2005年03月26日

星の王子さまの涙(2)

▼愛の重圧を知った涙

星の王子さまが地球を訪ねたとき、たどりついたのは、幸か不幸か砂漠地帯だった。人間を探して長いこと歩いてゆくと、バラが咲き誇っている庭にたどり着いた。

ここで王子さまは大きな発見をすることになる。自分の星にいるバラの花は、たった一本だが、ここにはそっくりそのままのバラの花が五千本もあったのだ。
「もし、あの花が、このありさまを見たら、さぞこまるだろう・・・やたらせきをして、ひとに笑われまいと、死んだふりをするだろう。そしたら、ぼくは、あの花をかいほうするふりをしなければならなくなるだろう。だって、そうしなかったら、ぼくをひどいめにあわそうと思って、ほんとうに死んでしまうだろう・・・」

さらに王子さまは、こうも考えた。
「ぼくは、この世に、たった一つという、めずらしい花を持ってるつもりだった。ところが、じつは、あたりまえのバラの花を、一つ持ってるきりだった。あれと、ひざの高さしかない三つの火山――火山も一つは、どうかすると、いつまでも火をふかないかもしれないぼくはこれじゃ、えらい王さまなんかになれようがない・・・」

そういうと、王子さまは、草の上につっぷして泣きだしたのである。
つまり、自分がひとつだけだと思っていた大事なものとそっくりそのままのものが、あまりにもたくさんあって驚いたのである。
通り魔殺人という犯罪を犯す人々には、大衆というものが個人の集団であるということが見えないらしい、「むしゃくしゃしたのでやった」などというわけのわからない動機が報道されると、人々はやりきれない思いをする。最近は、通り魔殺人の病原菌が大国の為政者たちにも感染しているようだ。
サン=テグジュペリは、ひとつの大事なものがたくさん集まればどうなるかということを、庭に咲くたくさんのバラの花でたくみに解説している。

王子さまはなぜ泣いたのだろうか。 

いままでは、小さな自分の星では、一つのバラを大事なものと考えていれば事足りていた。しかし、地球という大きな星で、五千本もの大事なものを同じように愛さなければならないという、とほうもない重圧を知り、「ぼくはこれじゃ、えらい王さまなんかになれようがない・・・」と泣き出したのだ。
では、えらい王さまになるためには、どうしたらいいのであろうか。

▼うわばみの絵の謎

「星の王子さま」はうわばみがゾウを飲み込む絵から、話が始まっている。この逸話に関して、文学の世界では「ゾウはフランスを表している。そのフランスをドイツといううわばみが飲み込もうとしていることを示している」などの解釈があとを絶たない。もちろん、そうした解釈をしてもサン=テグジュペリは怒りはしないだろうが、そうした解釈では、星の王子さまがなぜうわばみの絵の中身が見えるだけでなく、箱の中のヒツジも見えるのだろうか、ということがさっぱりわからない。

子どもの頃に初めて「星の王子さま」に接した私は、このうわばみの絵をなぜ王子さまがわかるのかが理解できず、悩んでしまった。いくらあの茶色い、うわばみの絵を眺めてみても、その中身が目に浮かんでこなかったからだ。

そして、そのしくみは描いた人の心に住んでいるのだということを知ったのは、だいぶあとになって、ある児童画の研究家に出会ってからのことだった。

子どもの絵の中に描かれている心の表象を正確に読み取って、子どもの絵は脳の縮図であると発表した小学校教員がいた。盛岡県雫石町の浅利篤さんである。生前の浅利さんは日本児童画研究会を組織し、全国の仲間とともに悪しき美術教育と戦っていた。

この悪しき美術教育というのは、今でも日本の大部分の初等教育をおおっている、間違った写実画教育のことである。つまり子どもの絵をまったく理解できない小学校教師たちが、子どもの創造性の芽を摘み取ってしまっている教育との戦いであった。

浅利さんが盛岡市内の小学校の校長を勤めていたときの話だ。小学校二年生の女児が泣きながら校長室に駆け込んできた。

「校長せんせ。お屋根にひさしが、なくってもいいよね」

浅利校長は、とっさにこの子が描いた絵のことだと検討がついたそうだ。
「おお、ひさしはなくってもいいぞ。だってお日さまが照っているんだろ?」
女児は、この言葉を聞いて泣きやみ、喜び勇んで教室に戻っていった。

真相はこうだ。女児は図工の時間に画用紙に家と太陽とチューリップの風景を描いた。それを見た担任の先生が、「このおうちには、ひさしがないわね。雨が降ったら壁が濡れてしまうでしょ」と注意したのだ。

女児は憤懣やるかたなかった。「太陽が出ているのだから、壁は濡れない」と言いたかったのだろうが、低学年児が教師に向かってそうした抗弁の出来ようはずがない。日頃、自分たちの絵を見てほめてくれる校長ならわかってくれると思って、教室を飛び出して校長先生に直訴したのである。

浅利校長は、この子の担任を呼び出してきついお灸をすえている。

「君は、ウサギをこどもたちに見せて、見たとおりに描くように指導している。『あら、目を黒く書いてるわね。よく見てごらんなさい。目は赤よ』『ウサギの毛は雪のように真っ白よ、ほらさわってごらんなさい。ちゃんと白く描くのよ』。絵というものは、自分で思いついた自分の世界を紙の上に展開するものだ。ウサギが白かろうと、紫だろうと、何色で描くかは子どもたちの自由だ。それが創造というものだ。君の教育は、絵画教育ではなく、理科教育だ。ところで君、太陽の色は何色かね」
「赤です」
「ははーん。太陽を見たことがないらしい。これじゃ、理科教育のほうもあやしいな。校庭に出て、太陽の色をじっと観察してから、次の授業を開始しなさい」


▼心の投影を覗き込む

浅利さんに、絵は心の世界の投影であるということを教えてもらった私は、こうしてうわばみの絵の謎を解くことができたのである。

つまり、サン=テグジュペリは、絵というものは描いた本人の世界であって、王子さまには、その本人の世界を覗き込む力があったということをいいたかったのである。ゾウをフランスだとかドイツだとか解釈するのは、解釈する本人の心の世界である。そうした想像も自由であるが、「星の王子さま」の逸話を通じて、見えない世界があるということを自覚することのほうが先決ではないだろうか。

「星の王子さま」のはしがきでサン=テグジュペリは、この本を、レオン・ウォルトに捧げている。サン=テグジュペリより二二歳年上のユダヤ人で、当時ナチスの迫害から逃れるためにフランスの山岳地帯にひっそりと身を隠していた男性である。レオン・ウォルトとは消息不明になる直前まで手紙のやりとりをし、自分の書物の批評をしてもらっていた仲であった。

わたしは、この本を、あるおとなの人にささげたが、子どもたちには、すまないと思う。でも、それには、ちゃんとした言いわけがある。そのおとなの人は、わたしにとって、第一の親友だからである。もう一つ、言いわけがある。そのおとなの人は、子どもの本でも、なんでも、わかる人だからである。いや、もう一つ言いわけがある。そのおとなの人は、いまフランスに住んでいて、ひもじい思いや、寒い思いをしている人だからである。どうしてもなぐさめなければならない人だからである。こんな言いわけをしても、まだ、たりないなら、そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたいと思う。おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。そこで、わたしは、わたしの献辞を、こう書きあらためる。 子どもだったころのレオン・ウェルトに 「星の王子さま オリジナル版」(岩波書店)



(c)2005 加筆 菅原 秀 初出 月刊「公評」04年12月号 

posted by 菅原 秀 at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 涙は止まるか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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