2011年02月20日

エーミールの涙(5)ナチズムを「犯罪」とするドイツ基本法

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私たちは、多数決や選挙が民主主義の有効な手段だと習ってきている。しかしこの多数決や選挙には大きな落とし穴がある。ヒトラーは多数決によってナチズムの政策を作り上げ、多数決によってナチスの総裁に選ばれ、選挙の力によってドイツの総統に就任したのである。

戦後、西ドイツ政府は自分たちが作った暫定憲法(ドイツ連邦共和国基本法)の中にナチズムを標榜する自由を制限する条項を盛り込んだのである。この概念は「戦う民主主義」と呼ばれている。

もちろん日本国憲法には「戦う民主主義」のような表現の自由を制約する条項は盛り込まれていない。しかし多数決が正しいとされ、少数派を抑圧する口実として利用される風潮が多いのは事実だ。定型的な例が学校や職場で多発しているいじめだ。いじめる側が多数派だと、いじめられる側には生きてゆく場所がなくなってしまう。

国会もそうである。民主的な熟議を保障するために、調査会や委員会などさまざまな仕組みが整備されているのにもかかわらず、数多い法案の成立をあせる議員と職員は、熟議による問題点の検討よりも国会のスケジュールを優先し、多数決によって一気に法案を通そうとする。

民主主義システムには少数派の声も受け入れる力がある。「12人の怒れる男」がそのひとつのモデルである。少数意見を熟議しない限り、民主主義はナチスレベルにとどまらざるを得ないのである。

なぜドイツに「戦う民主主義」という概念が生まれたのか。考えてみよう

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▼ アデナウアーとドイツ連邦基本法

1949年、西ドイツでの初めてのドイツ連邦議会選挙が行われた結果、コンラート・アデナウアーは連邦議員に当選し、キリスト教民主党(CDU)の幹事長に就任する。選挙後初の議会で行われた首班指名の投票で、アデナウアーは社会民主党(SDP)のクルト・シューマッハーを抑えて、首相となった。以後、老齢に関わらず、アデナウアーは14年間にわたって西ドイツ首相として、経済復興と外交の復活の舵取り役を行なう立場になった。

さて、アデナウアーが首相になる直前のことだが、連合国の管理化で、将来のドイツに重大な決定を及ぼす作業が行われていた。ドイツ連邦共和国基本法の成立である。

戦後のドイツは英米仏ソの4カ国によって分割統治されていた。しかしドイツ全体の国家体制を規定する憲法が、ヒットラーの第三帝国の崩壊とともに消滅していたことから、お互いの意見が一致せず、混乱が続いていた。 

そこで1948年、英米仏、それにベネルクス3国が加わり、ソ連占領地区を除いた地域に適用するための憲法を作ることが同意された。専門委員会が草案を作り、ドイツの各共和国議会で承認された結果、49年5月に公布されることとなった。実質的には西ドイツ憲法であるが、ドイツが統一されるまでの暫定的な憲法にしようという申し合わせのもと、ドイツ連邦共和国基本法という名称で呼ばれることになった。東西ドイツが統一したのちも、基本法の名称を憲法と変更する手続きは行われておらず、現在でもドイツ連邦共和国基本法と呼ばれ続けている。

かつてナチスの台頭を許したことへの反省から、このドイツ連邦共和国基本法には、ドイツに再び独裁政権が生まれないように、いくつかの工夫がなされている。

その代表的なものが「戦う民主主義」という考え方の導入である。つまり言論や結社の自由があるのを利用して、民主主義そのものを否定する言論を流布させて新しい独裁国家を作る者が現れることを予防するために、民主主義体制をくつがえす自由に対しては制限を加えることとしたのである。

そのために、国民に対して憲法(基本法)を擁護することを義務付け、民主主義をくつがえす可能性のある言論や結社に関連した行動を制限することにしたのである。 

具体的には連邦裁判所によって裁定されるのであるが、この基本法のもとでは、ヒトラーをたたえるときに片手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と叫ぶ敬礼をすることや、ヒトラーの著書である『我が闘争』を始めとするナチス礼賛の印刷物の発行は一切禁止されている。もちろんネオ・ナチなどの政治結社を作ることも禁止されている。 

アデナウアーを首班とする戦後初の議会政治は、こうしてナチスの遺産を否定するというドイツ連邦共和国基本法による露払いが行われた後に出発しているのである。

▼過激な戦後処理を回避したアデナウアー保守政治

フランスとの和解を求めたことでも理解できる通り、(「はじめてドイツ人をゆるしたフランス人女性」参照http://p.tl/OIcA)アデナウアーはキリスト教の理念に基づいた平和を求める人物であったものの、左翼的な考え方はなかった。あくまでも中道路線を採る調整型の政治家であり、比較的保守的な政治姿勢を貫いている。戦後のドイツにおいて、この保守的な政治家が最初の舵取りをしたということはドイツにとっても幸いなことだった。 

アデナウアー時代の内閣は、キリスト教民主同盟(CDU)、自由民主党(FDP)それにキリスト教社会同盟(CSU)による連立内閣だった。 

ドイツ基本法に基づいてナチスの考え方は否定されるようになったものの、「七月二十日事件」に対する評価は一様ではなかった。スイスのマウンテンハウスでイレーヌの心を開くきっかけをつくったのが、この「七月二十日事件」に加わって処刑されたアダム・フォン・トロットという外交官の夫人だったことを覚えておられるだろう。 

新生ドイツにとって難しかったのが、国防を担う軍隊をどう再建するかという問題であった。全世界を戦火に引きずり込んだ旧ドイツ軍のマイナスイメージを払拭するのは至難の業である。 

アデナウアーは「七月二十日事件」に関わった軍人たちを復権させることで、旧ドイツ軍の中にも立派な軍人がいたというプラスのイメージを作り出そうと考えた。

この事件に関しては、「ドイツ人の良心」として評価する声がある一方、上官の命令にそむいて外国と通じた売国奴による犯罪だという考えも根強かった。そこで、アデナウアーは政府主導による復権を行なうことで世論を押さえ、軍の中にも良心があったのだということを内外に示そうと考えたのである。 

アデナウアー政府は1951年に声明を発表し、「七月二十日事件」はドイツを危機から救おうとする愛国的軍人と外交官による最終手段としての戦いだったと認定し、処刑された200人に上る反逆者の名誉を回復すると宣言したのである。 

旧軍のエリートたちは、ヒトラーに協力したという過去を持つ弱みを持っていた。アデナウアーは「七月二十日事件」を踏み絵とすることで、シビリアンコントロールの効いた新しいドイツ軍を創設する作業に、旧軍関係者も協力させようと考えたのである。 

この思惑は成功し、1956年の新生ドイツ軍の創出にあたって、入念な思想検査が義務付けられ、面接では「七月二十日事件」をはじめとする反ナチス運動に対する考え方も問われるようになり、軍人になるためにはドイツの過去の犯罪を学習することが義務づけられた。それによって近隣諸国がドイツに抱いていた再軍備の恐れを軽減させることに成功したのである。 

▼アデナウアーの妥協とユダヤ人補償

次にアデナウアー政府が行なわなければならなかったのは、ユダヤ人団体との補償交渉である。 

アデナウアーの連立内閣内部では、600万人以上ともいわれるユダヤ人の抹殺に対する贖罪の意識は乏しかった。そのため、アデナウアーも演説の端々で「ナチス時代の忌まわしい犯罪」「過去のドイツによる遺憾な侵略行為」などの発言をしていたものの、ユダヤ人に対する具体的な補償の問題に取り組むことを先送りにしていた。 

これに対して、痛烈な非難を浴びせたのが野党の社会民主党(SPD)だった。首班指名でアデナウアーに負けたSPDのシューマッハー党首は、ユダヤ人に対する犯罪をきっちりと認識しなければならないとして、アデナウアーにイスラエルとの補償交渉を開始するように迫ったのである。 

閣僚たちは、財政不足とアラブ諸国や国内の右派の反発を理由に、シューマッハーの提言を拒否すべきであると考えた。しかしアデナウアーは、シューマッハーの意見を支持すると主張し、連立内閣の意見は二つに分かれた。 

議会での討議の結果、社会民主党がアデナウアー派を全面的に支持したことから、イスラエルおよび国外に住居を持つユダヤ人も含め、総額34億5千万マルクを賠償するルクセンブルク協定が1952年に成立することとなった。さらに1953年には連邦補償法が成立し、ナチスの被害を受けた内外の人々を対象とする補償が開始されることとなる。 

しかし、ナチスによって虐殺された人々は1万人を越え、ヨーロッパ全土に居住している。ルクセンブルク協定と連邦補償法を皮切りに、ドイツ政府は内外の被害者からのさまざまな形の保障要求に応じて、数多くの補償法を整備していくこととなる。ドイツは過去の罪を背負いながら、こうして巨額の補償金を支払う作業を開始したのである。 

一連の補償法に基づいた補償金総額は1千億マルクを超えているといわれているが、それでも次々に新しい被害事実が発見され続けるという現実が続いている。 

一方、アデナウアーは、ドイツ国内の戦死者、傷痍軍人、戦没者遺族、近隣諸国からの引揚者などに関する法律も整備し、総額7500億マルクあまりを補償している。国内の戦争被災者を手厚く保護することで、ドイツ国民もナチスの被害者だったという意識を定着させることに成功したのが、アデナウアー流の戦後補償政策だったといえよう。 

さて、そうした動きとともに、ドイツ政府は国民の再教育を重視する政策を採ることとなった。 

1953年には連邦政治教育センターが設立され、各共和国で青年たちを対象とした民主教育が開始されている。

続く

c菅原秀2010 (初出『ドイツはなぜ和解を求めるのか』(同友館)
posted by 菅原 秀 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | エーミールの涙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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