2014年05月28日

殺虫剤を使わずにデング熱から身を守るには

海外旅行の伝染病予防に朗報が届いた。

今年はデング熱が世界各地で猛威をふるっている。おもに熱帯シマカが媒介する伝染病だが、たとえばフィリピンでは毎年2万人が死亡するなど、侮れない伝染病だ。

熱帯シマカは地球温暖化や都市化に伴って蔓延していると言われ、主に都会に住むヤブ蚊なので、南の国の大都市であるマニラ、台北、ジャカルタ、ムンバイなどに蔓延するという特徴がある。

もちろん死亡率は5%なのでデング熱にかかっても早めに対応すれば大丈夫だが、蚊にさされないようにするのが一番。でも殺虫剤はできるだけ使いたくないもの。

蚊ボトル.JPG

去年、マニラで発明された自分で作れる蚊取りペットボトルはとても効果的だ。なにせ蚊をおびき寄せる材料はどこのスーパーでも売っている黒砂糖とドライ・イートスだけ。大きめのペットボトルと水さえあればすぐ作れる。

このペットボトルが普及したおかげで、マニラではデング熱の死亡者が半減したそうだ。南の国に旅行するときは自分を守るためだけではなく、地元の人たちにまだまだ知られていないこの簡単な方法を教えてあげよう。きっと大感謝されることだろう。

●自作蚊取りペットの作り方

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2013年08月20日

ビルマ(ミャンマー)へのビジネス進出の条件(上)

先日、ジャーナリストのバーティル・リントナー氏から「ぼくの本がヤンゴン市内で売られているよ」という連絡があった。ヤンゴン市内の露天商がニコニコしながら、雑誌や新聞と一緒に、リントナーの本を並べて売っている写真が添えられていた。時代は明らかに変わっている。
 現在、ミャンマーの国会では検閲に関する法律の改正について、活発な議論が行われている。テインセインとアウンサンスーチーの二人三脚体制は、保守派に何度も押し戻されながらも、少しずつ進展している。しかしながらUSDA(連邦団結発展協会)が国会議席の多数を占める現状は、極めて不安定であることをしっかりと把握せずに、ミャンマー進出を考えるのは、いささか性急である。
ピルマ(ミャンマー)事情の基本をしっかり把握して、カントリーリスクを最小限に抑えるために、私のメルマガやブログに時折、目を通して欲しい。
  ここしばらく家族の看病で、何もできない状態が続いて、発行が遅れていたことをお詫びしたい。
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■まだ早いミャンマーでのビジネス

ミャンマー(ビルマ)が26年ぶりに軍事独裁から民主化路線への舵取りを行うことになった立役者は、民主化のシンボル、アウンサンスーチーではなく、軍事組織を支える側から大統領に選ばれたテインセインだった。
 
 軍政の側に密かに芽生えていた良識が、ミャンマーの再生にとって民主化が必要であると認識していた結果ではあるものの、今回の民主化はあくまでも、長年にわたってビルマ国民を苦しめてきた軍事政権の側から提起されたものであるということをしっかりと見すえない限り、この国との友好関係を強固なものとすることで出来ない。いや、出来ないどころか、1990年代に経団連がリードして大失敗をした対ミャンマー投資の二の舞になりかねないのである。

 とはいえ、四半世紀にわたって続いてきたミャンマーの鉄の支配が、テインセインという良識派の出現によって明るい兆しを見せているこのチャンスを逃す手はない。長年にわたって幽閉状態に耐えてきたアウンサンスーチーも、国政に参加するだけでなく、欧米に出国することも出来るようになり、テインセイン大統領とも頻繁に連絡しあっているようで、今までとは比較にならないほど風通しが良くなっているからだ。
 
 テインセイン大統領は、元ビルマ軍大将で、軍ではナンバー4の地位だった人だ。一昨年に国家元首(大統領)を引退したタンシュエ上級大将の忠実な部下であり、タンシュエ自身が引退するにあたって後継者として指名されている。

 ミャンマー軍政には汚職がつきもので、多くの幹部が汚職の罪で失脚してきた。テインセインはそうした汚職には一切手をそめて来なかったといわれ、軍内部でも国民からもクリーンなイメージを持たれており、非難されることがなかったことも強みである。
 鉄の支配を貫徹し続けたタンシュエは強硬派として悪名が高かったので、イエスマンであるテインセインも、今までの強引な弾圧を継続するのではないかと思われたが、大統領に就任すると同時に住民が反対している巨大ダム、ミッソン・ダムの建設停止を打ち出し、ビルマ国民だけでなく国際社会からも驚きの目で見られることになった。

 その後テインセインは矢継ぎ早に、メディアの自由化、少数民族反政府勢力との対話、アウンサンスーチーとの対話、国際社会への参加表明、政治囚の一部釈放などに着手し、「軍事政権はどうも本気で民主化の方向を歩もうとしているのではないか」という観測が生まれるようになった。

■欧米諸国は懐疑的

 とはいうものの、国際社会がテインセインの改革を素直に信じるのは無理な話である。この四半世紀の民衆抑圧の歴史があまねく知られていたからだ。したがって、今までの軍事政権が一気に民主化への道を歩んでゆくだろうという考えには懐疑的にならざるを得ないのである。
 
 ご承知のようにアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)は1990年に行われたビルマの国民議会総選挙で8割を超える圧倒的な議席を確保し、ビルマの民主化は一気に進むと思われた。しかしその後、ビルマ軍はこの選挙結果を無視し、違法なクーデター状態を続行し、当選した国会議員の大部分を逮捕または幽閉し、全土を掌握してしまった。

 さらに国民に問うこともなく、今まで使われていたビルマという国名を、ミャンマーとし国際社会に対し、国名の変更を通知した。

 ミャンマーという国名はもともと、この国で使われていた呼び名であり、ビルマと同義語の古い言い方に過ぎない。いわば日本を大和と呼びかえるようなもので、国民にとっては大きな違和感がなかったようだ。しかし、議会手続による国名変更を経ることなく、クーデターで政権を掌握したのち自らも暫定政権を標榜していた側が、勝手に国名を変更したことから、欧米各国はミャンマーという呼び変えにとまどい、日本が先進国の中ではいち早くこの呼称を受け入れたものの、それ以外の先進各国はビルマの呼称に固執し続けてきた。

 アメリカやヨーロッパ諸国は、ビルマ人亡命民主活動家を積極的に支援し、世界各地で国際会議を開いてビルマ軍事政権を孤立化させるために、経済制裁を持続した。ビルマ軍事政権にはあまり厳しい態度をとらずに、比較的親しい間柄を維持しようとする日本に対しても、欧米は圧力をかけ続けた。その結果、日本政府はヤンゴン空港の整備支援やバルーチャンダムの修復支援などを行ったものの、その後の援助は福祉や農村開発などに限定した草の根援助レベルにとどまることを余儀なくされた。


■日本の対ビルマ支援は上から目線である

 日本の支援の形が国際的に強く批判された極め付きは、ヤンゴン総合病院に対する高額な医療機器の支援だった。

 自宅幽閉を解かれたばかりのアウンサンスーチーが日本政府の支援に対し、「この病院は誰のための病院ですか?ビルマ市民はシャットアウトされ、医療の恩恵を受けることが出来るのは軍事政権の幹部だけ。日本政府は、エリートのためだけの病院に国民の血税をつぎ込もうとしているのです」

 実のところ1988年の反政府デモの際に、このヤンゴン総合病院で数多くの民主活動家が軍隊に襲撃されて命を落としたという、いやな思い出があり、アウンサンスーチーにとってもそうした場所へいち早く支援を再開する日本政府に対して、昔の事実を見据えてほしいという気持ちがあったのかも知れない。

 アウンサンスーチーからのこうした率直な批判を受けてしまった日本政府は、一時は経団連のミッションを送るなどして軍事政権との経済交流を図ろうとしたものの、欧米の圧力に徐々に屈せざるを得なくなっていったのである。
 その後、ビルマの経済支援を行う国は、中国、北朝鮮、隣国タイなど、ごく少数の国々に限られねることになり、国際社会から嫌われた軍事政権の下、ビルマの人々は自由が訪れることを望み続けながら、苦しい経済生活に耐え続けてきた。

■ついにオバマが訪問した

 そんな状況を一番良く観察していたのはアメリカだが、そのアメリカのオバマ大統領が、昨年11月にミャンマーを訪れた。アメリカ大統領としては初のミャンマー訪問であり、テインセイン大統領の民主化政策を評価し、さらに必要な支援を表明するためのものであった。

 それに先立ち米国務省は03年に開始した経済制裁を、一部の事案を除いては解除すると発表した。

 一部の思案と言うのは、ビルマ軍事政権の資金源とされていたルビーや翡翠などの宝石類の対米輸出である。ビルマの宝石の利権は軍事政権が確立されて以来、軍の幹部によって独占されており、独裁者として長いことビルマを支配したネウィンの娘サンダウィンが、宝石貿易全体をコントロールする中心人物だとされている。

 制裁によって繊維製品の輸出などが出来なくなったビルマの産業は大打撃を受けたのだが、宝石貿易以外は解除されるとのことで、事実上、経済制裁の全面的解除といって差し支えないであろう。
 さらに国務省は、経済制裁の解除と引き換えに、北朝鮮との関係断絶、少数民族反政府勢力との和解、腐敗の一掃などの一連の改革を迫っている。

 オバマ大統領はこの国の呼称についても、今までビルマ一辺倒で通してきたアメリカの態度を軟化させ「ビルマでもミャでンマーでもどちらでも良い」と述べている。

 ヤンゴン大学での講演の冒頭では「ミャンマー、ナインガン、ミンガラーバ」(ミャンマー国のみなさん、こんにちは)とビルマ語で挨拶し、今回の訪問の理由について次のように述べている。

「私は就任演説の中で、民衆を抑圧する政権が、そのこぶしを少しでも緩めるなら、民主化のために手をさし伸べると語っています。私がアメリカ大統領として始めてこの国にやってきたのは、支援の手を差し伸べると述べた約束を果たすためです」
と語りながら、民主主義の条件について詳しい演説をおこなっている。
  オバマ大統領のミャンマー訪問に関して、アウンサンスーチーは躊躇し、アメリカ国務省に対して時期尚早であると申し入れたとのことである。また在米の民主化グループ代表のアウンディン氏も、ホワイトハウスに書簡を送り、時期を延ばしてくれるように要請している。

 今、ミャンマーへの制裁解除に踏み切れば、もし民主化の動きが後退したときに取っておけるカードがなくなってしまう懸念からだ。

 しかし就任二期目のオバマ大統領にとっては、オバマ外交の成功例を国際的にアピールする絶好のチャンスだったことと、ミャンマーと親密な関係にある中国をけん制し、民主化に対するアメリカの取り組みが中国とは違うものであることを強調するためは、どうしても必要な訪問であるとアウンサンスーチーを説得し、実現にこぎつけたのである。

 報道ではオバマ大統領がアウンサンスーチーを抱きしめ、頬にキスをする場面が何度も放映されたが、スーチーの心の本音は、あくまでも今回のミャンマー訪問に対しは、懐疑的気持ちを持っていることが、キスを受けてはずかしそうにしているその表情からも伺える。(続く)      初出 2013年3月 月刊「公評」


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2010年04月04日

外務省の邦人保護能力への大きな疑問

■邦人保護のノウハウと外務省

アフガニスタンで日本人ジャーナリスト常岡浩介さんが何者かに誘拐されたらしいというニュースが届いた。日本の外務省は邦人救出のノウハウをほとんど持っていない上に、マスコミも無節操にどんどん取材合戦を繰り返して人命を危険にさらす傾向が強い。特に人質事件の場合には現地の事情に詳しい交渉人を、マスコミの動きを抑えながら、早急に送り込むというロー・プロファイルな技術の確立を急がなければならない。これが、日本にはまったくないので、今後が心配だ。

そうした中、先月27日にアフガニスタンから戻ってきた中田孝同志社大学教授が4月2日にtwitterを通じて次のように発言している。

常岡氏がタリバン支配地に入る前に、タリバン側から、「我々の方では貴兄が来ることに問題はないが、我々と接触したことが分ると、アメリカとアフガニスタン政府の諜報員にタリバンの犯行に見せかけて殺害されることが心配だ」との連絡があり、それでも敢えて行く、ということで彼は出発しました。

中田氏のTwitterによる発言によって、安直にタリバン犯行説に結び付けようとする世論をある程度抑制することに成功している。アフガニスタンにはタリバンだけでなく、アルカイダやアフガン政府関係者などを含むさまざまな武装グループが跋扈しており、身代金目的や、宿敵を陥れるための目的など、外国人を虎視眈々と狙っているのである。タリバン犯行説のようなものが一人歩きすれば、アフガニスタンの今後の和平にとってマイナスにしかならない。そうした複雑な事情を知らしめる上で、中田氏のtweetのタイミングは適切だった。

しかし、通信社からの情報がリレーされる間にタリバン犯行説が独り歩きする可能性はまだまだある。4月3日にはフランスのAFP通信の配信を受けたオーストラリア・メルボルンの有力紙「ジ・エイジ」が、「タリバン、日本人ジャーナリストを誘拐」という見出しをつけて発表している。AFPの配信記事にはタリバンが誘拐したとは一言も書かかれていないのだが、「ジ・エイジ」の編集部が勝手に先入観に基づく見出しをつけてしまったのだ。

従って私たちは、今回の件に関して、とにかくマスコミが先入観を持った報道をしないようにウォッチし続け、「ジ・エイジ」のような誤報が生まれれば、いち早くチェックして担当者にそれを訂正させるといった市民レベルの努力が必要である。

■イラク人質事件の教訓を思い出そう

その意味で、2004年のイラクでの人質事件のときの実情を振り返ることは重要なことである。あの時点では、実行犯を刺激するような事態が起きることを憂慮した市民団体のメンバーたちが、フランスにいたイラク人たちのネットワークとコンタクトして、いち早く犯人と接触し、3人がイラク人の敵ではないことを伝えると同時に、解放交渉を行った。

その一方で川口外務大臣(当時)は、事情を把握していないいもかかわらず、「自衛隊を撤退しない」という犯人側を刺激する発表をしてしまい、3人の命を危険にさらしている。今後の教訓として、当時、何があったのかを振り返って見ることにしたい。以下の文章は、当時私が翻訳仲間と一緒にイラク戦争のウォッチ作業をしていたときに作った本のあとがきとして書いた文章である。それに若干の加筆をしたものである。

2004年4月8日に人質事件のニュースが飛び込んできたとき私の頭に浮かんだのは.「このままでは3人は殺されてしまう。なんとかしなければ」という気持ちだった。というのは、外務省はこういうときは何もしないということをいやというほど知っていたからだ。外務省がらみのいくつかの事件が頭をよぎった。

ひとつは、1985年のボスニアに住んでいたリビチ郁子さんが、ジャーナリスト水口康成さんによって救出されたとき外務省がとった態度だった。当時の外務省は、なんの救出活動もしなかったどころか、リビチ郁子さんと水口さんの命を危険にさらし、さらに「感謝状を書け」という要請すらしていたのである。参照:『ボスニア戦記』水口康成著、三一書房。

もうひとつは、1998年にタジキスタンで秋野豊さんが殺害された事件だ。彼は、外務省から国連タジキスタン監視団(UNMOT)の仕事を引きうける人を探すように頼まれていた。電話をかけてきた秋野さんに私は答えた。

「死にたくないよ。そんなに必要なら外務省の職員に行くように突き返したら?」

しかし、外務省から行く人はいなかったので、秋野さんは悩んだ末、自分自身でこの仕事を引き受け、悲惨な結末を迎えることになってしまったのである。残された奥さんは記者団にこう語った。

「秋野の死を無駄にしないで下さい。たくさんの若者が後に続くように願っています」

これだけでなく外務省は昔から邦人保護をネグレクトしてきている。古くはカリブの棄民と呼ばれる移民政策の対応で数々の問題をひき起こしてきたことが明らかになっている。また2000年のアメリカでの9・11テロの邦人被害者24人の家族に対する外務省の対応も実にひどいものだった。この件についてはまだ詳しく報道されていないので、いずれ書かなければならないと思うが、外務省はアメリカ政府や救援機関からの支援についてきちんと遺族たちに説明をしておらず、亡くなった被害者が勤めていた会社が複雑な手続きの肩代わりや、翻訳、通訳作業を行って被害者家族を救済したのである。そうした会社に所属していなかった被害者家族に対して、外務省はアメリカ政府発行の分厚い書類を郵送しただけで、家族からの説明会を求める連絡に対しても、何の対応もしなかった。その結果、何人かの遺族はいまだ補償金を手にしていないと思われるのである。

また2007年にビルマでのデモの取材中に殺害された長井健司さんに対しても、外務省は遺族からの訴えに耳を貸していない。警察庁は犯人の特定に関してビルマ当局に問い合わせをし、遺留品の返還などを強く求めたものの、肝心の担当当局である外務省は、通り一遍の遺憾の表明をしただけで、真相解明のための実務的党問い合わせ作業や補償交渉などを一切ネグレクトし、長井氏の遺族と会社に対していまだにつらい思いをさせ続けているのである。

9・11の件や長井さんの件では、外務省内部からも、その対応のお粗末さを反省する声が聞こえているが、今後どうするかといった具体的な対応策や、危機管理教育プログラムなどはまだ生まれていない。おそらく省内部できちんとした対応策を提案する勇気を彼らは持ち合わせていないのであろう。従って邦人が誘拐されたり人質になったりした場合に対応するシステムは、今のところ外務省内部には作られていないのである。日本の警察はある程度頼りになるのであるが、海外での事件となれば頼れるのは在外大使館と領事館だけだ。あてにならない外交官たちを前に、私たちはどうすれば良いのだろうか。

■命を救ったのは市民による救援活動だった

さて、人質事件の翌日、私は永田町に出かけて片っ端から各党の議員の部屋を回って歩き、外務省とは別の救援グループを組織するよう頼みこんだ。すでに逢沢一郎氏(当時・外務副大臣)を代表とする政府派遣団がアンマン入りしていた。逢沢代議士は人権意識のしっかりした信頼できる人であるが、同行している外務省の職員たちの今までのことを良く知っていたので、彼らの不注意によって3人の命が危険にさらされることがとても心配だったからである。反応が思わしくなく、だめかと思っていたときに民主党の若手が「われわれは野党なのだから、自衛隊撤退と言ってもいいんじゃないか」と党幹部に造反し始めた。その空気に押されてか、急濾、民主党から藤田幸久国際局長がアンマンに飛ぶことになった。飛行機に乗る寸前に会った私に藤田氏は、
「イラクの連絡先がわかったら出来るだけ教えてください」と言い残したまま飛び立った。

私は電子メールでヨルダンやイラクのNGOと接触し、さらに、今だからこそ名前を出せるのだが、イラクとの中継作業に奔走していたフランスのコリン小林さんに電話をかけながら3人の無事を確認し、アンマンに到着した藤田氏に連絡した。3人を心配したイラク人のグループがすでに拉致グループと接触をしていたことは、拉致された翌日である9日のうちに小林さんのもとに届いていた。同時に日本のNGOのメンバーたちもアラビア語放送局に依頼して、3人がイラク人の敵ではないことを訴えたメッセージをたくさん流し、そのメッセージがどんどんイラクに届いてゆくのが報告されてきた。拉致グループが.3人を丁寧に扱っているという情報も届き、ほっとした。

しかし、イラクのNGOから「拉致グループは明日までに解放する準備をしている」という情報がマスコミに流れた直後、外務省は川口順子外務大臣による「私たちはお金をかけて自衛隊を派遣してイラクのために貢献しています」という放送を流し、イラク人の気持ちを逆なでしたのである。外務省はこの言葉が3人を危険にさらすということを一顧だにしなかったのである。日本政府がイラクの自衛隊を撤退しないのだという強い意思を持っていたとしても、あの時点で「撤退しない」と言う必要はまったくなかったにも関わらずである。

さらに翌日、外務省は、犯人との仲介役を自称する元フセインの警護隊関係者に振り回されるという失態を犯している。私たちはこの男が金目当てで動いているということをすでに知っていたが、犯人を刺激する危険な発言をしている外務省に対して、そのことを伝えるものは誰もいなかった。あの時、外務省は完全に市民から見放されていたのである。

そうこうするうちに、外務省は各国の政府に電話をかけて犯人逮捕を依頼しているだけで、自分たちで拉致グループを探し出して交渉することをしていなかったことも、アメリカを始めとする各国の政府関係者を通じて私たちに伝わってきた。政府は市民団体からはるかに遅れて、アメリカやヨルダン政府に電話をかけて無関係な情報ばかり追いかけていたのである。3人の救援のために拉致グループと交渉したのは、イラクの民衆であり、それをフランスの小林さんが私たちにリレーしてくれたのである。

何もしなかった外務省の実態を知らない小泉内閣のご歴々は、解放された3人を次々に批判し始めた。むしろ邦人保護の仕事をまっとうしなかった外務省に、国税を浪費した責任を取らせるべきなのに、3人を自作自演と非難し、それが通用しないと見るや、自己責任という言葉を言い出し、3人に賠償させろと騒ぎ出す始末だった。海外のメディアがこの騒ぎを見て一斉に「こうしたメンタリティーが生まれることは信じがたい。日本人は邦人保護をしないのか」というコメントをしたことが、今でも恥ずかしい思いとして心に残っている。

先進国たるもの、海外で刑事事件を起こした邦人がいたとしても、その邦人を弁護するなどの保護活動をするのが常識である。ましてや素手のまま誘拐された邦人の解放作業すら出来ない上に、市民の手で救援された人質に罵詈雑言を浴びせたのが当時の政府だった。こういった恥ずかしいことが決して起きないよう、海外で邦人が災難にあった場合に迅速に動けるような官民の協力関係をきちんと作り出さなければならない。
                            
初出 2004年5月『世界は変えられる』(七つ森書館)「あとがき」。10年4月4日加筆。 
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2009年05月28日

クメールの涙 司法無視のフン・セン首相

▼カンボジアから届いた今回の事件は、今のところ日本のメディアには報道されていない。小さな裁判事件にしか見えないからかも知れない。しかし、カンボジアの人々は、未だにきちんと司法や立法にアクセスできない状態に置かれているのである。まさにその状態を象徴する出来事として注目すべきである。(菅原秀)

●カンボジアの大虐殺に気づかなかった日本

カンボジアのど真ん中にあるトンレサップ湖は、人々に大量の魚をもたらす恵みの湖だ。はるか遠くのヒマラヤからの水は、いったんこの広大な湖に貯め込まれて魚介類に栄養をもたらし、さらにカンボジアの農地に恵みの水をもたらしながら南下してゆく。しかし雨期になるとメコンの流れは北に向かって逆流し、トンレサップ個を何倍もの大きさに膨れ上がらせ、場合によっては近隣の村々をも飲み込み、田畑を水浸しにしてゆく。

だからカンボジアの農民は「浮き種」というモミを水田に蒔くという農法を古くから行ってきた。トンレサップ湖の魚から作られる魚油と、たっぷりと水につかりながら育ったコメが、カンボジア人の命綱だ。そうしたつつましやかな生活を続けてきたクメール人(カンボジア人)に最大の厄災をもたらしたのがクメール・ルージュ(ポルポト派)だった。

彼らによって虐殺された人々は200万人とも300万人とも言われるが、その実数は未だにわからない。当時、共産主義を標榜したクメール・ルージュ政権の友邦国であったユーゴスラビアのテレビ・クルーが、首都プノンペンの人々の数が異常に少ないことに気づいて、極秘の調査を進めるまでは、大量虐殺は一切外部には伝わらなかった。ユーゴスラビア当局者が秘密裏に調査をし、虐殺が行われていることを国際社会に伝えたが、それが事実と分かるまでには長い時間がかかっている。

日本もご多聞に漏れず、そうした事実を認めたのは欧米の友邦国が事実を確認したずっとあとのことだった。かつてプノンペンに支局を持っていたマスコミ各社も、1975年に一斉に現地から撤退していたにもかかわらず、虐殺の事実をまともに調査しようとはしなかった。

クメール・ルージュ政権崩壊後の1979年には、カンボジア難民が命からがらタイ東部に逃れていき、日本のNGOとマスコミに虐殺の事実を訴え続けたのだが、マスコミはその報道をためらい続け、その後10年間に渡って多くの記者が「カンボジアの大虐殺の噂は嘘だ」といい続けてきたという有様である。

そのカンボジアは国連の介入による選挙を経て、ひどい回り道をしながら民主化を目指してきた。

しかし人民党のフン・セン首相は98年の選挙でその座を手に入れて以来、徹底的に野党を弾圧しながらその政権を維持してきている。フン・セン首相の下で蔓延しているのは国全体の汚職である。役所の手数料の上乗せ請求、学校教師の生徒からの賄賂、医療機関が求める賄賂、さらに極めつけは森林伐採に関する伐採権をめぐる賄賂や、取締官への賄賂などである。

危機感を抱いたアジア開発銀行は2000年にカンボジア政府に対して、森林伐採の全面禁止の勧告を行っている。収入の大部分を海外に依存しているカンボジア政府は渋々その勧告に従い、悪質な伐採業者3社を放逐しさらに、今までの業者にもモラトリアムの規制を行ったようだが、世界各地の環境団体がカンボジアのモラトリアムは機能しておらず、森林は消失する寸前であるという強い警告を出し続けている。

先進各国はこうした状況に危機感を抱き、フン・セン政権に対し、汚職をなくし、民主化を推進するよう強く迫っているが、当のフン・センは耳を貸さない。それどころか国内で汚職撲滅を強く訴え続けるサム・レンシー党の議員たちを集中的に弾圧し、開会中に逮捕することをほのめかして、議員が亡命せざるを得ない状況を作るなど、気ままにふるまっている。

遠く離れた地域で起きている危機に特に鈍感なのが、日本の政府とマスコミである。これから書こうとする出来事も、すでに国際社会が注目し始めているにもかかわらず、日本の政府とマスコミがだんまりを決め込んでいる例だ。


●クメール女性の尊厳を守る戦い

日本にも来日したことのあるカンボジアの元女性大臣ムー・ソクアさんが、フン・セン首相を訴えたのが今回の事の始まりである。

ムー・ソクアさんをローマ字綴りにするとMu Sochua。クメール語では子音が呑み込まれるので、ソッファという風に発音するそうだが、日本ではムー・ソクアさんとして知られている。

ムー・ソクアさんは1954年生まれ。ベトナム戦争の最中、高校を出るとと同時に海外に逃れざるを得なくなり、フランス、イタリア、アメリカで18年間にわたって亡命生活を続けた女性だ。その間、カンボジアにとどまっていた両親の行方は分からなかった。 

ポルポト派の崩壊後、彼女はタイの難民キャンプに向かい、ボランティア活動をしながら両親を探したが、情報を得ることはできなかったようだ。

1989年に新生カンボジアに帰国した彼女は、フンシンペック党のメンバーになると同時に、女性問題と人権問題に真剣に向き合い続け、1998年にはダッタンバン州選出の国会議員に当選、女性・復員軍人省の大臣になる。

その間、カンボジアが直面している女性や子供の人権問題や人身売買問題を積極的に取り上げ、アジア各国のNGOと連携しながら問題の解決に取り組んだ。来日した際も日本政府やNGOとの活発な会議をこなし、カンボジアから日本に売られてくる人身売買のルートを根絶するための最大限の努力をしている。そうした活動は各国から評価され、ヒラリー・クリントンが主催する財団「バイタル・ヴォイス」の国際人権賞を受賞したのを皮切りに、数々の賞を得ており、ノーベル平和賞にも例年のように推薦され続けている。

2004年に大臣の任期を終えたムー・ソクアさんは、野党第1党のサム・レンシー党に移籍し、カンボジアの最大の問題である汚職問題に取り組むようになった。サム・レンシー党は海外からの支援は国民に届くことなく、独裁者として君臨するフン・セン首相の政権維持とのために機能しているに過ぎないと、厳しく啓発し続けてきた。そのグループに彼女も加わったのである。


●発端はフン・セン首相の侮辱発言

サム・レンシー党の汚職追放活動を快く思っていなかったフン・セン首相は09年の4月、明らかにムー・ソクアさんに当てつけた侮辱的な発言を行ったそうである。現地のプノンペン・ポストの報道によればフン・セン首相は、4月上旬カンポット州に出向き、「カンポット州にはチェウン・クラン(強い脚)の女がいる。あえてその女の名前を言う必要もないが、その女は人々を扇動して政府を攻撃することしかしていない。選挙戦の最中にも男に抱きついて、自分にキスをさせるためにブラウスのボタンをはずす始末だ」といった内容の侮辱的な発言を行ったとのことである。

「チェウン・クラン」というのは女性を侮辱する極めて強い言葉だとのこと。この言葉に対し、クメール女性として最大の侮辱を受けたと考えたムー・ソクアさんは4月23日、プノンペン地裁にフン・セン首相を相手取って名誉棄損罪の提訴を行った。請求金額は500リエル。日本円にすれば約12円程度の少額で、フン・セン首相側が謝罪してくれることを求めたものである。

これに対してフン・セン首相は24日、「彼女を名指ししたわけではないので、こうした訴訟は不当である。名誉を傷つけられた」としてムー・ソクアさんとその弁護士のコン・サム・オン氏をされぞれ名誉棄損罪で逆提訴した。ふたりへの請求金額それぞれ100万リエル。日本円で約25万円。公務員の月給が3千円程度のカンボジアでは、かなり大きな金額なので、敗訴した場合はふたりに大きな経済的負担がかかることになるだろう。

フン・セン側が雇った弁護士はキー・テック氏。元弁護士会の会長だ。このキー・テック氏はフン・セン首相の意向を受けて、ムー・ソクアさんが依頼した弁護士コン・サム・オン氏の弁護士の資格を剥奪する動きに出た。フン・セン氏は定員123人のカンボジア国会の圧倒的多数を占めるカンボジア人民党の
党首として、強い権力を保持している。

カンボジアの弁護士協会は、そのフン・セン首相を永久会員として遇しており、元会長の鶴の一声で、コン・サム・オン氏の聴聞作業を開始している。容疑は「政治的意図のもとにカンボジア首相を告訴した」と報道されている。自分が告訴されたことに腹を立てて、弁護士資格を剥奪する動きに出るなどというのは、
司法そのものを否定する行為である。司法の独立をまったく尊重しないフン・セン首相の体質が露呈されたと言えよう。

さらに与党人民党は、ムー・ソクアさんの議員不逮捕特権を剥奪する動議の準備をはかっている。「議員の不逮捕権を剥奪するなんて簡単なことだ」という24日の記者会見でのフン・セン首相の発言は、そうした可能性を示唆するものである。

フン・セン首相は、ムー・ソクアさんが告訴を取り下げれば自分も告訴を取り下げると語っているとのことだが、ムーさんは「フン・セン氏の側から取り下げない限り、取り下げない」としている。しかし弁護士が懲罰委員会にかけられている今、彼女の裁判をあえて引き受ける弁護士はいないであろう。弁護士なしでの法廷を戦わざることになる可能性が大きいのである。

こうした動きを知ったプノンペンのNGO9団体は、政府に弾圧されるという危険を承知で声明文を出した。さらに海外、特にアメリカのラジオ局が一連の動きをフォローしているが、アメリカの「ヴォイス・オブ・アメリカ」からの質問に対して各NGOの代表が次のように語っている。

「女性の尊厳を訴えてささやかな告訴をしてムー・ソクアさんに男らしく謝罪することができないどころか、強圧的な態度で抑えようとするフン・セン氏は、女性が声を出そうとするのを頭ごなしに抑えて、おびえさせている。今、私たちが声を上げなければ、せっかくここまで築き上げてきた女性の声が政治に反映されなくなる」セン・テアリーさん(NGO社会開発センター代表)

「政府も野党も、1992年に女性差別をなくすための条約である「女性に対するあらゆる形態の差別撤廃条約」(CEDAW)を批准して、共に女性差別をなくそうと立ち上がったはずではないか。その精神をないがしろにする不法行為である」プン・チック・ケックさん(NGOリカド代表)

東京在住のメコン・ウォッチャーとして著名なバーナード・クリッシャーさん(元ニューズウィーク東京支局長は日本政府に対して次のように問いかけている。

「他国に干渉しないという原則は、ヒトラーが6百万人のユダヤ人を絶滅キャンプに送り、ポルポトが200万人のカンボジア人を殺害することを許した。今、そうした不干渉主義によって、アウンサン・スーチーの刑務所への収監を許容されようとしており、ムー・ソクアとその弁護士への弾圧が許されそうとしている。隣の家で子供が虐待されているのに何もしないのは人道主義に反する」(カンボジア・デイリー09年5月18日号)

相手国に対して人権侵害をただちに停止するよう明確なメッセージを発することをめったに行わないのが日本政府の外交方針である。しかし、それを知って自国の民主化に手をつけようとしないフン・セン首相のような独裁者をこれ以上甘やかし続けてよいのだろうか。苦しんでいるのは支援する相手国の最下層にいる人々なのである。
                      
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2008年05月25日

ビルマ軍事政権にこれ以上騙されるな(1)

▼サイクロンの被害を受けた国民100万人を何もせずに放置し、そのどさくさを利用して憲法策定の投票作業を強行したビルマ軍事政権。国際社会は怒りを持ってこの非道な政権に対峙し、彼らに支配された国民を一国でも早く解放しなければならない。▼ビルマの軍事政権をつけあがらせてきた国が中国であるが、今回の四川地震ではおおむね国民を守ろうとする姿勢を維持しているようだ。この機会にぜひ反省してもらい、ビルマへの支援政策を見直すように働きかけていかなければならない。▼中国ほど知られていないものの、日本もビルマ軍事政権を甘やかしてきた国の一つである。軍事政権がこれから強行しようとする「でっちあげ国民投票政策」を容認すれば、いつまで経ってもビルマの人々に平和と自由は訪れない。日本がどうなってビルマを甘やかしてきたかを2回にわたって報告する。(08年5月25日 菅原 秀)



◆軍事政権を国家承認してしまった日本の失政


 ビルマ軍事政権は、国家平和開発評議会(SPDC)という任意団体である。この任意団体は88年の発足当時は国家秩序回復評議会(SLORC)という仰々しい名前をつけて「国家の秩序を維持するために国を統治する」と宣言した。権力掌握と共に「秩序維持と平和の回復」「交通インフラの確保」「経済活動の保証」「複数政党制への民主化実現」を約束した布告1号を発表した。

しかしどの約束も、いいかげんな朝令暮改でごまかしてきたことから、信用を回復するために人気のないSLORCという呼び名を廃止して、SPDCとして再デビューした。しかしデビュー後も、軍備拡張以外には何の仕事をしようともせず、20年間に渡って権力の座に居座ってきた。

 この任意団体SPDCが軍事組織を保有しているのだから、始末に終えない。 

 07年9月のヤンゴンのデモで長井健司さんを殺害し、さらに08年5月のサイクロンでは自国民被害者100万人に救いの手を述べることなく放置し続けた。

 ビルマ軍事政権の信用を国際的に失墜させただけでなく、その軍事政権を甘やかし続けてきた日本政府の信用も問われなければならない、重大問題なのである。

 さて、この私の文章を見て、
「なんでビルマと書くのだろう。あの国はだいぶ前にミャンマーと国名を変更したのではないか」
と思われる人が多いかと思う。実は日本と違って他の国々には、この国の呼称変更を認めない人が多く、特に世界のジャーナリストの大部分は未だにビルマと呼称しているのである。

 まずそのことから説明しないと、話がわかりにくくなる。ビルマの人権問題と深く関わっているからだ。
 1989年6月、ビルマ軍事政権は国連に対して、英語での呼称の変更を届けた。それまでのユニオン・オブ・バーマを、ユニオン・オブ・ミャンマーとしたのである。国連のルールでは議席を持っているその国の政権が国名変更を届ければ、自動的に受理しなければならない。したがって国連での国名変更は自動的に行なわれた。

 しかしこの変更に対して、アメリカ、ヨーロッパ各国、北欧各国などが強く反発した。1990年の総選挙でアウンサンスーチー率いるNLDが圧勝したにもかかわらず、政権を委譲せず、そのまま居座っている軍事政権が、国民の信を問うことなく勝手に国名変更することは容認できないと考えたのである。(アウンサンスーチーの日本語表記は、新聞ではアウン・サン・スー・チーだか、本人はビルマの人名表記原則を尊重してアウンサンスーチーにして欲しいと言っている)

 さて変更の理由は何か。
 事情に詳しい田辺寿夫氏は、次のように解説している。

「ビルマ語による国名は、ピダウンズ(連邦)・ミャンマー・ナインガン(国)のまま変わっていない。国名の変更にあたって軍事政権の担当者は、英語のバーマのもとになったバマーがビルマ族をさし、ほかの多くの民族が共住する連邦国家としては、そのすべてを包含するミャンマーという呼称のほうが寄りふさわしいと説明した。しかし、この説明が正確でないことを、内外の多くの識者が指摘している。バマーとミャンマーはもともと同じ語源の言葉で、おもにビルマ族とその国土を指すことは明らかであるからだ。バマーは交互としてよく使われ、ミャンマーはもともとビルマ語の国称として使われているように文語的な表現である。人々はこれまで、この二つを同じ意味の言葉として、とくに意識せずにごくふつうに使ってきた」『ビルマ 発展のなかの人びと』田辺寿夫著 岩波新書

 現軍事政権を認めていない英語圏ではこの国を今でもBurma,北欧諸国はBirmaと呼び、各国のマスコミもそれに習っている。(ビルマという日本語の呼び方は北欧形なので、江戸時代にオランダから伝わったと思われる)

 にもかかわらず日本政府とマスコミは、軍事政権の提案をいとも簡単に受け入れている。

 まず89年に7月から外務省と内閣法制局が今までのビルマ呼称をやめてミャンマーとすることを決定。それを受けた日本新聞協会は「現地の呼び方を尊重する」という理由で、89年8月からミャンマーという表記に切り替えている。

 前提となったのが、89年1月の閣議決定である。88年9月にビルマ軍はヤンゴンのデモを軍事力で制圧、数千人を殺害しビルマ連邦の全権を掌握した。軍は戒厳令をしくと同時に、国家秩序回復評議会という暫定国家管理組織をつくり、治安を押さえ込み、総選挙を行なうと明言した。日本政府はこのグループが治安を回復したことを評価し、閣議決定としてこの国の国家承認をしてしまったのである。


◆マスコミはビルマ表記に切り替え直すべきだ

 90年6月、約束どおり総選挙は実施され、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が485議席のうち392議席を獲得した。軍事政権支持政党である民族統一党(UNP)はわずか10議席というありさまであった。しかし、その結果は反故にされ、逆に当選したNLDの国会議員たちを全員逮捕して、軍事政権をそのまま維持したことは周知のとおりである。

 日本政府は、ここで国家承認を取り消せばよかったのだが、ODAを一時凍結しただけで様子見をすることにした。この時点で本質を見誤ったのである。

 ここから日本政府と国際社会とのボタンのかけ違いが始まることになる。
 そうした経緯の結果、見事なほどすっきりと国名呼称がミャンマーに切り替わったのが日本だ。ビルマ軍事政権の対日心理工作はみごとに成功したのである。

 しかし英語圏からのニュースであるCNNやBBCなどの国際ニュースを聞いていただきたい。どのニュースのアナウンサーも、あいかわらずBurmaと呼称していることに気づくはずだ。

それに対して、ビルマ軍事政権を支持する国であるロシア、中国、シンガポール、北朝鮮などから発信される英語放送を聞いていただきたい。これらの国の放送局では必ずMyanmarと呼称している。

 また両者を混合している国もある。タイ、バングラデシュ、マレーシア、それに加えてASEAN諸国の、ビルマと深い利害関係を持つ国々である。これらの国々は好むと好まざるに関わらずビルマとの接触を続けなければならない運命にあり、全体的にコンストラクティブ・エンゲージメント(建設的関与)という外交手段を採っている。これらの国々では、政府系メディアはミャンマー、反政府系メディアはビルマという形で報道し、それぞれの番組や記事の中では、ばらばらにふたつの呼称が併用されている状態である。

 つまりビルマ軍政を支持する人々はミャンマー、軍政の居座りを許容しない人々はビルマという風に、全世界の世論を二分し、呼称自体が政治的なものになってしまったのである。

 日本では、在日ビルマ人による民主化団体と、日本人の支援団体がこの国の民意抜きの呼称変更を認めずに、ビルマと呼んでいる。テレビや新聞などのマスコミは別段ビルマ軍事政権を支持しているわけでもないのに、一律にミャンマーと呼んでいることから、大部分の日本人がマスコミの報道を受け売りしてミャンマーと呼ぶようになった珍しい国が日本だ。

 私は、選挙結果を無視し、国会の機能を17年間も停止し続けたまま権力にしがみついているこの軍事政権を許容するわけにはいかないので、ビルマと書き続けている。ジャーナリズムには、表現の自由を守る使命がある。表現の自由を完全に否定している政権が勝手な国名変更をしたことを許すのはジャーナリストの職業倫理と矛盾しているからだ。さらに国際ジャーナリスト連盟(IFJ、会員数1億5千万人)を始めとするジャーナリスト団体のほとんどが、言論の自由を否定するこの政権に抗議する立場でBurmaの表記を採用しており、国際的なジャーナリズムの連携をはかるうえでも、Myanmarという「踏絵的」な表記は不適切であるからだ。

 こうした説明をすると、多くのジャーナリストが賛意を示してくれる。しかし、いったん呼称を切り替えてしまった日本のマスコミにも面子がある。ビルマ学者の投稿などにビルマ(ミャンマー)と記載してお茶を濁している程度が精一杯のようだ。ここで各メディアの記者は勇気を持ってビルマ表記を社内に通用させるようにして欲しい。 

 長井さんの死を無駄にしないためにも、せめての抵抗の意味で堂々とビルマと書き直していただきたいのである。言論を弾圧した軍事政権が民意に基づいた手続きをおこなわずに変更した国名を垂れ流すのは、言論の自由を守るジャーナリストという立場に相反するのだということを熟慮していただきたい。

さて89年の流血の弾圧の直後に国家承認をして、ビルマ軍事政権を甘やかし続けてきた日本だが、その後現地に派遣された歴代の大使たちも、民主化勢力に対する弾圧に対して毅然とした態度を採っていないのが目立つのが日本の外交だ。
特に93年から大使を務めた田島高志氏と、95年から大使を務めた山口洋一氏は、一貫して軍事政権の側を支持し、軍事政権と外務省の蜜月時代を築いてきた。その悪影響は今でも続いている。


◆ビルマとの蜜月時代を演出した大使たち

山口氏が大使になった頃、私はオスロに本部のあるNGOワールドビュー・ライツの職員としてビルマ民主化支援活動を開始した。
さっそくビルマを担当する外務省南東アジア1課を訪問し、今後の活動への協力を要請した。そのとき応対したM課長は、私に対して次のように語った。

「日本ではミャンマー国民の大多数がスーチーのNLDを支持していると報道されていますが、それは90年の選挙のときだけの一時的な現象です。今では彼女を支持する人はビルマ全体で500人程度しかいません。軍事政権がまじめに国を運営しているのにもかかわらず、NLDは欧米から資金を得て、嘘の情報を流し続けています。決してNLDや亡命政権であるNCGUB(ビルマ連邦国民連合政府)などの情報に振り回されないようにお願いします」

 私は開いた口がふさがらなかった。
500人という不思議な数字にまず驚いた。当時日本に在留していたビルマ人の数だけでも一万人がいた。大部分はノンポリであるものの、大使館の職員やその家族を除いては、軍事政権の支持を表明する者はいなかった。つまり日本にいるビルマ人の少なくても9割以上はNLDを支持していたのである。90年選挙のときのパーセンテージは日本に来ても同じだった。M課長は、日本だけでもNLDを支持する9千人以上のビルマ人がいるのに、ビルマ本国に500人しか支持者がいないと言ったのだ。

 しかし、それが山口洋一氏の受け売りであることがあとからわかった。山口氏があちこちで「スーチーは欧米から資金を得て政府を苦しめる策略をしているが、彼女の支持者は全体で500人程度しかいない」と話しているのを知ったからだ。

 田島氏と山口氏は、ビルマへの最大の援助国として常に国賓待遇で扱われており、彼らの著書の中で軍事政権から数々の便宜供与を受けていたことを自慢している。

 ゴルフ接待から始まり、地方視察の際の特別機や特別列車の提供など、自分たちの家族も含めて王侯貴族のような扱いを受けていた。国際公務員がこうした便宜供与を受けることには倫理上おかしいと思うので、国際法の専門家が私宛にご意見を寄せていただければありがたい。

 さて山口大使の時代に、ある出来事が持ち上がった。自衛隊や外務省などの日本政府職員7人が、ビルマとタイの国境の難民キャンプを視察し、食糧事情や水道事情を調査したのである。難民キャンプの住民を支援しているビルマ国境コンソーシアム(BBC)という国際NGOからの要請による草の根無償支援の実態調査のためだった。調査団はその結果を本庁に報告し、700万円の食糧支援を行なうことが決定された。

 しかしその決定は実行されず宙に浮いたままだった。情報をキャッチしたフォトジャーナリストの山本宗補氏が外務省に問い合わせたところ、「ビルマ軍事政権からカレン民族同盟(KNU)の武器に流用される恐れがあるので、支援しないようにと言われ棚上げになっている」という話だった。

 真相はこうだった。バンコクの日本大使館の職員がこの草の根支援の計画を聞きつけて、日頃親しく付き合っているバンコクのビルマ大使館の職員に電話をした結果、ビルマ側が支援をしないように強く要請したのである。

 大量の難民を生み出した抑圧側政権に電話をすれば、こうした答えが来るのは当然であり、外交官の責任を大幅に逸脱した背信行為である。この対応に対して市民団体が強い抗議をした結果、宙に浮いていた支援はBBCに届けられた。

 そのBBCの本部を訪ねた私は、翌年も草の根資金援助の申請をするのかと尋ねた。責任者はこう答えた。

「もうこりごりです。突然日本大使館に呼び出され、授与式で日本の大使とタイ外務大臣に対する感謝の言葉を述べよと言われたのです。私たちはさまざまな国からの支援を受けていますが、官僚に対するお礼を強要されたのは初めてです。私たちの活動が外交上の取引に利用されていることを知って、正直がっかりです」

 さて山口元ビルマ大使は、長井さんが殺害された事件の直後から不思議な行動を開始している。雑誌、テレビ、あげくの果てには外国人記者クラブにも登場して、ビルマ軍事政権擁護の発言をし続けているのである。

 その論理があまりにも変わっているのでマスコミは飛びついた。「軍事政権が一般市民、ましてや外国人ジャーナリストに発砲することはありえない」「スーチーは市民に金を渡してデモに参加させた」「スーチーは96年に自動車での移動中市民から、外国人女は出て行けと言われた。こわくなったので警察に泣きついてその後、軟禁という形で保護してもらっている」「スーチーは英国に操られ、ビルマを混乱に陥れようと策動している」などの独特の論理をまくし立てたのだ。


続く                 (c)菅原 秀 2008
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2005年02月12日

アジアの言語と報道(2)

▼名前を呼ぶ風習も大違い

また、中国人の場合、姓と名前がワンセットになっている。日本のような家族制度がないので、「王さんが」とか「黄は語った」などの表現は、名前の特定度が稀薄になってしまう。
各社の中国在留特派員は、中国人の名前を姓名で打電してくる。「周氏が……」などという風に直すのは外信部のデスクか整理部の記者である。現場を見ていない人間はもっと現場を尊重すべきである。

つまり周恩来の両親は、息子に向かって「チョウ・エンライ!ライ.バ」(周恩来!こっちに来なさい)と呼んでいるのだ。家族ですら名前を単独で呼ぶ風習はあまりない点に注目していただきたい。

名前だけ呼ばれるのは幼児の場合や、兄弟同士、あるいは恋人同士などで、親がちゃんと子を呼ぶ場合は、姓名一緒である。
文化大革命の時代も毛沢東(マオ・ツォトン)同志と呼ぶことがあっても、毛同志と呼ぶことはなかった。これは中国文化理解の上で注意すべき要素である。
日本式に言えば、中国は夫婦別姓である。つまり姓と名の組み合わせが個人を特定するのである。大事なことは姓の概念は、日本の氏(うじ)制度とはまったく異なった物だということである。

世界各国の氏名制度のほとんどは「父○○の子供」、「母○○の子供」と言う組み合わせが多い。そこで、ミドルネームという表記が生まれたりする。
中国が氏名をワンセットとしてとらえるのに対し、モンゴルなどは、氏のほうは単に父の名前を意味する記号であり、本人を特定して呼ぶ場合は下の名前だけとなっている。またビルマなどは、前述したように姓の概念がなく、ひとりひとりの個人が占星術に基づいた独立した名前を持つという変わったシステムになっている。
結婚して相手の氏に入るシステムを持っているのは、日本だけだと考えたほうが、間違いを犯さないで済むようだ。

さらに蛇足ながら、戸籍制度は日本にしかない。朝鮮にもあると主張する人もいるが、日本が侵略した時に創氏改名政策が失敗したという史実ひとつを検討しただけで、そういう考え方はナンセンスであることが証明できるであろう。
日本人なのだから「しゅう・おんらい」でいいのではないか?という意見は多いようだ。しかし、この方法を採用する限り、日本語以外の言語に移しかえる時にまったく対応でき
なくなってしまうのである。あ<までも、国際情報にすばやく対応するためには、「アジアの言語と報道1」で述べたように、トーマス・ウェード式に憤れておいたほうが便利なのである。

在日している中国人民主活動家、趨南(ツァオ・ナン)さんが、東京地裁で日本への亡命を否定された時のことだ。

外国人特派員協会での記者会見の英語の通訳は、趨南さんの中国語を日本語に通訳し、さらに別の人が英語にするという二重通訳だったのでZhao Nanという彼の中国名を知らずに、チョーナンと発音した。英語のわからない当人の趨南さんはそれをチェックできなかった。
その結果、一部の日本人記者の手による英語紙にChou Nanと表記された。
英語のわかる中国人がこの記事を読んでも、誰のことを指しているか判断できない。Zhao Nanと書けば、「ああ『北京の春』事件に関連した民主活動家だな」とすぐに連想されるはずであるのだが。

たとえめんどうであっても、マスコミがこの原則、つまり漢字・カタカナ併記を採用すれば、中国語や韓国・朝鮮語固有名詞に対する機動力が増し、対外惰報交換のときに底力を発揮できるようになるのではないか。

▼中国側が日本語表記を採用するのは不可能

「それなら中国人も日本語を、東京(トンジン)、田中(ディェンツォン)などと発音せずに、『とうきょう』『たなか』という風にすべきだ」という意見も多い。しかしそれは不可能である。

中国語はすべてを漢字で表記する言語であり、日本語のようにひらがなやカタカナがない。さらに「とうきょう」や「たなか」に対応する発音や漢字がないのである。
無理に漢字をあてはめたとしても、「ターウーチョウ」「ダーネイグー」など日本語からかなりずれた発音しかできない結果になってしまう。それでは、せっかく日本語的な発音を採用した意味がなくなってしまう。
つまり英語のvfrを正確に日本語で表記できないのと同様、日本語のか、き、け、こ、さ、せ、て、と、ぬ、の、む、め、ゆ、などに対応する発音や漢字が中国語にはないの
で、日本語への対応が難しいのだ。

例えば、はやりのカラオケも中国語では、「カーラーオウケイ」という風に発音されている。
台湾に行った時のことだ。カーラーオウケイ・クラブにいた現地の女性が、
「私は日本の歌手ではバタヤキが一番好きです」
といっていた。バタヤキなどというバンドは聞いたことがないので、漢字で書いてもらったところ八代亜紀だった。彼女のファンにとってはバタヤキと呼ばれるのは心外だろうが、中国語での彼女の漢字の名前から連想するイメージは非常に印象がいいそうである。

「やしろあき」と聞こえるように、「牙西洛阿葵」などと漢字で表記する努力をしてみたが不可能だった。
「変な名前ねえ」
と苦笑する台湾人の彼女に、八代亜紀の発音を正確に伝えるすべがない私は、一緒に苦笑するしかなかった。

中国では何種類かの外来語辞典が発行されているが、どれも統一されておらず、外国語を取り入れる際の混乱がうかがい知れる。しかし、新たな方法論が工夫されてゆくことは確実である。考えられるのはヨーロッパなどのような多重表記が常識化してゆくことだろう。
中国の地名や人名を報道するのに、今のまま漢字の日本語読みを続ければ、日本のマスコミは中国の国際化に比例して、さらに多くの困難に直面するに違いない。 了

(c)2005加筆、菅原 秀 初出「公評」1997年9月号
         


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2005年01月30日

ネパール政府がチベット人救護施設を閉鎖

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05年1月27日付の「カトマンズ・ポスト」がネパール政府が突然、ダライ・ラマ法王ネパール事務所とチベット難民救護事務所を閉鎖したと報道した。チベット難民救護事務所はチベットから逃れてくる難民を保護する機能を果たしており、事務所の閉鎖は今後、チベット難民に深刻な影響を与えることになると思われる。チベット政府は2001年の王室殺人事件での政変以来、国会の機能停止と、マオイストとの戦争による混乱が続いている。現在の政府は王室殺人事件ののちに王位についたギャネンドラによる王政独裁の形になっているが、今回のチベット人に対する新しい人権侵害措置が今後どう展開するか、予断を許さない。 
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▼予告なしの突然の閉鎖

報道によれば、ネパール政府は何の予告もなく1月21日、首都カトマンズにあるダライ・ラマ法王ネパール事務所とチベット難民救護事務所の閉鎖を命じた。「ネパール政府に閉めろと言われれば、閉めるしかありません」とチベット亡命政府ネパール代表のワンチュック・ツェリングは、カトマンズ・ポストの記者に対して述べている。

ネパールには毎年数百人以上の難民がヒマラヤを越えて流入している。ヒマラヤの山道を徒歩で逃亡してネパールにたどり着いたチベット難民は、凍傷や疲労からくる疾病に罹患していることが多く、この救護施設は1959年に開設されて以来数多くのチベット難民の救護活動をしてきた。救護されたチベット難民は主にインドのダラムサラなど、世界各地に散らばっており、ネパール国内には2万人程度の難民がいると思われる。

「カトマンズ・ポスト」のインタビューを受けたプラカシ・シャラン・マハット外務大臣は、「今回の措置は中国政府からの圧力によるものではない。ネパール政府に正式に登録しないで活動していたからだ」と回答している。

しかしこの説明はこじつけとしか言えない。チベット難民救護事務所は40年以上も前に活動を開始しており、国連高等難民弁務官事務所の協力を得ながら、各国に送り出されるチベット人難民の一時救護所として今までネパール政府から認められていた機関であったからだ。

▼人権侵害に転じた王政独裁政権

ネパール政府は2003年5月に4人の子どもを含む18人のチベット難民を中国に強制送還しており、この事件をきっかけに、チベット人難民を国連高等難民弁務官事務所にゆだねてきた今までの政策を停止しており、国際社会から強い非難が起きている。

今回の報道を受けてアメリカの人権NGO「ヒューマンライツ・ウォッチ」が28日声明を発表し、ネパール政府に対し、事務所閉鎖措置をただちに解くように要請している。

http://www.hrw.org/english/docs/2005/01/28/nepal10085.htm

「ヒューマンライツ・ウォッチ」のアジア担当のブラッド・アダムス氏はこの事務所について「迫害されている何千人ものチベット人難民に対する極めて重要な安全保護機関であり、事務所が閉鎖されれば、これらの人々にはなんら保護が与えられないことになる」と警告している。

▼混乱の元凶は現国王

現国王ギャネンドラは、ネパール国内では2001年の王室大量殺人事件の真犯人ではないかと疑われている。事件が起きた当日に唯一パーティーに参加していなかったのが、ギャネンドラであったことと、妻、息子が事件に遭遇したにもかかわらず無傷だったことなど、数々の疑惑が取りざたされている。各政党が国王の命令を無視し続ける異常事態が続いており、国会も憲法も機能していない。その結果、ギャネンドラ国王が専制政治を推し進めることになってしまい、さらに王政に全面的に反対するマオイストとの武装抗争で、国全体が戦闘状態になっている。マオイストとの武装抗争の結果、両者の戦死者は1万2千人を超えており、イラクと同様、国全体が危険な状態に直面している。

(c)2005 菅原 秀

参照URL
http://tibet.cocolog-nifty.com/blog_tibet/2005/02/post_1.html
posted by 菅原 秀 at 12:43| Comment(1) | TrackBack(1) | アジア基礎知識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月13日

救援の手が届かないビルマ人被災者たち

救援の手が届かないビルマ人被災者たち
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日本が2億5千万ドルの支援を表明した1月6日のジャカルタでの緊急首脳会議で、ビルマ(ミャンマー)のソーウィン首相は、ビルマ国内の死者は64人、負傷者56人、被災村落29カ村、住居喪失者3205人と発表した。

そして席上「被害は軽いので海外からの支援はいらない。他国にまわして欲しい」という「ご立派な」発言を行なった。

しかし、タイ南部のビルマ人移住労働者にはおびただしい死者が出ており、ビルマ軍事政権は海外で被災した自国民の救援は一切行なっていない。

インドネシア軍にブロックされて救援を受けられないアチェの被災者が大きな国際問題になろうとしている。

今、タイで困難に遭遇している多勢のビルマ人移住労働者についても、同様に注目されなければならない。
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▼タイにいる大量のビルマ人被災者はどうしているか

現在移民労働者としてタイ政府に登録しているビルマ人は約6万人。さらに登録せずに働いている人々は数10万人いると見積もられている。今回の津波の被害が大きかったプーケットや、木材の集積所として有名なラノン、あるいはその近隣のゴム・プランテーションなどの沿岸部は、移住労働者が数多く集まっている地域であり、ビルマ人労働者が多数被災している。

ビルマ人移動労働者を保護する活動を行なっているビルマ人権教育協会(HREIB)が集めた被害報告によれば、これらの被災地域で死亡したビルマ人は500人。少なくともまだ2500人が行方不明だという。

HREIBはタイ在住のビルマ人によるNGOで、国際食品関連産業労働組合連合会(IUF)の支援を受けて設立されている。

http://www.iuf.org/cgi-bin/dbman/db.cgi?db=default&uid=default&ID=2739&view_records=1&ww=1&en=1

▼怖くて救援が受けられない

タイ労働省の4日の発表でも、ビルマ人の死者は302人、行方不明者357人としている。この数は恐らく登録者だけをカウントしたものと思われるが、労働省はさらに津波の影響で2万人以上のビルマ人が職を失っていると報告している。

タイ政府は不法就労者も含めて被災者には一時見舞金と救援物資を与える方針であるが、不法就労が発覚することを恐れていたり、あるいは津波で身分証明書を失くしたビルマ人たちは、救援を受け取ろうとしていない。政府が準備したキャンプにも姿を見せずに、森の中に隠れて自活しようとしているビルマ人が多数おり、栄養不良や病気の危機にさらされている。

こうした混沌の中でいくつかの心配な報告がなされている。

ひとつは名古屋のビルマ民主化支援会に届いたニュースである。

それによれば、タイ政府がラノンでビルマへの帰国希望者を募ったところ、600人が集まった。タイ政府の輸送車でこれらの難民をビルマのコータウンの入国管理局に輸送したところ、「不法な脱国者たちなので、入国させるわけにはいかない」と断り、もし入国したいのならタイのメソットの対面のミャワディーの入管に出頭せよと回答したのである。

ミャワディーに入るためにはさらに北に450キロも離れた地点からとなる。
この600人に対してビルマ政府もタイ政府も輸送手段を提供していないという。その後、この600人はどうなったのだろう。
http://www.scdb.org/topics03.html

▼取り締まりでなく人道支援を

今回のビルマ人被災者に対して、タイ政府は「人道援助を優先し、不法就労者の逮捕を控えるように」と地元警察や入管当局に通達を出している。しかし、この通達はあまり徹底していないらしく、各地の入管によってビルマ人が手入れを受けているという報告が相次いでいる。

たとえばUSAトゥデイの報道によれば、タイの警察は津波の混乱に乗じて盗みや略奪をしているのはビルマ人移住労働者の可能性があるとして、隠れ住んでいるビルマ人たちの捜索活動を行なっている。
http://www.usatoday.com/news/world/2005-01-12-burmese-usat_x.htm?csp=34

本来なら、自国民の保護のために大量に職員を派遣してタイ政府の協力を得ながら、救援活動をするのがビルマ政府に課せられた任務である。しかし、この軍事政権は、「被害は少ない」として何も行なっていないのである。

(c)2005 菅原 秀



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2004年12月23日

中国に大量流入する薬物

■中国に大量流入する薬物
                 
 20日に発売されたDays Japan1月号の記事です。編集部の許可を得てアジア・ジャーナルに転載します。さらに、詳しい情報を近日中にお送りします。
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▼雲南省から流入するメタンフェタミン

中国麻薬取締委員会の2004年9月の発表によれば、中国国内で確認されている麻薬常習者は105万人いるという。うち72%が35歳以下で、若年層に広がっている。とくに深刻な地域は、ビルマ、ラオス、タイの麻薬生産地帯「ゴールデン・トライアングル」と国境を接している雲南省である。

 中国とビルマの交易額は、この10年間で10倍程度に拡大している。欧米からの経済制裁が続いている中で、ビルマにとってもっとも頼りになるのが中国との貿易である。

 その結果、麻薬の製造法にも大きな変化が現れた。ビルマ国内の薬物生産者たちは、中国から輸入したエフェドリンを利用して、アヘンを精製し、メタンフェタミン(ヒロポン・注)を製造している。アヘン樹脂に比べて密輸をしやすく、商品価値が高いからだ。
 そのため、最近の中国への麻薬密輸は、少量を運ぶバイヤーによって行われるようになってきた。

▼ビルマの精製所の数は拡大中

 タイの国境警備当局は、2000年にはビルマ・タイ国境に55カ所のメタンフェタミン精錬所の存在を確認しているが、2004年には90カ所に増えていると報告している。

 5年前までは、ビルマ国内のアヘン生産地は、シャン州東部のワ人支配地域が中心だった。ワ人は中国語を話す少数民族で、蒋介石の国民党からアヘン生産技術を受け継いだという歴史を持つ。雲南省との間を自由に行き来するワ人たちは、強力な自衛軍事組織を持ちながら、アヘンの密輸で生きながらえてきた。

 しかし、2000年代に入って、国際社会の麻薬取締の圧力が強まり、ワ人による麻薬生産地はシャン州北部と、ラオス国内に移動している。また、カチン州やカレン州などにも新たなアヘン生産地が生まれている。

▼必要なのはビルマの民主化である

ビルマ政府と少数民族の確執はきわめて複雑であり、その影には常に麻薬の利害が見え隠れする。現在のヤンゴン航空や大型ホテルなどの原資も元はといえば、クンサーなどの麻薬王たちによる出資によるものである。
 
 ビルマ政府は、対外的には薬物撲滅に取り組んでいると公言しているが、薬物精錬所の数が倍増していることから、その取り組みは疑問視されている。

あいかわらず軍事力で国民支配をし続けているビルマが民主化しない限り、ゴールデン・トライアングルからの麻薬は一掃されない。それだけは間違いないだろう。

*注 覚醒剤の一種。塩酸メタンフェタミンの日本での商品名。製造、所持、使用が法律により禁止されている。

(c)2004、菅原秀 初出「Days Japan」05年1月号

Days Japan 注文先 http://www.fujisan.co.jp/Product/1281680978/


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2004年12月18日

アジアの言語と報道(1)

▼ローマ字表記から発生する誤解

 ビルマ語の表記法の問題点や姓名の書き方については、前項の「ビルマかミャンマーか」で触れたが、アジアの言語は多様だ。取材の過程であらゆる国の言語表記の問題にぶつかる。

たとえば、カンボジアのシアヌークをクーデターで追い出したシソワット家の王族の名を、日本の新聞はシリク・マタク殿下と書いてきた。英語で表記すればSirik Matakなので、それを日本語に置き換えたわけだが、クメール語ではおしまいのKは完全に飲み込まれるそうだ。カンボジア人と話したとき、この人の名前をいったところ、「そんな王族はいない」という話だった。よくよく聞くと日本語とまったく同じ発音でシリマタと言わないと理解できないことがわかった。またクメール語(カンボジア語)には英語のcatなどと同じæの発音がある。

ローマ字でNeak Loeangと書かれる地域は、プノンペンの東部にあり、ベトナム戦争時代にはプノンペンを外敵から守る巨大な軍事基地としてしばしば報道されたが、すべてネアクルン基地と呼ばれていた。これもそのまま発音すると現地の人には何がなんだかわからない。現地語では[næklu:n]という発音であり、ナックルーンまたはニャックルーンという風に表記されるべきものである。

こうした例は、アジアの言語がいったん英語やフランス語で表記されて、それがさらに日本語になるという例の中から発生することが多い。その過程で、原語からほど遠い発音になったりする例が多いので、要注意である。

▼中国語の原音表記

1985年、アメリカ政府は中国語の表記をトーマス・ウェード式のローマ字で行うことを決定した。中国政府が固有名詞の表記による誤解をふせぐ意味で、アメリカ政府に申し入れたのを受けたものであった。この発表にワシントン・ポストやニューヨーク.タイムズなどが好意的に反応し、社告を出し、政府の表記に従うと発表した。

 以前は北京をPekingと表記していたのだが、現地の発音と大幅に違うので問題になっていた。トーマス・ウェード式のローマ字は北京政府が戦後すぐに採用したものであり、北京のことはBeijing(ペイジン)と表記する。さまざまな言語が入り乱れる中国語の共通語である「普通語」(北京語)の発音記号として広く普及している。

 アメリカのマスコミはPekingだけでなく、新華をいままでのShinhuaからXinhua、南京をいままでのNankingからNanjing、周恩来をChou EnlaiからZhou Enlaiなどと切り替えた。最初はなじめなかったアメリカの読者たちも今では、新表記に憤れてしまっている。

 アメリカの発表を受けて、日本のマスコミも、漢字―カタカナ併記法を採用した。北京(ベイジン)、周恩来(チョウ・エンライ)などとしたのだが、長続きがしなかった。「ペキン」や「しゅうおんらい」と言ったほうが通じやすいし、何の不都合も生じないからだ。

 しかし不都合が生じないのは日本国内だけであり、国際間で情報のやりとりをする場合にはまったく不都合なのである。

 国際間での情報のやりとりがひんぱんになっている今日、固有名詞を漢字に直せないという場面によく出くわすようになってしまった。

 以前上海で、現地の外国人特派員たちとの中国情勢の会議に参加したときのことだ。UPI、ロイター、AP、さらにアメリカとヨーロッパの記者が参加しており、わたし以外はすべて西欧人だった。会議は英語で行われたのだが、一般の話題ならついていけるはずの私も、そこでの英語の話についてゆけなくて、閉口してしまった。

 つまり会話の中に出てくる人名や地名などが、中国語のままなので、さっぱりわからないのだ。

「○○大学の学生がハンストをしたときに○○が対話に応じると言ったけれど、実は○○が○○をスケープ・ゴートにしようと思ったらしい。それに気付いた○○は○○に冷静に対応すべきだと言った。しかし○○出身の○○のアジテーションが堂々としていたので○○がすっかりその気になった。実は○○はすでに○○の○○軍に出動の準備を命令していたんだ。発砲を命じたのは○○軍の○○らしい」
とにかく、○○の部分がさっぱりわからなくて、話の内容についていけなかったのである。

 しかたがないのでかたわらにいたロイターの記者に「漢字を書けますか?」と聞いた。このアメリカ人記者の漢字は完璧だった。固有名詞が出た都度、紙に漢字を書いてくれた。

 わざわざ私のために北京の簡体字は難しかろうと、台湾式の旧文字で書いてくれた。おかげでやっと話を理解することができた。漢字の国日本から来たわたしが、ローマ字の国アメリカの記者に、漢字で書いてもらってやっと話についていけるという奇妙なことになった次第である。

 最近は電子メールの発達で、外国のニュースが主として英語でやりとりされるようになってきた。中国の固有名詞がそのままローマ字で表記されている。
「アメリカの上院議員80人が中国のウェイ・ジンションをノーベル平和賞にノミネートした」
こんな記事に出くわすと困ってしまう。
「ウェイ・ジンションって誰だ?」

「ぎ・きょうせい」(魏京生)と書いてもらえばわかるのだが、仮にインターネットでアクセスした情報を翻訳ソフトにかけても、誰のことかは答えてくれない。

 新聞記者だったら、会社の調査部や外信部に間い合わせればすぐに教えてもらえる。しかし、一般の人間には、調べる手立てがない。
 だからこそ、新聞社が率先して中国人や韓国人の名前を周恩来(チョウ.エンライ)、盧泰愚(ノテウ)という風に表記すべきだと思うのだ。あるいは漢字で表記することを一切やめてカタカナで表記するのがいいかもしれない。

アジアの言語と報道(2)に続く

(c)2004加筆、菅原 秀 初出「公評」1997年9月号

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2004年11月27日

ビルマかミャンマーか

ビルマで何が起きているのか、なかなか理解できない理由の一つが、多民族国家であるための用語の複雑さである。さらに長年の鎖国政策が終焉すると同時に、現軍事政権の情報統制が強化されたこともその一つである。1988年の学生運動の弾圧や、アウンサンスーチーと国民民主連盟(NLD)の民主主義を求める闘いは断片的に知られているが、ビルマ軍事政権による人権の実態はほとんど伝えられていない。

日本のマスコミはこの国の国名をミャンマーとしているが、海外のマスコミは軍事政権が勝手に変えた国名であるとして依然ビルマのままで表記していることが多い。英語圏のマスコミは「バーマ」、北欧語圏のマスコミは「ビルマ」で通している。また、アウンサンスーチーをはじめ民主化勢力は「バーマ」を採用している。

国連は、「クーデターによる政権変更があっても国家の同一性が認められる限り承認する」という国家承認の原則のもとに、ミャンマーという国名を受け入れたが、国連人権高等弁務官は「バーマ」を採用している。

また、日本のマスコミはビルマ人の名前をアウン・サン・スー・チーなどと表記しているが、ビルマ語は表意語であり、彼女の名前の意味は「勝」「稀」「集」「澄」であり、山田太郎という名前を、ヤマ・ダ・タ・ロウと分かち書きするような不自然さがある。アウンサンスーチー本人も、在日ビルマ人の大部分も日本語での表記には分かち書きをしないことを求めている。

ビルマ人には姓がない。ビルマの少数氏族にも姓をもたない氏族が多い。国連の事務総長だったウー・タント氏の場合、ウーがミスターにあたる敬称であり、タントが名前である。新聞にはよく「ウー氏によれば」などと書かれているが、完全な誤りである。またおしまいの子音が呑み込まれるので、タンのほうが実際の発音に近い。女性の場合の敬称はドーである。また、若い男性への敬称はコーである。さらにカレン語など他の民族の言語にもそれぞれの敬称が使われているが、本書では混乱をさけるためにそれらの敬称を省略して翻訳した。

現在のビルマを支配しているのは国家平和発展評議会(State Peace and Development Council SPDC)という団体であり、1997年11月まで国家法秩序回復評議会(State Law and Order Restoration Council SLORC)と名乗っていた。ビルマの秩序が安定し、民政移管するまでの臨時の組織であるとしているが、現在も権力の頂点から離れようとしない。

またビルマ国軍は、ビルマ語ではタッマドーと呼ばれる。本来はビルマを列強の支配から守る義勇軍の意味だが、仮想敵のいない現在、国軍の拡張の意味が疑間視されている。詳しくは“ビルマ「発展」のなかの人々”田辺寿夫・岩波新書を参照していただきたい。

(c)菅原 秀 加筆2004  初出 

 
posted by 菅原 秀 at 11:57| Comment(0) | TrackBack(0) | アジア基礎知識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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