2013年04月23日

イチゴに秘められた平和を生み出すパワー

イチゴの季節が大好きだ。特に私が好きなのはここ10年ほどスーパーの店頭販売の大分を占める「とつおとめ」や「あまおう」などの大粒の甘いイチゴだが、昔から栽培されてきた比較的小粒なイチゴの甘酸っぱさも好きだ。イチゴには不思議なパワーが秘められているようだ。イチゴには人と人との関係を和ませる働きがあるように思えるのだ。今回のエッセーは、中東和平を生み出したイチゴのパワーにまつわる話だ。
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■難解な交渉の入り口を開いたノルウェーの努力

パレスチナ問題は、いまだに中東の火種になりかねない状態が続いているが、1993年9月、ワシントンにイスラエルとパレスチナの代表が集い、クリントン大統領の立会いのもと和平の道筋を示す合意書のサインが行われた。
日本から参加したのは当時の羽田孜外務大臣。それにごく少人数の外務事務官に過ぎなかったので、とのイベントのすごさを実感した人ごく少ない。
しかし、世界の首脳がワシントンに集まり、固唾をのんでこの調印式を見守っている場に参加するチャンスを得て、このイベントの印象は羽田さんの脳裏に深く刻み込まれることになった。
 その後、私は平和醸成の仕組みを作るために、各政党の議員に呼びかけて日本に民主化支援機構を作る運動を開始することになった。この夢はいまだに実現していないのだが、羽田さんは国会議員が党派を越えて結束するために、運動開始の時点から大きなパワーを発揮してくださった。
「ワシントンでの現場を見てボクはわかったよ。敵同士でも話し合いによって解決する道があるということを。こうしたことをノルウェーやアメリカにばかり任せていてはいけない。日本もすぐ参画しなければ」
そういって、自民党から共産党にいたるまで、すべての党派が結束して民主化支援機構を作るように声をかけ、2001年にはすべての政党が参加したシンポジウムを行うことができた。シンポジウムで超党派の協力による方向性は生まれたものの、財源を確保する目途が立たないことから、残念ながら日本のこの分野での国際参加はいまだに実現していない。
 さて、羽田さんをそこまで突き動かしたワシントン和平の道筋を生み出したのは、ノルウェーの官民の連携による交渉だった。
 そしてその交渉が決裂に至る寸前に、それを修復したのがノルウェーの交渉の現場の裏庭で栽培されていたイチゴだった。

■ノルウェーが双方に与えたものは

当時のイスラエルとパレスチナには双方が敵対していただけではなく、敵とお互いに話し合うことを行えば利敵行為とみなされ、重罰に処すという国内法があった。
従って双方の心ある関係者が和平のための努力をすることは不可能だった。
打開のアイデアを思いついたのがノルウェーのシンクタンクの所長だったテリエ・ラーセンだった。幸いにもラーセンは、イスラエル、パレスチナ双方の政策決定者とコンタクトできる立場にいた。
ラーセンは考えた。
「秘密裏に双方の代表をノルウェーに招いて、和平交渉の道筋を作り、国際的な場での調印に持ち込もう」
 幸いにもラーセンの妻は外務省の職員であり、外務大臣と直接話ができる立場にいた。
ごく一部の外務省幹部だけに事実を伝え、ひそかに双方の代表をノルウェーに招く工作はこうして始まった。もちろん、警察や入管、あるいはマスコミに嗅ぎ付けられれば交渉が行えないだけでなく、ラーセンとコンタクトした双方の関係者は重罪に処せられることになる。外務大臣とモナそれにごく少数の関係者だけが知るこの交渉の舞台は、オスロから数十キロ離れた場所に設定された。昔、ノルウェー王室が使っていた別荘を借りて、時間をかけた話し合いが開始された。
のっけから双方の、ののしり合いが開始された。ラーセンは興奮しながら相手の悪口をこぼしてくる双方の代表者の不満の気持ちのはけ口になることだけに意識を集中し、交渉内容への介入は一切行わなかった。
 別荘に閉じ込められた双方の交渉代表にとっての慰めは、別荘の料理人による手料理だった。
 双方の激論は連日深夜まで続いた。コーヒーとタバコの煙の中で複雑な議論とののしり合いが延々と続く。それを慰めたのがノルウェー側のもてなしの手料理と上質なワインだった。

■イチゴが打開の道を開いた

 王室の別荘での会議は、その都度双方が自国に持ち帰って検討するということが繰りかえされた。数回目の会議の場所は別荘の改修のためにマナハウスという名の別な別荘に設定された。
 そこでも連日、話し合いは険悪なムードが続き、ラーセンは双方のはけ口としての聞き役にまわり続けた。
 ある日、オスロの仕事を終えて着かれきったラーセンが別荘にたどり着くと、夕食の席には双方の笑い声とジョーク飛び交っていた。
 このときの様子は「ノルウェー秘密工作」という本に描写されている。

オーナー夫妻は実に親切で、夕食のときはウェートレスと執事の役を務めた。そして二人が雇ったシェフが、サケ、マスその他の魚をレモン、ワイン、クリームを加えて約ノルウェー風の豪華料理を作った。デザートには、かごに何杯ものイチゴが出だ。客たちはなんと8キロものイチゴを胃袋に詰め込んだ。そのうち5キロ以上をヒルシュフェルドが一人だ平らげた。

 イスラエル側の学者であるヒルシュフェルドは、おいしいイチゴで心を和ませ、一気にパレスチナ側の交渉ポイントの打開点を見つけ出し、この日の交渉に臨んだ。やっと会議には笑いとジョークがもたらされた。

イチゴに秘められたバイブレーションこそが、あの和平交渉を打開する力だったのではないか、私はイチゴを食べるといつもこのエピソードを思い出す。 
 
posted by 菅原 秀 at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 涙は止まるか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月28日

コッチェビの涙(5)アメリカと北朝鮮

北朝鮮当局による拉致問題、さらに北朝鮮の人権状況を考える上で、日本人の大多数が忘れている事柄があまりにも多すぎる。一番大きな事柄は、「朝鮮戦争はいまだに終結していない」という認識の欠如である。

朝鮮戦争は停戦の合意がなされたものの、終戦のための平和条約締結などはまだなされておらず、戦争状態が続いているのである。38度線をはさんで韓国軍と北朝鮮軍が対峙していることは誰しも知っているが、その背景にある北朝鮮とアメリカとの確執についてしっかり認識している政治家、官僚、学者があまりにも少ない。日朝の対話は小泉訪朝以降まったく行われていないだけでなく、一時は北朝鮮も積極的に参加した6カ国協議もなかなか進展しない状態が続いている。そうした中、なぜ北朝鮮はあいかわらずアメリカだけを引っ張りだすことに躍起になっているのだろうか。

 アメリカの反応を得るために行った大陸弾道弾ミサイルの発射は、ことごとくアメリカ側に無視された。逆に隣国日本を怒らせて経済制裁の強化という副作用を引き起こすだけの結果となった。そんなときに北朝鮮人民軍兵士が、中国と北朝鮮の国境でアメリカのテレビ記者が取材活動をしているのを発見した。
 
アメリカを誘い出す絶好の機会を逃さないために、北朝鮮当局はテレ
ビ記者たちを拘束し、重罰を課して収容することにした。果たして、アメリカは北朝鮮の誘いに乗らざるを得なくなった。


■ クリントンとカーター、ふたりの元大統領の訪朝

クリントン元大統領は北朝鮮当局に拘束されていた米人テレビ記者2人の釈放を求めて09年8月4日、平壌を訪れた。
ミサイル発射という恫喝によって、アメリカとの対話を求め続けた北朝鮮の瀬戸際外交政策を無視し続けたものの、その後、米人記者2人が拘束されてしまったことから、アメリカ側としても腰を上げざるを得なかったのである。

幸いなことにクリントン元大統領は2人の記者の釈放交渉に成功し、特別機で一緒に帰国するという成果を得ることができた。
その裏では、むしろ北朝鮮のほうが、クリントン元大統領を引っ張り出すことに成功したことを喜んでいると思われる。

国営朝鮮中央通信が「対話の方法で問題を解決することで一致した」として、金正日総書記が記者2人の特赦を命じたことを報じ、クリントン氏の訪朝を高く評価していることからも、そのことがわかる。

クリントン元大統領と金正日総書記が並んでいる写真を見て、マッカーサー司令官と昭和天皇の戦争直後の写真を思い出したむきも多いだろうが、私が思い出したのは1994年にカーター元大統領が訪朝した出来事だった。そのとき新聞に載ったのは、カーター大統領と故金日成主席が握手をしている写真だったのだが。

今回のクリントン元大統領の訪朝が、今後の米朝関係にどういった影響をもたらすかを知るためには、1994年のカーター訪朝によって何が起きたかを調べる必要がある。さらに日本の懸案である拉致問題の今後をどうすればよいかということを探る上でも、カーター訪朝の分析は大事である。

国と国とが面子をかけて張り合う中で、欧米諸国が時々採用するのが、元大統領や元首相の手による半官半民の外交活動だ。
こうした形を取れば、公式な外交課題に載せにくい問題にも踏み込むことができるし、相手国もおいそれと無視するわけにはいかず、国家首脳が応対せざるを得ないので、一定の成果を上げることが可能だ。


■問題を引き起こしたのはアメリカだった

1994年のカーター元大統領の訪朝の時は、一定の成果どころか、危機一髪のところまで迫っていた米朝戦争の危機を回避するという大きな成果を上げている。

さて、どんな危機だったのだろうか。

当時は金日成主席が存命していたのだが、読者の皆さんの多くは、「北朝鮮側が、アメリカを挑発し、戦争の脅威を煽ったのではないか」と考えられることと思う。

しかし事実関係を丹念に拾っていけば、戦争の危機を生み出した責任の大半は、アメリカ側にあるということがわかる。もちろん、時とともに変化する国際外交の舞台にはいつも「卵が先か、ニワトリが先か」という論議がつきまとう。北朝鮮にも問題がなかったわけではないが、1994年のカーター訪朝の前に起きた戦争の危機を最初にあおったのは、停止を約束していた韓米合同のチーム・スピリット合同演習を勝手に再開したアメリカ側である。

 実はこのときの危機は、朝鮮戦争の戦後処理に、アメリカがきちんと対応してこなかったツケによるものである。つまり朝鮮戦争の停戦後に再び戦火が起きないための平和協定を結ぶはずだった約束を履行せず、そのまま放置し続けてきたのである。こう話すと驚く人が多いが、朝鮮戦争はまだ終結していないのである。つまり単に停戦状態のままであり、38度線を挟んで北朝鮮軍と韓国軍が対峙せざるを得ない戦争状態が、国際法上、現在も続いているのである。

半世紀以上もこうした状態を無視してきたアメリカに対して、頼るべきソ連も消滅してしまった今、北朝鮮は単独でアメリカと交渉をする道を探るしかなかったのである。

つまり北朝鮮の一連の瀬戸際外交政策をひき起こしてしまった責任の大半が、朝鮮戦争をそのままほったらかしにしていたアメリカの無作為の外交に発しているのである。

さらにその後、1993年から94年にかけて高まった北朝鮮の核開発にまつわる危機は、対米交渉のカードとして核を利用しようとし始めた北朝鮮もさることながら、それに対する大人の対応が出来なかった当時のブッシュ(父)政権によって、ひき起こされたのである。

ただしアメリカの軍事力を背景とした対外外交は大統領や国務省だけによって作られているのではない。省庁、大統領府それに軍参謀本部の横断組織である国家安全会議(NSC)が策定し、大統領や省庁がそれを履行するという仕組みになっている。この国家安全会議というのはアイゼンハワー大統領時代に作られた一種の賢人会議なのだが、ブッシュ(息子)時代にはイラク戦争を遂行するネオコンの司令機関になっている。

軍の暴走を避けるためにはシビリアンコントロールが大事だといわれるが、アメリカの場合は国家安全会議のシビリアンたちが、暴走してきたのである。北朝鮮を挑発するためにチーム・スピリット合同演習再開を決定したのも、このシビリアンたちである。こうしたアメリカの軍事行動の決定過程については次の本に詳しいので参照していただきたい。『アメリカ・力の限界』(アンドリュー・ベイセビッチ著、菅原秀訳、同友館)    
 

■南北の共存を認めた北朝鮮

それでは、カーター元大統領が訪朝する寸前の米朝関係は、どうなっていたのだろうか。

89年のベルリンの壁崩壊と、それに続く91年のソ連崩壊は、北朝鮮の指導者に強い孤立感をもたらしたことは想像にかたくない。その頃の北朝鮮は経済不況に見舞われ、さらに水害などによる農業被害が拡大していた。北朝鮮の指導者たちは、深刻な体制不安に見舞われたことと思われる。

それまでの北朝鮮は、韓国を吸収することによって統一をはかるという気炎を吐いていたのだが、91年になって金日成主席は「穏やかな形態の連邦制」を求めるという「新年の辞」を発表して、今までの方針を大転換したことから、そのことがうかがえる。

発表の直後には、アメリカに特使を派遣し、米軍の韓国駐留を容認するかわりに米朝の交渉を開始したいと申し入れている。さらに同年9月には、電撃的な国連加盟を申請し、南北同時加盟を果たした。
自分たちの主導による統一コリアを主張していた面子をかなぐり捨てた北朝鮮は、翌92年2月には、韓国との間で「南北基本合意書」を策定し、さらに「朝鮮半島非核化共同宣言」を発効させている。

深刻なエネルギー危機に見舞われている北朝鮮にとっては、少ない燃料で効率的に発電する原子力発電所の建設は緊急の課題であった。そこで北朝鮮は核非拡散防止条約(NPT)を批准することで、韓国と協調した核の平和利用を宣言し、朝鮮半島の非核化に踏み切ることにしたのである。北朝鮮の核武装を恐れる韓国にとっても、朝鮮半島の非核化はぜひとも実現したかったので、話はとんとん拍子に進んだのである。

最近の日本には「国際社会と連携して北朝鮮に核武装放棄を迫り、東アジアを非核地域にしよう」という運動が起きている。しかし、すでに92年に、その肝心の北朝鮮が韓国とともに非核化宣言を出していたという事実をしっかりと押さえておく必要がある。つまり92年の「朝鮮半島非核化共同宣言」とその後の変化について北朝鮮当局と話をせずに、「東アジア非核化宣言」などを行えば、北朝鮮との関係は今以上にこじれてしまうからだ。

さて、当時のアメリカは、北朝鮮がここまで譲歩したにも関わらず、これらの提案に取り合わず、「朝鮮半島非核化共同宣言」を額面どおりに認めるということすらせずに、北朝鮮に再び核開発を行わせる結果をもたらしたのである。

こうした中、ブッシュ(父)政権は、北朝鮮は韓国をだまして「非核化宣言」を行う一方で、密かに核兵器の開発をしているのではないかという推測をしていた。

アメリカがそうした疑いを持つようになったのは、北朝鮮が国際原子力機関(IAEA)の査察をすんなりと受け入れようとしなかったからである。北朝鮮は、駐韓米軍基地の核査察を行うならわれわれもそれに従うという主張をしていた。当時の駐韓米軍司令官はあっさりとOKを出したのだが、面子をつぶされたホワイトハウスが査察を受け入れず、こう着状態が続いた。すったもんだの挙句、北朝鮮は92年になってIAEAの核査察を6度にわたって受け入れることになる。しかし一連の査察の中で今度はIAEAが、北朝鮮がプルトニウムを抽出しているのではないかという疑いを持つようになり、プルトニウム抽出の有無を検証するための特別査察を要求した。北朝鮮はIAEAにはアメリカのバイアスがかかっているとして、特別査察をはねつけたのである。

アメリカはこうした動きを牽制するために軍事圧力を加えることを考え、93年に今まで停止していたチーム・スピリット合同演習を再開した。10万人以上の米韓兵士が参加するこの演習は、ソ連と北朝鮮を威嚇するために70年代から繰り返し行われていたものであるが、ソ連の崩壊を機会に中止されていたのである。
北朝鮮は、この合同演習に激怒し、NPTを脱退するとの宣言を行ったのである。

(続く)    

初出:月刊『公評』09年10月号「北朝鮮への対処術」

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2008年05月02日

コッチェビの涙(4)ケソンの労働者たち

韓国の大統領が代わると同時に北朝鮮は、南北の共同開発の象徴である城」(ケソン)産業コンプレックスの韓国企業に圧力をかけた。この工業団地は韓国統一省が窓口になって、現代俄山社を仲介企業とし、北朝鮮と連絡を取りながら運営している経済特区である。全体の一割程度が完成されているが李明博大統領が当選して以来の動きが不透明になっている。さて、どんな場所なのか。統一省によればまだ日本の政治家は訪れておらず、ビジネス関係者と少数の記者が見学したに過ぎない。昨年3月、韓国記者協会による外国人記者団の北朝鮮訪問の旅の一環として、日本にはほとんど知られていないこの「開城」(ケソン)産業コンプレックスを訪れることができた。その時の見聞の一部をお伝えする。


▼10年計画の巨大プロジェクト

韓国統一省の将来を見すえた事業のひとつが、現代俄山社(ヒュンダイアサン)が中心になって、ソウルの北方80キロにある北朝鮮領内の開城(ケソン)市に産業コンプレックスを整備する巨大事業だ。

開城市は板門店から軍事国境線を北上し、38度線の手前に位置する高麗王朝の古都である。朝鮮戦争で米軍が死守しようとしたが、結局、北側に属することになってしまった都市である。現在の人口は約35万人。北から南下してきた避難民が足止めを食い、最大数の離散家族を生んだ都市で、市民の7割が離散家族だという。

その開城市の東部の原野を開拓し、10年計画で従業員40万人を越える産業コンプレックスを作ろうというのが「太陽政策」の柱だ。東海岸の北朝鮮領金剛山と違って、こちらの方は一般の人が訪問するのは難しい。すでにパイロット・プロジェクトは完成しており、現在、北朝鮮労働者12000人、中国籍朝鮮人労働者12000人が勤務し、アパレル製品や手工芸品を生産している。

北朝鮮領内なのに、給料はどうなっているのか、それで食べてゆくことができるのか、政府や企業はどれだけ搾取するのかなど、記者団にとって興味津々なことばかりだった。

私たちが訪ねたのは、その広大な造成地区のごく一部、敷地全体の1%程度のところに建てられた20社ほどの工場群である。広大なコンプレックスの敷地は、造成中であり、あちこちに巨大な重機が入っている。これらの土木作業をしているのは韓国人男性労働者。連日700人ほどが泊り込んで、土ぼこりの中での作業を継続している。

最初に案内されたのが、800人の労働者が働いているというアパレル企業である。現代俄山社の担当者から「従業員には決して声をかけないように。もし声を掛けた場合は、見学を中止します」というきついお達しを受けた。

といっても、朝鮮語ができる人はほとんどいないので、声のかけようがないのであるが。私たちは1000平方メートルほどある生産ライン現場に案内された。20代から40代の女性200人ほどが、一台ずつのミシンに向かって縫製作業をしている。別な部署では、巨大な裁断作業台や、アイロン台の前で、黙々と女性たちが働いている。

工場内は極めて清潔で、労働者も清潔なユニフォームを着ている。そこに、140名の外国人の記者団が、どどっと押しかけたのであるから、彼女たちにも緊張感が走っているのがわかる。全員が「外国からのお客様が来るからしっかり作業するように」といわれたのだろうか、一切の私語もせずに、真面目に作業をし続けている。私たちと目を合わせようともしない。

そこを私たち全員が、バシバシと写真を撮る。私たちは朝鮮語が出来ないので、無言のまま写真を撮る。異常な光景である。

さらに私たちは、2階、3階と案内され、別な生産ラインや、北側従業員がパソコンで会計管理をしている部屋、従業員休憩室などを見学した。

私は、トイレに行くふりをして、最初に見学した大きなミシン工場に降りていった。やはり、思ったとおりだ。外国人見学者がいなくなったあとの彼女たちは、お互いに冗談を飛ばしあいながら、私たちが見学していたときとは打って変わって、リラックスして作業をしていた。彼女たちはロボットではない、同じ人間なのだ。

興味深かったのは従業員休憩室である。小さな休憩室はあちこちにあるのだが、コンプレックス内のどの会社の従業員も利用できる独立した休憩室(ヒュゲシル)という建物に案内された。すると中は、礼拝堂になっているのである。真ん中に祭壇があって十字架がはめ込まれている。

北朝鮮の共産主義のもとでも、人々のよりどころがキリスト教になっていたことを知って、考えさせられた。共産主義は人の心を支配することは出来ないのだ。

しかし、ここは北朝鮮。従業員の賃金は「開城経済コンプレックス労働法」に基づいて支払われている。現代俄山社の担当者が、従業員の給料は残業を入れて月あたり60ドル弱。給料の一部は各社が預かって現物に変えて支給している。との説明をした。

▼経済支援か、北の労働者の新手の搾取か?

しかし記者団は納得出来ない。「国際基準から考えても極端に安い給料ではないか。現代俄山は北の人々に就労の機会を与えているのではなく、北朝鮮が賃金を安いことにつけこんで、搾取をしているのではないか」などの質問が次々に発せられた。

担当者は、「私たちとしてももっと支払いたいのですが、北側政府が決定した賃金であり、当然北全体のバランスを考慮しなくてはなりません。しかしここの工場で働いている人々は、皆、喜んでいます」喜んでいるといわれても、従業員に話し掛けていけないのだから、どんな風に喜んでいるのか、われわれは把握しようがない。

各工場の裏手の自転車置き場には、従業員たちの自転車が並んでいる。どの自転車にもナンバープレートがついている。ここ北朝鮮では、自転車は登録制度なのである。

その自転車で、開城市の自宅からここまで、約30分の道のりを通ってくるのである。

平壌政府の思惑と、韓国統一省の思惑、さらに開発を任せられている現代俄山社の思惑が合致したところで、建設されているのがこの開城経済コンプレックスなのであろうが、ここは新聞でよく報道される幻の経済特区ではなく、まさに北と南が真剣勝負に出ている経済特区であるということだけは、この目ではっきりと確認できた。

開城経済コンプレックスを見学せずに、北朝鮮の問題について語ってはいけないということを、心の底から実感できる場所でもある。

北と南は、ソウルからここ開城と平壌を経由して、さらにモスクワ、パリ、ロンドンに至る鉄道を開通させる計画を持っている。ソウルと平壌の鉄道はすでに開通しているので、政治的問題が解決すればいつでも運行可能なのである。

太陽政策というのは、単なるイデオロギーではない。統一が実現した場合に、南側はかなりの経済負担に耐えなければならない。それに耐えられるようなソフトランディングを目指すための産業開発が、開城経済コンプレックスという具体的な事業として進行しているのである。

こう見てくると、南も北も、将来必ず統一するという合意に向かって、さまざまな手立てを整えていることがわかる。韓国人が求めるのは突然の性急な統一ではない。あらゆる立場の韓国人が口をそろえて「統一には時間が必要だ」と語るのは、そうした意味である。

最近になって北朝鮮がこの経済コンプレックスへの韓国人の出入りを制限するなどの揺さぶりをかけているが、開発の巨大さを目の当たりにすれば、北朝鮮特有の「ゴネ徳」路線で、新政権からのお土産を期待していると考えればほぼ正解であろう。北にとっては決して手放せないのがこの開城経済コンプレックスなのである。

李明博政権によって北と統一が遠のくと考える人もいるようだが、韓国の人々でそう考える人はほとんどいないであろう。韓国全体が「統一」に向けた作業をこれからも継続することは、こうして現地を確認することで得心できる。つまり机上のプランではなく、すでに膨大な金額を投資した基盤作りが開始されているのである。体制の違う分断国家の統一には、長い時間をかけた基盤作りが必要だということを、彼らは良く理解している。

拉致問題の解決の道筋を見つけるためには、まず、こうした南北の融和の動きの中から交流のカードを探し出す必要がある。日本の政府関係者に心して欲しいのは、「カードなしでは拉致問題は解決しない」ということを肝に命ずることである。

さて開城経済コンプレックスを最初に訪問する日本の国会議員は、誰だろうか?

了                 (c)菅原 秀 2008
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2007年08月26日

コッチェビの涙(3)「金剛山」の楽団員たち

金剛山(クンガムサン)の観光センターには大きな劇場が設置されている。観光客に北朝鮮の踊りや劇を見てもらおうという趣向だろうが、入山料にセットされているようだ。しかし、この劇場で行なわれた平壌芸術団という出し物に、ひとつの歴史と和解へのキーが隠されていた。南北の憎悪の結果生まれた一つの物語。さて、どんな物語か。


▼金剛山のすごいオーケストラ

金剛山に入るには日本円で約5万円近くの入場料を納めなければならない。この入場料に、バスツアーとホテル宿泊、それに加えて温井閣(オンジョンガク)観光センターでのサーカス見学などが組み込まれているらしい。

北側ガイドが「さあ皆さん、これから平壌芸術団を観劇します。世界最高の技術を誇るセーフネットなしの危険なパフォーマンスが4時から始まります。会場に急いでください」とせかす。

1000人ほど入る大劇場に入ると朝鮮語と英語でしつこいほどの注意が開始された。
「上演中は決して写真を撮らないで下さい。団員たちは命綱もセーフネットもない状態で危険な技術をお見せします。写真を撮ることで彼らを危険にさらさないよう、お願いします」

やがて暗転。オーケストラの伴奏で、さまざまな空中サーカスが繰り広げられる。記者たちはフラッシュをオフにして、しきりに写真を撮り始めた。すかさずシャッター音を聞いた係官が飛んできて、制止する。また別の記者が写す。係官は必ずそれを見つけて制止に走る。

私たち記者団は大劇場の一番奥の方の座席に案内された。従ってわれわれのシャッター音は舞台に聞こえるはずがない。しかし係官たちは飽きることなくわれわれを制止し続ける。この国には公務員が何人でもいるらしい、記者の挙動をじっと観察しながら、こっそりカメラを構えるのを見つけ出すと、パッと飛んでゆく。

ハラハラさせるような曲芸は確かにすごいのだが、こうしたレベルのパフォーマーはどこの国にでもいる。しかし、先ほどから気になったのは、上手2階のオーケストラピットで演奏している20人ほどの楽団である。これが実に上手いのである。

かなり複雑なメドレーなのにもかかわらず、まったく乱れることなく緩急自在、日本に良く来日するボリショイバレーの楽団よりもずっと上手である。しかも急テンポのパソドブレや、裏ビートを強調したジャズ風のアレンジなども楽々とこなしている。音のダイナミズの表現は、ベルリンフィルにもひけを取らないほど完璧。3度と6度のハーモニーの幅を平均率より狭めているのも、アマチュアには決して真似の出来ない超一流のオーケストラの特徴だ。

出し物が代わるたびに、録音してある音楽と生演奏が入れ替わるが、その切れ目がまったくわからない。オーケストラ員が一人ずつフェードインやフェードアウトをして、観客に気づかれずに切り替えているのである。

圧巻は、ピエロのパフォーマンスの動きにぴったり合わせて音を完全に同調させる技術だった。ピエロが玉を受け取る微妙なタイミングでオーストラリアがユニゾン(全員同じ音を出すこと)で衝撃音を出す。

私は感心しなが、隣にいたテレビ記者に耳打ちした。
「彼らは音をシンクロさせるのにどんな技術を使っているんだろう。デジタル機器を持っているんだろうか。どこでコントロールしてるんだろう」
「いや古いオープンリール・デッキでシンクロ信号を流して、それを指揮者がヘッドホンで拾っているんだろう」

とにかく、私が知っている30年前のオープンリール録音機を利用した手段では、ここまでの同期演奏は不可能だ。

さてその秘密は夕方になってわかった。


▼KCIAの拉致が産んだユニサン・オーケストラ


現代峨山(ヒュンダイアサン)社が、記者団一同の歓迎パーティーを開いてくれた。幸いなことに私の席は現代峨山の副社長の隣だった。さっそくオーケストラのことを聞いてみた。

「曲芸よりもオーケストラの方が気になりました。北朝鮮にこんなにレベルの高い楽団があるなんて信じられません。彼らは南から来て出演しているんですか」
副社長はにっこり笑いながら言った。
「韓国にはこれだけのレベルの楽団はありません。この楽団は国際的に有名な平壌のユニソン・オーケストラです」
「え、ユニゾン・オーケストラ?」
「いえ違います。創始者の名前ユニサンを記念してこう呼ばれています。ユニサンの名前はご存知ですよね」

朝鮮語のリエゾン(繋ぎ音)に暗い私だったが、日本ではユン・イサン(尹伊桑)と呼ばれている著名な作曲家の名前を思い出した。

「昔ベルリンからソウルに拉致された作曲家の尹伊桑のことですか?」
「そうです。そのユニサンが金正日に資金を出してもらって育てたのが、今日あなたがたが聴いた楽団なのですよ。いや、気づいてもらって嬉しい。音楽の同期(シンクロ)の技術も、すべてデジタル技術に頼らずに行っているのですから、曲芸団員以上の繊細さを持っているのが彼らなのです。現代峨山では彼らを世界のヒノキ舞台に出したくて、その機会を作るために、できるだけ外国人にその音楽を聞いてもらう工夫をしているのです。」

30年ほど前のことだ、作曲家の林光や高橋悠治が中心になって尹伊桑の講演会を東京で行なったことがある。金大中が拉致される前の話である。その講演会で尹伊桑が暴いたKCIAのやり口と拷問は実に卑劣なものだった。

しかし当時の日本でも、そして韓国でも尹伊桑を広く支えようという運動は拡がらなかった。尹伊桑の数々の作品は、日本でもかなり評価されており、クラシックファンからすれば、神様のような存在である。にもかかわらず、彼が止むに止まれず訴えた韓国の抑圧政権に対する批判を、日本で大きく広げることはかなわなかったのである。

軍事抑圧政策が続く韓国に戻れなかった尹伊桑は、代わりに平壌を訪れ、同じ同胞にベルリンで学んだすべてを伝えた。その後、尹伊桑はベルリンに戻り、1995年に客死している。何の罪もないのにKCIAに拉致され、故郷を追われた彼に同情する声は韓国でも強く、政府に対して公式に名誉回復を宣言するよう、せまる声も強いそうである。

平壌で尹伊桑から直接音楽のすべてを、そのオーケストラの団員が未だに保持し、さらにその技術に磨きをかけていたのである。

副社長は語る。
「彼らの楽器はもうぼろぼろです。バイオリンの一級品などはとても高くて入手できません。もし海外のオーケストラと交流できたら、そして新しい楽器が手に入ったらどんなに素晴らしいことか。ぜひこのことを日本の皆さんに伝えてください」

(つづく)                 
 
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2007年07月15日

コッチェビの涙(2)人工の自由空間「金剛山」

南北統一を進めるための拠点として開発された金剛山(クンガムサン)はどんな場所なのだろうか。確かに風光明媚な場所である。しかし、自然の中に作られた一連の施設は、まさに人工の自由を無理無理生み出しているのではないかという印象だった。この地を訪れた日本人は合計で数百人しかいないそうである。そのため、よく政治話題に出てくるこの場所が、どんなところであるか、ほとんど知られていないのである。今回は、この不思議な場所を紹介しよう。

▼非武装地帯の北側は賽の河原だ

バスはいよいよDMZ(非武装地帯)を越えて、北朝鮮領に入る。車窓からの撮影は一切禁止されている。しかし、朝鮮戦争以降人が踏み込んでいない南側2キロ、北側2キロのDMZをしっかりとその目に刻み込まなければならない。記者たちはノートを取り出し、その風景を描写し続けた。

38度線のDMZ(非武装地帯)は、ずっと人が入っていないので、小動物たちの天国なそうだ。車窓から小動物は見えないが、南側DMZには潅木に覆われた自然が広がっている>

迷彩服の韓国兵がひとりで守っている南側DMZの歩哨詰所を越えると、いよいよ北朝鮮だ。一行の緊張は高まり、全員が窓から北側DMZの光景を食い入るように眺める。

私たちの目に映ったのは、驚くべき極端な情景の変化だ。南側が潅木の茂る平原だったのに対して、北側は道の両側に数十メートルの高さの岩山が迫り、草木が極端に少ない賽の河原のような景色が急激に広がる。

CIQ(入国・検疫事務所)は、2003年に金剛山入りの陸路が合意されてから設置されたわけだが、100人を越す外国人が始めて陸路を通過するということで、かなり緊張していた。

しかし、さすが観光のために開発されたルート。CIQのスピーカーが8ビートに乗った「パンガップスムニダ(ようこそいらっしゃい)」の軽快な歌を流し続けている。そのロック歌が流れる中、直立不動で歩哨に立つ兵士たちが、無表情のまま、勝手に動き回る私たちを遠くから監視している。


▼自然の中にぽっかり生れた異空間

やがてバスは、金剛山地域に分け入り、温井閣(オンジョンガク)という観光センターに到着する。ここには温泉、劇場、ホテル、カラオケ、体育施設など、観光客が金剛山のトレッキングを終えた後にくつろぐための施設が設置されている。離散家族の面会所も急ピッチで建設されている。夏までには竣工するという。金剛山という政治的な異空間は、まさに離散家族が出会う場所として準備されたかのようだ。

いったん金剛山の観光施設に到着すれば、緊張感はまったくない。唯一感じるのは、観光施設の合間から遠めに観察できる一般住民の村々にカメラを向けたりすると、すかさず私服の北側監視員が飛んできて、静止するときぐらいのものである。

一連の施設が集中している温井閣(オンジョンガク)という地域には、スパや大劇場があるが、同時に離散家族のための滞在施設も建設されていた。

現代俄山の張桓彬(チャンファンビン)国際担当副社長が、この金剛山についてブリーフィングを行なった。

「2000年から開始された金剛山地ツアーは05年に年間27万人に達したのですが、06年の核騒ぎによって20万人に落ち込みました。しかし、今年は六カ国協議の好結果を受けて順調に回復しており、40万人を見込んでいます」


▼北の従業員の給料は月60ドル以下

温井閣(オンジョンガク)の施設には1500人の従業員が働いているが、うち800人が北の住民で月に57・5ドルの給料。残り700人は中国籍朝鮮人で、月300ドルの給料とのことだ。

北の従業員への賃金に関して記者たちと現代俄山の社員との間で、かなりのやり取りがあったが、いまだに腑に落ちない。

「共産国家ですから住居、食事代はかかりません。また給与基準は平壌が決めます。私たちは毎年、賃金を上げるように交渉しているのですが、なかなかウンといいません」。果たしてそうだろうか。それにしては中国から出稼ぎに来た朝鮮人への給与も安すぎるのではないか。

北の従業員は胸に金正日バッジをつけているので、すぐにわかる。カメラを向けると逃げていってしまうので、なかなか撮れない。施設の向こうに遠目に見える村々の入り口を撮ろうとするとどこからか監視人が飛んできて、静止する。

しかし138人もの一癖も二癖もあるジャーナリストの集団だ。表面上は北朝鮮側の言うことを聞くふりをするが、監視人の目の届かないところで、カバンの中に隠して持ちこんだ小型望遠レンズをマウントしたカメラで遠くの村人の情景をこっそり撮影している者もいる。

遠目から見る近隣の村々は、実に質素だ。みな土壁の平屋に住んでおり、黒か褐色の作業衣を着て、とぼとぼと歩いている。自転車の数はきわめて少ないようだが、たまに通りかかると大量の荷物を運んでいる。大きな竹カゴを左右にぶら下げていたり、穀物らしきものが入っている布袋を積んでいたりする。ぼろぼろのピックアップトラックを見かけたが、乗用車やバンのようなものは村人とは無縁なようだ。

一行は、金剛山ホテルに宿泊することになった。10階建てのこざっぱりしたビジネスホテルという感じだ。床はオンドルになっており、トイレとシャワーがついている。早速トイレを使ったが水が出て来ない。フロントに「トイレの水が出ない」と言ったが英語も日本語も通じない。

韓国人記者が、どの部屋も水が出ないといったところ、ホテル中の従業員が上を下への大騒ぎで、メンテナンス要員を呼びに行った。

ロビーにたくさん花が飾られていたが、それらの花に近づいた日本人女性記者が「全部造花だわ」と目を丸くしている。「人工の自由空間に人工の花を飾っているわけね」彼女は、するどく、この金剛山の本質を指摘した。

(つづく)               (c)2007 菅原 秀 


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2007年07月08日

コッチェビの涙(1) 北朝鮮の子供たちに愛を

▼切り札を持たない日本政府

拉致問題が広く知られるようになって以来、北朝鮮に対する私たちの印象はどんどん悪くなってきた。決死の覚悟で豆満江を渡る脱北者たち。飢えに苦しむ子供たち。寒空で餓死し道端に倒れている若者たち。北朝鮮から密かに持ち出される映像に、私たちは思わず固唾を飲む。「こんなとんでもない軍事政権が倒れない限り、北朝鮮の人々は救われない」と誰しもが思う。

しかし、どうすればいいのか? 

私たちは、日本政府になんとかして欲しいと考える。しかしその政府も、6カ国会議の合意に対して「拉致問題の進展が得られるまで、エネルギー協力には不参加」と表明している。

拉致問題が解決済みだ」と主張している北朝鮮に対して、日本はそれを進展させることができる切り札を持っているのか? 膠着した状態の中で、家族はあと何年待てばいいのか。解決のためには、北側の心をしっかり捕らえる心理戦が必要だが、政府に何らかの準備があるのだろうか。

この間6カ国協議では、この問題で頑なだった中国とロシアが動いた。また韓国には今までの対北朝鮮宥和策に加えて、徐々に人権問題を取り上げる動きも見え始める。南北統一という課題を達成の悲願を持つ当事者だからこそ、真剣そのものである。

まず、北朝鮮問題を考えるためには、南の人々。つまり韓国人が何を考え、どんな動きをしているかを知ることから開始しなければならない。北朝鮮を動かす力が最も強いのが、同じ言葉を使っている南の人々であるという事実をよく考えずに、北朝鮮を論じる学者や評論家がたくさんいる。

私たちは、当事者の実情や感情を考慮することのないそうした偏狭な論陣に耳を貸す必要はない。大事なのは、北朝鮮問題に韓国がどう対応しているか、さらに世界各国がどう対応しているかを知ることだ。少なくとも、韓国の政治と世論の動きを踏まえずに、この問題で駒を進めるのは、危険極まりないことを理解すべきである。


▼07年3月、大勢の西側ジャーナリストが38度線を越えた

今年の3月、世界65カ国から集まった138人のジャーナリストが、4台の大型バスを連ねて、韓国と北朝鮮を分断する38度線を越えた。目的地は朝鮮半島の東海岸、38度線を越えてすぐ北側にある金剛山(クムガムサン)だ。

2千の峰々を持つというこの金剛山は、金剛経を出典として名づけられ、四つの名刹(めいさつ)を持つ仏教修行地でもあった。在日も含む韓国・朝鮮人にとっては「一生に一度は行ってみたい」という憧れの景勝地で、古来、多くの詩人がその景勝の素晴らしさを詠い、数多くの水墨画が描かれてきた。

500頭の牛を連れて板門店を越えて平壌を訪れた現代(ヒュンデ)グループの鄭周永(チョンジュヨン)会長が、金正日と合意して金剛山の観光特区開発に着手したのが1998年。彼はここから40キロ南の通川(トンチョン)という村の生まれで、この地にはとりわけこだわりを持っていた。80歳を越える高齢だった鄭会長は、五男のチョンモンホン鄭夢憲氏に北朝鮮での開発事業を委任し、現代俄山(ヒュンデアサン)という会社を設立した。

手始めに海路で38度線を迂回するルートの合意を取り付けた。ベトナムのサイゴン川で稼動していた豪華クルーザーを買い取り、「海金剛」(ヘクムガン)と名づけた。南の観光客を運び、金剛山入り口の港に停泊させてホテルも兼ねるというものである。

最初は、細々と開始されたらしいが、2000年の金大中の電撃的平壌訪問をきっかけに、観光客を迎え入れるインフラの整備が進んだ。さらに離散家族の面会や、南北会談の場所としても機能するようになっていった。

その後、北朝鮮との話し合いで、陸路でのルートも可能になった。近隣諸国の政治的な動きや、北朝鮮のミサイル発射騒ぎの都度、訪問客が極端に減るという状態での運営だったが、ホテル、レストラン、スポーツ体育館、劇場、会議場、スパなども建設されてきた。

鄭周永会長にとって、金剛山へ人々が自由に出入りできるようになることは悲願だった。グループの中に会社を作り、息子のひとりに任せたのは、その悲願を実現すためだった。

南からの観光客が年間20万人から30万人訪れるという金剛山だが、北側の許可を待って始めて訪れることが出来るという事情のために、ここを訪れる日本人は年間100人程度ということで、その実情は日本にはほとんど知られていない。

そこに138人もの外国人記者団が訪れたわけである。

世界各国からのジャーナリストに実際に北朝鮮の一部を見てもらうこのアイデアを実行したのは韓国記者協会(会長・鄭日鎔、チョンイルヨン)。韓国のマスコミの縦断組織として最も大きい職能団体で7000人が参加している。世界各国のジャーナリストを招くために、国際ジャーナリスト連盟(IFJ、本部ブリュッセル、会長・クリストファー・ウォーレン)の協力を得ることとした。

会員数50万人の世界最大の記者団体であるIFJの呼びかけに答え、40カ国以上の国々から選りすぐりのジャーナリストたちがソウルに集まったのである。

▼銀塩カメラを持ち込めない北朝鮮

私たちが乗る4台の大型バスは、ソウルからまっすぐ日本海に向かい、海岸沿いを北上する。余談だが、韓国ではこの呼称を嫌い、東海と呼んでいる。

北に持ち込むことができないものは、録音機、130ミリ以上の望遠レンズつきカメラ、パソコン、銀塩カメラなど。ニセ金の持ち込みも不可という北側の指示に思わず笑ってしまう。

もちろん全員の携帯電話を南側の入国管理事務所に預けなければならない。小さな携帯デジタルカメラは持ち込み可能なのだが、銀塩カメラがダメというのは、出国の際に撮った映像がチェックできないからだという。

まさか映像チェックはしないのではないかと高(たか)をくくっていたが、北朝鮮の軍人は手馴れた手つきで、全員のデジタルカメラの映像を覗き込み、参加者何人かの映像が彼らの手で消去されることとなった。

今後、北朝鮮を訪れる人は、帰国の際に映像チェックがあるので、どうしても持ち出したい映像は小さな記録メディアに移して、気づかれない場所に隠しておき、カメラには残しておかないことをお勧めする。もちろん、カメラの映像を全部消去してしまえば、逆に疑われることになるので、相手の心理を読む技術が必要である。

さて、南の入国管理事務所を通過するとすぐ、北側の入管職員が私たちのバスに乗り込み、一人一人のパスポートのチェックをする。普段は軍服の男性職員が乗り込んでくる緊張の一瞬なそうだが、20歳ぐらいのその女性職員は、実に気さくな感じで、私たちを監視するのではなく、安全に案内したいという態度が切々と感じられた。

しかし、彼女はマイクを取って、これから北に入る際の注意事項を語る。南側ガイドがそれを逐一英語に通訳する。

「車窓からは絶対に撮影してはいけません。また北朝鮮領に入ってバスから降りた場合、決して北朝鮮人民や軍人を撮影してはいけません。村民のプライバシーを尊重してください。もし、違反した場合には厳重な対応をとることになりますので、慎重にお願いします」

(つづく)

 (c)2007 菅原 秀 

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2006年11月19日

モハメッドの漫画の隠された意味 (3) 

■神でないものを神にするメカニズム

 さて私は、少しでもイスラム教の文化的背景を知るために、海外取材でムスリムに出会うたびに、イスラム教への疑問を問いかけることにしている。
「なぜ豚肉を食べないのか」「なぜ偶像礼拝はいけないのか」「なぜ聖戦なるものがあるのか」。彼らはこうした問いかけが大好きだ。微笑みながら答えてくれる。私が出会う相手はジャーナリストや政治家が多いのだが、時にはイマーム(聖職者)を紹介してもらうこともある。

 ムスリムは皆コーランに書かれていることを字づらどおりに金科玉条として生きているのだと思われているが、こうした質問をすると、多様な答えが返ってくるので面白い。

 偶像礼拝に関する質問への彼らの答は、おおむね次のように要約できる。

1、神とは目に見えない偉大な存在であり、偶像で現すことは不可能である。それを偶像で現そうとするのは神への冒涜である。

2、偶像は神を想像して拝むための手段として発明されたものである。しかし、そのために偶像を取り入れてしまうと、偶像を拝むことが目的化されてしまい、教会組織運営の手段となってしまう。モハメッドの時代、キリスト教会は組織拡大の手段としてマリア像を拝む「マリア信仰」を用いていた。モハメッドは「マリア信仰」による教会の堕落を看破し、そうした偶像礼拝を禁じたのである。

3、キリストやモハメッドは預言者である。預言者の像や写真を拝むことは、神への冒涜であるだけでなく、預言者を絶対化して盲信することになり、別の新興宗教を産み出してしまう。あるいは、それによって生じた教条主義やセクト主義によって信仰全体がゆがめられてしまう。

4、偶像は物である。偶像礼拝は物を賛美することであり、人々の心を破壊し、文明を破壊する。経済至上主義という拝金主義は典型的な偶像礼拝の症状である。

 さて、これらを踏まえたうえで、具体的なわかりやすい例を述べよう。

 1995年にオウム真理教の麻原彰晃らが逮捕されたときのテレビ画面を思い出していただきたい。

 頭にヘッドギアをかぶった白装束の信者達。サティアンと呼ばれた異様な建物の群れ。それらの建物内に貼ってあったおびただしい数の麻原彰晃の顔写真。

 評論家達はしきりに、信者達がサブリミナル効果や薬物によって「洗脳」れていることを指摘した。しかし、サブリミナル効果以上に、信者達の心をだめにしていたのが偶像礼拝による催眠効果なのである。

 信者達は麻原が説く教えのいずれかに興味を持ってこの教団に入った。そこに待っていたのは、麻原をあたかも神のごとく敬う世界だった。麻原を頂点とした意味不明のヒエラルキー(階層)の階段を上る修行システムだった。

 こうしたシステムは信者の判断力を奪い、「盲信」というメカニズムを発生させる。

 信者達は、組織の頂点に君臨しているこの男を、「最高の悟りに達した存在だ」と勘違いして、一歩でもそこに近づくために、壁にベタベタとこの男の写真を貼り、毎日拝み続けていたのである。

 評論家達はサブリミナル効果と考えているが、サブリミナルは条件反射を導くだけで「盲信」を発生させることはできない。信者自身が自分の意思で偶像礼拝の世界に飛び込むことで「盲信」が生まれるのである。

 映像文化が発展した現代社会では、偶像礼拝の初歩的な症状を容易に観察できる。テレビスターの「追っかけ」がその典型である。つまり、スター願望という催眠現象である。

 人は、地位の高い人や、有名な人の目前に行くと、あがってしまい、いいたいことも言えなくなりがちだ。つまり、知らず知らずに自分自身を相手よりも低い人間だと自己催眠をかけてしまった結果なのである。

「自分はそんなことはない」と言うむきも多いと思うが、いざ自分が入ったレストランの隣の席に、日頃テレビでよく観ている有名人が座っていたら、舞い上がってしまうのが人情であろう。つまりブラウン管の向こうの人は「特殊な人」で、自分を「普通の人」と考える思考が、社会的身分にまつわる自己催眠なのである。

 問題なのは、教祖になりたがる人よりも、自分を低い存在と考えて自己催眠にかかってしまう人の数が圧倒的に多いことである。

 あのヨン様を追いかける中年女性の群れを見ただけでも、私たちは肝を潰してしまうが、宗教団体に集まって偶像礼拝をする人々の「追っかけ」のエネルギーは、ヨン様「追っかけ」の物の比ではない。誰にも止められない怖さがある。

 オウム真理教の捜査のあと、警察庁の幹部からこういう言葉を聞いた。

「オウム真理教壊滅のために全国の警察官5万人を約一年間投入しなければなりませんでした。全警察官の3分の1以上の数です。そのためにどこの警察署でも仕事の量が増えて、過労死した仲間もいるほどです。たかだか信者数1万人の団体の取り締まりに対して、警察力の限界ぎりぎりでやっと対応できたと言うのが実情です。つまり、これ以上大きな不法集団が出現したら、日本の警察力では対応できないと言うことが、はっきりとわかったのです」

 オウム真理教のような小さな教団ですら、偶像礼拝のメカニズムを利用して、これだけ大きなインパクトを与えるのである。

 モハメッドはそのことを良く知っていたからこそ、偶像礼拝に対してはことのほか厳しく禁じているのである。

 そして全世界のムスリムは、モハメッドが説いた偶像礼拝の禁を堅く守り、モハメッドの肖像画も一切作ることなく、神への祈りを捧げ続けているのである。

■教条主義を生む偶像礼拝

 人間はあくまでも人間であり、等しく与えられている法則から逃れることは出来ない。悟りを得たから人間でないとか、奴隷であるから人間でないなどということは、まったくありえないことである。

 しかし、怪しげな宗教にそまって教祖を盲信してしまっている人は、その当たり前の道理を否定して、教祖を神にしてみたり、物質を御神体と呼んで神にしたりという偶像礼拝を開始する。

 この偶像礼拝は人間の心を荒廃させるだけではない。ドグマチズム(教条主義)を生み出し、セクショナリズムという社会的害毒を肥大させてしまうのである。

 このセクショナリズムのエネルギーというのは、とても大きいもので、いったん生まれると消し去ることができない。

 日本人の私たちにとっても分かりやすい例として仏教の例をあげよう。

 曹洞宗の開祖の道元は「正法眼蔵」の中で次のように語っている。

「釈迦の仏法を禅宗とか曹洞宗とか呼ぶのはあやまりである。その証拠に釈迦の時代には禅宗とか曹洞宗という名称はなかった。釈迦の正法をこういうふうに言うのは、悪魔の言うことであり、正法を受け継いだものの言うべきことではない」

 おそらく開祖が書いたこの文章を知らない曹洞宗の僧侶は皆無であろう。しかし、彼らが曹洞宗という名前を廃止する運動を起こしたことなど聞いたことがない。

 開祖に言わせれば現在の曹洞宗の僧侶たちは悪魔の正法を恭しく捧げている集団ということになる。いったんセクショナリズムが生まれてしまえば、消し去ることができなくなる。曹洞宗をその一例としてぜひ記憶しておいていただきたい。

 マホメットはカーバ神殿を奪還したのち、あらゆる偶像や屋台を放り出し、何もない純粋な祈りの場に生まれかわらせた。そして、それは今でも続いている。

 フレミング・ローズは、漫画を発表することで、良いムスリムと悪いムスリムを峻別する表現の自由を駆使したと思い込んだ。しかし、偶像礼拝のメカニズムを知らなかったために、イスラム教が依拠する信仰そのものを否定するというとんでもない過ちを犯してしまったのである。そして、本人はまったく気づいていないようであるが、その過ちは同時にキリスト教の否定でもあり、神そのものの否定にもつながっているのである。

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2006年05月21日

モハメッドの漫画の隠された意味(2)

さて、騒ぎの火付け役であるフレミング・ローズは、06年2月17日になって当のユランズ・ポステンに「なぜあの漫画を掲載したのか」という英文の長文記事を掲載した。

 かなりの長文だが要約すると次のような内容であった。 

「表現の自由を標榜する現在のメディアは、ムスリムへの恐れから、表現を自粛している。子供向けにモハメッドの伝記を書こうとした作家が、肖像画の描き手を捜したところ、みんな怖気づいてしまい、見つからなかった。イスラム教への批判を許さずに全体主義的な脅迫をわれわれに行なってくるムスリムに対し、表現の自由を知らしめるために漫画の掲載に踏み切ったのである。私の呼びかけに対し、12人の漫画家が応えてくれた。われわれは今までにあらゆる人々を風刺する権利を行使してきた、王室であろうとキリストであろうと風刺の対象としてきた。しかしモハメッドにだけそれができないというのはおかしい。人は平等である。これは表現の自由を守る戦いである」

■良いムスリムと悪いムスリム?

 偶像礼拝の意味を知らない人にとってはこの理屈は道理にかなっているように思える。しかし、これは偶像礼拝の危険さを棚上げにした理屈だ。

フレミング・ローズは偶像礼拝についてどう考えているのだろうか。
彼の文章からだけでは判断できないが、経歴を調べてみると、ロシア語の専門家でモスクワで学んだことがあるようだ。さらに現職の前に別な新聞のワシントン特派員の仕事をしている。恐らくそこで得た知己だろう。2005年初頭に再び訪米して、著名な中東専門家であるダニエル・パイプスを取材し、ユランズ・ポステン紙で紹介している。

 ダニエル・パイプスはユダヤ系アメリカ人で、アラビア語に堪能な中東評論家として著名だ。雑誌や新聞に、アメリカの民主主義と協調できるイスラム穏健派との連帯が必要だという主張を発表し続けている。それだけなら多少ましなのだが、アメリカを批判するイスラム学者の講義内容を学生達にスパイさせ、キャンパス・ウォッチというサイトに匿名の報告を大量に掲載し、テロを支持するイスラム学者だとしてふるい分けて、社会的制裁を呼びかける抑圧的な人物なのである。

 つまりローズは、こうした人騒がせなアメリカの中東専門家を、海を越えて取材に行くほど、ムスリムに対するある種の思い入れが強かったと言える。
 そうした思い入れを持つローズはどの程度、イスラム教を理解をしているのだろうか。

ローズが書いたユランズ・ポステン掲載の紹介記事が、当の取材対象のダニエル・パイプス自身のサイトに英訳されて掲載されていた。パイプスは、外国から記者が取材に来てくれたことがよほど嬉しかったのだろう。誰かがボランティアで訳したものを入手し、わざわざ専門家に頼んで、校正の手を加えてもらっている。

それを読むと、フレミング・ローズのイスラム教理解はがっかりするほど表層的なものであることがわかる。複雑なイスラム教世界を単純に、原理主義過激グループと穏健派ムスリムのふたつにわけてしまい。パイプスを、穏健派ムスリムを支持するアメリカの良心だと紹介しているに過ぎないのである。

■表面だけからのイスラム理解

 この程度のイスラム教理解では、ローズが偶像礼拝というイスラム教の存続にかかわる問題を理解するのは無理だ。ローズは偶像礼拝の意味がわからずに、原理主義過激派ムスリムに対する単純な苛立ちからモハメッドの漫画12点を掲載するという挙に出たと思われる。その結果、本人は大勢の「良いムスリム」がモハメッドを揶揄した漫画に賛同してくれると思ったようだ。本人は表現の自由を奪われたムスリムを救ったつもりでいたに違いない。

 ところが、ムスリムからの反応は、みなさんご承知のとおりだった。ローズは今回の行為がムスリム全体をバカにした行為であるということに気づかなかったのである。

 つまり「日本人は皆バカだ」とか「仏教徒は皆バカだ」と言い切ることと同じようなナンセンスをローズは行なってしまったのである。そして、その行為を表現の自由をまもるためだと言い訳してしまったのである。

 しかし、ローズがイスラム教の基本に対して無知だからといって彼ひとりを責めることはできない。偶像礼拝を原則的に禁止している全世界のキリスト教徒たちも、この問題をおざなりにしているからだ。ルーテル福音派を国教とするデンマークだが、ローズも偶像崇拝の本当の意味などを知ることもなく、自分が生まれたそのデンマークの価値観が世界に通じると思って育ったのであろう。

■アニミズムと偶像礼拝

 日本では偶像礼拝がどういう意味を持つものであるかが、ほとんど知られていない。聖書の中にこの言葉が記述されていることが知られている程度だ。

 言葉そのものから連想されるのは「人物や動物をかたどった物を後生大事に拝むこと」といった概念であろう。

 人物や動物をかたどった物を後生大事に拝むのは、大昔から世界中に存在しているアニミズムやシャーマニズムから来たものが大部分で、偶像礼拝のような積極的な「神への冒瀆」行為を伴わないことが多い。

 たとえばビリケン像や仙台四郎を「商売繁盛の神様」として拝んだり、招き猫を店の入り口に置いて客が来ることを願ったり、あるいは龍や狐のお札をお守りとして事故や災難に遇わないように祈願する行為などが偶像礼拝だと思われている。

しかし、こうした行為はアニミズムやシャーマニズムの古くからの伝統の名残りであり、そこには神を冒涜するという意思は希薄である。来日するムスリムにそうした物を見せたり案内しても、偶像礼拝として目くじらを立てた人には出会ったためしがない。

 事実、どのイスラム国家にも昔からのアニミズムやシャーマニズムの伝統がある。私たちに身近なインドネシアやマレーシアなどのイスラム国家では、昔から伝わるお守りや像などが、どの町でも売られている。そのことに誰かが目くじらを立てたという話は聞いたことがない。

 しかし、もしインドネシアやマレーシアのみやげ物屋で、キリストやマリアの聖像が売られていたとしたらどうなるだろう。大変な騒ぎになるに違いない。
 偶像礼拝はこうした宗教そのものと関連したある種の意思を伴う、背信行為を差すのである。
 
では、偶像礼拝とは何なのだろうか。

■モハメッドの肖像画はなぜ作られないのか
 
偶像礼拝そのものをテーマにした映画が、ムスリムの映画監督によって作られたことがある。1976に全世界で反響を呼んだ「ザ・メーセージ」という映画である。監督はムスタファ・アッカド。シリア人である。

天使ガブリエルによって啓示を得たモハメッドは、神の使徒として、人々の平等と社会腐敗改革のための正義を説き、共鳴者を増やしていった。しかし、メッカの大金持たちにとって、モーゼの十戒をきちんと守ろうとするモハメッドの教えは受け入れられないものだった。カーバ神殿は、さまざまな宗教の教祖や動物の偶像を祭り、多神教を商売として繁栄していた。その反映を神の名のもとに否定されれば、生活の基盤を失うからだ。

そこで、彼らは、モハメッドとその仲間たちに過酷な仕打ちをし、弾圧に出た。次々に仲間や家族に拷問を加え、さらにモハメッドの人種平等思想を信奉する黒人奴隷を石の下に敷いて殺した。

メッカでの伝道を断念したモハメッドたちは、北方の町メディナに移り、再起を図った。そしてついにメッカを奪還し、偶像礼拝を一掃し、カーバ神殿を神の聖堂として回復させたのだった。

だいぶ前の映画なので、細かいストーリーは忘れてしまった。しかし、メッカに凱旋したモハメッドたちの兵士である元黒人奴隷が高らかに「アッラーは唯一の神なり」とコーランを朗詠するのが、とても印象的な映画だった。さらに、もうひとつ印象的だったのは、モハメッドが持っていたと思われる杖が砂漠の真ん中に立っていて、ナレーションとコーランの朗詠が重なる場面だった。

さて、問題のポイントについて述べよう。

この「ザ・メッセージ」はモハメッドの生涯を描いた大作であるにもかかわらず、主人公であるモハメッドは一切登場していないのである。

それでは、なぜモハメッドに扮した俳優が映画に登場しないのであろうか。

それは、モハメッドを神の化身と勘違いしてしまう人々の出現を恐れるからである。つまりモハメッドの肖像を拝んでありがたがる人々の出現を恐れるからである。

モーゼもキリストもモハメッドも、偶像礼拝をはっきりと禁じている。恐らく、彼らの時代には偶像礼拝の弊害が理解できる社会背景があったのだろう。

 しかしいま私たちが聖書を読んでも、「なぜ偶像礼拝がいけないのか」という理由を理解するのはとても難しい。コリント人への手紙の第10章でパウロが葡萄酒や捧げ物のたとえをしながら、なぜ偶像礼拝がいけないのかを長々と説明しているが、私たち日本人にはとんと理解できない。背景の文化が皆目わからないからだ。

コーランの記述は聖書よりはわかりやすい。「あなたがたと,あなたがたの祖先が命名した偶像の名に就いて,アッラーが何の権威をも授けられないものに就いて,あなたがたはわたしと論争するのか(7章71)」などの記述で、偶像は神とは無関係な張りぼてであるということを繰り返し説いている。しかし、ムスリムにはこうした記述がピンと来るのだろうが、われわれにはとてもわかりにくい。

■神でないものを神にするメカニズム

さて私は、少しでもイスラム教の文化的背景を知るために、海外取材でムスリムに出会うたびに、イスラム教への疑問を問いかけることにしている。「なぜ豚肉を食べないのか」「なぜ偶像礼拝はいけないのか」「なぜ聖戦なるものがあるのか」。彼らはこうした問いかけが大好きだ。微笑みながら答えてくれる。

私が出会う相手はジャーナリストや政治家が多いのだが、時にはイマーム(聖職者)を紹介してもらうこともある。

ムスリムは皆コーランに書かれていることを字づらどおりに金科玉条として生きているのだと思われているが、こうした質問をすると、多様な答えが返ってくるので面白い。

さて、偶像礼拝に関する質問への彼らの答は、おおむね次のように要約できる。
                              (つづく)


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2006年04月14日

モハメッドの漫画の隠された意味 (1)

デンマークの新聞ユランズ・ポステンが、イスラム教の預言者モハメッド(ムハンマド)を風刺する漫画12点を掲載し、世界中のムスリム(イスラム教徒)に怒りの火をつけた。
 西側各国のいくつかの新聞社もこの騒ぎを増幅した。ユランズ・ポステンの風刺画を新聞に転載して、表現の自由を守るべきであるという論陣を張り、さらに世界のムスリムたちを怒らせた。

 挙句の果てには06年2月23日、デンマーク国内の報道機関に授与される「ビクトル賞」がユランズ・ポステン紙に授与された。表現の自由を守ったというのが、その理由だ。
 さて、9・11以降、世界はとても危険な状態になってきている。
 そうした中で起きたデンマークの有力紙によるイスラム社会への挑発は、何を意味するのだろうか。

■イスラム社会全体への挑戦

 モハメッド「らしき」人物の漫画を描き、その漫画をテロリスト風に描写した今回の行為は、ムスリムの感性そのものに暴力的に突き刺さり、ムスリムたちの心をズダズダにすることになった。

 なぜそうなったかを、ムスリム以外の人が理解することはとても難しい。しかし、私たちが理解するためのキーワードはたくさんある。

今回の事件で強調されている「預言者」「肖像画」「偶像礼拝」などの一連のイスラム用語が、私たちの理解を助けてくれるのである。
 私たち日本人は平和運動に熱心であり、世界の人々の核の恐ろしさに対する無知にもかかわらず断固、広島と長崎の経験と悲劇を伝え続けてきた。

 実は、今回のユランズ・ポステン紙による挑発は、そうした私たちの平和への願いをも吹き飛ばしてしまうかも知れない、恐ろしい行為なのである。
 つまり、ユランズ・ポステン紙のくだんの文化部長は、イスラム教が封印し続けてきた「パンドラの箱のふた」を開けてしまったのである。
 
今回の事件、というよりも挑発に対して世界中のムスリムが怒ったのは、モハメッドをテロリストになぞらえた漫画が掲載されたからだと思われている。しかし、ムスリムたちはそのことに怒っているのではない。モハメッド「らしき」人物の漫画を12点も「これでもかこれでもか」と並べることで、ムスリムの感性を逆なでにし、神への最大の冒瀆である偶像崇拝というタブーを揶揄したことに対して怒っているのである。

 同じジャーナリストとして、この漫画を掲載した文化部長の行為をとても残念に思う。と同時に、この記者が行なった行為がどういう意味を持っているかということを、わかりやすく説明するのが難しいことに気づいた。しかし、今回の行為の意味、とくに偶像礼拝の意味をわかりやすく解説している人が、ほとんどいないので、拙いながらも、あえて書きしるすことにした。

 これは、人類の心と宗教全体、そしてこれからの世界平和に関連したとても大事なことなのである。 


■表現の自由という勘違い

 ユランズ・ポステンは1871年に創刊された古い新聞であり部数は約15万部、日曜版が約20万部で、デンマークでは最も大きな有力紙とのことである。

 論調は創刊時から右派的で、今回の風刺漫画事件についても、掲載された05年の10月にはデンマーク国内のムスリムから抗議が殺到したものの、それに動じる様子はなかった。

 しかし翌06年の1月になって、風刺漫画掲載の事実が海外に報じられ始め、世界各国に抗議活動が広がり、同紙はあわてふためいた。

 とりあえず編集局長が「ムスリムの感情を害する意図はなかった」と謝罪し、漫画を掲載した当人である文化部長のフレミング・ローズを担当から降ろした。しかし、軽微な処分を受けただけのローズは、海外のメディアとコンタクトを取って、「表現の自由を守る」という口実で、騒ぎを大きくする工作をしていた。

 最初は西側の新聞がなぜ、ユランズ・ポステンの漫画を積極的に載せてムスリムの怒りに火をつけ続けていたのかがよく分からなかったのだが、文化部の担当を降ろされたローズが積極的に内外の記者や学者と連絡を取り始めた結果だった。どうも、世界中のムスリムを敵に回して騒動を拡大したがっているようだ。真意は、どんなところにあるのだろうか。

 2月17日になって当のフレミング・ローズがユランズ・ポステンに「なぜあの漫画を掲載したのか」という英文の長文記事を掲載した。

 本人の説明は、おおむね次のようなものである。

(つづく)

       初稿06年3月

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2005年03月26日

星の王子さまの涙(2)

▼愛の重圧を知った涙

星の王子さまが地球を訪ねたとき、たどりついたのは、幸か不幸か砂漠地帯だった。人間を探して長いこと歩いてゆくと、バラが咲き誇っている庭にたどり着いた。

ここで王子さまは大きな発見をすることになる。自分の星にいるバラの花は、たった一本だが、ここにはそっくりそのままのバラの花が五千本もあったのだ。
「もし、あの花が、このありさまを見たら、さぞこまるだろう・・・やたらせきをして、ひとに笑われまいと、死んだふりをするだろう。そしたら、ぼくは、あの花をかいほうするふりをしなければならなくなるだろう。だって、そうしなかったら、ぼくをひどいめにあわそうと思って、ほんとうに死んでしまうだろう・・・」

さらに王子さまは、こうも考えた。
「ぼくは、この世に、たった一つという、めずらしい花を持ってるつもりだった。ところが、じつは、あたりまえのバラの花を、一つ持ってるきりだった。あれと、ひざの高さしかない三つの火山――火山も一つは、どうかすると、いつまでも火をふかないかもしれないぼくはこれじゃ、えらい王さまなんかになれようがない・・・」

そういうと、王子さまは、草の上につっぷして泣きだしたのである。
つまり、自分がひとつだけだと思っていた大事なものとそっくりそのままのものが、あまりにもたくさんあって驚いたのである。
通り魔殺人という犯罪を犯す人々には、大衆というものが個人の集団であるということが見えないらしい、「むしゃくしゃしたのでやった」などというわけのわからない動機が報道されると、人々はやりきれない思いをする。最近は、通り魔殺人の病原菌が大国の為政者たちにも感染しているようだ。
サン=テグジュペリは、ひとつの大事なものがたくさん集まればどうなるかということを、庭に咲くたくさんのバラの花でたくみに解説している。

王子さまはなぜ泣いたのだろうか。 

いままでは、小さな自分の星では、一つのバラを大事なものと考えていれば事足りていた。しかし、地球という大きな星で、五千本もの大事なものを同じように愛さなければならないという、とほうもない重圧を知り、「ぼくはこれじゃ、えらい王さまなんかになれようがない・・・」と泣き出したのだ。
では、えらい王さまになるためには、どうしたらいいのであろうか。

▼うわばみの絵の謎

「星の王子さま」はうわばみがゾウを飲み込む絵から、話が始まっている。この逸話に関して、文学の世界では「ゾウはフランスを表している。そのフランスをドイツといううわばみが飲み込もうとしていることを示している」などの解釈があとを絶たない。もちろん、そうした解釈をしてもサン=テグジュペリは怒りはしないだろうが、そうした解釈では、星の王子さまがなぜうわばみの絵の中身が見えるだけでなく、箱の中のヒツジも見えるのだろうか、ということがさっぱりわからない。

子どもの頃に初めて「星の王子さま」に接した私は、このうわばみの絵をなぜ王子さまがわかるのかが理解できず、悩んでしまった。いくらあの茶色い、うわばみの絵を眺めてみても、その中身が目に浮かんでこなかったからだ。

そして、そのしくみは描いた人の心に住んでいるのだということを知ったのは、だいぶあとになって、ある児童画の研究家に出会ってからのことだった。

子どもの絵の中に描かれている心の表象を正確に読み取って、子どもの絵は脳の縮図であると発表した小学校教員がいた。盛岡県雫石町の浅利篤さんである。生前の浅利さんは日本児童画研究会を組織し、全国の仲間とともに悪しき美術教育と戦っていた。

この悪しき美術教育というのは、今でも日本の大部分の初等教育をおおっている、間違った写実画教育のことである。つまり子どもの絵をまったく理解できない小学校教師たちが、子どもの創造性の芽を摘み取ってしまっている教育との戦いであった。

浅利さんが盛岡市内の小学校の校長を勤めていたときの話だ。小学校二年生の女児が泣きながら校長室に駆け込んできた。

「校長せんせ。お屋根にひさしが、なくってもいいよね」

浅利校長は、とっさにこの子が描いた絵のことだと検討がついたそうだ。
「おお、ひさしはなくってもいいぞ。だってお日さまが照っているんだろ?」
女児は、この言葉を聞いて泣きやみ、喜び勇んで教室に戻っていった。

真相はこうだ。女児は図工の時間に画用紙に家と太陽とチューリップの風景を描いた。それを見た担任の先生が、「このおうちには、ひさしがないわね。雨が降ったら壁が濡れてしまうでしょ」と注意したのだ。

女児は憤懣やるかたなかった。「太陽が出ているのだから、壁は濡れない」と言いたかったのだろうが、低学年児が教師に向かってそうした抗弁の出来ようはずがない。日頃、自分たちの絵を見てほめてくれる校長ならわかってくれると思って、教室を飛び出して校長先生に直訴したのである。

浅利校長は、この子の担任を呼び出してきついお灸をすえている。

「君は、ウサギをこどもたちに見せて、見たとおりに描くように指導している。『あら、目を黒く書いてるわね。よく見てごらんなさい。目は赤よ』『ウサギの毛は雪のように真っ白よ、ほらさわってごらんなさい。ちゃんと白く描くのよ』。絵というものは、自分で思いついた自分の世界を紙の上に展開するものだ。ウサギが白かろうと、紫だろうと、何色で描くかは子どもたちの自由だ。それが創造というものだ。君の教育は、絵画教育ではなく、理科教育だ。ところで君、太陽の色は何色かね」
「赤です」
「ははーん。太陽を見たことがないらしい。これじゃ、理科教育のほうもあやしいな。校庭に出て、太陽の色をじっと観察してから、次の授業を開始しなさい」


▼心の投影を覗き込む

浅利さんに、絵は心の世界の投影であるということを教えてもらった私は、こうしてうわばみの絵の謎を解くことができたのである。

つまり、サン=テグジュペリは、絵というものは描いた本人の世界であって、王子さまには、その本人の世界を覗き込む力があったということをいいたかったのである。ゾウをフランスだとかドイツだとか解釈するのは、解釈する本人の心の世界である。そうした想像も自由であるが、「星の王子さま」の逸話を通じて、見えない世界があるということを自覚することのほうが先決ではないだろうか。

「星の王子さま」のはしがきでサン=テグジュペリは、この本を、レオン・ウォルトに捧げている。サン=テグジュペリより二二歳年上のユダヤ人で、当時ナチスの迫害から逃れるためにフランスの山岳地帯にひっそりと身を隠していた男性である。レオン・ウォルトとは消息不明になる直前まで手紙のやりとりをし、自分の書物の批評をしてもらっていた仲であった。

わたしは、この本を、あるおとなの人にささげたが、子どもたちには、すまないと思う。でも、それには、ちゃんとした言いわけがある。そのおとなの人は、わたしにとって、第一の親友だからである。もう一つ、言いわけがある。そのおとなの人は、子どもの本でも、なんでも、わかる人だからである。いや、もう一つ言いわけがある。そのおとなの人は、いまフランスに住んでいて、ひもじい思いや、寒い思いをしている人だからである。どうしてもなぐさめなければならない人だからである。こんな言いわけをしても、まだ、たりないなら、そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたいと思う。おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。そこで、わたしは、わたしの献辞を、こう書きあらためる。 子どもだったころのレオン・ウェルトに 「星の王子さま オリジナル版」(岩波書店)



(c)2005 加筆 菅原 秀 初出 月刊「公評」04年12月号 

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2005年02月26日

星の王子さまの涙(1)

▼星の王子さまの時代

星の王子さまは、作者サン=テグジュペリとの会話の中で二度涙を見せている。
最初は、バラを食うヒツジの話をしたあと。そして、二度目はバラの花が咲き誇っている生垣を見たあとでだ。

星の王子さまはあのときにヘビにかまれて死んでしまったが、その魂は自分の星に帰っていったに違いない。そして、今度生まれ変わってふたたび地球を訪ねてきたとき、彼は驚くに違いない。

というのは、あの頃よりも、彼が心配していたバオバブの木が、当時の三本どころか、あちこちに生い茂っており、バラを喰うヒツジが世界中をわがもの顔で闊歩しているからだ。

そのことを考える前に、サン=テグジュペリが「星の王子さま」を書かざるを得なかった時代背景をふりかえってみよう。

ふつう外国人の名前は、サン・テグジュペリのように書かれる。内藤濯(あろう)さんの秀逸な訳で日本語版が出版された一九五三年の初版本には、サン・テグジュペリと書かれている。

しかし、この作者の名前はSaint-Exupéryなので、TとEの間がリエゾンされることから、その後、中点(なかてん)を使うことをさけて=を使うようになったようだ。

サン・テグジュペリは空軍のバイロットであっただけでなく、ジャーナリストとしてすぐれた記事を書いている。サン・テグジュペリの生き方は、多くのジャーナリストに影響を与えている。

日本にも影響を受けている人がたくさんいるわけだが、最近「星の王子さまの天空ジャーナリズム論」という副題で「地球メディア社会」(リベルタ出版)を書いた元共同通信記者、山本武信さんの解説から、「星の王子さま」が書かれた時代背景を引用させていただく。
 
戦争が好きな米国は、本土への攻撃を受けたことがない。唯一の例外が2001年の米中枢同時テロだった。だから、国中が震撼した。これに対しヨーロッパにとって、戦争とはつねに本土決戦だった。
二つの世界大戦の谷問で生き、そして死んだサン=テグジュペリの思想と行動はこうした極限状況を抜きにしては語れない。サン=テグジユペリは危急存亡の中で人間の真のあり方を追求し、現下の世界危機にどこまでも責任を持とうとした行動の人である。人問の生存や営みを脅かすものに対しては、ペンや飛行機を武器にして容赦なく立ち向かった。

1942年に出版した「戦う操縦士」は米国でベストセラーになり、フランスでも発刊された。同書はヒトラーの「わが闘争」への民主主義者の反論だった。その中に「ヒトラーは愚者である」という一文があった。これが検閲に引っかかって騒ぎになった。一九四三年にはドイツ語版が発禁処分になっている。「星の王子さま」が世に出たのは、この年である。『地球メディア社会』(リベルタ出版)207ページ

サン=テグジュペリは1940年から三年間アメリカに滞在している。当初はアメリカに祖国の窮状を訴えるために四カ月滞在する予定だったが、祖国に新ナチスのビシー政権が成立したので滞在期間を引き延ばして、一時的にアメリカに亡命せざるを得なかったようだ。

しかし、このアメリカもなかなか好きになれなかった。英語を習得しようとせず、亡命したにもかかわらず、簡単な会話すら行おうとしなかった。なぜ英語を話そうとしないのかと友人に聞かれると、次のような愉快な弁明をしている。
「コーヒーが一杯欲しいときには、カフェテリアのかわいいウェィトレスのところに行って、カツプと、受け皿と、スプーンと、コーヒーと、クリームと、砂糖とを身ぶりで示せばいい。そうすれば彼女はにっこりする。わざわざ英語の勉強に行って、その徴笑を失ってしまう理由がどこにあるのかね」「戦う操縦士」(みすず書房)
 
さてサン=テグジュペリが「星の王子さま」を書いたのは、このアメリカでの滞在期間中だった。サン=テグジュペリは、食堂の紙ナプキンに絵を描く癖があった。いつも描くのは、ガウンを着た王子さまの絵だった。本人にいわせると、モーツアルトの子ども時代のイメージがいつも心に浮かんでくるということだ。
 
ニューヨークのある編集者が、その絵のことを尋ねた。
「いつも心に浮かぶ、ただの小さな坊やさ」

その答えに興味を持った編集者が、その坊やをテーマに絵本を作ったらどうかという提案をした。数々の書物で賞をとり、フランスでは道を歩けばサインをせがまれるような有名人であったサン=テグジュペリは、絵本を書かないかという提案に興味を持ったようである。

といっても、初めての試みなので、何をどう書いていいかがわからなかった。

そうこうしているうちに、ナチスがロシアを攻略し、さらに北アフリカに戦線を進めた。サン=テグジュペリは、今まで出版し続けてきてシリアスなドキュメンタリーとはまったく違う形で、今、人類が考えなければならないことを絵本の形にすることを決意したようだ。


▼最初の涙

さて、王子さまが最初に泣いた場面を思い出してみよう。
 
砂漠に墜落した飛行機の修理に没頭しているサン=テグジュペリに、王子さまは次々に質問を浴びせかけた。ボルトとカナヅチで壊れた部分をぶっ飛ばそうと考えていたので、王子さまの質問にまともに答えなかった。

王子さまは言った。
「だのに、きみは、ほんとにそう思ってるんだね? 花ってものは・・・」
 サン=テグジュペリはあわてて言い訳をした。
「ちがうよ、ちがうよ、ぼく、なんとも思ってやしないよ。でたらめに返事したんだ。とてもだいじなことが、頭にひっかかってるんでね」
 
王子さまは、あっけにとられてサン=テグジュペリの顔を見て言う。
「なに、だいじなことって?」

そして王子さまは、飛行機の修理に没頭しているサン=テグジュペリの態度に腹を立てる。
「ぼくの知ってるある星に、赤黒っていう先生がいてね、その先生、花のにおいなんか、吸ったこともないし、星をながめたこともない。だあれも愛したことがなくて、していることといったら、寄せ算ばかりだ。そして日がな一日、きみみたいに、いそがしい、いそがしい、と口ぐせにいいながら、いばりくさってるんだ」
 
王子さまはサン=テグジュペリを赤星先生になぞらえた上で、大事なこととはなんであるかを語る。
 「だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花がすきだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。そして、〈ぼくのすきな花が、どこかにある〉と思っているんだ。それで、ヒツジが花をくうのは、その人の星という星が、とつぜん消えてなくなるようなものなんだけど、それもきみは、たいしたことじゃないっていうんだ」

そこまで話した王子さまは、続きを話せなくなり、わっと泣き出してしまうのだ。

文学の世界では、この一輪のバラの花は、サン=テグジュペリが愛する妻コンスエロか、あるいは祖国フランスのことだと解釈されているようだ。

しかし、この解釈はどちらも間違いだろう。というのは、ナチスに占領されていたフランスから亡命せざるを得なかったサン=テグジュペリにとっては、人類を抑圧する邪悪な力こそが、戦わなければならない相手であり、抑圧されている人々のひとりひとりこそが大事な人々であったからだ。その行動原理は、「人間の大地」をはじめとする一連の書物の中に何度も出てきているからだ。

山本武信さんはこう書いている。

責任という思想を理解せずに「人問の大地」や「星の王子さま」を感傷的物語として読むのは不適切である。責任という考え方がなかったら、サン=テグジュペリはファシズムと戦わなかっただろうし、両作品もこういう形では結晶しなかったに違いない。「人間の大地」や「星の王子さま」は大空を飛ぶことに夢中な作家が、占領された故郷を離れ、人問と生活を踏みにじる不条理な戦争のただ中に身を置いたからこそ生まれた傑作である。『地球メディア社会』208ページ


▼集団と個人、そして責任

近代戦が生まれて以来、安全圏から見えない敵を攻撃するという悪習が為政者たちにこびりついてしまった。ピンポイント爆撃を行っているので市民を巻きぞえにする可能性はほとんどない、と記者会見で述べながら、相手国の市民を殺戮し続けている。一発でも誤爆があれば、まさに無実な人に対する「殺人」である。そうした事態が発生すれば、直ちに戦争を停止して、「殺人事件」がなぜ起きたかの捜査をし、犯人を逮捕するのが当然だ。しかし、世の中はそうは動いていない。戦争だから仕方がないというナンセンスを口実に、国家の面子をたもとうとする。
 
たとえ為政者たちがそうであっても、われわれは、戦争だから仕方がないという口実を許してはいけないのだ。

サン=テグジュペリの言う「責任」とは、こうした個々の人間が自由に生きる権利を保障されなければならないということである。

サン=テグジュペリは「戦う操縦士」の中で、次のように書き、この問題を深く思索している。

不正義の牢獄からただひとりの人間を救出するために千人が死ぬということがなにゆえ正当なのか? わたしたちはまだその理由をおぼえてはいるが、徐々に忘れはじめている。しかしながら、わたしたちをきわめて明確に蟻塚から区別するこの原作のなかにこそ、なによりもまずわたしたちの偉大さが存するのである。『戦う操縦士』(みすず書房)

「戦う操縦士」を書く以前から、サン=テグジュペリは「集団」と「個人」と「自由」の関係について考え続け、しかも行動している。
 
不時着した砂漠でサン=テグジュペリは、マウル族に囚われて奴隷にされていたバルクという名の年老いたイスラム教徒を、大金をはたいて買い戻している。そして故郷に帰れるように20フランを与えている。さて、その元奴隷は、やっと自分の自由を得て、何をしただろうか?

元奴隷のこの男は、町に出ていって、自分が自由になったことを確認するためにぶらぶら歩いた。奴隷としてふたたび捕まらないことを知り、徐々に自由の身であることを確認していった。そのことを確信するようになると、町にいる貧民の子供たちに目がとまった。そこで、信じられない行動を起こしたのだ。近所の店に入って大勢の子どもたちのために大量に安物のおもちゃを買ってきて、惜しげもなく分け与えたのである。まわりの「馬鹿な奴だ。金を大事にしろ」と止める声も聞かずに。 

サン=テグジュペリは、この元奴隷のこの行動を見て、こう書き記している。

彼は自由だったから、基本的な富は、愛される権利も、北なり南なりに向かって歩く権利も、労働によってパンを得る権利も所有していた。いったい、そんな金銭がなにになるというのか……。だが他方、バルクは、ひとが深い飢えを感じるように、人間たちのなかで、人間たちに結ばれた人間であることへの要講を感じていたのだ。(中略)アラブ人の露店商たちも、往来の通行人たちも、すべてが彼のうちなる自由人を尊重し、彼とともに平等に彼らの太陽を頒ち合いはしたが、だれひとりとして、彼を必要としているという態度は示してくれなかった。彼は自由だった。限りなく、もはやこの地上に自分の重みを感じないほどまでに、彼には、歩みの枷となるかの人間関係という重み、かの涙、かの離別、かの非難、かの歓び、ひとつの身ぶりをするたびに、ひとりの人間がいとおしんだり、引き裂いたりすることになるいっさいのもの、おのれを他の人間に結びつけ、おのれをずっしりと重いものにしてくれるかの無数の絆が欠けていたのだ。だが、バルクのうえには、すでに子どもたちの無数の期待が重くかかっていたのである……。(中略)バルクは、かつて羊たちのなかに埋もれていたように、子どもたちの潮のなかにつかり、世界のなかに最初の航跡をしるしながらすすみ出た。明日、彼はおのれの家族の貧困のなかに立ち戻ってゆくだろう。彼の老いた腕がおそらくは養いうる以上の生命に責任を持つだろう。しかし彼は、すでにここで、おのれの真の重みをどっしりと持っていたのだ」「人間の大地」(みすず書房)
 
サン=テグジュペリにとって大事な存在とは、バルクのような人であり、子どもたちであり、そして世界中の個性を持つ人々であった。もちろん文学者たちが論争している妻コンスエロも、祖国フランスの人々も大事な存在であった。いや、アメリカや敵国ドイツの人々も大事な存在なのである。
 
サン=テグジュペリは、1942年に「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」と「カナダ・ド・モントレアル」に意見広告を出している。当時のフランスは、ナチスがフランスの裏庭である北アフリカにも進撃を開始し始めたにもかかわらず、ナチスに迎合する政党と、ナチスを打倒しようとする政党との議論ばかりが続けられていた。そのことで祖国が分裂することへの危機感からだった。
 
「あらゆる地域に住むフランス人男性への公開書簡」と題したこの意見広告で、サン=テグジュペリは、フランスの男性は今すぐ政争をやめて和解し、祖国フランスを守るために一致して戦おう、と呼びかけている。
 
アメリカとカナダのメディアに掲載された意見広告へのフランス人からの反応はにぶかったようだ。サン=テグジュペリは1944年、自分が呼びかけた言葉に従ってフランスに戻り、40歳をすでに過ぎているにもかかわらず、フランス空軍の偵察隊に復帰した。そして、コルシカ島からフランスに向けた偵察飛行に出撃し、消息不明となったのである。
  
サン=テグジュペリは、大事なものを守るという責任を果たすために、なんとしてもナチスというバオバブの木を絶やさなければならないと考えていたのだ。

(2)に続く

(c)2005 加筆 菅原 秀 初出 月刊「公評」04年12月号 



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2004年12月11日

戦争を止めた男

■戦争を止めた男

戦争を止めるためにはどうすればいいか? 現在の国家同士の枠組みによる対応では、解決不可能な問題が多すぎる。しかし時として、すぐれたキー・プレーヤーが出現する。

93年のオスロ合意を準備したノルウェーのテリエ・ラーセン、あるいはスリランカの和平を推し進めた同じくノルウェーのエリツク・ソルハイムなどである。こうしたキー・プレーヤーの足跡を学ぶことは、今、とても重要なことだ。キーとなる人物を支えるための、組織作りも、まさに緊急に求められている。

今回、紹介するのは、国連組織の中のこうしたキー・プレーヤーが、何度も戦争を停止させることを行ったという実話である。

その人物とは、1995年までユニセフの事務局長を務めた故ジェームズ・グラントである。

▼子どもを守るために戦争を止めろ

最初にグラントが戦争を止めたのは1985年のことだ。エル・サルバドルのユニセフ事務所長にニューヨーク本部のグラントが電話をかけた。「予防接種率が昨年から急激に下がっているが、どうしてこんなことが起きているんだい?」「政府軍とゲリラの戦争が続いていて予防接種ができないのです」。グラントはこう言った。「戦争を止めるんだ。そうすれば予防接種を再開できる!」

 「そんなことは不可能です」と叫ぶ担当者を尻目に、グラントはさっそくエル・サルバドルに飛び、地元のカトリック教会に接触して、政府と反政府ゲリラ双方のパイプ作りを開始した。数カ月で交渉は実り、子どもの予防接種の期間の停戦を双方に約束させることに成功したのである。

 その後、グラントは1987年にはレバノン。1989年にはスーダンに乗り込んで、同じように双方に停戦をさせるという離れ業を行っている。

▼湾岸戦争のイラクにも停戦を迫った

1991年の湾岸戦争のときは、イラク国内の医薬品がなくなり、子どもたちが危機状態におちいった。グラントはアメリカ政府とイラク政府の双方を説得し、救援物資をテヘランからバグダッドに運ぶ期間の停戦を実現させている。

イラク側が停戦の約束を履行するかどうかがはっきりしない状態だったが、フセイン政権との細いパイプをたよりに、グラントは賭けにでた。一路バクダットに向かった緊急物資支援を積載した12台のトラックに対して、イラク側は一切の攻撃をしなかった。この停戦で、イラク側の医療品の備蓄の70%程度を補給し、戦火の中の多くの子どもたちを救うことに成功したのである。

▼戦争を止めるのは人間の意志である

戦争を開始するのも終結するのも、その国や軍を代表する為政者である。すべて人間の意志であり、神やアラーの意思ではない。

「子どもを守れ」と叫びながら、戦争の当事者たちと直接交渉したグラントの意思こそ、われわれは学ばなければならない。たまたま、グラントがユニセフの長であったからではない。同じアメリカ人でも、先の見えない戦争を終結させることができずにウロウロしているリーダーたちとは大違いだ。

戦争が及ぼす人類への危機を回避するための停戦を、理屈をこねて先延ばししている為政者やゲリラの代表たちにじかに説得して、理解させる力を、グラントは持っていたのである。

私たちは、なんとしても世界の中からそうしたキー・プレーヤーを見つけ出し、みんなの力で応援し、これ以上の悲劇を生み出さないために、交渉のテーブルを生み出さなくてはならないのだ。

●グラントについての詳細は「ユニセフ最前線―戦争を止めた人類愛」
井上和雄著 リベルタ出版 を参照のこと

(c)2004 菅原 秀
 








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2004年11月21日

涙は、止まるか?(1)

涙は、止まるか?(1)

アメリカのZmagというサイトに01年9月15日に投稿されたコメント。この人のような考え方をするアメリカ人はたくさんいると思う。その後のアメリカは、アフガン、イラクと掃討作戦を続けている。まさに、この人の涙が、現在の状態を予言している。
当時、コメントを書いた本人との連絡は取れなかったが、Zmagのスタッフと相談し、この人はアメリカの暴走に歯止めをかけようとする強い意志があるので、非英語圏の人々に伝えることこそ本人の意思にかなうと判断し、日本語訳をした。彼のこのコメントは永遠に生き続けるだろう。多くの人々に回覧していただきたい。

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涙は止まるか?

ジョン・ゲラッシ (菅原 秀 訳)

世界貿易センター事件のテレビ・ニュースで、愛するものの悲劇の運命の胸の痛みを語っている人を見ると、私は、泣かずにはいられない。私は不思議に思う。なぜ、私は涙をおさえることができないのだろうかと。

われわれの軍隊がノリエガを探すという口実で、パナマのエル・チョリージョ近くの5千人の貧しい人々を一掃したとき、私は泣かなかった。われわれのリーダーたちは、ノリエガがほかの場所に隠れているということを知っていた。しかし、われわれはエル・チョリージョを破壊した。そこで暮らす人々はパナマから完全にアメリカを追い出したい国家主義者であったから。

なぜ、私は泣かなかったのだろう? われわれが2百万人の無実のベトナム農民を殺害したとき。計画の立案者であるロバート・マクナマラ国防長官は、われわれが戦争に勝つことができないということを知っていたにもかかわらず。

先日、献血に行ったとき、同じ献血の列に並んでいる3人のカンボジア人を見つけた。私はなぜ、私は泣かなかったのだろうということを思い出した。 「われわれの敵」に対決するという理由でポルポトに武器とお金を渡し、100万人を虐殺するのを助けたとき。われわれの敵は、結局キリング・フィールドを停止したのだが。

その晩、泣かずにいるために、私は映画に行くことに決めた。フィルム・フォーラムで上映しているルムンバを選んだ。 そして私はまたもや泣かなかったことを思い出した。 われわれの政府がコンゴのたったひとりの良心的なリーダーの殺人を手配し、貪欲で、不道徳な、人殺しの独裁者であるモブツ将軍を奉ろうとしたときも、私は泣かなかった。 CIAが、第二次世界大戦で日本の侵略者と戦い、自由な独立国を確立したインドネシアのスカルノの転覆を手配し、日本の加担によって少なくとも50万人の「マルクス主義者」を処刑したもう一人の将軍スハルトを奉ったときも、私は泣かなかった。

私は、昨晩再びTVで、行方不明になっている立派な父の写真の前で2ヵ月の子どもが遊んでいるでいる光景を見て泣いた。にもかかわらず私は、タイムズのレイ・ボナーの克明な写真解説による何千人ものエルサルバドル人の虐殺や、そこにいたアメリカの修道女や助修女がCIAに訓練され資金援助を受けたエージェントによって、強姦されたり殺されたりしているのを見ても、決して涙を流さなかった。しかし私は法務次官の妻バーバラ・オルソンがいかに勇敢だったかを聞いたとき泣きさえした。私が法務次官の政治的な見解をひどく嫌っていたにもかかわらずだ。しかし、米国が素晴らしい小さなカリブ海の国グレナダを侵略し、観光客用の飛行場を建設して暮らしを向上させようとしていた無実の市民を、ロシアの基地の証明だという口実で殺害し、米国の軍事基地にしたとき、私は泣かなかった。

現在のイスラエル首相アリエル・シャロンが、サブラとシャティーラのパレスチナ人難民キャンプの住民2千人の大虐殺を命じたとき、なぜ私は泣かなかったのだろう。テロリストであるシャロンが、やはりイルグンやシュテルンのテロリストだったベギンやシャミルのように首相になり、英国外交官の妻と子どもが宿泊していたデイビッド・ホテルを吹き飛ばしたのに?

私は、人は自分だけのために泣くと考える。しかし、それは同意しない相手への復讐なのだろうか?アメリカ人はそれを求めているようである。確かにわれわれの政府とマスコミはそうである。われわれは自由を主張するが、相手がそうしないという理由で、われわれの利益のために世界の貧しい人々を搾取していいのだろうか?

今、われわれは戦争を行なおうとしている。われわれは、無実の兄弟と姉妹の多数を殺害した戦争の道を歩むことを権利として保証されている。もちろん、われわれは勝つ。ビン・ラディンに対して。タリバンに対して。イラクに対して。誰であろうと、何であろうとわれわれは勝つ。その過程でわれわれは、再び無実の子どもをわずかばかり殺害する。しのびよる冬にそなえる服のない子どもたち。自分たちを保護する家のない子どもたち。わずか2歳、4歳、6歳という罪のない子どもなのに、通うべき学校もない。多分、エバンゲリオン派のファルウェル宣教師とロバートソン宣教師は、彼らはキリスト教徒でないので死んだほうが良いと主張するであろう。そして、多分、国務省スポークスマンの何人かは世界に向けて、彼らはかつてとても貧しかったが、今は幾分裕福になっていると語るだろう。

それではどうすればいいのか?われわれは、現在われわれが欲する手段で世界を運営することができるのか?確かにわれわれの財界首脳たちは、人々を国際的に監視する新しい法律によって、グローバリゼーションに対する反対デモをしている人々が永遠に脅されることになるのを喜んでいる。シアトル、ケベックまたはジェノバでの暴動はもう起きない。平和は続く。

次の機会に、誰かがそれを成し遂げることができるのだろうか? エル・チョリージョでのわれわれの大虐殺から生き残った子どもか?ニカラグアの少女か? 彼女は、学者であった母と父から、ギャングたちのことを学んだ。ギャングたちは、CIAのハンドブックに貧しい者の暮らしを向上させるには政府を倒すこと、そのためにはいい給料をもらっている先生を殺し、保健ワーカーを殺し、政府の農園労働者を殺すべきだと書かれているのを読み、アメリカ人から民主的コントラと呼ばれていたということを。あるいは、ニクソン政権時代の共産主義者と社会民主主義者との違いも、国家主義者との違いも考慮しなかったキッシンジャー国務長官の命令によって家族全部をなくしたチリ人か?

世界を運営しようとすれば、誰かの復讐に苦しまなければならないということを、われわれアメリカ人はいつになったら学ぶのだろうか?戦争は決してテロリズムを止めない。 われわれが自分たちを守るのに恐怖を用いる限り。

私はTVを見ることを止め、泣くのをやめた。私は、散歩に出た。4軒先の地元の消防署の前に群衆が集まって、花を置きロウソクを点灯していた。消防署は閉っていた。火曜日から閉っていた。常に微笑んで元気に近所の人々に挨拶していた親切な素晴らしい集団であった消防士たちは、最初のビルの犠牲者を救援しようと急ぎ、ビルの崩壊に巻き込まれたのだ。私は再び泣くことになった。

私はこれを書き始めながら、私自身に言った。これを送ってはいけない。隣人や生徒や同僚が憎しみを抱くだろう。障害沙汰に巻き込まれるかもしれない。しかし、再びTVをつけると、パウエル国務長官が私に話しかけた。これらの子どもたち、貧しい人々、反米主義者たちへの戦争の準備は完了した。なぜなら、われわれは文明化されており、彼らはそうでないからと。そこで、私はこれを危険にさらすことに決めた。多分、これを読んで、少なからぬ人が尋ねるであろう。なぜ、世界の多くの人々は、われわれが彼らに与えたものを味わうために死ぬ準備をしているのだろうかと。

オリジナルURL http://www.zmag.org/gerassicalam.htm

(c)ジョン・ゲラッシ 菅原秀訳(Zmag許諾2001) 2004再校


posted by 菅原 秀 at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 涙は止まるか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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