

「一連の動きは総統のご意志である。告発を取り下げよ」

クライズィヒは、厳格だったはずのドイツの司法が、すでに完全に崩壊していたことを悟った。ゼルガー広報部長の話は続く。


■ 東部の農村に潜伏したクライズィヒと戦後の旅


「クライズィヒは司法省によって免職されました。もちろん当局から目をつけられたのですが、逮捕されずに生き延びることができました」 

クライズィヒは迷った。「闘うべきか、妥協すべきか」 

ゲシュタポはクライズィヒを亡き者にする理由を探し続けているに違いない。しかし戦いを継続しなければならない、場合によっては逮捕されて強制収容所で殺されてもいたしかたないと思いつめていた。 

そうした中、ヒトラーは抹殺の対象を障害者からユダヤ人に拡大していった。そこで友人たちはクライズッヒに、戦いの継続をいったん中止して隠遁生活をし、ヒトラー亡き後にドイツの再興のための仕事をするべきであると諭したのである。

友人の助言に従ったクライズィヒは、ベルリンから離れた農場に移り、秘密裏にユダヤ人を海外に逃す活動を細々と続けた。農場では、二人のユダヤ人女性を終戦までかくまい続けている。 

クライズィヒを責め続けたのは、裁判官である自分が、国家による殺人の罪を見逃してしまったという罪の意識であった。 

終戦の翌年の1946年、クライズィヒは、新しい政府から裁判官として復職するように要請されたが、拒否して福音派教会の牧師となった。司法によって人を救うことに限界を感じ、自らの良心の声にしたがって生きる聖職者の道を選んだのである。 

牧師となったクライズィヒはすぐに自分の教区の代表となり、プロテスタント教会の中でも一目置かれる存在となっていった。精力的に教会の活動を行ないながらも、クライズィヒは、ドイツ人が過去に犯した罪を償うべきだと訴え始めた。ところが世間の反応は鈍かった。

「罪を犯したのはナチスであり、私たちはその被害者である」というのが当時のドイツ人の考え方であった。

また、「ユダヤ人は、イエス・キリストを信じなかったために、天罰を下されたのだ。ユダヤ人の側に大いに責任があるのだ」と考える教会の指導者たちもたくさんいたのである。 

ドイツ人が過去に犯した罪を償うべきだ、というクライズィヒの訴えは、無視され続けた。ゼルガー氏は続ける。

「思い余ったクライズィヒは、過去の罪を償う行動に出ようと考えました。志を同じくする若者数人とともに、自転車に乗ってポーランドへ向かったのです。正式に国境を通過することは無理だったので、国境警備員の目が届かない場所を選び、野宿をしながらポーランドに入りました。目的地はアウシュビッツ収容所跡です。しかし、ポーランドでの償いの活動を開始するまでには、その後、十数年もかかることになったのです」 

アウシュビッツ収容所跡を訪ねたクライズィヒ一行の目には何が映ったのだろうか。恐らく廃墟として朽ち果てつつあるコンクリートの一群の建物の跡が残っていただけであろう。この廃墟で何が起きたのかを記録し、語り継ぎ、そして生存者を探し出して協力を求め、ナチスによって殺害されたユダヤ人たちのための償いを行なうためには何が必要か。クライズィヒは、アウシュビッツ収容所跡を自転車で周遊しながら、自身の心の中の良心に耳を傾けながら思索し続けたに違いない。

続く 

(c)菅原 秀 2009 (初出『ドイツはなぜ和解を求めるのか』同友館)

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2009年08月02日

エーミールの涙(2)初めてドイツ人を許したフランス女性

●フランスの元レジスタンスの女性に届いた招待状

この話は、ヨーロッパとアメリカでは、何度も語られてきた話だ。もちろん日本にも伝わっている。しかし、何度でも繰り返し語り継がれなければならない話だ。「ヒロシマ」の語かたりべり部と同じように。 といっても、この話は「ヒロシマ」とはまったく質の違う話である。犯した罪の事実を知る話ではなく、犯した罪にどう対応すればいいかという話なのである。人間精神そのものにかかわる、重要な話である。 第二次大戦が終わった翌年の一九四六年、フランスの国会議員イレーヌ・ローのもとに、一通の招待状が届いた。

少女時代から、周囲の恵まれない貧乏な人々をどうやって助けたらいいかということばかりを考え続けていたのがイレーヌだった。困った人を見逃すことのできない性格のイレーヌは、土建業のビジネスマンだった父親の靴下をこっそり家から持ち出して、貧乏な労働者に分け与えるといったことを繰り返していたそうである。 そんな彼女は看護師となり、マルセイユの船乗りで社会主義の活動家でもあった

ビクターと意気投合し、やがて結婚した。ナチスがフランスに脅威を与えるようになると、夫とともに反ナチ・レジスタンス運動に加わり、苦しい戦いを続けることとなったのである。

フランスを占拠したドイツ軍のゲシュタポは、次々に仲間たちを捕えては殺害した。食糧の配給もとどこおり、子供達は栄養失調に苦しんだ。イレーヌは機関銃を持ったドイツ兵の監視の中でレジスタンスの仲間をかくまい、苦しい運動を持続した。そうした経験による心の傷が、ドイツに対する恨みとなって彼女の心の中を渦巻いていた。「ドイツ人はこの世から滅びて欲しい。ドイツという国の存在そのものをヨーロッパから消し去らなければならない」 しかし、行動的な彼女は、そうした憎しみを打ち払うかのように戦後第一回目の国政選挙に打って出て、みごとに国会議員として当選したのである。

さて、招待の主は、アメリカ人の牧師フランク・ブックマン博士だった。スイスの山村の古いホテルで、ヨーロッパの復興のための国際会議を行うので、出席して欲しいという要請だった。 ブックマン博士はロンドンに滞在しながら、フランスのレジスタンスに物心両面での応援をしてくれた人物でもあった。その博士が、戦火で疲弊しつくしたヨーロッパの復興に乗り出すことを知って嬉しかった。早速、出席する旨の返答をした。 そのホテルはジュネーブ湖に面したコーという山村にあった。まるでお城のような建物で、アルペンスキーに訪れる客のために建てられたものだという。戦前は冬季オリンピックの選手団の宿泊所として世界中のアスリートたちを集めていた豪華なホテルだったが、第二次世界大戦のために長いこと休業していた。そのホテルをブックマン博士たちがヨーロッパの復興のための国際会議の場としてマウンテンハウスと名づけて再生させたのであった。

湖を見下ろす小高い山の中腹に建ったマウンテンハウスは素晴らしい建物だった。にもかかわらず、隣国スイスでの戦後初めての国際会議に参加したものの、イレーヌは落ち着かなかった。大勢の参加者がドイツ語を話しているのを耳にしたからである。 イレーヌにとって、ドイツ語の響きは、はらわたが煮え返るくらい不愉快なものだった。フランスを奈落の底に引きずり降ろし、レジスタンスの仲間を次々に殺害した悪魔の響きであった。 

ブックマン博士としては、この会議にどうしてもドイツ人を参加させる必要があった。一九四六年当時のドイツ人は占領軍による特別査証がない限り、国外に出ることは許されなかった。ところが博士がアメリカ人であったということも幸いしたのであろう。連合国占領軍との粘り強い交渉により、百五十人のドイツ人が、このマウンテンハウスの国際会議への出席を許されたのである。 

ドイツ語を耳にしたイレーヌは、心の底に眠っていた憎悪が、ふつふつと煮えたぐってくるのを感じた。居ても立ってもいられなかった。そこで、荷物をまとめて帰国することをブックマン博士に伝えた。

博士は語った。「ドイツなしで、これからのヨーロッパをどうやって統合すればいいのですか。あなたはこれからのヨーロッパの平和を作り出すために、ここに来たのではありませんか」 イレーヌは博士の言葉にショックを受けた。部屋に戻るとそのまま閉じこもって、二日間考え続けた。「自分のこの憎しみの感情をどうやって消せばいいのか。この憎しみと復讐心は、自分が本当に求めていたものだったのだろうか」


●ドイツ人を赦したイレーヌ・ロー 

イレーヌは決心して、三日目の昼食に参加した。イレーヌのテーブルに、ひとりのドイツ人の女性が座っていた。イレーヌは彼女に向かって堰を切ったように語り始めた。「あなたたちのおかげで、フランスは信じられない苦しみを味わいました。あなたにはその苦しみはわからないでしょう。大勢の人々があなた方の手で殺されました。わが子であるルイが受けた苦しみがわかりますか? ドイツ兵は息子にあらゆる拷問を行ない、言葉を発することができない生ける屍しかばねにして、私の両腕に押し付けたのです」 ドイツ人の女性はテーブルの上に置いた手をぶるぶると震わせながら、イレーヌの話をじっと聞き続けた。「あなたたちによって、愛する仲間たちを失ったこの憎しみを、どうやって消し去ればいいのでしょう?」 

ドイツ人の女性はイレーヌの問いかけに、長いこと黙りこくっていた。やがて、静かに口を開いた。「もし許してもらえるのでしたら、話させてください。私の夫はヒトラーを暗殺しようとしたグループの一人です。夫は捕まり、絞首刑になりました。二人の子供は連れ去られて、偽名で孤児院で暮らすことになりました。終戦の後、やっと子供たちを取り戻すことができました。私たちはもっと早くナチスに対して抵抗をしていればよかったのですが、不十分でした。もっと大きな抵抗運動をすべきでした。そのためにあなた方に無限の苦しみを与えてしまいました。心からお詫びします」 

その女性は、ヒットラーの暗殺に失敗して殺されたアダム・フォン・トロットの未亡人だった。アダム・フォン・トロットはナチス時代の外交官だった。イギリスに駐在していたときにヒトラーのユダヤ人虐待を知り、それを止めるために一九三八年に帰国した。しかし、ナチスはすでに恐るべき殺人集団になっていた。トロットはやむなく、ヒトラー政権を打倒することを目的に設立されたクライザウ・サークルという小さなグループに加わった。やがてこのグループは軍の中枢部の人々とともにヒトラーを暗殺し、クーデターを起こす計画を立てたのである。

「七月二十日事件」または「ワルキューレ作戦」と呼ばれるこの暗殺計画は失敗し、関係者はことごとくナチスによって虐殺された。 話を聞いているうちに、自分以上の苦しみを味わってきたトロット夫人に深く同情したイレーヌの喉から嗚咽がこみ上げてきた。

二人は手を取り合って泣きじゃくり、お互いを許すことにしようと約束した。 翌日、イレーヌは集会場に集まっていたドイツ人たちの前で、自分の心の内を語った。「私はドイツ人を心の底から憎んでいました。ヨーロッパの地図からドイツを消し去りたいと思っていました。しかし、ここに来て気づきました。私が抱いていた憎悪は間違ったものだったということを。ここにいるドイツ人の皆さん、どうか、あなた方を憎悪していた私を許してください」 

居合わせたドイツ人たちは、次々に言葉を発した。「許しを請うべきなのは、私たちドイツ人です。ナチスによる侵略と虐殺を止めることができなかった私たちを許して下さい」 その場に、後に西ドイツ首相となるコンラート・アデナウアーがいた。アデナウアーはイレーヌの「許して下さい」という言葉を聞き、衝撃を受けた。 


●「和解」を訴える旧敵国ドイツへの旅

その後、アデナウアーはイレーヌを西ドイツに招待し、ドイツ各地で講演会を開くことになる。講演会でイレーヌの話を聞いた聴衆は、次々に自分たちの許しを求め、フランスとの和解を求めた。イレーヌの西ドイツ・ツアーをきっかけに、和解の気持ちを演じるためのミュージカル劇団が組織され、その後、ヨーロッパ各国で公演が行われるようになっていった。

それまでの歴史には、和解という概念がなかった。あったとしても、せいぜい戦争当事国同士の和解交渉の範囲で使われる言葉に過ぎなかった。戦争の犠牲者は国民である。その国民同士が、負けるか勝つかという弱肉強食のルールとはまったく違うレベルで、お互いの和解という平和の手法を生み出したのである。 今でこそ、各地の悲惨な戦争の戦後処理のプログラムに、相手国の個々の人々との和解を醸成するプログラムが作られるようになったが、その原形が生まれたのが、一九四六年のマウンテンハウスでの国際会議だったのである。 

もちろんイレーヌのドイツ・ツアーでフランスとドイツの和解が一気に進展したわけではない。ドイツは正しかったと考える人が大多数の時代がずっと続いた。しかし、ドイツとフランスとの間での最初の和解のきっかけは、こうしてアメリカ人牧師ブックマン博士の力によって、開かれたのである。 ブックマン博士は、なぜこのような国際会議を開いたのだろうか。 博士は、英国の大学で教えながら、ナチスのような恐ろしい考えを阻止するためには、心の道徳を再武装しなければならないと訴え続けていた。博士のもとで学んだ生徒たちはこの考え方を世界中に広めるために、博士の訴えを「道徳再武装運動」(モラル・リアーマメント・ムーブメント:MRA)と呼び始めた。 

MRAの運動を展開するためには、国際会議が開催できて大勢の指導者たちが宿泊できる施設が必要だ。そうした中、スイスの休眠していたホテルに着目したブックマン博士の弟子たちは、ホテルを管理していた銀行と交渉した。 再建をあきらめかけていた銀行は、ホテルを平和構築のための国際会議場にしたいというアイデアに興味を持った。現地の地方自治体も世界各地からのVIPの会議場へというアイデアを歓迎した。その結果、破格の値段で売却してくれたのである。 

こうして、このマウンテンハウスには全世界からの政治家や、財界指導者が集まることになったのである。マウンテンハウスは一貫して、異なった立場の人々と協調し和解するためにはどうしたら良いか、というテーマでの国際会議を行う場として機能し続けることとなった。MRAは現在ではイニシャチブ・オブ・チェンジと名前を変え、全世界で静かな運動、つまりお互いの誤解を解く運動を展開している。

(続く)      (c)菅原 秀 2009 

先を読み進みたい方は『ドイツはなぜ和解を求めるか』(菅原秀著、同友館)をお求め下さい。   

 
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2009年03月09日

エーミールの涙(1)ベルリンで見たエーミールの痕跡

▼ケストナー好きの機内乗務員

ベルリンと聞くと私が真っ先に思い出すのは、エーリヒ・ケストナーによる子供向けの物語『エーミールと探偵たち』だ。子供の頃の私はこの物語を、胸を躍らせながら、おそらく十回以上も読んだものである。それほど面白い本だったのはなぜだろうか。あの山高帽の詐欺師を大勢の子供たちでやっつける場面は、子供の心にとって実に爽快だったからと
いう理由だけだろうか。恐らくケストナーの描写力に、子供の魂を揺り動かす何かがあったに違いない。二〇〇七年五月、そのベルリンヘ向かうために私は、六人の記者団の一員としてルフトハンザの機内の客になっていた。今回の旅は、ドイツ文化センター(ゲーテインスティトゥート)の企画によるものだった。日本の記者をベルリンに招いて、ドイツ
の各機関が過去の清算をどう行ってきたのかをつぶさに見てもらおうという、しごく生真面目な企画である。

九日間の旅であったが、五人の記者と大学教授一人による総勢六人の一行は、忙しい中でスケジュールをやりくりしたので、飛行機の座席についてからやっと、下調べを開始するという状態だった。それぞれ眠い目をこすりながら、これから訪ねていくベルリンの各機関の資料を読み込むのに余念がない。

私の前の座席には四十歳ぐらいの日本人の母親と、小学低学年の男の子が座っていた。ベルリン行きの直行便はないので、この飛行機はミュンヘン行きだ。その親子はミュンヘンに赴任している父親を訪ねての旅だということが話の端々からうかがえた。数時問後、椅子で眠っていたと思ったその母親が立ち上がり、棚の荷物を降ろそうとして手を伸ばした
とたん体がふらついた。そのままよろけて通路に倒れてしまった。通路をはさんで隣に座っていたドイツ人の若い女性と私が思わず立ち上がり、ふたり同時に手を伸ばして母親を助け起こした。「ドシン」と音がしたのだが、通路に打ったのは頭ではなく、お尻のようだった。怪我はないようだが顔面は蒼白だ。子供が泣きながら「お母さん、お母さん」と叫んでいる。

恐らく、例の「エコノミー症侯群」というやつだろう。母親はしきりに「大丈夫です。大丈夫です」というものの、「エコノミー症候群」を心配した私は、とりあえずトイレに行くように促した。さらに私は、母親がトイレに行っている問に日本人の乗務員を呼んできて、隣のドイツ人女性と一緒にことのいきさつを説明した。

トイレから戻ってきた母親の顔面に赤味が差していたので、ほっとした。心配顔の日本人乗務員が何度も母親の席に来て、薬やタオルの類を運び、声をかけてくれる。献身的な彼女は、私や隣のドイツ人女性にも、「お怪我はありませんでしたか」と気を使ってくれる。

「いやあ、日本人の乗務員がいてくれて、助かります」
という私の言葉を聞いた彼女は、
「私は子供の頃にドイツの本を読んで、ドイツが好きになり、ルフトハンザに就職したのです」
にっこりしながら、自分のことを話し始めた。
「へえ、どんな本を読んだのですか?」
「ケストナーです。全部読みました」
私の大好きな作家の名前が出たので、驚くとともに嬉しくなった。

「え、あのエ-リヒ.ケストナーですか。私も大好きで、子供向けの本は全部読んでいますよ」
「ケストナーはナチスが大嫌いだったんです。子供の目線に立ってナチスを批判し続けたケストナーがいる国に行きたい。そう思ってケストナーのことを調べているうちに、ドイツ語を勉強するようになり、その結果、こうしてルフトハンザで働くことになりました」
「それは素晴らしい。ケストナーのおかげで仕事が見つかったんですね。ルフトハンザには日本人は何人勤めているんですか」
「四百人です」
「え、そんなに大勢、働いているんですか」
「でも、大きな会社ですから、日本人は少数派ですよ」
四百人もいるのに少数派だなんて、驚いた。ルフトハンザはそんなに大きな会社だったのか。と同時に、この四百人という数は日本とドイツの長い交流の歴史を物語っているのではないかとも思った。

私は、『エーミールと探偵たち』のあらすじを思い浮かべながら、とても大事な質問をした。

「私はベルリンが初めてなんですが、ケストナーの小説に書かれているベルリンの町の名前や通りは全部覚えています。今でも残っているんでしょうか」
彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「ベルリンに行ったらびっくりしますよ。エーミールたちが集まった広場も、山高帽の男が泊まったホテルも、映画館も、郵便局も、駅も、もちろん新しくなってはいますが、皆昔の場所に残っています。『エーミールと探偵たち』を手にしながら、ベルリンを回って歩く文学ツアーをしている人もいるんですよ。


▼ベルリンの町にはエーミールの足跡があった


今回の旅は、ドイツの戦後補償の実態を知る視察旅行だ。難しい話の連続で疲労困響る旅になるかも知れないと思つていたが、ルフトハンザの乗務員のおかげでベルリン行きの別の楽しみが生まれた。

さて、ミュンヘンで国内便に乗り換えてベルリンに着いた私たちを迎えてくれたのはヴォルフガング・バウアーさんという学者だ。今回の私たちのための通訳兼旅行案内人だ。北海道大学大学院で八年問経済学を研究した人で、最近ドイツに戻り、仕事を探しているうちに案内人の話を引き受けることになったとのことだ。ドイツでは彼のように四十歳を過
ぎても就職していない人はざらである・高等教育機関で長いこと研究活動をして実績を積んでから、しかるべきポストを探すという人生の生き方を選んでも通用する社会がドイツという国なのだ。

私たちを迎えてのオリエンテーシヨンは、その日の夜。シュプレー川の美しい川面に接しているホテルのテラスで行われた。のっけからビールを注文しながら、バウアーさんが翌日からの視察計画を説明する。

「明日から、かなりタイトなスケジュールが始まりますが、朝の一時間ほどを使ってベルリンの町をミニバスで一周しましょう。ベルリンがどうなっているかをいったん頭に入れることで、今後の旅の参考になると思いますから」

この提案に、私は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「エーミールの探偵事件の足跡を見て回れる!」
他のメンバーは、なぜ私が大喜びしているのかわからなかったようだ。長旅で疲れているのにミニバスから町を眺めるだけのために、わざわざ朝早く出発するのは面倒くさいという顔をしていた。しかし、私がバウアーさんの提案を全面的に支持したので、翌朝の特別観光旅行が決行されることとなった。

私はミニバスの一番前に座って、バウアーさんに質問をし続けた。

「なるほど、これが動物公園(ツォー)駅ですか。この近所にノレンドルフ広場というのがあるはずですが、どっちの方向ですかね」
バウワーさんと運転手が、ああだこうだと議論しながら、ノレンドルフ広場を見つけてくれる。

「ノレンドルフ広場に面した場所に、中庭つきのホテルがあると思うんですが、ホテルの向かいには地下鉄の入り口があるはずです。ケストナーの小説ではホテルの名前は、ホテル・クライトになっていますが。
「え、ケストナーって、あのエーリヒ・ケストーのことですか」
「ルフトハンザの乗務員から聞いたのですが、『エーミールと探偵たち』に出てくる子供たちが活躍した場所は、今でも残っているそうですね」

そのうち、バウアーさんと運転手さんも私の話に乗せられて、古いベルリンの町を探る旅に付き合いだした。記者団の仲問たちにとってはいささか迷惑だったのかも知れない。エーミールが大金を盗まれて困り果てていることを知ったベルリンの子供たちは、このノレンドルフ広場を拠点にして山高帽の犯人を見張り、工ーミールの応援を開始し始めた。そ
の一方で子供たちは、ニコルスブルグ広場にも連絡拠点を構えた。広場の近所の金持ちの家の子が、連絡係に指名された。何せ自宅には電話があったからだ。子供たちは自転車を使ってベルリン中を移動し、応援の仲間を集める。どうやって犯人を追い詰めるのかは、ぜひ小説を読んでいただきたいが、スリルあふれる尾行劇の中でケストナーが描いている
のは、活き活きとしたベルリンの街角と、そこに生きた人々だ。

エーミールが、いとこのポニーと待ち合わせるはずだったフリードリヒ通り駅前の花屋さんは、東ドイツに組み入れられた後も営業していたそうだが、残念ことに壁崩壊後の再開発で消えていた。駅のガード下に花屋さんがあったので、聞いてみた。

「うちは戦後始めた店だから、エーミールの花屋さんと関係ないわ。でも、うちの店の写真を記念に撮っていく人がたくさんいるわ。お蔭様で宣伝になっていますわ」
ということだった。

どうしても見っからなかったのが、カイザー通りという地名だった。山高帽の男は、動物公園駅で市電に乗り、カイザー通りを下っていく。エーミールは自分の大事なお金を盗んだ山高帽の男を逃がすまいと、無賃乗車で市電に乗る。そのカイザー通りを見つけることができなかったので、その日の夜、シュプレー川べりのホテルに戻った私はベルリン地図
を広げながら、ホテルのフロント係にカイザー通りのありかを調べてもらっていた。
「エーミールが動物公園駅から乗った二両編成の市電は、カイザー通りを走っていったと書いてあるんです。駅の近くにその通りがあるはずなのですが、戦後は通りの名が変わったということを聞いていませんか」


▼私に話しかけてきた老婦人の生い立ち


フロント係と私の話を聞いていた八十歳ぐらいの老婦人が、明瞭な英語で話しかけてきた。
「カイザー通りというのは、この大きな教会のある通りよ。昔は市電が走っていたのよ」
彼女は私がケストナーの足跡を探していることに興味を持って、話しかけてきたのである。
ベルリンで生まれた彼女は、ナチスからスイスに逃れた両親と共に移住し、ずっとジュネーブで育ったとのことだ。

「ケストナーという人は、変わった人で、焚書事件の時、わざわざべーベル広場の現場に出かけて白分の本を燃やされるのを見ていたのをご存知?」
「いや、焚書事件というのは知っていますが、ケストナーが現場にいたんですか?」

焚書事件というのは一九三三年五月に発生した言論弾圧事件だ。ナチスが組織したヒトラー・ユーゲントや自警団が、国家を侮辱する内容の本をリストアップして、全国一斉に本を燃やすデモンストレーションを行ったという、とんでもない事件である。

その老婦人は、ケストナーは仲間たちがフランスやスイスにどんどん亡命していったのにもかかわらず、戦争が終わるまで国内に踏みとどまってナチスに精神的に反対し続けようと決意し、ずっとドイツを離れなかったのだと語ってくれた。踏みとどまったケストナーは、その後、何度かナチスにっかまっているが、生き延びることに成功し、戦後は西ドイ
ツ・ペンクラブの会長としてドイツ文学の復興に全力を捧げている。

「いろんな本が燃やされましたが、文学書で狙われたのはヘミングウェイなどの外国のものが多かったのです。ドイツ文学ではハインリヒ・マン、トーマス・マンそれにエーリヒ・ケストナーの三人の作品が目の仇にされました」
「ケストナーのどんなところがナチスにとって気に入らなかったのですか」
「ケストナーは自由思想の持ち主です。物事を奔放に白由に見る態度が退廃的だと思われたのでしょう。焚書についてはヒツトラーが直接命令したのではなくて、大学教授と学生が中心になって、ドイツの国威発動に不都合な書物を選び、ヒトラーユーゲントやSA(突乳隊)がそれらの本を集めて回ったのです。マスコミもそれに同調して国民運動として広がっていったのです。学問の自由を大学自らが否定し、思想の自由をマスコミが否定したのが焚書事件です。大勢の国民がヒトラーという悪魔に手を貸して、おべっかを使ったのが焚書事件です。私の父はずっとそう語っていました」

「お父さんは何をしていらしたのですか」
「フンボルト大学の助手でした。自分自身も物事を深く考えずに焚書に手を貸してしまったので、スイスに亡命して新しい人生をやり直そうとしたらしいです」
初日目から、ナチスの爪あとに触れる旅になってしまった。
しかし、この老婦人に会えたことはおそらく偶然ではないだろう。エーミールたちが活き活きと活躍していた戦前のベルリンの魂が、七十年以上の時空を越えて私たちに語りかけてくれたのだ。ベルリンの旅は、こうして始まった。

続く



     
 


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