2010年09月28日

エーミールの涙(4)ユダヤ人をかくまったドイツ人裁判官

多忙のため、間をあけてしまったが、前回の「エーミールの涙(3)」は、元東ベルリンにあたるミッテ区北部の閑静な住宅街にあるプロテスタント教会にあるASF(償の証:Action Suhnezeichen Friedensdienste)の事務所を訪問した話だが、その続きをお送りする。ドイツが抱える負の遺産であるナチス時代の傷跡は、今でも近隣諸国の人々の心をさいなんでいる。何せ第二次世界大戦のドイツとの対戦国は80カ国を超える。人命や土地や財産だけでなくさまざまな精神的なトラウマが、今でも被害者やその家族の心にのしかかっている。それらのトラウマを解消する民間団体による努力は並大抵のものではない。ASFのヨハネス・ゼルガー広報部長は、この団体がどんな活動をしているのか、静かに語り続けた。
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▼被害を受けた村を立て直そう

ゼルガー広報部長の話は続く。「クライズィヒは、アウシュビッツの生存者を探し出して、償いのために何ができるかを聞こうと考えたのです。しかし当時、ドイツ人がポーランドで活動するのは無理な話でした。ポーランド政府と東ドイツ政府の許可が必要だったからです」

クラウズッヒが仲間とともに自転車で初めてアウシュビッツを訪れたのは一九四七年前後と思われる。 

クライズィヒは東ドイツ生まれだったので、戦後は東ドイツに所属することになった。東ドイツの人々はクライズィヒの考え方を支持しなかった。つまり自分たちこそナチスから祖国を解放した側に立っているという驕おごりの心に支配され、ナチスに対して十分に反抗しなかった自分たちの過去を顧みることはなかったのである。 

クライズィヒは西ドイツの教会でも、自身の考えを訴え続けた。ベルリンの壁ができる前には、東西の教会の交流が可能だったのである。その結果、西側の聖職者や政治家に少しずつ支被害国で黙々と奉仕活動をするドイツの若者たちの支持者が増えていき、最終的には東西プロテスタント教会全体でクライズィヒの考えを承認しようという風潮が芽生えることとなった。 

一九五八年、クライズィヒは東西の福音派の代表が集まった会議で重要な演説を行なった。

「私たちドイツ人は第二次世界大戦を開始しただけでなく、人類に対し計り知れない損害を与えました。ドイツ人がその手で数百万人のユダヤ人を殺害しましたが、これは神に対する極悪非道な反逆です。生き残った私たちは、好むと好まざるに関わらず、それを阻止できなかったのです。私たちドイツ人の手による暴力の犠牲になった人々が住む国々に出向き、私たちの手によってその犠牲の償いをすることを許してもらわなければなりません。村を建て直し、集会所を作り、病院、さらには被害者の要請に基づいて、償いの印を示さなければなりません。最初にポーランドで開始しましょう。次にソ連、そしてイスラエル。この奉仕の仕事をさせてもらう私たちを助けてくれるように、彼らに請いましょう。これは、彼らに対する支援といったようなものではなく、平和のための許しを請う小さな労働に過ぎません」

この演説によって、クライズィヒの考えは明瞭な形として人々に伝わった。つまり、被害を与えた側を助けるのではなく、許してもらうために被害者側からの助けを求めるという、ひたむきな考えだったのである。

▼和解が生まれたきっかけ 

演説の三年後、ドイツの東西の交流は遮断されることになる。クライズィヒが属していた教会は東ドイツ側でしか活動できなくなり、東西の教会は個別に活動することを余儀なくされることとなる。そうした中でも、ASFの活動は少しずつ開始されていった。当初の活動は同じくナチスによる強制労働の被害を受けたオランダやノルウェーで開始された。 

クライズィヒは、ナチスによる犠牲者が多かったポーランドとソ連での奉仕活動を強く望んでいた。ナチスが引き起こした戦争による死者はヨーロッパ全体で六千二百万人と言われているが、そのうち、ポーランドでの死者は五百五十万人、ソ連での死者は二千七百万人と推定されている。その大部分が兵士ではなく、一般市民なのである。 

とはいっても、東西のイデオロギー対立で分断された結果、ポーランドとソ連での奉仕活動を行なうことは、将来の課題とするしかなかった。 

海外での奉仕活動に参加しようとする若者たちは年々増えていった。海外への旅費や滞在費は教会関係者の寄付でまかなう。ひとりの若者の奉仕期間は十八カ月とした。参加者する若者にも、青春の一時期を長期にわたって奉仕活動に捧げるという、それなりの覚悟が必要な期間である。 

そうした本格的な奉仕活動だったからこそ、相手国も好意的に受け入れてくれたのであろう。オランダで手がけたのは、働く人々のためのリクレーション・センターの建設だった。ノルウェーでは身体障害を持つ子供たちのための施設が建設された。さらに、フランスでは戦火で失われたシナゴーグ(ユダヤ教会)をユダヤ人のために再建した。ギリシャでは上水道敷設工事が行われた。英国ではカトリック修道院の集会場を建設した。そしてイスラエルでは盲学校が建設された。 

やっとポーランドでの活動が開始されたのは、一九六五年になってからだった。東ドイツのASFの若者たちが、アウシュビッツを巡礼の旅という形で訪れ、収容所の生存者を訪ねたり、ポーランドの若者と過去について語り会うなどの活動を開始した。同時に朽ち果てようとしていた収容所を記憶の場所として修復する活動も開始している。 

ポーランド政府はASFの動きに対して冷たかったようだが、それとはうらはらに地元の人々はドイツ人の若者たちを暖かく迎え、地元キリスト教新聞二紙が、ASFのポーランドでの活動を大きく報道した。 

しかし、東ドイツ、西ドイツのマスコミはASFの活動を無視し続けた。ドイツ人全体が、こうした活動の必要性を感じるようになるには、まだまだ時間が必要だったのである。「私たちの活動を知っていただくためには、ビデオが一番良いでしょう」

ゼルガー広報部長は、アメリカでのASFの活動を紹介した番組のビデオを見せてくれた。 
ニューヨークの音楽大学に留学したドイツの若者が、アウシュビッツの生き残りだったユダヤ人の老人を訪ねて行き、昔何が起きたのかを少しずつ理解していくという番組だった。 

マンハッタンのアパートでひっそりと生き続ける老人を訪問するたびに、若者は、過去のドイツで行われた犯罪と、その中でユダヤ人が保とうとした人間の尊厳を学んでいく番組だった。そして学ぶのは、ドイツ人の若者だけではなかった。ドイツの若者と対話をするユダヤ人の老人も、ドイツ人の心に輝き続けている良心の光を発見していくのだった。

続く

c 菅原秀2010 (初出『ドイツはなぜ和解を求めるのか』(同友館)
posted by 菅原 秀 at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | エーミールの涙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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