2014年06月20日

NSCを無視したケネディ5

このシリーズ3では、ケネディが太平洋戦争で遭遇した敵、花見弘平少佐(当時)との運命的な出会いについて解説した。と、同時にケネディが海軍に入ったのは父のコネであることも解説した。つまり、当時の海軍長官ジェームズ・フォレスタルは、父ジョセフの投機事業の仲間だったのである。ケネディが第三次世界大戦の危機を回避することが出来た背景には、こうした複雑な出会いがモザイクのようにからんでいたのである。


★NSCのアイデアはウォール街から生まれた 

さてジョン・ケネディを魚雷艇の艇長にしたジェームズ・フォレスタル海軍長官とはどんな人物だったのだろうか。

フォレスタルは、父ジョセフと同じくアイルランド移民の子孫で、共にルーズベルトに財政支援をしたウォールストリートの投資会社の社長だったのであるが、戦後、ルーズベルト大統領から特別補佐官に就任しないかという誘いを受け、ワシントンにやってきた。

ほどなくフォレスタルは海軍長官に転進し、そこで商才を発揮することになる。投資会社時代の才覚によって戦争特需を生み出し、国家予算の増大に貢献したのである。

その手腕が認められ、今度はトゥルーマン大統領の下で働くことになる。素晴らしいチャンスが訪れた。国防総省が設立されるとともに初代長官に任命されたのである。

さて、トゥルーマン政権下で設立されたのが国家安全保障会議(NSC)である。大統領を議長として首席補佐官が司会をし、副大統領、国務長官、国防長官、統合参謀本部議長、CIA長官などを中心として協議する最高意思決定機関であるが、非公開で行われ、国民の意思が反映されないものの、国務長官や国防長官などのシビリアン(文民政治家)が権限を持つことで、軍部が勝手な動きをとれなくする仕組みを作り出そうというものだった。

つまり、シビリアン・コントロールという甘い言葉のオブラートに包まれた戦争遂行機関がNSCなのである。

フォレスタルは、戦争特需システムを恒久化するために、出来たばかりのNSCを利用しようと考え、トゥルーマンの共産主義に対する恐怖を利用することにした。
 
そこで、投資会社時代に副社長だったポール・ニッツェをワシントンに呼び寄せ、NSCを担当する政策分析官のポジションにつけたのである。1950年に、ニッツェはその後のアメリカの冷戦政策の指針となっているNSC68(国家安全保障会議文書68号)という極秘政策文書を完成させている。名目はトルーマン大統領からの依頼で作られたことになっているが、実際は、フォレスタルが当時台頭してきたソ連の共産主義に対するトルーマンの恐怖感を知っての上で、総合軍事戦略の策定を進言しての結果であった。

NSC68というのは、NSCの政策文書に名付けられる単なる通し番号なのだが、このNSC68だけは、アメリカが危機にさらされたときに極めて役立つ政策だとして何度も利用され、事実上の国家安全保障戦略の基本となっている。ブッシュ政権時代のアフガニスタン戦争も、そしてイラク戦争もこの文書のノウハウに基づいて遂行されているので、この文書はアメリカの軍事政策を知る上での必読書だ。一九七五年に極秘文書から解除されたので、今では誰でも閲覧できる。

その内容をおおざっぱにいえば、ソ連に対する封じ込め戦略を地球全体に拡大したものである。アメリカは平時にも予防戦争遂行能力を維持するための軍事予算を投入し、同盟国との相互安全保障に基づき、基地と通信網を維持しなければならないと明記してあり、さらに軍需産業の拡大は国を富ませることにもつながるというフォレスタルの考えもあからさまに反映されている。さらに仮想敵への対応策についても詳細に言及しており、常に最悪の事態を想定して事前に戦争準備を遂行することで、アメリカ国民及び同盟国を守らなければならないとしている。

★イラク戦争にも応用されたNSC68秘密文書

わかりやすい応用例として、ブッシュ(子)大統領が遂行したイラク戦争がある。トルーマン時代の政策文書がなぜイラク戦争に関係しているのかといぶかしがるむきもあると思うが、ブッシュ時代はいわゆるネオコンと呼ばれる人々が頻繁にNSCに出入りしていた時期にあたる。ネオコンと呼ばれる人たちは、日本では全共闘世代と呼ばれる人々と同じ世代に属し、かつてベトナム反戦運動を行っていたが、その後、右傾化の考えが強まってゆき、新しい保守派という意味でのネオ・コンサーバティブと呼ばれるようになった人々である。

当時のネオコンの人々が主張していた開戦の理由はイラクが大量破壊兵器を保持しているかも知れないというものだった。イラク政府は必死になって大量破壊兵器を保持していないという証拠をかき集めて、山のようなデジタルデータを公表しているが、CIAから上がってくる報告はそれと違うものだった。

新聞記者からの質問に対して、ネオコンのひとりと目されるチェィニー副大統領は「たとえ1パーセントでもその可能性があるなら予防戦争はやむをえない」と答えている。これはNSC68に記載されている考え方そのものであり、のちにCIAの報告がでたらめだということがわかった時点で記者たちから、「アメリカは、チェィニーの1パーセント・ドクトリンに踊らされてイラク戦争を遂行した」と揶揄されている。

少しでも可能性があれば先制攻撃をして危険を除去しなければならないというこの考え方こそが、SNCが伝統的に採用してきた政策であり、私たちが学ばなければならないのは、フォレスタルの意を受けてニッツェが編み出したこの政策こそが、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争と続いたアメリカ主導の戦争のバックグラウンドになっているということである。
 
さらにニッツェは、今まで125億ドルと決められていた軍備費の上限を500億ドルまでに拡大しなければソ連の封じ込めは難しいと詳述した。頭の切れるニッツェは文書のところどころに軍備費の拡大はアメリカの経済を疲弊させるどころか、特需を生み出すことで経済的効果にも貢献することが可能であるということを示唆する文面をちりばめていた。この軍事産業による特需の考え方は、ケインズの自由経済理論を軍事の立場から補完するものとして、ネオコンも引き合いに出すようになり、新ケインズ主義とも呼ばれるようになっている。

つまり皆さんも聞きなれている新ケインズ主義という考え方は、設立されたばかりの国防総省および軍事機関の集合体であるNSCの基本文書にニッツェによって盛り込まれたことから出発しており、ブッシュ(子)大統領が開始したイラク戦争の論拠ともなっているほど、アメリカの軍事戦略に大きな影響を及ぼしてきたのである。

就任したばかりのケネディは、NSCが採っている対ソ連封じ込め戦略の数々の水耕文書に署名しながら、大きな疑問を膨らませていったのである。

続く




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2014年06月05日

NSCを無視したケネディ4

★人種差別を嫌ったケネディ

裕福なケネディ家で金銭的な不自由を一切感じずに育ったジョン・ケネディだが、その心の中にはくぐまれていたのはアメリカのあちこちで、当たり前のようにまかり通っていた黒人差別への強い反発だった。太平洋戦争で敵の将兵に対しても、人間としての共感を覚えるすぐれた洞察力を持っていたジョンは、差別されていた黒人に対しても人間としての共感を持つ洞察力を備えていた。その力こそが、紛争当事国の相手を人間とし見る力が欠如している軍のエリートたちの机上の提案に対して、はっきりとフィルターをかけて判断する能力をはぐくむ原動力だったのである。

その力を生み出す原因となったのが、父親に対する愛憎がともなった、出自(しゅつじ)にまつわる考え方の違いであったことは言うまでもない。

★長兄ジョーの悲惨な空中爆発事故

当初父親ジョセフは、長男のジョーを後継ぎにして政界に進出させ、ゆくゆくは大統領にしようと考えていた。自分とまったく同じ名前のジョセフ・ケネディ・ジュニアという名前をつけていたことからもその意気込みがわかる。ジョーというのは呼称通称である。

しかしそのジョーは優秀な成績でハーバード大学を卒業したものの、ドイツとの戦争の最中に戦死してしまった。このときジョーが参加した戦いは実に無謀なものだった。若者のの命をむざむざと奪う。それが戦争というものである。決してあってはいけないことが、ジョーの身の上にも襲いかかったのである。

第二次大戦の末期にいたるにつれ、双方の陣営の兵器開発はどんどんエスカレートしていった。つまり極めて危険な大量破壊兵器を開発して、敵を一気に叩こうという考えを持つようになっていったのである。長男ジョンは、こうして大量破壊兵器開発競争がエスカレートする中で、犠牲になった一人である。

ドイツ軍はフランスを占領するとともに、フランスに敷設した軍事基地からロンドンに向けてV2と呼ばれる弾道ミサイルを発射し始めた。米英軍は、それに対抗するために、フランスのV2発射基地に対する空爆を開始した。しかしV2基地は堅固に建造されていたので、大きなダメージを与えることができなかった。

そこで米英空軍が協力して生み出した戦術が、無線操縦の爆撃機に大量の爆弾を搭載してフランスまで無線操縦するアンビル作戦だった。これは旧式の戦闘機からすべての機器や必要部品を取りはずしてトルペックス爆弾を11トン詰め込んで、フランスまで友機による無線操縦で誘導し、機長と副操縦士がフランス上空で起爆装置をセットするとともにパラシュートで脱出するというめちゃくちゃな作戦だった。
 
飛行機は編隊を組んでフランスまで飛ぶ。無線誘導される爆撃機には当時開発されたばかりのテレビモニターを搭載し、友機がその映像を見ながら無線で操縦してV2基地上空を目指す。爆撃機の乗組員の仕事は航空機を操縦することではなく、大量の爆弾の起爆装置をセットするとともにパラシュートで空中に脱出するという作業だった。

この作戦の機長に指名されたのが空軍で抜群の成績を上げていた29歳のジョー・ケネディ、そして副操縦士としてミルフォード・ウィリーが指名され、このふたりが搭乗するB17がV2のミサイル基地を爆撃することとなった。

1944年8月12日、二人のパイロットを載せ、無線装置以外のすべてを取りはずして、目いっぱい爆弾を詰め込んだ旧式爆撃機B17は、順調にフランス上空まで飛行した。ふたりは爆弾起爆装置をセットし、空中に脱出しようとした。

しかし、その瞬間、友機のテレビモニターの画像が消えてしまった。同時にB17は2度にわたって爆発し、跡形もなく消滅してしまった。爆撃波は友軍の編隊に強烈な衝撃を与えただけでなく、その破片は25キロ四方に飛散した。原因は不明である。

こうしてジョーは、フランス上空でその姿をあとかたもなく消滅させてしまったのである。

こうした悲惨な犠牲を出したにもかかわらず、その後も大量破壊兵器開発のエスカレートは続いている。第二次大戦が終了しのちもこの傾向は続き、米ソは地球を何個も消滅させることができるほどの量の核兵器を保有することになった。人類はいまだに過去の悲惨な数多いレッスンからきちんと学ぶことが出来ないままなのである。

★兄に代わって政治の道へ

悲しみの消えない父ジョセフは、その悲しみを打ち消すように、大統領の夢を次男のジョンに託すことにした。兄の身代わりとなって大統領への道を歩むことになったものの、優秀だった兄とは違い、ジョンは金持ちの社交界には興味がなく、あくまでも庶民の側に立って政治を行おうとしていた。

ジョン・ケネディは下院議員から上院議員へと選挙戦を戦う過程でも何度も「不正利得」のケネディ家のボンボンという揶揄を受け続けた。しかし彼には父親と違う夢があった。

ジョンには父親のようにアイルランド移民として卑下される屈辱を晴らそうという意志は少しもなかった。学生時代のジョンは、悪友たちと「マッカーズ・クラブ」(廃品回収業クラブ)を自称して、学校長の便器にかんしゃく玉をしかけるなどの悪さをすると同時に、差別されがちな黒人や貧乏学生たちと対等に付き合い、自分が金持ちであることはおくびにも出さなかった。

マッカーズというのはアイルランド人に多かった廃品業者に対する蔑称であり、父親とは違い、自らを卑下した呼び方をして平気だったのである。
 
アメリカでは選挙の際の戸別訪問が可能だ。ジョンはボストンの貧民街を一軒ずつ訪ね歩き、黒人や各国からの移民の子孫がどれだけ悲惨な生活をしているかということを実感していた。貧民街に詰め込まれて、毎日の食べ物にも事欠きながら、最低限度の生活にあえぐ黒人たち。ジョンは黒人たちのアパートを一軒一軒訪ね歩いては、彼らの悲惨さを自らの目に焼き付けていった。

大統領選挙のときもそうだった。父親はジョンを大統領にする夢のために、ジョンに悟られないように金持ちや上流階級のネットワークを使いながら、裏の選挙活動をしていたが、候補者であるジョン自身は、貧民街を訪ね歩いては握手をして歩くというどぶ板選挙を戦っていた。

しかし、このどぶ板選挙が大ヒットにつながることになったのである。

選挙戦も後半戦になったころ、公民権解放運動のマーチン・ルーサー・キング・ジュニアが、座り込みデモの最中に逮捕された。当時の刑務所では逮捕された黒人に対する悲惨なリンチは日常茶飯事だった。キング牧師が殺されるかも知れないというニュースが全米をかけめぐった。

ジョンはこの逮捕を憤り、すぐにキング夫人に電話して励ました。翌日、弟のロバートに頼んでキング牧師を有罪にした判事に電話をかけさせ、キング牧師を釈放させることに成功したのである。ロバートは、このときすでにワシントン議会の上院に設置された労働搾取問題小委員会の法律顧問の仕事をこなすほどの能力を有しており、地方の判事の決定を覆させるほどの、十分な法律知識を持っていたのである。

黒人の大部分はプロテスタントなので、プロテスタント系のニクソン候補を支持していた。しかし、この一件で多くの黒人グループがケネディ支持に鞍替えすることになったのである。全米の半数以上の黒人が、キング牧師を助けてくれたケネディの側につくことで、劣勢と言われていたケネディに勝利が訪れることになったのである。

ジョンは、大統領になってからも黒人の公民権獲得運動を支援し続けた。黒人を積極的に政府の重要ポストに採用し、白人しか雇わないことを明記している企業の求人は認めない大統領令を発令している。

大学への黒人の入学を拒否する州に対しては、軍隊を派遣し、入学を拒否した知事は連邦法に基づいて逮捕すると宣言するなど、黒人の側から見れば胸がすくような決定を次々に下しているのだ。

さらにジョンは、キング牧師が、ワシントンのリンカーン記念館前広場で行った有名な”I have a dream”の演説をしたその日の夕方にホワイトハウスの執務室に招き、「キング牧師、私も同じ夢を抱いているんです」と語り、連帯の意志を明確にしているのである。

戦争の悲惨さと、肌の色が違うからといって憎しみ合う愚かさ、そして庶民の気持ちも汲み取らずに勝手に国際紛争を力で解決しようとするエリートたち。ケネディは大統領の職責を通じて、そうした流れに一石を投じようという夢を抱いていたのである。


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2014年05月24日

NSCを無視したケネディ3

★兄の代わりに大統領への道を託されたジョン


父親が自分の夢を兄に賭けようとしているのを幸いに、次男のジョンのほうはガールフレンド探しに夢中になりながら、ありきたりの学生生活を送っていた。生まれつき背骨が悪くて病気がちだったこともあったと同時に、兄には絶対にかなわないというコンプレックスも持っていたようだ。成績が悪かったのでハーバード大学に入学するのは無理だったが、父親が裏から手をまわして入学させてしまっている。しかし在学中の成績はいつも落第ぎりぎりだった。

その間、ジョンは父の命令で、ドイツ遊学をしている。当時英国大使だった父ジョセフはヒトラーの政策を密かに支援していたので、遊学の際にもさまざまな便宜が図られたと思われる。

ジョンはその時に取材したミュンヘン会議での体験を卒業論文にすることにした。論文を見た父は友人の新聞記者に頼んで推敲させ、出版社に持ち込み書物にした。この本はヒットして8万部も売れ、万年落第生がベストセラーを出したことに驚いたハーバード大学はジョンに優等の成績を与えて卒業させることとした。

卒業したジョンは海軍に入隊した。ここでも父は、裏から手をまわしている。自分と同じく不正利得で稼いだ金で海軍長官の職を手に入れたジェームズ・フォレスタルに頼んで、ジョンを魚雷艇の艇長にしてもらっている。後述するがこのフォレスタルこそがNSCのメンバーとしてこの機関を戦争マシンに変貌させた張本人なのである。

しかし、この海軍での経験はジョンを生まれ変わらせるきっかけともなったのである。

ソロモン海域を掃海中、ジョンの魚雷艇は突如、日本軍駆逐艦天霧と衝突し、船体がまっぷたつに割れて乗組員十三人が海に投げ出された。

海に投げ出されたジョンの目に映ったのは、海上を機銃掃射しようとする日本兵だった。さらにその傍にいた司令官があたかも「溺れている敵を撃つのは侍ではない」といったようなしぐさでその兵士に停止を求めているのを見た。

この体験こそが、後に第三次世界大戦の危機を回避することになったケネディ自身の考え方の基本となっているのではないか。

「敵も自分も同じ人間なのだ」ということをはっきり認識し、その司令官に友情のようなものを感じると同時に、個々人の思惑を超えて敵と味方として戦わなければならない戦争の無常さを、太平洋の荒波の中ではっきりと悟ったのだった。

ジョンはのちに、日本人学者の力を借りて、このときの司令官が、花見弘平少佐(当時)だったことを突き止め、福島県の生まれ故郷で市長になっていた花見との文通を開始している。やはり自分が思っていた通り、花見は機銃掃射停止の命令を出していた。想像通りだった。その後、大統領になったジョンは花見に対しして大統領就任式への招待状を送っている。ジョンにとってこの体験は、それほど大事なものだったのである。

ジョンも花見も、戦争さえなければ敵として戦う必然性のない若者たちであった。国家主義者たちが煽る憎悪に踊らされた若者たちではなかった。そして任務を履行した後に待ち構えているであろう将来を築きあげる広い自覚を持っていたという共通項が、ふたりの侍魂から読み取れる。

残念なことに花見少佐との再会は果たせなかった。代わりに就任式に出席したのは花見少佐をつきとめた日本人学者だった。

★南海の無人島からの生還

ジョンは日本海軍の艦隊にうずめつくされた上に、サメがうじゃうじゃいる海域を6キロも泳いで、無人島にたどり着いている。しかも負傷した仲間を命綱で引っ張りながらである。米海軍はケネディたち十三人の行方を捜すために、豪州軍と連絡をとった。豪州軍は日本軍に警戒されないために、ポリネシアの漁師たちに捜索を依頼した。

6日後、漁師たちは無人島に漂着していたジョンたちを発見した。お互いに言葉が通じない中で、日本軍に見つからないように救出するのは至難の業だったが、成功し、ジョンたちは餓死寸前で本土に生還することができたのである。

この生還劇は新聞に取り上げられ、ジョン・ケネディは一躍英雄となった。 

ジョンはポリネシアの命の恩人たちも大統領就任式に招待している。しかし、渡米ビザの発給に当たった英国の職員が「お前たちは英語が話せないから駄目」といって拒否したことで、渡米はかなわなかった。

若かりし頃に体験して吸ったドイツの空気と、自らが敵と対峙する戦闘の場で出会った体験の中で、ジョン・ケネディは世界の人々は恩讐を越えてつながっているのだということを実感し続けてきたのである。

さらにアイルランド移民の子孫であるということを卑下してとらえていた父ジョセフの道を歩むことは決してなかった。逆にジョンは、自らの出自を誇るとともに、奴隷として下げずまれ続けてきた黒人との連帯の気持ちも持ち続けていた。

つづく


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2014年04月25日

NSCを無視したケネディ 2

今日は、2014年4月25日、昨日はオバマ大統領が安部首相と共同声明を発表し、尖閣諸島も日米集団安全保障の範囲内であることを明言した。記者団からの質問に対して、日中の問題に対して軍事行動は起こすことはなく、あくまでも平和的外交交渉による解決を目指すと述べておられていたものの、歴史はいつどう変貌するかわからない、「アメリカに見捨てられたら困る」という自民党の要請に応えて盛り込まれた文言なのだろうが、悪しき大航海時代の遺産である領土紛争の狭量な考え方を、青い地球全体から俯瞰して平和的に解決する方向を目指した文言にするといった知恵が日米双方に生まれるのには、まだ時間がかかりそうだ。

すでに日中間は数多くの進出企業を中核とした経済的きずなで強く結ばれており、国際結婚による家族もたくさん生まれている。すでに狭量な国粋主義は通用しない時代なのにもかかわらず、問題を解決する提案なしに相手を非難するだけの「提案なしの誹謗中傷行為」が多すぎる。
こうした挑発は無視して、解決の方法だけを考えるのが大人の知恵というものではないか。

そういった広い知恵を獲得することを目的として、この連載では、アメリカのNSCを素材として、なぜアメリカの軍拡路線が世界をこんなことにしてしまったのかを、引き続き考えてみよう。

★屈辱をはらすための父ジョセフの蓄財

ケネディ王朝の富を不動のものにしたのは父親ジョセフ・ケネディである。裕福なアイルランド移民の三代目としてボストンに生まれたジョセフは、どんなに努力をしても、アイルランド移民でありカトリック教徒であるという理由によって、ボストンの社交界からはシャットアウトされ続けた。

人種のモザイク社会であるアメリカは、黒人差別をはじめとしてさまざまな人種間の軋轢を抱え込んだ巨大なるつぼであるが、大統領ケネディの行動原理に大きな影を落としている原点がアイルランド移民の問題であることをとりあえず、頭においていただきたい。

さてジョセフの生まれたケネディ家は、すでにある程度の財を成していたようだか、ジョセフは自分たちが社交界からははじき出され続けてきた恥辱を晴らすためには、勉学をして出世し、さらに富を増やして世間を見かえすことが、安住の道だと考えたようである。極めてプライドの高い人物だったようだ。

そこでジョセフは、必死に勉学してハーバード大学に進み、卒業するとともにニューヨークとシカゴに拠点を置いて金融業を開始した。

当時の金融界には今でいうインサイダー取引や空売りが横行しており、才覚のある人間が短期間に大金を手にするのには絶好な環境だった。ジョセフはシカゴを拠点とするマフィア・グループと組んでタイミング良く株を売買して富を築き、造船、鉄鋼、映画、酒類販売など、次々に事業を拡大していった。

そのころのアメリカにはインサイダー取引を取り締まる法律などというものはなかったし、その汚いやり口を批判しようものなら、マファイアから命を狙われる時代だ。ジョセフは違法行為ぎりぎりの黒い金をかき集められるだけかき集めて、当時の世界最大のビルだったシカゴのマーチャンダイズ・マートビルを買い取って、世間をあっと言わせ、あれよあれよという間に東海岸一の金持ちとなったのである。


★ケネディ家の悲劇の始まり

アメリカ人はケネディ王朝を批判するときによく「フィルシー・ルーカ」(不正利得)という言葉を使う。これはジョセフが行った錬金術のことをさすが、ケネディ家の人々はこの言葉を投げかけられても反論できない。大きなジレンマとなって、今に至るまでケネディ家の人々の心を苦しめているのだ。しかし、これは時代が産んだ産物でもある。私たちは、アイルランド移民としていじめられてきた人々の気持ちを理解するという広い視野も持つ必要があるということを、ひとこと付け加えておく。

さて、ジョセフはその財力を利用して政界に進出しようとし、手始めに同じアイルランド移民であるフランクリン・ルーズベルトが大統領に立候補したときに巨額の財政支援を行っている。それが功を奏しジョセフは初代証券取引委員会委員長のポストを手に入れた。

世間からは不正利得で富を得た人物にこうしたポストを与えるのはとんでもないという批判が渦巻いたが、ルーズベルトは意に介さなかった。ルーズベルトにとっては、同じアイルランド移民の仲間であり、お前たち東部エスタブリッシュメントは自分たちを差別し続けれてきたのではないかという気持ちもあったからだ。

にもかかわらず、このポストに満足しなかったジョセフはルーズベルトに対して、財務省長官のポストを求めた。さすが元悪徳相場師を財務長官にすることは無理だったので、ルーズベルトは自分への非難を回避するために英国大使のポストを与えることにした。

英国の社交界と対等に付き合える大使の地位は、それなりに満足のゆくものだったらしい。アメリカを代表する大使であり、しかも駐在先は飛ぶ鳥をも落とす勢いで栄えた大英帝国である。英王室との交流もできるし、英国社交界からは常にゲストとして迎えられる立場である。こうしてジョセフは自分が若いころに味わったボストン社交界での屈辱も果たすことができたのである。

実のところジョセフはひそかにこの地位を利用して米英双方に人脈を作り、帰国してアメリカ大統領に打って出ることを夢見ていた。

ところがジョセフはユダヤ人を嫌っていたことから、同じくユダヤ人を嫌っていたヒトラーに理解を示し、ユダヤ人排斥の方針を打ち出していたナチスを強く支持していた。

ジョセフは新聞のインタビューで「英国はナチスと戦っているのではない、自己保存の戦いをしているのだ、英国の民主主義は死んだ」と思わずナチス擁護の本音をしゃべってしまったのである。

英米両国の国民はこの発言に怒り、ルーズベルトはジョセフを解任することで事態を収拾するしかなかった。ホワイトハウス入りを夢見たジョセフの野望はこうして自分自身の舌禍によって完全に断たれてしまったのである。
 
それにもめげず、ジョセフは自分が果たせなかった夢を長男のジョーに託そうとした、ハーバード大で優秀な成績だったジョーは、父親の夢に応えるために猛勉強して政界に入る準備をしていたが、ドイツとの戦争が勃発、海軍の特別任務に志願したジョーは特殊任務の訓練中、飛行機の爆発事故で死亡してしまったのである。

特殊任務とはドイツを攻撃するために、相手への打撃を最大にするために大量の爆弾を積んだ戦闘機のテスト飛行だった。ジョーの操縦する戦闘機の大量の爆弾が暴発し、機はこなごなに粉砕されたのである。

これは「ケネディ家の悲劇」と呼ばれる一連の事件の序章でもあった。

つづく





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2014年04月12日

NSCを無視したケネディ 1

 旭丘光志さんからコミック完全版劇画『J・F・ケネディ』(木本正次原作、旭丘光志劇画、少年画報社)が全国のコンビニに並んでいるよという連絡を受けた。さっそく近所のコンビニに行ったら、七〇四頁の分厚い劇画本が平積みになっていた。六四八円だったが、作画が大変な割にマンガ本というものは安いものだと思いながら買って帰り、一気に読んだ。

 旭丘光志さんは二十代で少年マガジンや少年ジャンプに数々の劇画によるドキュメント作品をものにした劇画家だ。劇画のタッチは、ゴルゴ13で有名な「さいとうたかお」さんの作風に似ているが、クールなさいとうさんの描写に対して、人物の温かさを感じさせる描写に特徴がある。

 その後、旭丘さんは作家に転じ、ドキュメント作品や統合医療に関連した書物を書き続けている。

『J・F・ケネディ』を手にして嬉しくなった私は旭丘さんに「この機会に劇画家として再デビューしてくださいよ」と言ったところ、「あんな徹夜続きの大変な世界はもういやだね」と笑っておられた。

 新装なったこの『J・F・ケネディ』は、ケネディの暗殺の六年後、徹底的な取材を行った元毎日新聞記者で、作家として『黒部の太陽』などのドキュメンタリー小説を発表していた木本正次さんの原作をベースとしたものだ。旭丘さんの仕事ぶりを知っている私には想像がつくのだが、連日のようにふたりで膝をつきあわせて、当時入手できたあらゆる資料をかき集めて制作したと思う。インターネットのない時代のこと、資料集めは大変な作業だったろう。

 アメリカで仕事をしたときに、米国議会図書館に通ってアメリカ史を多少かじったことのある私なので、この劇画が描く史実の正確さには舌を巻く。劇画で読めるケネディの伝記としてぜひ手元にそなえていただきたい。

★NSCの助言を拒否したケネディ大統領 
 
 さて日本政府は2013年1月に、国家安全保障会議を発足させた。日本版NSCと呼ばれているとおり、アメリカ大統領の軍事諮問機関として機能しているNSCをモデルとしたものである。
 しかし、アメリカのNSCはどんな機能を持ち、何を行ってきたかについて、一般の日本人にはほとんど知られていない。そこで、「NSCとは何か」ということについて、連続して解説することにする。

 私は旭丘さんの劇画を手にしたとたんに、脳裏に浮かんだのは、「ケネディはNSCの助言を無視することにした始めての大統領である」という事実である。

トルーマン大統領時代に生まれたNSCは、シビリアン・コントロールによって国家の安全を守るという理念のもとに生まれたものであるが、はたしてアメリカの国防にどれだけ役立ったのだろうか。むしろ世界各地で戦争を引き起こし、途上国の人々を苦しめ続けてきたのではないか。

 本土攻撃の経験のないアメリカにとって、NSCは「念には念を入れて」という考えのもとに作られた機関であった。しかしこの機関は今まで一度も本土防衛のために機能したことはなく、すべて外国での戦争を行う機関として機能してきたのである。

史上最年少の若さで大統領となったジョン・ケネディは、学生時代から平等を標榜しながら平気で黒人差別を容認し続けるアメリカのやり方に反抗してきた人物である。公民権運動のリーダー、マーチン・ルーサー・キングJrが座り込みで逮捕された時は、大統領選の真っ最中だったが、キング師夫人に電話して励ますと同時に、釈放のために奔走している。公民権運動を旗印にした初めての大統領でもある。
 
大統領就任直後は、右も左もわからずに、国の行方を左右するNSCの各メンバー機関の助言に従っていたが、その助言が机上の軍事戦略に過ぎないことに気づくや否や、NSCとは一線を画すようになり、以後一切、NSC会議を招集していない。
 
きっかけは1961年のCIA主導によるキューバのピッグズ湾事件だった。当時のNSCでは、飛ぶ鳥を落とすような勢いで反響スパイ工作を行っていたCIAが幅を利かせていた。CIAはキューバの共産化阻止を目的として、亡命キューバ人多数に軍事訓練をほどこし、2千人ほどの傭兵を組織した。この傭兵をキューバのピッグズ湾から密かに上陸させたのである。
 
しかしこの作戦は、20万のキューバ正規軍によって壊滅されて見事に失敗。アメリカの正体を見たカストロをソ連に急接近させることとなったのである。
 
初めてNSCの御前会議の議長としてピッグズ湾上陸作戦を承認してしまったケネディはこの失敗を深く反省すると同時に、以後一切NSC会議を開催しないことを決のこと意した。

 その一方、カストロの愁眉に気を良くしたソ連は、共産圏の仲間になってくれたカストロに大きなプレゼントをすることにした。いつアメリカによって第二のピッグズ湾事件が引き起こされるかも知れないので、キューバは軍備を拡張して襲撃に備える必要があった。しかし、サトウキビ産業のほか、さしたる資源を持たないキューバにとって軍拡は、大変な負担であった。それを見越したソ連は、キューバに空軍基地を贈与したのである。
 
 いち早く空軍基地建設をキャッチした各諜報機関は、ケネディ大統領に対し、急遽NSCを招聘して、キューバ攻撃の作戦を行うよう進言した。何せ、キューバはアメリカ本土のフロリダからわずか145キロしか離れていない。NSCを構成する国防省や、国務省、さらにCIAをはじめとする諜報機関はいきり立っていた。 

 しかし、ケネディは、NSCの進言を一切無視し、ホワイトハウスの執務室に籠もって、NSCのメンバーたちには想像もできないような作業を行っていたのである。

 もしケネディがNSCを召集していたら、コトは第三次世界大戦に発展したかも知れない。NSCのメンバーたちはキューバ攻撃を強く求めいた。キューバ攻撃が遂行されればどうなるか? 当然、ソ連が動くこととなる。そうなればどちらかの首脳が原子爆弾のスイッチを押すこととなるかも知れない恐ろしい賭けだ。

 ケネディはそのことの恐ろしさを明確に自覚していた。自覚していたからこそ、NSC
の進言を無視したのである。

つづく

 

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2013年02月10日

NSCー戦争を生み出すシビリアンたち(下)

領土紛争は戦争を引き起こすきっかけになりやすい。そのためどの国も採用しているのが、領土問題を棚上げにして、経済や民間交流の推進を先行させる外交手段だ。日中韓にとって今必要なのは、騒ぎを大きくすることではなく、棚上げをする一方で、互いの国民の信頼醸成をはかることだ。しかしお互いの国に挑発者が生まれると、ことは厄介になる。特に今度の安倍首相は、以前から近隣外交に挑発的な態度をとり続けてきた人物なので、とても心配だ。その安倍首相が「いざ戦争」を想定して作ろうとしているのが、NSC(国家安全保障会議)である。アメリカで生まれたこのシステムは、シビリアンコントロールを標榜しているが、戦争好きなシビリアンにコントロールされ続けてきた。前回に引き続いて、アメリカのNSCについて解説する。
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◆危険なシビリアン・コントロール

 ブッシュ大統領を補佐して対テロ戦争をどう行うか決定する機関は、国家安全保障会議(NSC)である。大統領を議長として首席補佐官が司会をし、副大統領、国務長官、国防長官、統合参謀本部議長、CIA長官などを中心として協議する最高意思決定機関であるが、非公開で行われ、国民の意思が反映されないものの、国務長官や国防長官などのシビリアン(文民政治家)が権限を持つことで、軍部が勝手な動きをとれなくする仕組みを作り出している。そのNSCでは推定百人以上の事務局員が戦争に関する情報を分析しながら、シビリアンたちの意見を補完するための活動を行っている。

ところがこのアメリカ型のシビリアン・コントロールこそが戦争を暴走させている元凶なのである。戦争の現場を熟知している軍の将軍たちの意見よりも、戦争を履行することで政治的基盤を確立しようとするシビリアン政治家たちの意見が優先されるからだ。

イラク戦争の場合は、大量破壊兵器という嘘の理由をごり押しして開戦したラムズフェルドとその手下のウォルフォウィッツなどのシビリアンが先頭に立った。しかもブッシュ政権時代には、NSCの事務局にワシントン市内のシンクタンクから、ネオコンたちの息がかかった研究員たちが大量に送り込まれ、ラムズフェルドやウォルフォウィッツの意見を合理化する文書を大量に作って、大統領とNSCメンバーたちを煽っていたのである。

戦争の厳しさを知っている軍部の意見は無視された。例えば「イラクの戦後処理には数十万人の米軍部隊が必要」と進言したエリック・シンセキ陸軍参謀総長の意見は否定され、少数精鋭部隊による戦争を主張するラムズフェルドとウォルフォウィッツの怒りに触れ、軍から追放されてしまった。ラムズフェルドはこうして口うるさい軍の幹部たちを黙らせて、NSCの実権を握り、自分の子飼いの軍人である中央司令官トミー・フランクス将軍にイラク攻撃の指揮をさせている。フランクス将軍は、コンピューター・ゲームでも操るかのようにイラクの中枢部に総攻撃をしかけ、あっというまにイラク政権を崩壊させ、ブッシュ大統領を喜ばせた。しかし、ラムズフェドがフランクスに指示した少数精鋭作戦は、アメリカを長期戦の泥沼に引きずり込んでしまい、「軍事ケインズ主義」に浮かれている余裕がないほど、アメリカを疲弊させてしまったのである。

なぜアメリカを守るはずの国家安全保障委員会(NSC)は、シビリアン・コントロールの機能をきちんと盛り込んでいるにもにかかわらず、戦争を助長し続ける機関になってしまったのだろうか。

結論から言うと、NSCはウォールストリートの投資会社出身のジェームズ・フォレスタルとポール・ニッツェのふたりが、ワシントンに乗り込んで作り出した「戦争特需マシン」なのである。

◆NSC68という戦争教科書

フォレスタルは、ウォールストリートの投資会社の社長だったが、戦後、ルーズベルト大統領から特別補佐官に就任しないかという誘いを受け、ワシントンにやってきた。やがて海軍次官に転進し、そこで商才を発揮することになる。軍需産業にテコ入れすることによって戦争特需を生み出し、国家予算の増大に貢献したのである。その手腕が認められ、国防総省が設立されると初代長官に任命された。今度はトゥルーマン大統領の下で働くことになるが、戦争特需システムを恒久化するために、出来たばかりのNSCを利用しようと考え、トゥルーマンの共産主義に対する恐怖を利用することにした。

そこで、投資会社の部下だったポール・ニッツェをワシントンに呼び寄せた。フォレスタルはニッツェを自分の補佐官として雇い、さらに国務省に送り込んで、NSCを担当する政策分析官のようなポジションにつけたのである。1950年には、その後のアメリカの冷戦政策の指針となっている国家安全保障会議文書68号(NSC68)という文書を完成させている。

68というのは単なる政策文書の通し番号であるが、のちに、このNSC68がアメリカの軍事作成策定の基礎となるバイブルのような存在になったのである。ブッシュ大統領が何度も「ディズニー・ワールドに行こう」と演説したのも、NSC68の軍事理論を基礎とした発言なのである。

『アメリカ・力の限界』(アンドリュー・ベイセビッチ著、菅原秀訳、同友館)の中から、NSC68について書かれた部分を要約しながら解説してみよう。

ニッツェはNSC68の中で、まずソ連の脅威について次のように説いている。
 「ソ連は新しい熱狂的な信念に煽られており、その絶対的権威を世界全体に及ぼそうとしている。強大な軍事力に支えられながら、他国への侵入と脅しを継続しながら、自分たちの支配による自由世界を形成しようとしている」

ソ連が考えている自由世界についてニッツェは、こう書いている。
「ソ連の計画は、非ソ連圏の国々の政府および社会機能を、強制的に完全に破壊しつくすことである。破壊した後に、ソ連中央によるコントロールに従う機能と組織を持つソ連世界に置き換えるのである。それを実現するために、危機、紛争、覇権主義を継続し続けているのがソ連の政策である」

つまり共産主義による世界支配のことであると定義づけているのである。
それに対してアメリカについては、
「寛容な精神に基づいて世界を展望し、気前のよい建設的な推進力を持ち、国際社会関係に欲望を持たない国家である」
と解説している。

第二次世界大戦の余波によって、国際連合が生まれることになり、自由という考え方が独裁政権、専制制度、あるいは奴隷制度に対する戦いの旗印となった。

NSC68は、国連が生まれた直後に作られた文書であるが「自由思想は歴史上最も受け入れられやすい考え方である」とした上で、ソ連は自由思想の存在を「永久に続く脅威」と位置づけていると解説している。ソ連はその脅威を打破するために全世界の自由機関を攻撃している、赤軍の存在はそのソ連の凶悪な意図の証明であると述べ、「ソ連は自国の領土を守るための必要性をはるかに超えた軍事力を保持している」と警告している。

ニッツェの分析によれば、ソ連は戦禍からの復興段階なのにもかかわらず、すでに国力をつけているのは明らかだという。そこで、こうした前例のない脅威に対応するためには、3つのオプションしかないであろうと述べている。孤立主義、予防戦争(核による先制攻撃を意味する)、アメリカの軍事力の急速な増強である。NSC68は、最初のオプションについては降伏を意味するとして拒絶している。さらに二番目のオプションについても、「不快」な上に「道義的に不純だ」として否定している。したがって三番目のオプションしか残されていないわけである。

ニッツェの提案は、水素爆弾を早急に開発すべきであることを強調する巨大な国防予算を伴うものであった。さらに、国防の助言者たちを訓練して友好国に送り込む。国内の治安を強化し情報機関の能力を高める。そして、ソ連圏内での「騒乱や反乱を扇動し支持する」ことを目的として秘密工作を活性化させるといった提案も行っている。この提案によってCIA(中央情報局)が生まれている。

そのためにNSC68は国内予算の切りつめと、再武装のための増税案も盛り込んでいる。その結果、この「ニッツェ・ドクトリン」ともいえるNSC68がアメリカを恒久に軍事化することを決定づける文書となり、アフガン戦争とイラク戦争のときにも、アメリカの軍事教科書として利用され続けてきたのである。 

◆銃を売ったお金で食糧を買えば国は繁栄する?
 
 増大する軍事費は一般のアメリカ人に倹約させることを意味しているわけではなく、NSC68は「軍事支出による経済効果は、軍備や海外援助による支出を吸収し、それ以上のものをもたらすと思われる」との展望を持っている。つまるところ、アメリカ合衆国は銃と食糧の両方を手に入れる事ができるというわけだ。確かに、銃を製造してその収入で食糧を手に入れる事ができるのは事実だ。

ニッツェにとってこれは最大の売り込み文句である。国の長期的経済発展より以上に、莫大な軍事支出こそが実質的な繁栄のための手段を供給するわけで、戦争に膨大な軍事費をつぎ込むことによる疲弊の心配はないからである。
 
 NSC68を手にしたトゥルーマン大統領は、武装が経済的豊かさをもたらすとしている考え方に納得していなかったものの、すぐに朝鮮戦争という形の不幸にめぐり合うこととなる。

政敵に包囲されていたトゥルーマンにとって、朝鮮戦争は脅威だった。しかし、ニッツェにとっては願ってもないタイムリーな出来事だった。北朝鮮の共産主義者による南進は、NSC68の分析そのものの証明と思われたからだ。ソ連の指導の下に国際共産主義グループが、明らかな侵攻を開始したからである。

しかしこれが最後ではなかった。1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻はさらなるNSC68の分析の正しさの証明になった。NSCのシビリアンたちににとっては地球規模の事件が起きたことであり、そこそこに満足できる事態であった。

こうしてNSC68は独断的な教義となったのである。国防費は3倍以上の規模に拡大され、増えた予算の大部分は朝鮮戦争のために使われたのではなく、ニッツェが提案した一般的な再武装のために費やされた。こうしてアメリカの軍事戦略の本格化が開始されたのである。

もしこのNSC68が単なる机上の文書に過ぎないのだとしたら、歴史的関心を持つ必要はない。ところが、この文書はそれ以上の意味を内包しているのである。現在のアメリカ人はこの文書の内容については詳しくないだろうが、ニッツェによるこの名人芸のような作品は、その後数十年経ったにも関わらず、現代アメリカ政策そのものに深く関与しているのである。ちょうどワシントンの辞任演説やモンロー・ドクトリンが19世紀アメリカの政策と密接に関わっていたのと同じように。
 
おそらくオバマ政権のNSCのメンバーも、この古臭いNSC68の理屈にとらわれていることだろう。ニッツェの時代の「ソ連」という言葉を「テロリスト」と置き換えさえすれば、軍需産業を支え続けた人脈に連なるNSC関係者は安泰だからだ。オバマ政権がいくらグリーン・エネルギーや福祉を強調しても、有権者たちは豊かなアメリカン・ウェィ・オブ・ライフを守ることに腐心し、それを脅かすかもしれない外敵におびえ続ける。政治家たちは外からの脅威に対決してアメリカを守ることを公約にしない限り、生き延びることができないことをNSCのシビリアンたちは熟知しているからだ。

アメリカの戦争経験はわれわれに、シビリアン・コントロールの危険さを、こうして明確に教えてくれるのである。(了)

*さらに詳しく知りたい方は『アメリカ・力の限界』(アンドリュー・ベイセビッチ著、菅原秀訳、同友館)を参照してください。









               
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2013年01月22日

NSC――戦争を生み出すシビリアンたち(上)

☆日本が真似ようとしているNSCはきわめて危険な戦争マシンだ

第二次世界大戦までは「軍の暴走」によって戦争が始まる例が多かった。典型的なのがドイツと日本の軍部の暴走だった。そこで戦争抑止のアイデアとしてシビリアン・コントロールの仕組みが生まれたのである。しかしシビリアン・コントロールによって作られたアメリカのNSC(国家安全保障会議)は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争と次々に戦争を生み出してきた。
つまるところ、シビリアン・コントロールで戦争が抑止できるというのは、間違いであることが、アメリカのNSCの存在によってはっきりと証明されたのである。にもかかわらず日本の政治家たちは、アメリカのNSCと同じような組織を日本にも作りたくてうずうずしている。政治家が欲しがるのは、外交のための切り札としての軍事パワーである。つまり自分たちシビリアンが、軍事面での強力な発言権を持てば、力ずくの外交が成功すると考えているのである。危険な動きである。
NSCとは何か、先ずは、モデルとなっているアメリカのNSCとは何かということを知ることが緊急の課題なのである。

☆戦争をしかけるアメリカ

 ベトナム戦争の手痛い経験があるにもかかわらず、アメリカはアフガニスタンとイラクで、再び大きな失敗をしてしまった。
 アメリカという国の権威は失墜し続け、ここ5年ほどの間に、アメリカ人が見知らぬ国で一人旅をするのが危険なものになってしまった。
 もちろん個々のアメリカ人の責任ではない、軍事力を過信してしまったアメリカ政府がその責任を背負わなければならないのは当然だ。 
にも関わらずアメリカは、もはや世界中からそっぽを向かれてしまった古い価値観、つまりアメリカこそが自由の旗手であり、民主主義のリーダーであるという独りよがりの思い込みを捨てることが出来ないでいるようだ。
 アメリカは過去の経験から、何も学ばなかったのだろうか。
ちょうどブッシュ政権が「対テロ戦争」の名目でイラクに侵攻した直後の2003年、私自身、米国民主基金のフェローとしてワシントンで研究生活を送ったことがある。意外だったのは、ワシントンで私が出会ったアメリカの学者や政治家たちのほぼ全員が、イラク進攻を強行したブッシュ政権を強く批判し、自分たちが戦争を阻止できなかったことを反省していたことだった。
もちろんフセインの独裁は容認できないものの、「大量破壊兵器の存在」をでっち上げてイラク進攻を強行したアメリカのやり方を、ワシントンの知識人たちは強く批判していたのである。
なぜ彼らは、イラク戦争を阻止できなかったのだろう。私は自分が抱えていた研究テーマと平行して、アメリカが好戦的な政策を採る本当の理由を知りたくて、積極的にネオコン(ネオコンサーバティブ)と呼ばれる人々の講演会に出かけ、あるいは議会図書館の雑誌を読みこんで、その理由を知る手がかりを探した。

☆票を握るのは地方の保守票だ

ワシントンにはさまざまなシンクタンクがあり、イラク戦争を合理化するために、戦争を支持する論客によるシンポジウムが時折開かれていた。政権の中でも強硬派と言われているチェイニー副大統領や、オルフォウィッツ国務次官補につながる学者たちで、ブッシュ政権の助言者として盛んにホワイトハウスに出入りしている人々だった。
そこで分かったことは、ネオコンと呼ばれる人はアメリカ全体を支える保守層から根強い支持を受けており、9・11事件への報復としての「対テロ戦争」を推進するイデオローグとして強く歓迎されているという事実だった。
首都ワシントンの知識人たちの中では、こうしたネオコンといわれる人々は少数派だった。なにせ世界中の外交官が集まって一種の国際都市を形成しているワシントンである。アメリカの国益だけを中心に物ごとを考えているネオコンたちは仲間はずれになっているようだった。しかし、ネオコンたちの講演を何度も聴いているうちに、彼らの論理はワシントンというリベラルな都市ではさして目立たないものの、幅広い層のアメリカ人に支持されており、他の都市に行けば、圧倒的に支持されていることを知った。
ネオコンの論理はこうだ。アメリカこそが自由と民主主義を実現している国であり、その恩恵を他国にももたらす使命がある。アメリカはそうした約束の下に独立を宣言し、奴隷を解放し、黒人への公民権を回復した。自由のために闘うアメリカに対して、イスラム原理主義者たちはテロの脅威を与え続けている。アメリカは世界の抑圧された人々の自由ために闘わなければならない。テロリストの側に立つか、自由の旗のもとで闘うか、選択肢はふたつにひとつである。
私たちからすれば、ネオコンの理屈は歴史検証を抜きにした自画自賛にしか聞こえない。アメリカの独立宣言は、ごく少数のエリートによる共和国の樹立宣言であり、公民権を回復したのは抑圧されていた黒人たちであり、イスラム原理テロリストを育てたのはCIAではないか、という疑問を持つ。
しかしアメリカ人の圧倒的多数が、ネオコンたちが主張するこうした一種のアジテーションを素直に受け入れているのである。
だからワシントンの知識人たちがいくら反対したところで、アフガニスタンに続いてイラクに侵攻したブッシュ政権の軍事路線を阻止することは出来なかったのである。

☆外敵は政権維持の絶好のチャンス

アメリカ人がこうした軍事侵攻を歓迎した背景には、長年にわたってソ連を敵視してきた「脅威をもたらすのは常に外敵である」という思考法がある。9・11事件でも、自分たちの国防組織のひとつであるCIAが作り出したアルカイダに報復されたのであるという事実を検証することなく、アメリカに敵対するテロリストという「外敵」を作り出すことで、ネオコンたちのアジテートに乗ってしまっている。
それではネオコンたちは何を求めているのだろうか。彼らが口々に語るのは、自由と民主主義を守るということであるが、彼らが言う民主主義を保障しているのは、アメリカが謳歌してきたアメリカン・ウェイ・オブ・ライフという裕福な生活である。そして裕福な生活を生み出すのは、なんと、軍拡そのものなのである。
ブッシュ政権になると、本拠地のニューヨークからワシントンに集まってきたネオコンたちは、志を同じくする国防長官のラムズフェルドや国防次官のウォルフォウィッツなどを通じて、ブッシュ大統領の戦争に関する業務をサポートする国家安全保障会議に介入するようになり、腹心たちを事務局員として大量に送り込むようになった。
そこで繰り広げられたのは、シビリアンコントロールによる軍事支配だった。
つまり、イラク戦争はブッシュ政権に上手に取り入ったネオコンたちの「思い」を実現させるためのものであり、軍拡によってアメリカの豊かさを維持し、さらにテロリストたちを壊滅することで中東にネオコンが望む形の民主主義を根付かせ、アメリカを中心とした世界秩序をもたらそうという戦略だったのである。
こうしたネオコンたちの考え方に真っ向から対立する論客も、アメリカにはたくさんいる。一貫してアメリカの軍拡路線を批判し続けてきたノーム・チョムスキー、チャルマーズ・ジョンソン、ジョン・ダワーなどだ。残念なことに、チョムスキーとジョンソンは数年前に亡くなっている。
またバリバリの軍人でありながら、アメリカの軍拡路線に強い警鐘を鳴らし続けてきたアンドリュー・ベイセビッチもいる。カナダの論客のナオミ・クラインも、アメリカの軍拡路線と資本との関係について鋭い告発を行い、アメリカの世論に働きかけている。
彼らはアメリカの軍需産業の構造が虚構であることにメスを入れ続け、そこから生まれるはずの富は、すでに破綻していることを実例をあげて告発している。
経済学者のジョゼフ・スティグリッチは、イラク戦争に費やされた戦費を3兆ドルと見積もっているが、日本の国家予算の4倍もの軍事支出がアメリカ国民に重くのしかかっているにもかかわらず、ブッシュ前政権はやみくもに経費を出し続けた。オバマ政権はさすがに経費の大きさに悲鳴を上げ、軍事費の削減を予定しているものの、アフガニスタンとイラクで費やされている戦費の不足分については、次々に米議会に追加予算の承認を求め続けているだけだ。

☆戦争をすれば国が豊かになる

こうした手法を揶揄する意味での「軍事ケインズ主義」という言葉を最初に使ったのは、チャルマーズ・ジョンソンだと思う。アメリカが遭遇してきた第二次世界大戦や朝鮮戦争などの軍拡は、経済を疲弊させるどころか、軍需産業を中心として産業全体を活性化し、アメリカに好景気をもたらすのだという考え方を指す言葉である。
軍拡によって豊かさが生まれ、その富が自分たちに自由をもたらしているのだというアメリカ人独自の感覚は、第二次世界大戦直後に極限に達した。真珠湾攻撃をきっかけとした日本の無謀な政策のおかげで、アメリカの軍需産業は肥大化し、国内に景気をもたらした。その結果アメリカは超大国として台頭することになり、その豊かな生活は世界の人々にとっての羨望の的となった。それに続く朝鮮戦争でも、軍需産業には好況が続き、豊かなアメリカン・ウェイ・オブ・ライフは、いささかも揺るぐことがなかった。
 国外での戦争を継続していたにもかかわらず、アメリカの多数派である白人の立場だけを考えれば、世界で最も自由な国であった。第二次世界大戦の最後の時点でアメリカは、世界の金保有量の3分の2近くを占め、世界の工業の半分以上の生産力を持ち、全世界の輸出量の3分の1を占めていた。英ポンドに代わってドルが国際通貨の地位を占めるようになり、ブレトン・ウッズ体制による国際通貨基金の枠組みによってアメリカは世界の金融マネージャーとなった。
 アメリカの平均的な家庭にとっては、第二次世界大戦こそが大恐慌時代に終止符を打った出来事であった。戦時特需による繁栄も戦争そのものによって吹き飛んでしまうのではないかという恐れは、杞憂に終わり、「軍事ケインズ主義」が生まれる余地を与えた。
1948年にはアメリカの一人当たりの所得は、英国、フランス、西ドイツ、イタリア4カ国を平均した一人当たり所得の4倍を超えていた。所得拡大と、抑えられていた需要が複合することによって国内の巨大な市場が生み出され、アメリカの工場は活況を呈し、働き口を生み出した。
この考え方は、9・11に遭遇したブッシュ政権にも受け継がれている。
テロとの戦いという名目で、アメリカ合衆国は数十年も続くかもしれない世界戦争に乗り出したというのに、ブッシュ大統領はわざわざ税を減らしたのである。戦争特需をあてこんでの減税である。
 そして、贅沢を戒めるように求めたのではなく、何事も起こらなかったように事を運ぶことを呼びかけたのである。世界貿易センターが崩壊してわずか2週間後には、アメリカ国民に対して「さあ働こうじゃないか。国中でビジネスを展開しよう。どんどん観光旅行をしよう。フロリダのディズニー・ワールドに行こう」と呼びかけているのである。
 アメリカ人は悲しみに打ちひしがれていた。ツインタワーでは多くの人々が亡くなり、国全体が喪に服していた。9・11直後、人々はディズニー・ワールドに群れることに躊躇したし、航空会社は倒産寸前のような状態に追い込まれた。
突然人々が控えめになったことで、消費帝国が崩れるのではないかという脅威を感じた大統領は急遽「家族を連れてエンジョイしよう。せいいっぱい楽しもう」と呼びかけることになったのである。
ブッシュ大統領は、同じ内容の演説を何度も繰り返すこととなった。その後、2006年12月になり、イラクの状況が厳しくなったにもかかわらず、自分が戦時大統領であることを忘れたかのように、ブッシュ大統領は国民に、「みなさん全員が、もっと買い物をすることを奨励する」とさらなる消費の努力をすることを勧めているのである。(つづく)

*さらに詳しく知りたい方は『アメリカ・力の限界』(アンドリュー・ベイセビッチ著、菅原秀訳、同友館)を参照してください。






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2012年07月20日

ニューヨーク大停電の経験

暑いというよりも熱い! こんな日は冷房をつけたままで寝るに限る。電気会社は、大停電が起きたら大変なことが起きるといっているが、大変なことが起きないことはすでに実証済みだ。9年前にアメリカとカナダで5000万人が被害を受けた大停電の翌日、私は、電気がまったく通じていないニューヨークを訪ねた。人々が不便を強いられたのは確かだが、日常生活が完全に破壊されるような不測の事態は起きなかった。
電力会社の儲けを支えるための節電キャンペーンにだまされないためにも、この記事を読んでいただきたい。大停電が起きても、一日や二日我慢すればいいだけの話だ。
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◆大停電の中のNY行き

「2003年ニューヨーク大停電」の8月14日夜、ワシントンにいた妻と私は翌日にニューヨークを訪れればいいのかどうか、迷っていた。
 ニューヨークの郊外、ロングアイランドに住む、日本国憲法の起草者として有名なベアテ・シロタさん(当時80)を訪ねる予定だったからだ。

14日夕方から、カナダから北東アメリカ全体の電話と携帯が通じなくなったので、確認しようがない。テレビでは14日深夜になっても、「列車も、航空機も、地下鉄も回復の見込みはない。町は全域停電で、電話もまだ回復していない」という放送を繰り返すだけだった。

ロングアイランドはニューヨーク市内とはいえ、東西に細長い巨大な島で、ベアテ・シロタさんが住むアマガンセットはその一番東端にある。ニューヨークから列車で三時間もかかる場所なのだ。

ベアテさんは10年前からこの村に小さな別荘を借りて、夏になるとご主人のジョセフ・ゴードンさん(当時83)、それに孫たちと一緒に数カ月をすごすことにしている。以前は貧乏な画家たち住んでいるだけの寒村だったが、今では避暑地となり、ポール・マッカートニーなどの芸能人が住む村として有名になり、お城のような別荘も建ち始めている。おかげで、どのホテルも一晩3万円程度と強気だ。心配したベアテさんが、知り合いの安い民宿を手配してくれていた。ベアテさんに負担をかけるわけにはいかない。
「こうなったら行ってみるしかない」

 幸いなことだったが、旅行を安く上げようと思って、格安長距離バスのグレイハウンドを予約していた。列車と飛行機は止まっているが、バスなら確実にニューヨークにいける。そのあとはなんとかなるだろうと、あとのことは考えずに早朝、ワシントンを発った。

 10時頃にバスがニューヨークに入ると、まさに異常な風景が広がっていた。摩天楼すべての窓が真暗で、中性子爆弾に直撃されたような世界だった。以前、グラビア入りの科学雑誌て読んだことがあるので、そう連想したのだが、人は殺すが建物は破壊しないという恐怖の爆弾だ。
しかし、地上に目を移すと路上には人があふれている。昨夜は一睡もできなかったらしく、ビルの前の階段などでうたたねしている人がいた。多くの人々は疲れきった顔つきで、おのおのの方向にぞろぞろ移動している。

◆大停電の直接の死者は一人だけだった

 いまだに停電したままなので、街角のデリや、レストランは真っ暗だ。それでも人々があふれていて、昨日の売れ残りのサンドイッチと生ぬるいコーラをのどに流し込んでいる人がたくさんいた。新聞によると、多くの店が「半額セール」などで、徹夜組にサービスしたようだ。9・11の記憶を忘れずに人々は助け合っているようだ。今回の大停電での直接の死者はひとりしかおらず、14日夜の犯罪はゼロだったというのは、ニューヨーク人の誇りとして永遠に残るだろう。

 人ごみをかき分けながら、ロングアイランド列車の始発駅、ペンシルバニア駅に向かった。生まれてはじめてのニューヨークで、人ごみの中で何度も何度も道を尋ねながら、歩いてゆくのだから容易ではない。妻は泣きそうになっている。

 ペンシルバニア駅は全体が地下駅だ。構内に入ると出るか出ないかわからない列車を持つ人々でいっぱいで、ものすごいむし熱さだ。5分も経つと汗だらけだ。人づてにロングアイランド列車の入り口を探し当てると、入り口に大勢のガードマンがいてロープを張り、汗をかきながら乗客が入り込まないようにブロックしている。ガードマンたちに列車が出るのかどうか聞いてみたが、「一切わからない」との返事だけ。

 やっとロングアイランド列車の職員を見つけ出すと、「ロングアイランドの入り口のジャマイカまでの臨時バスを運行するので、そこまで乗っていって欲しい。アマガンセット?そんな遠くまでいけるかどうかわからないけど、ジャマイカに行ってから考えてくれ」との返事。
 職員から指定された場所に行くと、ロングアイランドの西の拠点、ジャマイカ近辺に住む人々が大勢並んで、バスに乗り込もうとしている。

 やっとのことで乗り込んだ人々は、みな疲れきった表情だった。汗だらけのシャツで、座席に座れないものは床に座り込んでいる。乗客は次々に携帯電話を取り出して自宅に電話をしようとしているが、通じなくてあきらめの表情だ。
 通常は市内から30分程度の距離だという。しかし、マンハッタンまで家族を迎えに来た人たちの車のせいだろう、すごい渋滞だ。歩いてマンハッタンを脱出した家族を迎えに来たものの、会えずに泣く泣く手ぶらで帰ってゆく車もたくさんあったに違いない。
 
 バスがジャマイカの駅について、人ごみの中でアナウンスをじっと待っていると、親切な駅員がこう案内してくれた。
「幸いなことに、ディーゼル列車を手配できますので、バビロンまで運行します。そのあと、次のディーゼルを手配できれば、そこから先も運行します。ディーゼル列車の都合がつかなかったら、バスを運行します。え、アマガンセット?何とかなるでしょう。とにかく乗ってみてください。今日は全員無料ですよ」

 バビロンというのが果たしてどこなのかもわからず、私たちは、止まったり運行したりする列車とバスを乗り継いで、はるか東の端のアマガンセットまで、12時間かけてたどりついた。

◆元気に迎えてくれたベアテさん

 途中でやっと携帯が通じるようになった。その間、何度通話を試みたことか。
 ベアテさんは、とても心配していた。
「まあ、まさかいらっしゃらないと思ったわ。今日はニューヨークから誰も来れないようなので、民宿もキャンセルしちゃったのよ。でも、安心なさい。うちの孫たちもニューヨークから来ることができないので、今日は部屋が空いているの。そこにお泊まりなさい。まあ、アメリカ人の孫たちが来れないのに、外国人のあなた方が訪ねてくるなんて、すごいわね。とんでもない災難だったわね」
 と流暢な日本語の会話で応対してくれた。

 かくして、私たちはベアテさんとジョセフさんの奇麗な小さな別荘に泊めていただくはめになった。
 ジョセフさんは私たちを歓迎し、軍隊時代に日本で覚えたという「リンゴの唄」を披露してくださった。日本語の歌詞を全部覚えている素晴らしい記憶の持ち主だった。
 ベアテさんの数奇な運命については彼女の自著『1945年のクリスマス』(柏書房)をご一読いただきたい。
 
 80歳とは思われないはつらつしたベアテさんは、まぎれもない私たちの憲法起草に加わり、特に、日本の女性解放に大きな足跡を残した人その人だ。彼女がGHQの法律担当者とやりあいながら私たちに与えてくれた第24条は、家庭に縛られていた戦前の日本女性を社会に進出させるきっかけを作った。
「日本で講演すると、よく日本国憲法は押しつけだと言われます。私はこう反論します。米国憲法にもない良いものがたくさん日本国憲法に盛り込まれています。自分たちですら欲しいものを人に差し上げることを押しつけというのでしょうかと」

 アマガンセットの美しい浜辺を散歩しながら、ベアテさんはアフガニスタンとイラクの女性に思いをはせていることを熱心に語った。
「アフガニスタンとイラクの女性の立場は、終戦直後の日本女性の立場とまったく同じです。日本では土井たか子さんのような女性の党首もいますし、女性のニュースキャスターが連日テレビに登場しています。日本の女性が、直接その事実を伝えてくれたら、どれだけの励みになることでしょう」
 ベアテさんは、私たちに会った直後に日本を訪問し、青年劇場による「真珠の首飾り」の全国公演に同行している。その際にアフガニスタンとイラクの女性に手を差し伸べるように、各地で日本女性に呼びかけている。

 反アメリカ感情が広がっている今日、アメリカ人が女性に手を差し伸べようとしても、現地のかたくなな男たちによって「アメリカの押し付けだ」として拒否されるかも知れない。当然の権利を中東の女性が手にするために、ベアテさんの経験に基づいたアイデアを生かすためにも、私たちは支援の輪を広げていかなければならない。

別荘で語るベアテさん

ベアテ.jpg
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さて翌日、私たちは開通したロングアイランド鉄道で再びニューヨーク市内に戻った。街は平常を取りもどしていた。停電の影響であちこちにゴミの山が放置されていたのにも関わらず、どの商店も営業をしており、店々で売られている清涼飲料水も、いつもと同じく冷えていた。新聞には大停電の原因について、はっきりしないと書かれていたと同時に、徹夜組や家まで歩いて帰った人々の談話が写真入でたくさん出ていた。さらに被害者を助けたり、お金のない人には無料で食料を食べさせた商店やレストラン談や、見ず知らずの疲れきった人を迎えの車に乗せた話、病院の患者を安全な場所に運んだ話などの美談もあふれていた。大変な二日間を過ごしたニューヨークの人々は、明るい表情で、忙しくそれぞれの仕事を再開していた。

【初出】『もうひとつの国際貢献』(リベルタ出版)2003年

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2007年06月30日

封建主義からの脱出に苦しむネパール(続き)

▼裸の王様と王子様

 ギャネンドラの悪評は、2001年の王室殺人事件にさかのぼる。王室一家9人を殺害した真犯人ではないかとうわさされていたからである。妻、息子が事件の現場にいたにもかかわらず、無傷だったのは、ギャネンドラがこの事件を影で操っていたのではないかといううわさだ。

 しかもギャネンドラの息子パラス王子は、札付きの不良である。自分の車で死亡事故を起こした後、捜査の警察官に銃を突きつけて無罪放免させるなどの悪業を数多く繰り返している。国民は王室事件の直後に国王になったギャネンドラを、まったく信用していなかったのである。

 ネパールは1990年の民主化闘争以来、絶対王政の権限が縮小され、立憲君主国家として歩みはじめていたというのが一般的理解だ。しかし私は、ネパールは王の絶対支配による制度を現在まで抱えてきた地上最後の封建国家であると考える。国民が貧困であえいでいるにもかかわらず、ネパール王室は世界の王族の中でも飛びぬけた富を所有し、それを浪費し、国民を省みることなかった。

 そして議会政党は、長年にわたって国王の臣下としての地位を疑うことなく受け入れてきた。というよりは、議会に入るということは王室と親交関係を持つエリートとして、支配階級になることを意味したといえる。

 その議会と軍は国王を支え続け、反抗する人々に対して容赦のない弾圧を加えてきた。そうした封建的王政に始めて組織的に反抗したのが、ネパール中西部に拠点を構えたマオイストと呼ばれるグループである。

▼なぜマオイストが生れたか

 ネパール在住のライター小倉清子は、このマオイストについて継続して取材しており、『ネパール王政解体』(NHKブックス)の中で、貧困にあえぐ人々がなぜマオイストになったかについて書いている。克明なインタビューを行い、「マオイストになるか死か」という状況がネパール各地で展開されていたことを明らかにしているのである。

 つまり王室とそれを支える政治政党による長年の封建主義による悪政がマオイストという武装闘争集団を生み出したのである。マオイストは警察や軍から武器を収奪しながら、ネパール全土の7割までその支配を拡大していった。

 ギャネンドラの政権掌握宣言は、明確に国民を覚醒させることとなった。「王政封建主義がある限り、自分たちは永遠に檻の中に捉えられたままだ」ということを理解したのである。その結果、国民はギャネンドラに協力してテロリストを討伐することを拒否し、そのテロリストとの対話をするという奇策に出たのである。

 この奇策は成功し、マオイスト側は議会政党との協力を開始した。最初の協力はカトマンズでの最大規模のデモによって、王に対する国民の「ノー!」を突きつける作戦だった。06年4月に行なわれた100万人とも言われる規模の、あまりの大きさに震え上がった王は4月24日、行政権を国民に戻すことを宣言した。

 さらにマオイストと議会政党は、武装蜂起や議会制回復のロードマップなどの協定を作り、国連に提出した。

 その結果、マオイストの武装解除が国連の手で、進行したのは承知の通りである。

▼まとめ役不在のネパール政治

 ネパールに民主主義が訪れるためには、まだまだ時間がかかるであろう。人々はいまだに封建主義とカースト制度のくびきから逃れていない。

 長年にわたって王室に使えてきた既成政党は、象徴性王政を残して立憲君主国にしようとしている。マオイストは生まれて初めて国会議事堂に入ることになったが、あくまでも王の存続には反対である。今後の対立の火種がくすぶり続けている。

さらに今回のまとめ役になったコイララ首相が高齢で肝臓病を抱えている。コイララに代わるまとめ役がいない今、ネパールの今後は相変わらず目が離せない状態だ。 

 
(了)                  (c)2007 菅原 秀


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2007年05月01日

■封建主義からの脱出に苦しむネパール

ネパール情勢を読み解くときは、忘れてならないのは、隣国である中国、インド、ブータンの情勢がどうなっているかにも注目しなければならない。

 これらの国々とは人々の交流も多く、中国領からはチベット人が流入してくる。またインドとの国境地帯にはマデシと呼ばれるインド系ネパール人が、住民登録もされないまま大量に居住しており、その動向がネパールの政治を左右する。90年代にブータンからネパールに流入した難民の問題は、いまだに解決しておらず、ブータン人難民キャンプでは一触即発の状態が続いている。

 そうした中、チベット亡命政府の幹部であるツェテン・ノルブ氏から、SOSという件名が書かれた電子メールが届いた。05年1月21日のことである。これがネパールの悪夢の始まりの知らせだった。

 ツェテン氏は、カトマンズにあるダライ・ラマ法王ネパール事務所と、併設されているチベット難民救護事務所の責任者である。

 SOSとはただごとではないと思って読んでみると、
「ネパール政府により、両事務所の閉鎖を命じられ、継続が不可能になった。これからインドのダラムサラに向かい、法王庁幹部と対策を練る。各国のネパール大使館に対し、事務所閉鎖命令を解除するよう要請していただきたい」という内容であった。

▼チベット人にとってネパールは重要な移動拠点だ

 チベットの民主化活動家は、中国政府による長年にわたる弾圧を逃れて、世界各地に亡命している。インドのダラムサラは亡命したダライ・ラマ法王庁が置かれた亡命政権の拠点であり、1960年にネルー首相によって提供された町である。6000人のチベット人が居住し、亡命政権の各省庁と仏教大学、芸術研究所、図書館などがある静かな町である。

 チベット人に対する中国地方政府からの陰湿な弾圧は、現在でも続いている。北京政府は、チベット人に対する差別はまったくなくなり、漢人と共に平和裏に共存していると発表し続けている。ラサへの高速鉄道も開通し、中国国内や海外からの観光客が、美しいチベット高原を連日訪れている。NHKなどで放映されるチベット鉄道などの映像を見る限り、かつてのチベット人弾圧は終焉したかのようだ。

「今でも月に100人ぐらいのチベット人がヒマラヤを越えて逃げてきます。中には警備が手薄な極寒の冬季を選んで、逃げてくる人もいます。装備なしで何日もかけて歩いて来るのですから、足の指を失うなどの、ひどい凍傷を抱えた状態でネパールにたどり着きます。そのために難民救援事務所はなくてはならない機関なのです」

 ベマ・ギャルポ横浜桐蔭大学教授は、カトマンズにあるチベット人の拠点の重要性をこう説明する。

 もし北京政府が言うように、漢人とチベット人が平和裏に共存しているのなら、冬の最中に命がけでヒマラヤ越えをする人間なぞ、いるはずがない。

 真相は、こうした部分をしっかりと捉えることで見えてくる。

 さて、亡命政権からの事務所閉鎖命令の情報は世界中に発信され、今までネパール王政に開発援助を行ない続けていた欧米諸国の怒りの火を燃やすこととなった。欧米ではノーベル平和賞受賞者であるダライ・ラマの活動を否定するような行動に対して、極めて敏感なのである。

▼ギャネンドラ国王の勘違い

 中国に対する遠慮で、チベット問題に及び腰な日本政府も、今回だけはネパールの情報収集に動き始めたようだ。ギャネンドラが不穏な動きを見せた翌日に外務省報道官がネパール情勢に対する憂慮の発表を行うという早業を行ない、さらに翌年には塩崎外務副大臣をカトマンズに派遣している。

 ギャネンドラ国王は、今回のチベット人に対する仕打ちが、国際社会から大きな反発を受けるという予測はまったくしていなかったようだ。

 各国のNGOが連絡をとりながら、何とかネパール政府に二つの事務所の再開を説得しようと動き始めた矢先の2月1日、そのギャネンドラ国王は自分の言うことを聞かないデウバ首相を解任し、配下の国軍を率いて政権を掌握したのである。

 国王は、テレビを通じて布告を発し、既成政党とマオイストを厳しく非難した。そうした失政を行なった内閣のせいであるとし、自らが政権を掌握すると発表したのである。大義名分は、国軍によってテロリストを討伐することによって国家を安定させ、王の威信にかけて議会制民主主義を回復させるというものだった。

 この発表と同時に国王軍は、インターネットと電話線を切断した。その日からのネパールとの連絡はまったく不可能になった。

 私はカトマンズ・ポストをはじめ、ネパール現地の英文のニュースを入手しようと、連日アクセスを試みたが、インターネットの機能はずっと停止したままだった。ネパール国内の民主化活動家やブータン人難民の事務所に出したメールも届かなかった。

 通信手段を遮断してギャネンドラが行なったのは、閣僚たちの解任だけではなかった。報道機関に軍を派遣し、新聞の発行をすべて停止するように命じていたのである。

 しかし国民は誰もギャネンドラを支持しなかった。新聞は禁止措置を無視して、ゲリラ的に発行を継続していた。

 やっとネパールにインターネットが通じるようになったのは、2月の末頃だった。


(続く)                  (c)2007 菅原 秀
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2005年10月02日

国際盗聴網があなたをねらっている(3)

◆日本も傍受されている

さて、日本はエシェロンの傍受対象にされているのだろうか。

ハーガー氏の指摘によれば、特に外交文書がかなり傍受されているという。エシェロンの各国の傍受基地が日本の情報の何を盗み取るかということについては、地域ごとに分担が決まっている。

日本政府が太平洋地域で展開している貿易、海外援助、漁業などの政策や、国際会議などの情報を扱うのは、ニュージーランドの担当である。

日本大使館は通信内容の機密の度合いに応じて、暗号を区別し、主としてテレックスでのやり取りをしているという。難易度の低い暗号が使われた場合は、ニュージーランドの傍受基地の分析官は、難なくその内容を読み取ることができるという。

ニュージーランド情報通信保安局(GCSB)が傍受する日本大使館の電文は、ビザの発給や文化行事、あるいは定期外交報告などであり、こうした文書は機密扱いではないので、傍受が簡単なそうである。しかし、一見なんでもないような内容から日本政府の外交方針を読み取るのが、分析官という高度な訓練を受けたスパイの仕事である。

また太平洋地域の在外日本公館は、外務省と衛星通信で連絡しているので、ニュージーランドが日本の太平洋地域の情報を盗むことは困難だった。

◆甘く見られている日本発の通信

ところが1989年にニュージーランドのワイホバイという場所に通信衛星専門の傍受基地を設置し、日本大使館の情報を読み取れるようになった。これらの電文を分析した日本発の情報にはJADという符牒がつけられ、エシェロン各国の諜報機関に供給する作業が開始された。

ニュージーランド情報通信保安局(GCSB)では分析官たちが通信内容ごとにデータを仕分けし、翻訳する。これをエシェロンの共通書式に従って「最高機密」「機密」などに分類する。日本語の情報を傍受するためにはコンピューターのシステムに日本語を組み込まなければならない。この作業はアメリカのNSAが行い、さらに傍受用の特殊なプログラムを開発して、ニュージーランドに持ち込んでいる。

JAD情報は一般的にはたいくつ極まらないものばかりで、ほとんど役に立たないそうだが、日本の役人はときどき油断して「お宝」情報を漏らしてしまうことがある。

語り草となっている話として80年代初めの出来事がある。日本のある外交官が貿易産品の価格交渉での買い入れ可能上限額を、日常連絡用の外交文書で送ってしまったそうである。その結果、ニュージーランド側の食肉団体が大儲けをすることができ、GCSBの存在価値がおおいに認められることになったそうだ。

日本語を傍受する部署はK部と呼ばれる部局にある。K部にはKP課とKE課がある。

Kの意味は単なる部署記号らしいが、Pは太平洋州の意味で、KP課は太平洋諸島国家の政府活動やフランスの核実験の監視を行っている。Eは経済の意味で、KE課は南太平洋の日本の外交通信、ロシアと日本の漁業、さらに南極圏の各国の経済活動を監視している。

またニュージーランドで傍受できない情報に関しては、アメリカが三沢基地に保有している通信傍受施設からも供給され、日本語に強いスタッフが常駐しているニュージーランドのGCSBで分析作業が行われているようである。

したがって、日本が見張られているのは、むしろ外交活動よりも経済活動であると考えたほうがいいだろう。

その意味で、エシェロンは外務省の文書や電話だけでなく、数多くの日本企業の動向を探っていると思われる。つまり、私たちが日常的に利用する電子メールや国際電話も、傍受されていると考えて間違いがないであろう。


◆ 国際盗聴網にどう対応すればいいか

もちろんエシュロンのような不法な活動は、法的にはどの国の法律にも違反する活動であろう。国を越えた諜報活動は、アメリカや英国の国内法にも違反していると思われる。

ところが肝心のアメリカですら、NSAは下院情報委員会からの資料提出要求を、諜報の秘密を理由として拒否する始末で、アメリカ国内での告発活動もままならないようだ。こうした活動に目をつぶる歴代の政権に庇護されながら、NSAはその活動内容を一向に公表しようとはしない。

アメリカには諜報機関が13もあり、お互いの組織が競争活動をすると同時に、スパイ機関同士の組織温存をはかるために、お互いに助け合うということも行っている。
代表的な諜報機関としては、NSAを筆頭に、CIA、DIAなどが有名だ。13の諜報機関をあわせた職員数は20万人程度と推定され、年間300億j程度の予算が全体に配分されていると思われる。

CIAなどの古くからの諜報機関は秘密活動を伴なうスパイ活動を行っていることは広く知られているが、NSAの職員は人前にその姿を表わさない。あくまでも、コンピューターを使った盗聴活動と、暗号解読活動を専門としているので、なかなかその実態が表に出ない。

さて、日本に住んでいる私たちは、この不法な国際盗聴活動にどう対応したらいいのであろうか。

日本国憲法21条では「通信の秘密は、これを侵してはならない」と定めており、それを受けた電気通信事業法四条では「電気通信事業者の取り扱い中にかかる通信の秘密は、侵してはならない」とされ、違反者には2年以下の懲役又は50万円以下の罰金が課されることになっている。

三沢基地の米軍傍受施設が行っている盗聴活動から、具体的な盗聴の事実を証拠としてあげるのはなかなか難しい仕事だと思われるが、アメリカの市民団体の協力があれば、退役軍人などから具体的なデータがもたらされる可能性がないわけでもない。

また、アメリカの市民団体は、NSAの分析活動に混乱をもたらすために、NSAが使うキーワードを大量に打ち込んだ文書を電子メールで流し、NSAのディクショナリーに過剰負担を起させようと呼びかけた。呼びかけたのはアメリカの弁護士リンダ・トンプソン氏である。

トンプソン氏は、効果的なキーワードとして、次のようなものをあげている。一部を紹介しよう。

「米連邦捜査局(FBI)、米中央情報局(CIA)、米国家安全保障局(NSA)、米国税庁、アメリカ教育連盟、米国防総省、オクラホマシティー、 拳銃、テロリズム、爆弾、薬物、特殊部隊、憲法、権利章典、ホワイトウォーター、イランコントラ、モサド、米航空宇宙局、英国諜報部、ロンドン警視庁、マルコムX、革命、ヒラリー、ビル・クリントン、ゴア、ジョージ・ブッシュ」

トンプソン氏の呼びかけが功を奏したのか、ZDネット日本版が2000年1月30日に興味深いニュースを配信している。

「米国家安全保障局のコンピューターに障害――原因は大量傍受による過負荷?」と題した記事によれば、NSAのコンピューターシステムが「深刻な」障害に見舞われ、1月24日から3日間にわたって諜報データの処理に支障をきたした。

 NSAはメリーランド州フォートミードにある本部のコンピューター復旧のため、数千人時にも及ぶ技術者の手と、150万jの費用を費やしたという。NSAの記者発表によれば、「この障害によって、収集した情報そのものが影響を受けることはなかったが、情報の処理には支障をきたした。情報処理のバックログはほとんど完全であり、NSAでは重要な情報が失われたことはないと確信している」ということだ。

またこのNSAのコンピューター障害を最初に報道したABCニュースによれば、NSAディレクターのマイケル・ヘイドン米空軍中将は「今回の問題はYK2関連のものではなく、大量の情報を傍受したことによるコンピューターシステムの過負荷が原因だと」述べている。 (註:YK2=2000年に起きるとされたコンピューター誤作動の問題のこと、実質的には杞憂に終わった)

こうしてNSAに対する批判は、海外だけでなくアメリカ国内でも高まっており、NSAは少しずつ情報公開をせざるを得ない立場に追い込まれている。

その第一歩としてNSAは10年ほど前に「国立暗号博物館」を本部の敷地のはずれに設けている。また最近では「オープンドアー・プロジェクト」なるものを発足させ、ホームページを開設し、第一次世界大戦から第二次世界大戦にいたる期間の諜報文書を公開している。

しかしNSA本部自体は誰も入れないドアにさえぎられている。国際盗聴機関がはるか上空のかなたから、コンピューター技術を利用して私たちを監視する時代は、いつまで続くのだろうか。              (了)

★初出「月刊公評03年12月号」 加筆05年10月


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2005年09月19日

国際盗聴網があなたをねらっている(2)

◆盗聴はキーワードで分類して取り込む

エシェロン国際盗聴網が行っているのは、海底ケーブルと通信衛星から漏れる通信を特殊機器で収集し、コンピューターに蓄積し、必要な情報を翻訳・分析するのが主な作業である。

電子メールのような文書情報だけでなく、電話による音声情報もデジタル化して収集している。電話番号や、話している人物の名前や声紋を探ることで、特定の情報をアクセスすることができるプログラムが利用されているようだ。

こうした文書と音声情報が、UKUSA同盟各国の秘密基地にあるディクショナリーと呼ばれるコンピューターに分類して蓄積される。

蓄積する場合には、私たちがパソコンで行っている検索方法と同じように、いくつかのキーワードごとに分類する。例えば日本の農業に関することなら「日本」「農業」「輸出作物」など、諜報活動に必要と思われるキーワードにもとづいて大量な文書がため込まれる。

NSAの指示にもとづいて、各国の盗聴機関の分析官と呼ばれる職員がこれらの文書を解読、翻訳し、その結果がワシントンのNSAに集約されるシステムとなっているのである。

ニュージーランドの基地は、地勢的位置を利用して、太平洋諸島の国々や日本、あるいはロシアの船舶などの通信を主として手がけている。日本語の文書を英語に翻訳してワシントンに届けるのもニュージーランドの担当である。

ニュージーランドという独立国家が、なぜアメリカのスパイ作業に協力するのかという大きな疑問が生じるが、この秘密ネットワークはニュージーランドの為政者が知らないうちに、米国やオーストラリアから調達された機器を元にして、あたかもニュージーランド軍のための諜報機関を装って作られていたのである。

つまり、米、英、カナダ、オーストラリア、それにニュージーランドの諜報官僚たちが、国境を越えて、政治家たちに知らせることなくちゃっかりと築き上げたのが、このエシェロンという諜報網なのだ。


◆米国NSAがエシェロンの指令基地

ハーガー氏(前回の記事参照)の著書に敏感に反応したのが欧州の国々であった。EUは調査委員会を発足させ、二〇〇〇年七月、エシェロン国際盗聴網の調査を開始し、2001年7月に公式の報告書を発表した。

この報告書によって、エシェロンという符牒で呼ばれる国際盗聴網が存在するということがはっきりした。

エシェロンに所属する機関は次のとおりである。米国安全保障局(NSA)、英国政府通信本部(GCH)、カナダ通信保安庁(CSE)、オーストラリア防衛通信本部(DSD)、ニュージーランド情報通信保安局(GCSB)である。

エシェロンの各国機関にはディクショナリーと呼ばれる大型コンピューターが、窓のない完全空調の建物に設置されており、盗聴対象項目のあらゆるキーワード、個人名、電話番号などを蓄積している。電子メールや短波通信を大量に傍受して溜め込み、各国機関が協力してそれらの文書や通信を翻訳する。

また、暗号の解読技術も極めて高度に発達しており、各国が大使館とやりとりする暗号などのかなりの部分を解読している模様だ。


◆人権団体をも監視か?

EUの調査委員会は、特にエシェロンが各国の経済情報や人権団体の活動を傍受していることに注目している。つまり、エシェロンは軍事関係の諜報だけでなく、経済動向も調査して米英に有利な取引を行ったり、各国の人権団体の動きも監視している可能性が極めて高いのである。

NSAが他国の機関に命令している例のひとつとしてハーガー氏は、03年3月に興味深い文書を入手し、日本の読者のためにその秘密文書を公開している。この文書は英国のオブザーバー誌がすっぱ抜いたものだ。

NSAのフランク・コザという名前の職員の署名による、おそらく英国の諜報部に向けて出したと思われる「最高機密」と指定された文書である。

この文書には、次のような内容が記されている。
「NSAは米国と英国を除く国連安全保障理事会のメンバーが、イラク問題に対してどう考えているのが、どういう態度で決議にのぞむのか、どういう国々と連携しているのかなどを探る作戦を開始した。これはアメリカの政策を有利にするための作戦であり、同時に国際社会の関心をパキスタンに向かせる作戦とも連動している。特に、国連安全保障理事会メンバーであるアンゴラ、カメルーン、チリ、ブルガリア、ギニアを標的として作戦を実行すること。国務長官が国連安全保障理事会に証拠提出をするので、来週半ばあたりに多くの文書が飛び交うだろう。これらの国を対象とした傍受・分析作業に集中して欲しい」
というものである。

つまり、アメリカのイラク侵攻を正当化するために、各国の諜報機関はアメリカ政府に協力せよというのだ。

この文書からわかるのは、私たちが知らないうちに、アメリカ政府はアングロ・サクソンだけの連合国を秘密裏に形成し、その盟主として諜報機関を通じて、国際世論操作を行っているようだ。

さて、EUはエシェロンにどう対応したのであろうか。
まずEUは調査委員会を設置する前に、ダンカン・キャンベル氏という英国のテレビ・ジャーナリストに調査を依頼した。

キャンベル氏は2年かけてハーガー氏の書物の裏付け調査をし、エシェロンがハーガー氏が指摘しているとおりに存在していることと、アメリカの企業がエシュロンを利用してEU企業を国際入札で追い落としたことが二回あるとの調査結果を発表した。

これを受けたEUは三十二人のメンバーによる調査委員会を発足させ、2001年5月にはワシントンを訪れ、NSA当局との面談を要求している。しかしNSAはこの面談の要求を拒否している。にもかかわらずEUの調査委員会は詳細にわたる報告書を完成させ、UKUSA五カ国による国際盗聴網を阻止する行動をとらなければならないという提言をまとめている。

特に英国に対するEU諸国の怒りは相当なもので、フランスがあくまでもアメリカのイラク侵攻に反対するのには、こうしたバックグラウンドもあるということも、考えておく必要があるであろう。

しかしながらエシェロンに対するEUの怒りは、むしろ盗聴によってEU企業の国際競争を阻害しているという点からきているようで、明確な国際法違反である盗聴活動に法的対抗措置を採るという動きには、今のところ発展していない。むしろ、フランスがこのシステムに逆に興味を持ち、自前の国際盗聴システムを構築しようとする動きさえ見せている。

エシェロンはどんな国や団体を対象に、何の目的で傍受作業をしているのだろうか。エシェロン・ウォッチャーによれば、有名な例としては、ジョン・レノン、マザー・テレサ、ダイアナ元皇太子妃などの名前があがっているが、真偽のほどは定かではない。しかし、NSAの元職員などが断片的に伝えているこうした有名人の名前から、米英に対する反体制運動に結びつきそうな人物の通信が、積極的に傍受されていることは間違いがないようだ。(つづく)

★初出「月刊公評03年12月号」 加筆05年9月

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国際盗聴網があなたをねらっている(2)

◆盗聴はキーワードで分類して取り込む

エシェロン国際盗聴網が行っているのは、海底ケーブルと通信衛星から漏れる通信を特殊機器で収集し、コンピューターに蓄積し、必要な情報を翻訳・分析するのが主な作業である。

電子メールのような文書情報だけでなく、電話による音声情報もデジタル化して収集している。電話番号や、話している人物の名前や声紋を探ることで、特定の情報をアクセスすることができるプログラムが利用されているようだ。

こうした文書と音声情報が、UKUSA同盟各国の秘密基地にあるディクショナリーと呼ばれるコンピューターに分類して蓄積される。

蓄積する場合には、私たちがパソコンで行っている検索方法と同じように、いくつかのキーワードごとに分類する。例えば日本の農業に関することなら「日本」「農業」「輸出作物」など、諜報活動に必要と思われるキーワードにもとづいて大量な文書がため込まれる。

NSAの指示にもとづいて、各国の盗聴機関の分析官と呼ばれる職員がこれらの文書を解読、翻訳し、その結果がワシントンのNSAに集約されるシステムとなっているのである。

ニュージーランドの基地は、地勢的位置を利用して、太平洋諸島の国々や日本、あるいはロシアの船舶などの通信を主として手がけている。日本語の文書を英語に翻訳してワシントンに届けるのもニュージーランドの担当である。

ニュージーランドという独立国家が、なぜアメリカのスパイ作業に協力するのかという大きな疑問が生じるが、この秘密ネットワークはニュージーランドの為政者が知らないうちに、米国やオーストラリアから調達された機器を元にして、あたかもニュージーランド軍のための諜報機関を装って作られていたのである。

つまり、米、英、カナダ、オーストラリア、それにニュージーランドの諜報官僚たちが、国境を越えて、政治家たちに知らせることなくちゃっかりと築き上げたのが、このエシェロンという諜報網なのだ。


◆米国NSAがエシェロンの指令基地

ハーガー氏(前回の記事参照)の著書に敏感に反応したのが欧州の国々であった。EUは調査委員会を発足させ、二〇〇〇年七月、エシェロン国際盗聴網の調査を開始し、2001年7月に公式の報告書を発表した。

この報告書によって、エシェロンという符牒で呼ばれる国際盗聴網が存在するということがはっきりした。

エシェロンに所属する機関は次のとおりである。米国安全保障局(NSA)、英国政府通信本部(GCH)、カナダ通信保安庁(CSE)、オーストラリア防衛通信本部(DSD)、ニュージーランド情報通信保安局(GCSB)である。

エシェロンの各国機関にはディクショナリーと呼ばれる大型コンピューターが、窓のない完全空調の建物に設置されており、盗聴対象項目のあらゆるキーワード、個人名、電話番号などを蓄積している。電子メールや短波通信を大量に傍受して溜め込み、各国機関が協力してそれらの文書や通信を翻訳する。

また、暗号の解読技術も極めて高度に発達しており、各国が大使館とやりとりする暗号などのかなりの部分を解読している模様だ。


◆人権団体をも監視か?

EUの調査委員会は、特にエシェロンが各国の経済情報や人権団体の活動を傍受していることに注目している。つまり、エシェロンは軍事関係の諜報だけでなく、経済動向も調査して米英に有利な取引を行ったり、各国の人権団体の動きも監視している可能性が極めて高いのである。

NSAが他国の機関に命令している例のひとつとしてハーガー氏は、03年3月に興味深い文書を入手し、日本の読者のためにその秘密文書を公開している。この文書は英国のオブザーバー誌がすっぱ抜いたものだ。

NSAのフランク・コザという名前の職員の署名による、おそらく英国の諜報部に向けて出したと思われる「最高機密」と指定された文書である。

この文書には、次のような内容が記されている。
「NSAは米国と英国を除く国連安全保障理事会のメンバーが、イラク問題に対してどう考えているのが、どういう態度で決議にのぞむのか、どういう国々と連携しているのかなどを探る作戦を開始した。これはアメリカの政策を有利にするための作戦であり、同時に国際社会の関心をパキスタンに向かせる作戦とも連動している。特に、国連安全保障理事会メンバーであるアンゴラ、カメルーン、チリ、ブルガリア、ギニアを標的として作戦を実行すること。国務長官が国連安全保障理事会に証拠提出をするので、来週半ばあたりに多くの文書が飛び交うだろう。これらの国を対象とした傍受・分析作業に集中して欲しい」
というものである。

つまり、アメリカのイラク侵攻を正当化するために、各国の諜報機関はアメリカ政府に協力せよというのだ。

この文書からわかるのは、私たちが知らないうちに、アメリカ政府はアングロ・サクソンだけの連合国を秘密裏に形成し、その盟主として諜報機関を通じて、国際世論操作を行っているようだ。

さて、EUはエシェロンにどう対応したのであろうか。
まずEUは調査委員会を設置する前に、ダンカン・キャンベル氏という英国のテレビ・ジャーナリストに調査を依頼した。

キャンベル氏は2年かけてハーガー氏の書物の裏付け調査をし、エシェロンがハーガー氏が指摘しているとおりに存在していることと、アメリカの企業がエシュロンを利用してEU企業を国際入札で追い落としたことが二回あるとの調査結果を発表した。

これを受けたEUは三十二人のメンバーによる調査委員会を発足させ、2001年5月にはワシントンを訪れ、NSA当局との面談を要求している。しかしNSAはこの面談の要求を拒否している。にもかかわらずEUの調査委員会は詳細にわたる報告書を完成させ、UKUSA五カ国による国際盗聴網を阻止する行動をとらなければならないという提言をまとめている。

特に英国に対するEU諸国の怒りは相当なもので、フランスがあくまでもアメリカのイラク侵攻に反対するのには、こうしたバックグラウンドもあるということも、考えておく必要があるであろう。

しかしながらエシェロンに対するEUの怒りは、むしろ盗聴によってEU企業の国際競争を阻害しているという点からきているようで、明確な国際法違反である盗聴活動に法的対抗措置を採るという動きには、今のところ発展していない。むしろ、フランスがこのシステムに逆に興味を持ち、自前の国際盗聴システムを構築しようとする動きさえ見せている。

エシェロンはどんな国や団体を対象に、何の目的で傍受作業をしているのだろうか。エシェロン・ウォッチャーによれば、有名な例としては、ジョン・レノン、マザー・テレサ、ダイアナ元皇太子妃などの名前があがっているが、真偽のほどは定かではない。しかし、NSAの元職員などが断片的に伝えているこうした有名人の名前から、米英に対する反体制運動に結びつきそうな人物の通信が、積極的に傍受されていることは間違いがないようだ。(つづく)

★初出「月刊公評03年12月号」 加筆05年9月

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2005年09月04日

国際盗聴網があなたをねらっている(1)

みなさん、
ここしばらく人身売買問題の取材に集中しており、アジア・ジャーナルの更新の時間が取れませんでした。ごめんなさい。みなさんに新しい情報をお届けするために、既出雑誌の出版社に転載のお願いをしています。新しく掲載したものは、すぐには無理ですが、少しずつクリアしていこうと思います。
今回は、一時世界中で騒がれたエシェロン(新聞ではエシ(ュ)ロンと報道されていますが、米国の諜報網なので、ここではエシ(ェ)ロンとします)について、復習してみます。
―――――――――――――――――――――――――――――

◆いまだに健在なエシェロン国際盗聴網

アメリカが中心になって第二次世界大戦の頃から形成してきた国際盗聴網「エシェロン」が、2000年に世界的に知られるようになり、大きな問題になったが、最近はまったくこの件に関しての報道が見られなくなってしまった。
しかし、決して国際盗聴網がなくなったわけではない。
ワシントン郊外の国家安全保障局(NSA)に本部を置くこの国際盗聴網はいまだに健在であり、堂々と諜報活動を続けている。
この盗聴網のしくみについてまだ知らない人のために、その概要について簡単に解説してみよう。
国家安全保障局(NSA)はワシントンDCに隣接したメリーランド州フォートミードに本部を構えている。創設されたのは1952年だが、その前身は1930年代にさかのぼる。
第二次大戦前の米軍は、ドイツを中心とした枢軸国に傍受されないよう、英軍との間でA3と呼ばれる暗号コードを使って、短波通信によるやり取りをしていた。
その後1935年に、この暗号コードはボコーダーと呼ばれる音声合成システム置き換わり、デジタル技術に直接結びつく音声暗号システムに変化して行く。
枢軸国の側は乱数表を使ったモールス信号と短波信号を中心に相互通信を行っていたが、米英側はすでに枢軸国側の暗号を傍受する技術を完成させていたようである。
ワシントンで人気の高いスパイ博物館に行くと、当時の連合国と枢軸国側の傍受の歴史が展示されていて興味深い。この博物館には世界中の有名なスパイや、スパイの小道具が展示されており、伊賀忍術の創始者といわれる百地三太夫も、日本の諜報員のひとりとして展示されている。
真珠湾に関する展示コーナーでは、アメリカは真珠湾攻撃に関連した日本側の暗号をすでに解読していたが、場所が特定できなかったので大きな被害を受けたと解説されている。
つまり、米英軍は第二次世界大戦の当時にはすでに現在のデジタル技術に道を開くシステムを完成させていたと同時に、乱数表などを使った敵国の暗号の解読技術を高度に発展させていたのである。
第二次世界大戦が終結すると、米英軍が傍受する対象は共産圏の動きに変化していった。
1952年には、アメリカの国家安全保障局(NSA)と英国の政府通信本部(GCHQ)が、新たに生まれた冷戦の動きに対応するために、相次いで設立されている。

◆ アングロ・サクソン盗聴同盟

米英が相次いで盗聴組織を作ったのには伏線がある。第二次大戦の最中にアメリカと英国は、英米安全保障協定(UKUSA)と呼ばれる秘密協定を結んでいた。
英語でユークーザと発音されるこの同盟は、最初は英米間の秘密協定だったようだが、いつしかカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの三カ国を含めたアングロ・サクソン国家による国際盗聴同盟に発展していった。
しかし、この国際盗聴同盟は1996年までは国際社会にまったく知られることがなかった。
ニュージーランドのジャーナリストがちょっとしたきっかけから、国際盗聴同盟の支部がニュージーランドに存在することに気づき、慎重な調査をして、その存在を告発した。当時のニュージーランド首相すらその存在を知らなかったほど、国際盗聴同盟は秘密のベールにつつまれていたのである。
当初、米英の盗聴機関はアジア太平洋の情報を盗聴するために、三沢、香港、シンガポールの三カ所に秘密基地を設けて傍受活動をしていたようだが、米英から遠すぎるので、オーストラリアとニュージーランドにもひそかに、傍受基地を設けることにしたようだ。
たまたまニュージーランドのタンギモアナ基地の近所に住む友人を訪ねてきたオーエン・ウィルクスという平和問題の研究家が、その基地に設置されていたアンテナの形状が、盗聴用の傍受専門のアンテナであることに気づいた。
ウィルクス氏は、この傍受基地の建設のいきさつなどを調べ、1983年、ニュージーランドの平和問題研究誌に記事を書き、秘密傍受基地が存在することを告発した。
この告発によって、秘密傍受基地の存在は国会でも問題になり、当時のマルドゥーン首相は、国会で秘密基地の存在を認めざるを得ないという騒ぎになった。
しかし、この秘密基地がUKUSA同盟に組み込まれた国際盗聴網であるということは、国会で答弁をした当のマルドゥーン首相すら知らなかった。

◆日本の三沢基地にも盗聴施設がある

そのことがわかるまでにはさらに、13年の時間がかかった。ウィルクス氏の記事に注目したジャーナリストのニッキー・ハーガー氏が、ニュージーランドに設置されていた秘密基地を慎重に調査し、この秘密基地がニュージーランドの主権を無視したアメリカの出先機関であるという驚くべき事実を突き止めて書物に発表したのは、一九九六年のことだった。
ハーガー氏による入念な調査報告書は世界中の人を驚かせた。最初はまゆつばだと思っていた人々も、ハーガー氏の十分に裏付けをとった調査を読み進むうちに、国際盗聴網の閉ざされた真実に気づき始めた。ついに欧州連合(EU)が腰をあげて調査委員会を設置。エシェロン(フランス語ではエシュロン)という符牒で呼ばれる国際盗聴網の存在が国際的に明らかになった。
日本での報道は、欧州連合の調査を受けて火がついたようだが、基本情報がはっきりしなくて盛り上がりに欠けてしまっている。
無理もない。この問題の全貌を告発したハーガー氏の著書が日本語に翻訳されたのは、やっと2003年の夏になってからだったからだ。
「シークレットパワー・国際盗聴網エシェロンとUKUSA同盟の闇」(ニック・ハーガー著、佐藤雅彦訳、リベルタ出版)というタイトルで翻訳されたハーガー氏の書物は、実に詳細な調査にもとづいており、読み進むほどに、その正確さにうなってしまう。調査報道による説得力の強さに誰しも驚くであろう。
本来なら、こうした重要な書物は原書が出ると同時に読んでおかなければならないのだろうが、いかに重要な書物でも骨の折れる原書にあたる時間はなかなか取れないのが現実である。
日本国内の三沢基地にも国家安全保障局(NSA)に情報を提供するためのアンテナ群が建てられていることが、ハーガー氏の書物でも詳述されており、アメリカによるこうした不法行為に対して、どういったアクションを採ったらいいものやら、考え込んでしまった。(つづく)

 ★初出「月刊公評03年12月号」 加筆05年9月

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2004年11月16日

民主主義を誤訳した日本(2)

▼なぜ民主主義を採用しなければならないのか

ではデモクラシー(民主主義)とは何なのか。
 非常に明瞭なことだが、国連などの国際機関すべてが採用している基準や条約は、どれも民主主義を基礎にしている。それでは、国連や国際機関はなぜ民主主義を採用しているのだろうか。
 
国連憲章にはその目的として「すべての人々の人権と基本的自由を守る」という程度にしか記載されていないが、民主主義の目的はさまざまな国際法に数多く盛り込まれており、国際法全体とそれに基づく無数の条約によって、ルールとして採用されているのである。
 もっとも一般的でわかりやすく、人類すべてに適応される国際基準として引き合いに出されるのは「世界人権宣言」であろう。

 そのうち、宗教、表現、結社に関する三カ条だけを抜き出してみよう。

第十八条 すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。
第十九条 すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。
第二十条 一、すべての人は、平和的集会及び結社の自由に対する権利を有する。
二、何人も、結社に属することを強制されない。

 こうした基準と同じような「思想、表現、結社の自由」に関しては日本の憲法でもうたわれているし、多くの国々が、採用している。

▼民主主義は暴走を止める「くさび」である

 なぜこうした基準が必要かというと、為政者が勝手に法をねじまげて人民を隷属させないようにするための「くさび」なのである。

 しかし、中には国際基準としての民主主義は間違いだと主張する為政者もいる。有名な例では、マレーシアのマハティール元首相やシンガポールのリー・クアンユー上級相が主張する「アジア型民主主義」がある。つまり、アジアの場合は経済的開発を先にして、貧困をなくさない限り民主主義は実現しない。そのために多少、人権が無視されるのは致し方ないことなのである。という理屈であり、開発独裁の理論として日本を含むアジア全体からの支持を受けているものである。しかし、この開発独裁の理論も民主主義を否定するものではなく、究極的には民主主義がアジアに定着すべきであると言うことは否定していない。

▼「しつけられた民主主義」?

変わった形としては、ビルマ(ミャンマー)が標榜する「しつけられた民主主義」"disciplined democracy”というのがある。つまり、ビルマは将来は民主主義国家を目指すが、その民主主義とは政府に反抗せずに整然と秩序を保つ、よくしつけの行き届いた民主主義でなければならない。というものである。この考えは、かつてのタイにも存在したし、ラテンアメリカにも存在しているようだ。民主主義を完全にねじ曲げて自国民を納得させようと言う試みであり、その国に住んでいる人々にとってははなはだ迷惑なシロモノだが、他国に影響を及ぼす心配は、まずないだろう。

ビルマのような考え方は、国際社会では通用せず、特に欧米からは強い批判をうけており、アウンサンスーチーの再三の逮捕などの人権弾圧に対して、各国から制裁を受けているのは周知の通りである。

▼心に余裕をもたらすのが民主主義


ところが、ビルマと同じように「固有の民主主義」を標榜していた国々も、民主化されると同時に、人々の生活が一変している。アジア地域だけでも、かつての軍事独裁国家から民主化した国々がいくつもある。タイ、フィリピン、韓国、台湾などである。またかつての共産主義国家のモンゴルも少しずつ民主化の歩みを進めており、他の旧共産圏国家も近い将来、民主化の道を歩むのは時代の趨勢であろう。

 民主主義とは決して「イズム」ではなく、その国に住む人々の将来の自由を作り出すためのシステムなのである。そして「現在がダメ」だからといって否定すべきものでは決してなく、政治制度の改善の工夫を保障するためのシステムなのである。

(c)2004菅原 秀/初出「もうひとつの国際貢献」リベルタ出版2003 




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2004年11月15日

民主主義を誤訳した日本(1)

 私は03年、米国国務省のレーガン・ファッセル奨学金のフェローとして、3カ月間、アメリカのワシントンで、民主化支援基金のシステムについて研究した。
 私に与えられたオフィスは、この奨学金事業を受諾している米国民主主義基金(NED)の民主主義研究所内の一室だった。 
 
 NEDはドイツの政治財団をモデルに1983年に設立されたアメリカのNPOで、ビルマなどの独裁国家や、アフガニスタンなどの破綻国家のNGOに助成をしている民主化支援基金のひとつである。現在、日本をのぞく先進国のすべてが、民主化支援財団を保有しており、NGOの活動資金の半分以上が世界に50ほどある民主化支援基金によって支えられている。
 
 日本だけがなぜ、例外になっているのかというのも、私の研究テーマのひとつでもあった。そのカギは、民主主義という概念の把握の仕方によるものであるのではないか。

 まず研究を開始するに当たって、研究所のスタッフ一同に私の研究方針を説明した。

「日本ではどうも民主主義という言葉が、欧米とは違う意味でとらえられる傾向が強いのです。ブッシュ政権によるイラク攻撃以来、日本にはアメリカを嫌う人がかなり増えてきています。やはりアメリカが言っていた民主主義というのはでたらめだった。その証拠に、ブッシュ政権は民主主義を口実にしながら、イラクの一般市民を巻き添えにする攻撃をいとわなかった。という意見がたくさん聞かれます。平和主義者の多い日本がブッシュ政権を嫌うのは、皆さんにもご理解できることと思います。しかし、皆さんが理解できないと思われることは、アメリカが嫌いだという感情を持つ人が日本に増えているだけでなく、民主主義は否定されるべきだという意見が広がっているという状況です。この件に関しては、ブッシュ大統領に責任があるのではなく、日本人自身がずっと抱いてきた民主主義に対する誤解が原因になっているといえます。つまり、日本人の間には民主主義を、共産主義や資本主義と同じような、『イズム』の一つであると考えている人が実に多いのです。欧米の人々は、民主主義というものは世界人権宣言でうたわれているように、基本的人権を守るためのシステムであると考えています。しかし、そうした国際理解が、日本には定着していないのです。そのことを前提にして、調査活動を開始したいと思います」
 
 そして、民主主義を否定している例として、日本語の本を例示した。
 ある学者が書いた「民主主義とは何なのか」という奇妙な新書本である。民主主義は血塗られた歴史であるということが何度も繰り返し語られている。確かにそこまでは納得できる。フランス革命以降の近代国家は、戦争を開始する理由として「民主主義を守るため」という言い訳を押し付けてきた歴史があるからだ。つまり、多くの為政者が「民主主義」を戦争の口実として利用してきたからである。

 しかし、この著者の理屈のおかしい点は、「民主主義は血塗られた歴史を持つので、陰謀そのものである。だから民主主義を否定すべきである」と結論づけている点である。
 
 この理屈だと、あらゆるシステムが否定されなければならない。交通システム、議会システム、教育システム、医療システムなど、どんなシステムでも血塗られた歴史を持たないものはない。交通事故をなくすために必死に戦っている全世界の交通警察官、あるいは事故防止の技術的工夫をしている数多くの自動車工。こうした人々は交通システムを改良するために戦っているのである。誰一人として交通システムが「多くの人々を殺しているので、陰謀そのものである。したがって交通システムを否定すべきである」などとは考えていない。
 
 おそらくこの本の著者が想定しているのは、「民主主義」という名目でとんでもない事態が出現し、あれよあれよという間に愚民政治による政治支配が実現する恐れなのだろう。
 
 スタッフ一同はこの本の論理に驚き、なぜそんな考え方があるのか理解できないままに話が進んだ。
 
 そのとき、インターンのビクトリア・ウーが本の表紙を指差して質問した。ビクトリア・ウーは台湾からスタンフォード大学に留学し政治学を学んでいる学生である。
 NEDはインターンの人気が高く競争率が高いので、かなり優秀な学生でないと仕事をさせてもらえない。彼は、その中でもとびきり優秀な頭脳の持ち主で、私が調べようとしている難しいテーマに対する的確な答えを、かなり短い時間で見つけ出す能力に優れていた。日本などではめったに見当たらないタイプの学生である。

「その本のタイトルは民主という漢字に続けて、主義という漢字が書かれています。中国語の主義という漢字は『イズム』という意味ですが、この本ではなぜデモクラシーを意味する民主のあとに、『主義』という言葉をつけているのですか。民主主義という日本語を英語に直すと、どうなるんですか」

 私は、最初、彼の質問の意味がわからなかった。
「じゃ、ビック君、デモクラシーのことを中国語では何と言うんですか」
「ミンジュです。漢字で書けば民主です」
「え、中国語ではデモクラシーのことを民主というの?民主主義じゃなかったんだ」

 この不思議な謎を解くために、ふたりはさっそく同じフェローである中国人の学者、何包鋼(ハー・バオガン)教授のオフィスに向かった。
「バオガンさん。中国ではデモクラシーのことを民主というそうですが、もし民主主義と書いたら中国ではどういう意味になるのですか?」

 何包鋼は、中国では非常に珍しい民主主義の研究家で、中国の農村地帯の政治参加のシステムと民主主義の関係を調査している。その方法もユニークで、農村で代表を選ぶ選挙システムを人民委員会の選出のような形ではなく、私たちが慣れている選挙システムのような形にし、結果的にうまくゆくことを実証しながら、地方政府に民主主義制度の導入を少しずつ納得させてゆくというものである。

 何教授は、ニコニコしながらこう答えた。
「中国ではデモクラシーのことを『民主』と訳しています。実は一九〇五年に日本語から訳された言葉なのです。翻訳をする際に、民主主義ではおかしい。デモクラシーは『主義』ではないという議論が起き、頭の部分の『民主』を定訳としたのです。このいきさつについては東大の確か、高柳さん、もしくは高瀬さんという先生が、論文に書いています。残念ながら原本はシンガポール大学に置いてあるのでお見せできませんが」

 まさか、シンガポールまで行くわけにもいかないので、米国議会図書館のアジア・ライブラリーに出向いてみた。ここには中国、韓国、日本の図書が収録されている。着任したばかりの日本人の司書の女性に手伝っていただいて、高柳、または高瀬という先生の論文を調べてみたが、とうとう見つからなかった。

 しかし、ビクトリアの思わぬ発見は、私たち日本人にとってはとても重要な本質的な問題である。
 おそらく、約百年前に、デモクラシーという言葉が日本語に訳されるときに、「民主主義」となった。それが朝鮮半島にはそのままの形で伝わった。しかし、中国人はこの漢字に疑問を感じた。そこで、「民主」と訳して「主義」による誤解を排除したというのが、真相だろう。

 何包鋼教授は、さらにこう付け加えた。
「日本には昔から四字熟語でないと落ち着かないという風習があるのです。だから、民主に主義をつけてしまったのです。中国にはそうした感覚がないので、日本の四字熟語を訳すときに、二字になったり三字になったりすることが、よくあります。しかし、民主主義という漢字は、中国ではどうしても受け入れることができない意味を持っています。つまりデモクラシーがイデオロギーであるということになってしまうからです」

 この言葉で、非常に明瞭になってきた。「民主主義とは何なのか」を書いた著者は、デモクラシーをイデオロギーの一種と勘違いしていたのだ。
 世界の人々がユートピアを夢見て、さまざまなイデオロギーを捜し求めてきた。共産主義が正しいのか。社会主義が正しいのか。数多くの人々が悩み、傷つき、現実を知って挫折してきた。さきほどの本の著者は民主主義が、それらの主義の一つだと思って、真剣に追い求め続けたのだろう。その結果、どの国の政治もあまりにもでたらめなことに失望し、民主主義を否定すべきだと考えるようになったのだろう。
 
 皆さんもそうだろう。もし民主主義が共産主義に対置するイデオロギーだとしたら、民主主義というものを選ぶだろうか。

 アメリカやインドなど民主主義がかなり進んでいるといわれる国も、貧困、不平等、犯罪など、あらゆる問題があふれている。

 民主主義が人類の理想としてのユートピア主義のひとつだとしたら、民主主義が実現している国々にどうしてこんなに不平等があるのだろうと考えるのは、自然なことではないか。

 民主主義は、そうした人々が勘違いしているような「イズム」ではない。そんなに甘いユートピアなどでは決してない。なぜなら社会を構成するシステムに過ぎないからだ。民主主義にイズムを求めても、単なるシステムである民主主義は何の返答もしてくれないのだ。民主主義は日々の戦いであり、最終目標であるということはありえないのである。

(c)2004菅原 秀/初出




posted by 菅原 秀 at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 民主主義とは何だろう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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