2007年05月01日

■封建主義からの脱出に苦しむネパール

ネパール情勢を読み解くときは、忘れてならないのは、隣国である中国、インド、ブータンの情勢がどうなっているかにも注目しなければならない。

 これらの国々とは人々の交流も多く、中国領からはチベット人が流入してくる。またインドとの国境地帯にはマデシと呼ばれるインド系ネパール人が、住民登録もされないまま大量に居住しており、その動向がネパールの政治を左右する。90年代にブータンからネパールに流入した難民の問題は、いまだに解決しておらず、ブータン人難民キャンプでは一触即発の状態が続いている。

 そうした中、チベット亡命政府の幹部であるツェテン・ノルブ氏から、SOSという件名が書かれた電子メールが届いた。05年1月21日のことである。これがネパールの悪夢の始まりの知らせだった。

 ツェテン氏は、カトマンズにあるダライ・ラマ法王ネパール事務所と、併設されているチベット難民救護事務所の責任者である。

 SOSとはただごとではないと思って読んでみると、
「ネパール政府により、両事務所の閉鎖を命じられ、継続が不可能になった。これからインドのダラムサラに向かい、法王庁幹部と対策を練る。各国のネパール大使館に対し、事務所閉鎖命令を解除するよう要請していただきたい」という内容であった。

▼チベット人にとってネパールは重要な移動拠点だ

 チベットの民主化活動家は、中国政府による長年にわたる弾圧を逃れて、世界各地に亡命している。インドのダラムサラは亡命したダライ・ラマ法王庁が置かれた亡命政権の拠点であり、1960年にネルー首相によって提供された町である。6000人のチベット人が居住し、亡命政権の各省庁と仏教大学、芸術研究所、図書館などがある静かな町である。

 チベット人に対する中国地方政府からの陰湿な弾圧は、現在でも続いている。北京政府は、チベット人に対する差別はまったくなくなり、漢人と共に平和裏に共存していると発表し続けている。ラサへの高速鉄道も開通し、中国国内や海外からの観光客が、美しいチベット高原を連日訪れている。NHKなどで放映されるチベット鉄道などの映像を見る限り、かつてのチベット人弾圧は終焉したかのようだ。

「今でも月に100人ぐらいのチベット人がヒマラヤを越えて逃げてきます。中には警備が手薄な極寒の冬季を選んで、逃げてくる人もいます。装備なしで何日もかけて歩いて来るのですから、足の指を失うなどの、ひどい凍傷を抱えた状態でネパールにたどり着きます。そのために難民救援事務所はなくてはならない機関なのです」

 ベマ・ギャルポ横浜桐蔭大学教授は、カトマンズにあるチベット人の拠点の重要性をこう説明する。

 もし北京政府が言うように、漢人とチベット人が平和裏に共存しているのなら、冬の最中に命がけでヒマラヤ越えをする人間なぞ、いるはずがない。

 真相は、こうした部分をしっかりと捉えることで見えてくる。

 さて、亡命政権からの事務所閉鎖命令の情報は世界中に発信され、今までネパール王政に開発援助を行ない続けていた欧米諸国の怒りの火を燃やすこととなった。欧米ではノーベル平和賞受賞者であるダライ・ラマの活動を否定するような行動に対して、極めて敏感なのである。

▼ギャネンドラ国王の勘違い

 中国に対する遠慮で、チベット問題に及び腰な日本政府も、今回だけはネパールの情報収集に動き始めたようだ。ギャネンドラが不穏な動きを見せた翌日に外務省報道官がネパール情勢に対する憂慮の発表を行うという早業を行ない、さらに翌年には塩崎外務副大臣をカトマンズに派遣している。

 ギャネンドラ国王は、今回のチベット人に対する仕打ちが、国際社会から大きな反発を受けるという予測はまったくしていなかったようだ。

 各国のNGOが連絡をとりながら、何とかネパール政府に二つの事務所の再開を説得しようと動き始めた矢先の2月1日、そのギャネンドラ国王は自分の言うことを聞かないデウバ首相を解任し、配下の国軍を率いて政権を掌握したのである。

 国王は、テレビを通じて布告を発し、既成政党とマオイストを厳しく非難した。そうした失政を行なった内閣のせいであるとし、自らが政権を掌握すると発表したのである。大義名分は、国軍によってテロリストを討伐することによって国家を安定させ、王の威信にかけて議会制民主主義を回復させるというものだった。

 この発表と同時に国王軍は、インターネットと電話線を切断した。その日からのネパールとの連絡はまったく不可能になった。

 私はカトマンズ・ポストをはじめ、ネパール現地の英文のニュースを入手しようと、連日アクセスを試みたが、インターネットの機能はずっと停止したままだった。ネパール国内の民主化活動家やブータン人難民の事務所に出したメールも届かなかった。

 通信手段を遮断してギャネンドラが行なったのは、閣僚たちの解任だけではなかった。報道機関に軍を派遣し、新聞の発行をすべて停止するように命じていたのである。

 しかし国民は誰もギャネンドラを支持しなかった。新聞は禁止措置を無視して、ゲリラ的に発行を継続していた。

 やっとネパールにインターネットが通じるようになったのは、2月の末頃だった。


(続く)                  (c)2007 菅原 秀
posted by 菅原 秀 at 12:57| Comment(0) | TrackBack(1) | 民主主義とは何だろう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/40505754

この記事へのトラックバック

ドイツでは加害を認めて過去と向き合う姿勢に誇りを持っている。
Excerpt: 岩波セミナールーム(東京・神保町)で開かれた「ドイツの二つの戦後処理を知る旅報告会 記憶の碑−和解の関係者たち」に行きました。 司会はJCJ国際部の伊藤力司さん(元共同通信外信部)、スライド..
Weblog: JCJ機関紙部ブログ
Tracked: 2007-06-06 15:37
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。