2004年12月18日

アジアの言語と報道(1)

▼ローマ字表記から発生する誤解

 ビルマ語の表記法の問題点や姓名の書き方については、前項の「ビルマかミャンマーか」で触れたが、アジアの言語は多様だ。取材の過程であらゆる国の言語表記の問題にぶつかる。

たとえば、カンボジアのシアヌークをクーデターで追い出したシソワット家の王族の名を、日本の新聞はシリク・マタク殿下と書いてきた。英語で表記すればSirik Matakなので、それを日本語に置き換えたわけだが、クメール語ではおしまいのKは完全に飲み込まれるそうだ。カンボジア人と話したとき、この人の名前をいったところ、「そんな王族はいない」という話だった。よくよく聞くと日本語とまったく同じ発音でシリマタと言わないと理解できないことがわかった。またクメール語(カンボジア語)には英語のcatなどと同じæの発音がある。

ローマ字でNeak Loeangと書かれる地域は、プノンペンの東部にあり、ベトナム戦争時代にはプノンペンを外敵から守る巨大な軍事基地としてしばしば報道されたが、すべてネアクルン基地と呼ばれていた。これもそのまま発音すると現地の人には何がなんだかわからない。現地語では[næklu:n]という発音であり、ナックルーンまたはニャックルーンという風に表記されるべきものである。

こうした例は、アジアの言語がいったん英語やフランス語で表記されて、それがさらに日本語になるという例の中から発生することが多い。その過程で、原語からほど遠い発音になったりする例が多いので、要注意である。

▼中国語の原音表記

1985年、アメリカ政府は中国語の表記をトーマス・ウェード式のローマ字で行うことを決定した。中国政府が固有名詞の表記による誤解をふせぐ意味で、アメリカ政府に申し入れたのを受けたものであった。この発表にワシントン・ポストやニューヨーク.タイムズなどが好意的に反応し、社告を出し、政府の表記に従うと発表した。

 以前は北京をPekingと表記していたのだが、現地の発音と大幅に違うので問題になっていた。トーマス・ウェード式のローマ字は北京政府が戦後すぐに採用したものであり、北京のことはBeijing(ペイジン)と表記する。さまざまな言語が入り乱れる中国語の共通語である「普通語」(北京語)の発音記号として広く普及している。

 アメリカのマスコミはPekingだけでなく、新華をいままでのShinhuaからXinhua、南京をいままでのNankingからNanjing、周恩来をChou EnlaiからZhou Enlaiなどと切り替えた。最初はなじめなかったアメリカの読者たちも今では、新表記に憤れてしまっている。

 アメリカの発表を受けて、日本のマスコミも、漢字―カタカナ併記法を採用した。北京(ベイジン)、周恩来(チョウ・エンライ)などとしたのだが、長続きがしなかった。「ペキン」や「しゅうおんらい」と言ったほうが通じやすいし、何の不都合も生じないからだ。

 しかし不都合が生じないのは日本国内だけであり、国際間で情報のやりとりをする場合にはまったく不都合なのである。

 国際間での情報のやりとりがひんぱんになっている今日、固有名詞を漢字に直せないという場面によく出くわすようになってしまった。

 以前上海で、現地の外国人特派員たちとの中国情勢の会議に参加したときのことだ。UPI、ロイター、AP、さらにアメリカとヨーロッパの記者が参加しており、わたし以外はすべて西欧人だった。会議は英語で行われたのだが、一般の話題ならついていけるはずの私も、そこでの英語の話についてゆけなくて、閉口してしまった。

 つまり会話の中に出てくる人名や地名などが、中国語のままなので、さっぱりわからないのだ。

「○○大学の学生がハンストをしたときに○○が対話に応じると言ったけれど、実は○○が○○をスケープ・ゴートにしようと思ったらしい。それに気付いた○○は○○に冷静に対応すべきだと言った。しかし○○出身の○○のアジテーションが堂々としていたので○○がすっかりその気になった。実は○○はすでに○○の○○軍に出動の準備を命令していたんだ。発砲を命じたのは○○軍の○○らしい」
とにかく、○○の部分がさっぱりわからなくて、話の内容についていけなかったのである。

 しかたがないのでかたわらにいたロイターの記者に「漢字を書けますか?」と聞いた。このアメリカ人記者の漢字は完璧だった。固有名詞が出た都度、紙に漢字を書いてくれた。

 わざわざ私のために北京の簡体字は難しかろうと、台湾式の旧文字で書いてくれた。おかげでやっと話を理解することができた。漢字の国日本から来たわたしが、ローマ字の国アメリカの記者に、漢字で書いてもらってやっと話についていけるという奇妙なことになった次第である。

 最近は電子メールの発達で、外国のニュースが主として英語でやりとりされるようになってきた。中国の固有名詞がそのままローマ字で表記されている。
「アメリカの上院議員80人が中国のウェイ・ジンションをノーベル平和賞にノミネートした」
こんな記事に出くわすと困ってしまう。
「ウェイ・ジンションって誰だ?」

「ぎ・きょうせい」(魏京生)と書いてもらえばわかるのだが、仮にインターネットでアクセスした情報を翻訳ソフトにかけても、誰のことかは答えてくれない。

 新聞記者だったら、会社の調査部や外信部に間い合わせればすぐに教えてもらえる。しかし、一般の人間には、調べる手立てがない。
 だからこそ、新聞社が率先して中国人や韓国人の名前を周恩来(チョウ.エンライ)、盧泰愚(ノテウ)という風に表記すべきだと思うのだ。あるいは漢字で表記することを一切やめてカタカナで表記するのがいいかもしれない。

アジアの言語と報道(2)に続く

(c)2004加筆、菅原 秀 初出「公評」1997年9月号

posted by 菅原 秀 at 21:59| Comment(1) | TrackBack(0) | アジア基礎知識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
アジアの範囲は? アメリカとは?

日本でアジアと言う場合、東南アジア以東を意識している場合が多いでしょう。例えば、「インドはアジアか?」と聞けば大半の人が同意しますが、「アジア通貨危機がインド経済に与えた影響は?」と聞くと、答えられないどころか、不意を突かれたような反応になります。
サッカーのワールドカップでは中東までがアジアに含まれますが、イスラエルはヨーロッパの扱いですから、この場合は政治的な色彩も強いと思われます。
アジアとヨーロッパの境界は、黒海と地中海を結ぶトルコのダータネルス海峡・ボスボラス海峡とする事が一般的です。トルコはNATOには以前から加わっていますが、EU加盟はやっと交渉開始が決定したものの拒絶感を示す人が多いのは、イスラム教であること、かつてヨーロッパの多くを占領しウィーンを陥落させかけたこと、などが原因だと思われます。(この件に関しては私HP参照)
http://www5e.biglobe.ne.jp/~dorogame/private/essay/03-01-23.htm
しかし、トルコ語が日本語と同じウラル・アルタイ語族だと知っている人は少ないでしょう。これには、モンゴル語、満州語、朝鮮語、沿海州の少数民族の言語などが含まれます。(モンゴル出身の横綱・朝青龍は「日本語は語順が同じなので覚えやすかった」と語っていました。)ウラルもアルタイも中央アジアの山脈で、トルコ民族は、シルクロードの国々をトルキスタンと呼ぶことでも解るように、中央アジアから多くの遊牧国家を作りながら西へ西へと移動し、現在地に辿り着いたのです。
インドの多くの言葉がヨーロッパと同系列で、ハンガリー(フン族の国の意)は中央アジアの遊牧民族の末裔(フン族=匈奴の可能性が高い)、と、簡単ではありません。
アジアと一括りで呼べるものは、地理的なまとまり以外には何があるのか、疑問に思っています。

アメリカ合衆国(米国)のことを単にアメリカと呼ぶ人が多く、上記で菅原氏もその様に使っています。しかし、そうすると米国以外のアメリカのことは忘れてしまうのです。
まず、私の定義を示しましょう。
アメリカ:グリーンランドからパタゴニアまでの地域
アメリカ合衆国(米国):北部アメリカの一部とポリネシアに属するハワイ諸島を本土とし、世界人口の約4%を擁する国家
こうすれば、
・米国が一国家を示している
・米国の成立前にも住民がいて、その子孫は迫害されている
・アメリカには米国以外にも多くの国が存在して、その多くは途上国だから、世界には先進国と途上国が並存している
・世界には約200の国家と地域(独立していない地域)があり、米国はその一部に過ぎない
・グァムは米国の信託統治領である
・世界には英語を話さない人たちが沢山いる
などを思い出し、「米国だけが世界」というような狂気に陥ることも無いと思います。

世界を正しく認識する第一歩は、言葉を正しく使うことではないでしょうか?
そうすれば、それを出発点にして思考を巡らすことができます。
Posted by 野村民夫 at 2004年12月25日 02:36
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