2009年12月06日

エーミールの涙(3)ナチスの時代に、すごい人がいた!

ベルリン市内を西から東にゆったりと流れる美しい川がシュプレー川だ。さほど川幅が広くないのが幸いして、観光船で下ると、四季折々の花々に囲まれた両岸の建物や名跡を間近に見ることができる。

今でこそ、西ベルリンから東ベルリンへ向かってこの川を下ることは可能なのだが、壁があった時代には、この美しい川さえも、フリードリヒ通り駅を境にして分断されていた。

そのシュプレー川を下って旧東ベルリンに達すると、行政の中心になっているミッテ区だ。ミッテ区北部の質素なプロテスタント教会の敷地に、私たちの訪問先の建物があった。ASF(償の証:Action Sühnezeichen Friedensdienste)の事務所である。 

迎えてくれた広報部長ヨハネス・ゼルガー氏の話を、私たち記者団一同は身じろぎもせずに聞きいった。

■ナチスによる身障者の粛清

反対者を粛清し続けていたナチスの時代に、ヒトラーに対して正々堂々と闘いを挑んで、粛清を免れて戦後まで生き延びた人がいた。

しかも、その人の戦後の活動も驚嘆に値する。日本ではほとんど紹介されていないこの団体の創設者の人生は、国家が犯した罪を、国民一人一人がどう償ったらいいかという重い問いかけへの一つの回答でもあった。 

ドイツではASFの略称で知られるこの団体「償いの証」(つぐないのあかし)を設立したのは、ナチス時代にベルリンで判事の仕事をしていたロター・クライズィヒである。ゼルガー広報部長は語る。

「クライズィヒは、大学で法学を修め、判事の資格を得た秀才でした」

1898年、ザクセンに生まれたクライズィヒは、第一次世界大戦には志願兵として参戦したほどの愛国心あふれる青年だった。復員の後、ドレスデンの大学で法律学を学んだ。やがて、ベルリンの隣町ブランデンブルグで地方裁判所判事の仕事をすることとなる。赴任したのは1937年、ヒトラーが政権を把握してから四年後である。 

裁判官として、知的障害者や身体障害者施設の書類を扱っていたクライズィヒは、障害者の死亡数が異常であることに気づいた。

クライズィヒたち裁判官が、申請に基づいて、障害者施設からの障害者の移動の命令書を書くと、その移動先で死亡する頻度が急に増えていたのである。ところが、その死亡の理由に関する書類のほとんどが不備だった。

人知れず障害者の殺害が行なわれているとしか思えない。1939年ごろになると、その頻度が極めて高くなってきた。クライズィヒは密かに調査を進め、政府当局関係者が障害者を次々に殺害しているという感触を得た。

司法省に出向いていたクライズィヒは、この件について報告した。障害者を施設から移動する書類が頻繁に届けられてくることは異常事態であり、その移動先で次々に障害者が死亡している。障害者施設職員によるやみくもな移動申請は違法であり、さらに移動先で死亡している事例が極めて多い。これは司法の怠慢によるものであり、この事態は受け入れがたいので、厳密に調査して原因を究明すべきだ、といった内容を裁判官としての立場から訴えたのである。

しかし司法省当局は、その後、何の対応もしようとしなかった。

1940年、クライズィヒは司法当局を動かすために次の手段に出た。司法省の頭ごなしに身障者の移動を命令し続けていた総統官房長官のフィリップ・ブーラーを殺人罪で告発したのである。

告発の後、しばらくして司法省長官のフランス・ギュンターからクライズィヒ宛てのファクスが届いた。

「一連の動きは総統のご意志である。告発を取り下げよ」

クライズィヒは、厳格だったはずのドイツの司法が、すでに完全に崩壊していたことを悟った。ゼルガー広報部長の話は続く。


■ 東部の農村に潜伏したクライズィヒと戦後の旅


「クライズィヒは司法省によって免職されました。もちろん当局から目をつけられたのですが、逮捕されずに生き延びることができました」 

クライズィヒは迷った。「闘うべきか、妥協すべきか」 

ゲシュタポはクライズィヒを亡き者にする理由を探し続けているに違いない。しかし戦いを継続しなければならない、場合によっては逮捕されて強制収容所で殺されてもいたしかたないと思いつめていた。 

そうした中、ヒトラーは抹殺の対象を障害者からユダヤ人に拡大していった。そこで友人たちはクライズッヒに、戦いの継続をいったん中止して隠遁生活をし、ヒトラー亡き後にドイツの再興のための仕事をするべきであると諭したのである。

友人の助言に従ったクライズィヒは、ベルリンから離れた農場に移り、秘密裏にユダヤ人を海外に逃す活動を細々と続けた。農場では、二人のユダヤ人女性を終戦までかくまい続けている。 

クライズィヒを責め続けたのは、裁判官である自分が、国家による殺人の罪を見逃してしまったという罪の意識であった。 

終戦の翌年の1946年、クライズィヒは、新しい政府から裁判官として復職するように要請されたが、拒否して福音派教会の牧師となった。司法によって人を救うことに限界を感じ、自らの良心の声にしたがって生きる聖職者の道を選んだのである。 

牧師となったクライズィヒはすぐに自分の教区の代表となり、プロテスタント教会の中でも一目置かれる存在となっていった。精力的に教会の活動を行ないながらも、クライズィヒは、ドイツ人が過去に犯した罪を償うべきだと訴え始めた。ところが世間の反応は鈍かった。

「罪を犯したのはナチスであり、私たちはその被害者である」というのが当時のドイツ人の考え方であった。

また、「ユダヤ人は、イエス・キリストを信じなかったために、天罰を下されたのだ。ユダヤ人の側に大いに責任があるのだ」と考える教会の指導者たちもたくさんいたのである。 

ドイツ人が過去に犯した罪を償うべきだ、というクライズィヒの訴えは、無視され続けた。ゼルガー氏は続ける。

「思い余ったクライズィヒは、過去の罪を償う行動に出ようと考えました。志を同じくする若者数人とともに、自転車に乗ってポーランドへ向かったのです。正式に国境を通過することは無理だったので、国境警備員の目が届かない場所を選び、野宿をしながらポーランドに入りました。目的地はアウシュビッツ収容所跡です。しかし、ポーランドでの償いの活動を開始するまでには、その後、十数年もかかることになったのです」 

アウシュビッツ収容所跡を訪ねたクライズィヒ一行の目には何が映ったのだろうか。恐らく廃墟として朽ち果てつつあるコンクリートの一群の建物の跡が残っていただけであろう。この廃墟で何が起きたのかを記録し、語り継ぎ、そして生存者を探し出して協力を求め、ナチスによって殺害されたユダヤ人たちのための償いを行なうためには何が必要か。クライズィヒは、アウシュビッツ収容所跡を自転車で周遊しながら、自身の心の中の良心に耳を傾けながら思索し続けたに違いない。

続く 

(c)菅原 秀 2009 (初出『ドイツはなぜ和解を求めるのか』同友館)

posted by 菅原 秀 at 00:48| Comment(0) | TrackBack(0) | エーミールの涙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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