2014年06月05日

NSCを無視したケネディ4

★人種差別を嫌ったケネディ

裕福なケネディ家で金銭的な不自由を一切感じずに育ったジョン・ケネディだが、その心の中にはくぐまれていたのはアメリカのあちこちで、当たり前のようにまかり通っていた黒人差別への強い反発だった。太平洋戦争で敵の将兵に対しても、人間としての共感を覚えるすぐれた洞察力を持っていたジョンは、差別されていた黒人に対しても人間としての共感を持つ洞察力を備えていた。その力こそが、紛争当事国の相手を人間とし見る力が欠如している軍のエリートたちの机上の提案に対して、はっきりとフィルターをかけて判断する能力をはぐくむ原動力だったのである。

その力を生み出す原因となったのが、父親に対する愛憎がともなった、出自(しゅつじ)にまつわる考え方の違いであったことは言うまでもない。

★長兄ジョーの悲惨な空中爆発事故

当初父親ジョセフは、長男のジョーを後継ぎにして政界に進出させ、ゆくゆくは大統領にしようと考えていた。自分とまったく同じ名前のジョセフ・ケネディ・ジュニアという名前をつけていたことからもその意気込みがわかる。ジョーというのは呼称通称である。

しかしそのジョーは優秀な成績でハーバード大学を卒業したものの、ドイツとの戦争の最中に戦死してしまった。このときジョーが参加した戦いは実に無謀なものだった。若者のの命をむざむざと奪う。それが戦争というものである。決してあってはいけないことが、ジョーの身の上にも襲いかかったのである。

第二次大戦の末期にいたるにつれ、双方の陣営の兵器開発はどんどんエスカレートしていった。つまり極めて危険な大量破壊兵器を開発して、敵を一気に叩こうという考えを持つようになっていったのである。長男ジョンは、こうして大量破壊兵器開発競争がエスカレートする中で、犠牲になった一人である。

ドイツ軍はフランスを占領するとともに、フランスに敷設した軍事基地からロンドンに向けてV2と呼ばれる弾道ミサイルを発射し始めた。米英軍は、それに対抗するために、フランスのV2発射基地に対する空爆を開始した。しかしV2基地は堅固に建造されていたので、大きなダメージを与えることができなかった。

そこで米英空軍が協力して生み出した戦術が、無線操縦の爆撃機に大量の爆弾を搭載してフランスまで無線操縦するアンビル作戦だった。これは旧式の戦闘機からすべての機器や必要部品を取りはずしてトルペックス爆弾を11トン詰め込んで、フランスまで友機による無線操縦で誘導し、機長と副操縦士がフランス上空で起爆装置をセットするとともにパラシュートで脱出するというめちゃくちゃな作戦だった。
 
飛行機は編隊を組んでフランスまで飛ぶ。無線誘導される爆撃機には当時開発されたばかりのテレビモニターを搭載し、友機がその映像を見ながら無線で操縦してV2基地上空を目指す。爆撃機の乗組員の仕事は航空機を操縦することではなく、大量の爆弾の起爆装置をセットするとともにパラシュートで空中に脱出するという作業だった。

この作戦の機長に指名されたのが空軍で抜群の成績を上げていた29歳のジョー・ケネディ、そして副操縦士としてミルフォード・ウィリーが指名され、このふたりが搭乗するB17がV2のミサイル基地を爆撃することとなった。

1944年8月12日、二人のパイロットを載せ、無線装置以外のすべてを取りはずして、目いっぱい爆弾を詰め込んだ旧式爆撃機B17は、順調にフランス上空まで飛行した。ふたりは爆弾起爆装置をセットし、空中に脱出しようとした。

しかし、その瞬間、友機のテレビモニターの画像が消えてしまった。同時にB17は2度にわたって爆発し、跡形もなく消滅してしまった。爆撃波は友軍の編隊に強烈な衝撃を与えただけでなく、その破片は25キロ四方に飛散した。原因は不明である。

こうしてジョーは、フランス上空でその姿をあとかたもなく消滅させてしまったのである。

こうした悲惨な犠牲を出したにもかかわらず、その後も大量破壊兵器開発のエスカレートは続いている。第二次大戦が終了しのちもこの傾向は続き、米ソは地球を何個も消滅させることができるほどの量の核兵器を保有することになった。人類はいまだに過去の悲惨な数多いレッスンからきちんと学ぶことが出来ないままなのである。

★兄に代わって政治の道へ

悲しみの消えない父ジョセフは、その悲しみを打ち消すように、大統領の夢を次男のジョンに託すことにした。兄の身代わりとなって大統領への道を歩むことになったものの、優秀だった兄とは違い、ジョンは金持ちの社交界には興味がなく、あくまでも庶民の側に立って政治を行おうとしていた。

ジョン・ケネディは下院議員から上院議員へと選挙戦を戦う過程でも何度も「不正利得」のケネディ家のボンボンという揶揄を受け続けた。しかし彼には父親と違う夢があった。

ジョンには父親のようにアイルランド移民として卑下される屈辱を晴らそうという意志は少しもなかった。学生時代のジョンは、悪友たちと「マッカーズ・クラブ」(廃品回収業クラブ)を自称して、学校長の便器にかんしゃく玉をしかけるなどの悪さをすると同時に、差別されがちな黒人や貧乏学生たちと対等に付き合い、自分が金持ちであることはおくびにも出さなかった。

マッカーズというのはアイルランド人に多かった廃品業者に対する蔑称であり、父親とは違い、自らを卑下した呼び方をして平気だったのである。
 
アメリカでは選挙の際の戸別訪問が可能だ。ジョンはボストンの貧民街を一軒ずつ訪ね歩き、黒人や各国からの移民の子孫がどれだけ悲惨な生活をしているかということを実感していた。貧民街に詰め込まれて、毎日の食べ物にも事欠きながら、最低限度の生活にあえぐ黒人たち。ジョンは黒人たちのアパートを一軒一軒訪ね歩いては、彼らの悲惨さを自らの目に焼き付けていった。

大統領選挙のときもそうだった。父親はジョンを大統領にする夢のために、ジョンに悟られないように金持ちや上流階級のネットワークを使いながら、裏の選挙活動をしていたが、候補者であるジョン自身は、貧民街を訪ね歩いては握手をして歩くというどぶ板選挙を戦っていた。

しかし、このどぶ板選挙が大ヒットにつながることになったのである。

選挙戦も後半戦になったころ、公民権解放運動のマーチン・ルーサー・キング・ジュニアが、座り込みデモの最中に逮捕された。当時の刑務所では逮捕された黒人に対する悲惨なリンチは日常茶飯事だった。キング牧師が殺されるかも知れないというニュースが全米をかけめぐった。

ジョンはこの逮捕を憤り、すぐにキング夫人に電話して励ました。翌日、弟のロバートに頼んでキング牧師を有罪にした判事に電話をかけさせ、キング牧師を釈放させることに成功したのである。ロバートは、このときすでにワシントン議会の上院に設置された労働搾取問題小委員会の法律顧問の仕事をこなすほどの能力を有しており、地方の判事の決定を覆させるほどの、十分な法律知識を持っていたのである。

黒人の大部分はプロテスタントなので、プロテスタント系のニクソン候補を支持していた。しかし、この一件で多くの黒人グループがケネディ支持に鞍替えすることになったのである。全米の半数以上の黒人が、キング牧師を助けてくれたケネディの側につくことで、劣勢と言われていたケネディに勝利が訪れることになったのである。

ジョンは、大統領になってからも黒人の公民権獲得運動を支援し続けた。黒人を積極的に政府の重要ポストに採用し、白人しか雇わないことを明記している企業の求人は認めない大統領令を発令している。

大学への黒人の入学を拒否する州に対しては、軍隊を派遣し、入学を拒否した知事は連邦法に基づいて逮捕すると宣言するなど、黒人の側から見れば胸がすくような決定を次々に下しているのだ。

さらにジョンは、キング牧師が、ワシントンのリンカーン記念館前広場で行った有名な”I have a dream”の演説をしたその日の夕方にホワイトハウスの執務室に招き、「キング牧師、私も同じ夢を抱いているんです」と語り、連帯の意志を明確にしているのである。

戦争の悲惨さと、肌の色が違うからといって憎しみ合う愚かさ、そして庶民の気持ちも汲み取らずに勝手に国際紛争を力で解決しようとするエリートたち。ケネディは大統領の職責を通じて、そうした流れに一石を投じようという夢を抱いていたのである。


posted by 菅原 秀 at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 民主主義とは何だろう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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