電力会社の儲けを支えるための節電キャンペーンにだまされないためにも、この記事を読んでいただきたい。大停電が起きても、一日や二日我慢すればいいだけの話だ。
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◆大停電の中のNY行き
「2003年ニューヨーク大停電」の8月14日夜、ワシントンにいた妻と私は翌日にニューヨークを訪れればいいのかどうか、迷っていた。
ニューヨークの郊外、ロングアイランドに住む、日本国憲法の起草者として有名なベアテ・シロタさん(当時80)を訪ねる予定だったからだ。
14日夕方から、カナダから北東アメリカ全体の電話と携帯が通じなくなったので、確認しようがない。テレビでは14日深夜になっても、「列車も、航空機も、地下鉄も回復の見込みはない。町は全域停電で、電話もまだ回復していない」という放送を繰り返すだけだった。
ロングアイランドはニューヨーク市内とはいえ、東西に細長い巨大な島で、ベアテ・シロタさんが住むアマガンセットはその一番東端にある。ニューヨークから列車で三時間もかかる場所なのだ。
ベアテさんは10年前からこの村に小さな別荘を借りて、夏になるとご主人のジョセフ・ゴードンさん(当時83)、それに孫たちと一緒に数カ月をすごすことにしている。以前は貧乏な画家たち住んでいるだけの寒村だったが、今では避暑地となり、ポール・マッカートニーなどの芸能人が住む村として有名になり、お城のような別荘も建ち始めている。おかげで、どのホテルも一晩3万円程度と強気だ。心配したベアテさんが、知り合いの安い民宿を手配してくれていた。ベアテさんに負担をかけるわけにはいかない。
「こうなったら行ってみるしかない」
幸いなことだったが、旅行を安く上げようと思って、格安長距離バスのグレイハウンドを予約していた。列車と飛行機は止まっているが、バスなら確実にニューヨークにいける。そのあとはなんとかなるだろうと、あとのことは考えずに早朝、ワシントンを発った。
10時頃にバスがニューヨークに入ると、まさに異常な風景が広がっていた。摩天楼すべての窓が真暗で、中性子爆弾に直撃されたような世界だった。以前、グラビア入りの科学雑誌て読んだことがあるので、そう連想したのだが、人は殺すが建物は破壊しないという恐怖の爆弾だ。
しかし、地上に目を移すと路上には人があふれている。昨夜は一睡もできなかったらしく、ビルの前の階段などでうたたねしている人がいた。多くの人々は疲れきった顔つきで、おのおのの方向にぞろぞろ移動している。
◆大停電の直接の死者は一人だけだった
いまだに停電したままなので、街角のデリや、レストランは真っ暗だ。それでも人々があふれていて、昨日の売れ残りのサンドイッチと生ぬるいコーラをのどに流し込んでいる人がたくさんいた。新聞によると、多くの店が「半額セール」などで、徹夜組にサービスしたようだ。9・11の記憶を忘れずに人々は助け合っているようだ。今回の大停電での直接の死者はひとりしかおらず、14日夜の犯罪はゼロだったというのは、ニューヨーク人の誇りとして永遠に残るだろう。
人ごみをかき分けながら、ロングアイランド列車の始発駅、ペンシルバニア駅に向かった。生まれてはじめてのニューヨークで、人ごみの中で何度も何度も道を尋ねながら、歩いてゆくのだから容易ではない。妻は泣きそうになっている。
ペンシルバニア駅は全体が地下駅だ。構内に入ると出るか出ないかわからない列車を持つ人々でいっぱいで、ものすごいむし熱さだ。5分も経つと汗だらけだ。人づてにロングアイランド列車の入り口を探し当てると、入り口に大勢のガードマンがいてロープを張り、汗をかきながら乗客が入り込まないようにブロックしている。ガードマンたちに列車が出るのかどうか聞いてみたが、「一切わからない」との返事だけ。
やっとロングアイランド列車の職員を見つけ出すと、「ロングアイランドの入り口のジャマイカまでの臨時バスを運行するので、そこまで乗っていって欲しい。アマガンセット?そんな遠くまでいけるかどうかわからないけど、ジャマイカに行ってから考えてくれ」との返事。
職員から指定された場所に行くと、ロングアイランドの西の拠点、ジャマイカ近辺に住む人々が大勢並んで、バスに乗り込もうとしている。
やっとのことで乗り込んだ人々は、みな疲れきった表情だった。汗だらけのシャツで、座席に座れないものは床に座り込んでいる。乗客は次々に携帯電話を取り出して自宅に電話をしようとしているが、通じなくてあきらめの表情だ。
通常は市内から30分程度の距離だという。しかし、マンハッタンまで家族を迎えに来た人たちの車のせいだろう、すごい渋滞だ。歩いてマンハッタンを脱出した家族を迎えに来たものの、会えずに泣く泣く手ぶらで帰ってゆく車もたくさんあったに違いない。
バスがジャマイカの駅について、人ごみの中でアナウンスをじっと待っていると、親切な駅員がこう案内してくれた。
「幸いなことに、ディーゼル列車を手配できますので、バビロンまで運行します。そのあと、次のディーゼルを手配できれば、そこから先も運行します。ディーゼル列車の都合がつかなかったら、バスを運行します。え、アマガンセット?何とかなるでしょう。とにかく乗ってみてください。今日は全員無料ですよ」
バビロンというのが果たしてどこなのかもわからず、私たちは、止まったり運行したりする列車とバスを乗り継いで、はるか東の端のアマガンセットまで、12時間かけてたどりついた。
◆元気に迎えてくれたベアテさん
途中でやっと携帯が通じるようになった。その間、何度通話を試みたことか。
ベアテさんは、とても心配していた。
「まあ、まさかいらっしゃらないと思ったわ。今日はニューヨークから誰も来れないようなので、民宿もキャンセルしちゃったのよ。でも、安心なさい。うちの孫たちもニューヨークから来ることができないので、今日は部屋が空いているの。そこにお泊まりなさい。まあ、アメリカ人の孫たちが来れないのに、外国人のあなた方が訪ねてくるなんて、すごいわね。とんでもない災難だったわね」
と流暢な日本語の会話で応対してくれた。
かくして、私たちはベアテさんとジョセフさんの奇麗な小さな別荘に泊めていただくはめになった。
ジョセフさんは私たちを歓迎し、軍隊時代に日本で覚えたという「リンゴの唄」を披露してくださった。日本語の歌詞を全部覚えている素晴らしい記憶の持ち主だった。
ベアテさんの数奇な運命については彼女の自著『1945年のクリスマス』(柏書房)をご一読いただきたい。
80歳とは思われないはつらつしたベアテさんは、まぎれもない私たちの憲法起草に加わり、特に、日本の女性解放に大きな足跡を残した人その人だ。彼女がGHQの法律担当者とやりあいながら私たちに与えてくれた第24条は、家庭に縛られていた戦前の日本女性を社会に進出させるきっかけを作った。
「日本で講演すると、よく日本国憲法は押しつけだと言われます。私はこう反論します。米国憲法にもない良いものがたくさん日本国憲法に盛り込まれています。自分たちですら欲しいものを人に差し上げることを押しつけというのでしょうかと」
アマガンセットの美しい浜辺を散歩しながら、ベアテさんはアフガニスタンとイラクの女性に思いをはせていることを熱心に語った。
「アフガニスタンとイラクの女性の立場は、終戦直後の日本女性の立場とまったく同じです。日本では土井たか子さんのような女性の党首もいますし、女性のニュースキャスターが連日テレビに登場しています。日本の女性が、直接その事実を伝えてくれたら、どれだけの励みになることでしょう」
ベアテさんは、私たちに会った直後に日本を訪問し、青年劇場による「真珠の首飾り」の全国公演に同行している。その際にアフガニスタンとイラクの女性に手を差し伸べるように、各地で日本女性に呼びかけている。
反アメリカ感情が広がっている今日、アメリカ人が女性に手を差し伸べようとしても、現地のかたくなな男たちによって「アメリカの押し付けだ」として拒否されるかも知れない。当然の権利を中東の女性が手にするために、ベアテさんの経験に基づいたアイデアを生かすためにも、私たちは支援の輪を広げていかなければならない。
別荘で語るベアテさん

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さて翌日、私たちは開通したロングアイランド鉄道で再びニューヨーク市内に戻った。街は平常を取りもどしていた。停電の影響であちこちにゴミの山が放置されていたのにも関わらず、どの商店も営業をしており、店々で売られている清涼飲料水も、いつもと同じく冷えていた。新聞には大停電の原因について、はっきりしないと書かれていたと同時に、徹夜組や家まで歩いて帰った人々の談話が写真入でたくさん出ていた。さらに被害者を助けたり、お金のない人には無料で食料を食べさせた商店やレストラン談や、見ず知らずの疲れきった人を迎えの車に乗せた話、病院の患者を安全な場所に運んだ話などの美談もあふれていた。大変な二日間を過ごしたニューヨークの人々は、明るい表情で、忙しくそれぞれの仕事を再開していた。
【初出】『もうひとつの国際貢献』(リベルタ出版)2003年