2005年02月26日

星の王子さまの涙(1)

▼星の王子さまの時代

星の王子さまは、作者サン=テグジュペリとの会話の中で二度涙を見せている。
最初は、バラを食うヒツジの話をしたあと。そして、二度目はバラの花が咲き誇っている生垣を見たあとでだ。

星の王子さまはあのときにヘビにかまれて死んでしまったが、その魂は自分の星に帰っていったに違いない。そして、今度生まれ変わってふたたび地球を訪ねてきたとき、彼は驚くに違いない。

というのは、あの頃よりも、彼が心配していたバオバブの木が、当時の三本どころか、あちこちに生い茂っており、バラを喰うヒツジが世界中をわがもの顔で闊歩しているからだ。

そのことを考える前に、サン=テグジュペリが「星の王子さま」を書かざるを得なかった時代背景をふりかえってみよう。

ふつう外国人の名前は、サン・テグジュペリのように書かれる。内藤濯(あろう)さんの秀逸な訳で日本語版が出版された一九五三年の初版本には、サン・テグジュペリと書かれている。

しかし、この作者の名前はSaint-Exupéryなので、TとEの間がリエゾンされることから、その後、中点(なかてん)を使うことをさけて=を使うようになったようだ。

サン・テグジュペリは空軍のバイロットであっただけでなく、ジャーナリストとしてすぐれた記事を書いている。サン・テグジュペリの生き方は、多くのジャーナリストに影響を与えている。

日本にも影響を受けている人がたくさんいるわけだが、最近「星の王子さまの天空ジャーナリズム論」という副題で「地球メディア社会」(リベルタ出版)を書いた元共同通信記者、山本武信さんの解説から、「星の王子さま」が書かれた時代背景を引用させていただく。
 
戦争が好きな米国は、本土への攻撃を受けたことがない。唯一の例外が2001年の米中枢同時テロだった。だから、国中が震撼した。これに対しヨーロッパにとって、戦争とはつねに本土決戦だった。
二つの世界大戦の谷問で生き、そして死んだサン=テグジュペリの思想と行動はこうした極限状況を抜きにしては語れない。サン=テグジユペリは危急存亡の中で人間の真のあり方を追求し、現下の世界危機にどこまでも責任を持とうとした行動の人である。人問の生存や営みを脅かすものに対しては、ペンや飛行機を武器にして容赦なく立ち向かった。

1942年に出版した「戦う操縦士」は米国でベストセラーになり、フランスでも発刊された。同書はヒトラーの「わが闘争」への民主主義者の反論だった。その中に「ヒトラーは愚者である」という一文があった。これが検閲に引っかかって騒ぎになった。一九四三年にはドイツ語版が発禁処分になっている。「星の王子さま」が世に出たのは、この年である。『地球メディア社会』(リベルタ出版)207ページ

サン=テグジュペリは1940年から三年間アメリカに滞在している。当初はアメリカに祖国の窮状を訴えるために四カ月滞在する予定だったが、祖国に新ナチスのビシー政権が成立したので滞在期間を引き延ばして、一時的にアメリカに亡命せざるを得なかったようだ。

しかし、このアメリカもなかなか好きになれなかった。英語を習得しようとせず、亡命したにもかかわらず、簡単な会話すら行おうとしなかった。なぜ英語を話そうとしないのかと友人に聞かれると、次のような愉快な弁明をしている。
「コーヒーが一杯欲しいときには、カフェテリアのかわいいウェィトレスのところに行って、カツプと、受け皿と、スプーンと、コーヒーと、クリームと、砂糖とを身ぶりで示せばいい。そうすれば彼女はにっこりする。わざわざ英語の勉強に行って、その徴笑を失ってしまう理由がどこにあるのかね」「戦う操縦士」(みすず書房)
 
さてサン=テグジュペリが「星の王子さま」を書いたのは、このアメリカでの滞在期間中だった。サン=テグジュペリは、食堂の紙ナプキンに絵を描く癖があった。いつも描くのは、ガウンを着た王子さまの絵だった。本人にいわせると、モーツアルトの子ども時代のイメージがいつも心に浮かんでくるということだ。
 
ニューヨークのある編集者が、その絵のことを尋ねた。
「いつも心に浮かぶ、ただの小さな坊やさ」

その答えに興味を持った編集者が、その坊やをテーマに絵本を作ったらどうかという提案をした。数々の書物で賞をとり、フランスでは道を歩けばサインをせがまれるような有名人であったサン=テグジュペリは、絵本を書かないかという提案に興味を持ったようである。

といっても、初めての試みなので、何をどう書いていいかがわからなかった。

そうこうしているうちに、ナチスがロシアを攻略し、さらに北アフリカに戦線を進めた。サン=テグジュペリは、今まで出版し続けてきてシリアスなドキュメンタリーとはまったく違う形で、今、人類が考えなければならないことを絵本の形にすることを決意したようだ。


▼最初の涙

さて、王子さまが最初に泣いた場面を思い出してみよう。
 
砂漠に墜落した飛行機の修理に没頭しているサン=テグジュペリに、王子さまは次々に質問を浴びせかけた。ボルトとカナヅチで壊れた部分をぶっ飛ばそうと考えていたので、王子さまの質問にまともに答えなかった。

王子さまは言った。
「だのに、きみは、ほんとにそう思ってるんだね? 花ってものは・・・」
 サン=テグジュペリはあわてて言い訳をした。
「ちがうよ、ちがうよ、ぼく、なんとも思ってやしないよ。でたらめに返事したんだ。とてもだいじなことが、頭にひっかかってるんでね」
 
王子さまは、あっけにとられてサン=テグジュペリの顔を見て言う。
「なに、だいじなことって?」

そして王子さまは、飛行機の修理に没頭しているサン=テグジュペリの態度に腹を立てる。
「ぼくの知ってるある星に、赤黒っていう先生がいてね、その先生、花のにおいなんか、吸ったこともないし、星をながめたこともない。だあれも愛したことがなくて、していることといったら、寄せ算ばかりだ。そして日がな一日、きみみたいに、いそがしい、いそがしい、と口ぐせにいいながら、いばりくさってるんだ」
 
王子さまはサン=テグジュペリを赤星先生になぞらえた上で、大事なこととはなんであるかを語る。
 「だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花がすきだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。そして、〈ぼくのすきな花が、どこかにある〉と思っているんだ。それで、ヒツジが花をくうのは、その人の星という星が、とつぜん消えてなくなるようなものなんだけど、それもきみは、たいしたことじゃないっていうんだ」

そこまで話した王子さまは、続きを話せなくなり、わっと泣き出してしまうのだ。

文学の世界では、この一輪のバラの花は、サン=テグジュペリが愛する妻コンスエロか、あるいは祖国フランスのことだと解釈されているようだ。

しかし、この解釈はどちらも間違いだろう。というのは、ナチスに占領されていたフランスから亡命せざるを得なかったサン=テグジュペリにとっては、人類を抑圧する邪悪な力こそが、戦わなければならない相手であり、抑圧されている人々のひとりひとりこそが大事な人々であったからだ。その行動原理は、「人間の大地」をはじめとする一連の書物の中に何度も出てきているからだ。

山本武信さんはこう書いている。

責任という思想を理解せずに「人問の大地」や「星の王子さま」を感傷的物語として読むのは不適切である。責任という考え方がなかったら、サン=テグジュペリはファシズムと戦わなかっただろうし、両作品もこういう形では結晶しなかったに違いない。「人間の大地」や「星の王子さま」は大空を飛ぶことに夢中な作家が、占領された故郷を離れ、人問と生活を踏みにじる不条理な戦争のただ中に身を置いたからこそ生まれた傑作である。『地球メディア社会』208ページ


▼集団と個人、そして責任

近代戦が生まれて以来、安全圏から見えない敵を攻撃するという悪習が為政者たちにこびりついてしまった。ピンポイント爆撃を行っているので市民を巻きぞえにする可能性はほとんどない、と記者会見で述べながら、相手国の市民を殺戮し続けている。一発でも誤爆があれば、まさに無実な人に対する「殺人」である。そうした事態が発生すれば、直ちに戦争を停止して、「殺人事件」がなぜ起きたかの捜査をし、犯人を逮捕するのが当然だ。しかし、世の中はそうは動いていない。戦争だから仕方がないというナンセンスを口実に、国家の面子をたもとうとする。
 
たとえ為政者たちがそうであっても、われわれは、戦争だから仕方がないという口実を許してはいけないのだ。

サン=テグジュペリの言う「責任」とは、こうした個々の人間が自由に生きる権利を保障されなければならないということである。

サン=テグジュペリは「戦う操縦士」の中で、次のように書き、この問題を深く思索している。

不正義の牢獄からただひとりの人間を救出するために千人が死ぬということがなにゆえ正当なのか? わたしたちはまだその理由をおぼえてはいるが、徐々に忘れはじめている。しかしながら、わたしたちをきわめて明確に蟻塚から区別するこの原作のなかにこそ、なによりもまずわたしたちの偉大さが存するのである。『戦う操縦士』(みすず書房)

「戦う操縦士」を書く以前から、サン=テグジュペリは「集団」と「個人」と「自由」の関係について考え続け、しかも行動している。
 
不時着した砂漠でサン=テグジュペリは、マウル族に囚われて奴隷にされていたバルクという名の年老いたイスラム教徒を、大金をはたいて買い戻している。そして故郷に帰れるように20フランを与えている。さて、その元奴隷は、やっと自分の自由を得て、何をしただろうか?

元奴隷のこの男は、町に出ていって、自分が自由になったことを確認するためにぶらぶら歩いた。奴隷としてふたたび捕まらないことを知り、徐々に自由の身であることを確認していった。そのことを確信するようになると、町にいる貧民の子供たちに目がとまった。そこで、信じられない行動を起こしたのだ。近所の店に入って大勢の子どもたちのために大量に安物のおもちゃを買ってきて、惜しげもなく分け与えたのである。まわりの「馬鹿な奴だ。金を大事にしろ」と止める声も聞かずに。 

サン=テグジュペリは、この元奴隷のこの行動を見て、こう書き記している。

彼は自由だったから、基本的な富は、愛される権利も、北なり南なりに向かって歩く権利も、労働によってパンを得る権利も所有していた。いったい、そんな金銭がなにになるというのか……。だが他方、バルクは、ひとが深い飢えを感じるように、人間たちのなかで、人間たちに結ばれた人間であることへの要講を感じていたのだ。(中略)アラブ人の露店商たちも、往来の通行人たちも、すべてが彼のうちなる自由人を尊重し、彼とともに平等に彼らの太陽を頒ち合いはしたが、だれひとりとして、彼を必要としているという態度は示してくれなかった。彼は自由だった。限りなく、もはやこの地上に自分の重みを感じないほどまでに、彼には、歩みの枷となるかの人間関係という重み、かの涙、かの離別、かの非難、かの歓び、ひとつの身ぶりをするたびに、ひとりの人間がいとおしんだり、引き裂いたりすることになるいっさいのもの、おのれを他の人間に結びつけ、おのれをずっしりと重いものにしてくれるかの無数の絆が欠けていたのだ。だが、バルクのうえには、すでに子どもたちの無数の期待が重くかかっていたのである……。(中略)バルクは、かつて羊たちのなかに埋もれていたように、子どもたちの潮のなかにつかり、世界のなかに最初の航跡をしるしながらすすみ出た。明日、彼はおのれの家族の貧困のなかに立ち戻ってゆくだろう。彼の老いた腕がおそらくは養いうる以上の生命に責任を持つだろう。しかし彼は、すでにここで、おのれの真の重みをどっしりと持っていたのだ」「人間の大地」(みすず書房)
 
サン=テグジュペリにとって大事な存在とは、バルクのような人であり、子どもたちであり、そして世界中の個性を持つ人々であった。もちろん文学者たちが論争している妻コンスエロも、祖国フランスの人々も大事な存在であった。いや、アメリカや敵国ドイツの人々も大事な存在なのである。
 
サン=テグジュペリは、1942年に「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」と「カナダ・ド・モントレアル」に意見広告を出している。当時のフランスは、ナチスがフランスの裏庭である北アフリカにも進撃を開始し始めたにもかかわらず、ナチスに迎合する政党と、ナチスを打倒しようとする政党との議論ばかりが続けられていた。そのことで祖国が分裂することへの危機感からだった。
 
「あらゆる地域に住むフランス人男性への公開書簡」と題したこの意見広告で、サン=テグジュペリは、フランスの男性は今すぐ政争をやめて和解し、祖国フランスを守るために一致して戦おう、と呼びかけている。
 
アメリカとカナダのメディアに掲載された意見広告へのフランス人からの反応はにぶかったようだ。サン=テグジュペリは1944年、自分が呼びかけた言葉に従ってフランスに戻り、40歳をすでに過ぎているにもかかわらず、フランス空軍の偵察隊に復帰した。そして、コルシカ島からフランスに向けた偵察飛行に出撃し、消息不明となったのである。
  
サン=テグジュペリは、大事なものを守るという責任を果たすために、なんとしてもナチスというバオバブの木を絶やさなければならないと考えていたのだ。

(2)に続く

(c)2005 加筆 菅原 秀 初出 月刊「公評」04年12月号 



posted by 菅原 秀 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 涙は止まるか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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