2009年08月02日

エーミールの涙(2)初めてドイツ人を許したフランス女性

●フランスの元レジスタンスの女性に届いた招待状

この話は、ヨーロッパとアメリカでは、何度も語られてきた話だ。もちろん日本にも伝わっている。しかし、何度でも繰り返し語り継がれなければならない話だ。「ヒロシマ」の語かたりべり部と同じように。 といっても、この話は「ヒロシマ」とはまったく質の違う話である。犯した罪の事実を知る話ではなく、犯した罪にどう対応すればいいかという話なのである。人間精神そのものにかかわる、重要な話である。 第二次大戦が終わった翌年の一九四六年、フランスの国会議員イレーヌ・ローのもとに、一通の招待状が届いた。

少女時代から、周囲の恵まれない貧乏な人々をどうやって助けたらいいかということばかりを考え続けていたのがイレーヌだった。困った人を見逃すことのできない性格のイレーヌは、土建業のビジネスマンだった父親の靴下をこっそり家から持ち出して、貧乏な労働者に分け与えるといったことを繰り返していたそうである。 そんな彼女は看護師となり、マルセイユの船乗りで社会主義の活動家でもあった

ビクターと意気投合し、やがて結婚した。ナチスがフランスに脅威を与えるようになると、夫とともに反ナチ・レジスタンス運動に加わり、苦しい戦いを続けることとなったのである。

フランスを占拠したドイツ軍のゲシュタポは、次々に仲間たちを捕えては殺害した。食糧の配給もとどこおり、子供達は栄養失調に苦しんだ。イレーヌは機関銃を持ったドイツ兵の監視の中でレジスタンスの仲間をかくまい、苦しい運動を持続した。そうした経験による心の傷が、ドイツに対する恨みとなって彼女の心の中を渦巻いていた。「ドイツ人はこの世から滅びて欲しい。ドイツという国の存在そのものをヨーロッパから消し去らなければならない」 しかし、行動的な彼女は、そうした憎しみを打ち払うかのように戦後第一回目の国政選挙に打って出て、みごとに国会議員として当選したのである。

さて、招待の主は、アメリカ人の牧師フランク・ブックマン博士だった。スイスの山村の古いホテルで、ヨーロッパの復興のための国際会議を行うので、出席して欲しいという要請だった。 ブックマン博士はロンドンに滞在しながら、フランスのレジスタンスに物心両面での応援をしてくれた人物でもあった。その博士が、戦火で疲弊しつくしたヨーロッパの復興に乗り出すことを知って嬉しかった。早速、出席する旨の返答をした。 そのホテルはジュネーブ湖に面したコーという山村にあった。まるでお城のような建物で、アルペンスキーに訪れる客のために建てられたものだという。戦前は冬季オリンピックの選手団の宿泊所として世界中のアスリートたちを集めていた豪華なホテルだったが、第二次世界大戦のために長いこと休業していた。そのホテルをブックマン博士たちがヨーロッパの復興のための国際会議の場としてマウンテンハウスと名づけて再生させたのであった。

湖を見下ろす小高い山の中腹に建ったマウンテンハウスは素晴らしい建物だった。にもかかわらず、隣国スイスでの戦後初めての国際会議に参加したものの、イレーヌは落ち着かなかった。大勢の参加者がドイツ語を話しているのを耳にしたからである。 イレーヌにとって、ドイツ語の響きは、はらわたが煮え返るくらい不愉快なものだった。フランスを奈落の底に引きずり降ろし、レジスタンスの仲間を次々に殺害した悪魔の響きであった。 

ブックマン博士としては、この会議にどうしてもドイツ人を参加させる必要があった。一九四六年当時のドイツ人は占領軍による特別査証がない限り、国外に出ることは許されなかった。ところが博士がアメリカ人であったということも幸いしたのであろう。連合国占領軍との粘り強い交渉により、百五十人のドイツ人が、このマウンテンハウスの国際会議への出席を許されたのである。 

ドイツ語を耳にしたイレーヌは、心の底に眠っていた憎悪が、ふつふつと煮えたぐってくるのを感じた。居ても立ってもいられなかった。そこで、荷物をまとめて帰国することをブックマン博士に伝えた。

博士は語った。「ドイツなしで、これからのヨーロッパをどうやって統合すればいいのですか。あなたはこれからのヨーロッパの平和を作り出すために、ここに来たのではありませんか」 イレーヌは博士の言葉にショックを受けた。部屋に戻るとそのまま閉じこもって、二日間考え続けた。「自分のこの憎しみの感情をどうやって消せばいいのか。この憎しみと復讐心は、自分が本当に求めていたものだったのだろうか」


●ドイツ人を赦したイレーヌ・ロー 

イレーヌは決心して、三日目の昼食に参加した。イレーヌのテーブルに、ひとりのドイツ人の女性が座っていた。イレーヌは彼女に向かって堰を切ったように語り始めた。「あなたたちのおかげで、フランスは信じられない苦しみを味わいました。あなたにはその苦しみはわからないでしょう。大勢の人々があなた方の手で殺されました。わが子であるルイが受けた苦しみがわかりますか? ドイツ兵は息子にあらゆる拷問を行ない、言葉を発することができない生ける屍しかばねにして、私の両腕に押し付けたのです」 ドイツ人の女性はテーブルの上に置いた手をぶるぶると震わせながら、イレーヌの話をじっと聞き続けた。「あなたたちによって、愛する仲間たちを失ったこの憎しみを、どうやって消し去ればいいのでしょう?」 

ドイツ人の女性はイレーヌの問いかけに、長いこと黙りこくっていた。やがて、静かに口を開いた。「もし許してもらえるのでしたら、話させてください。私の夫はヒトラーを暗殺しようとしたグループの一人です。夫は捕まり、絞首刑になりました。二人の子供は連れ去られて、偽名で孤児院で暮らすことになりました。終戦の後、やっと子供たちを取り戻すことができました。私たちはもっと早くナチスに対して抵抗をしていればよかったのですが、不十分でした。もっと大きな抵抗運動をすべきでした。そのためにあなた方に無限の苦しみを与えてしまいました。心からお詫びします」 

その女性は、ヒットラーの暗殺に失敗して殺されたアダム・フォン・トロットの未亡人だった。アダム・フォン・トロットはナチス時代の外交官だった。イギリスに駐在していたときにヒトラーのユダヤ人虐待を知り、それを止めるために一九三八年に帰国した。しかし、ナチスはすでに恐るべき殺人集団になっていた。トロットはやむなく、ヒトラー政権を打倒することを目的に設立されたクライザウ・サークルという小さなグループに加わった。やがてこのグループは軍の中枢部の人々とともにヒトラーを暗殺し、クーデターを起こす計画を立てたのである。

「七月二十日事件」または「ワルキューレ作戦」と呼ばれるこの暗殺計画は失敗し、関係者はことごとくナチスによって虐殺された。 話を聞いているうちに、自分以上の苦しみを味わってきたトロット夫人に深く同情したイレーヌの喉から嗚咽がこみ上げてきた。

二人は手を取り合って泣きじゃくり、お互いを許すことにしようと約束した。 翌日、イレーヌは集会場に集まっていたドイツ人たちの前で、自分の心の内を語った。「私はドイツ人を心の底から憎んでいました。ヨーロッパの地図からドイツを消し去りたいと思っていました。しかし、ここに来て気づきました。私が抱いていた憎悪は間違ったものだったということを。ここにいるドイツ人の皆さん、どうか、あなた方を憎悪していた私を許してください」 

居合わせたドイツ人たちは、次々に言葉を発した。「許しを請うべきなのは、私たちドイツ人です。ナチスによる侵略と虐殺を止めることができなかった私たちを許して下さい」 その場に、後に西ドイツ首相となるコンラート・アデナウアーがいた。アデナウアーはイレーヌの「許して下さい」という言葉を聞き、衝撃を受けた。 


●「和解」を訴える旧敵国ドイツへの旅

その後、アデナウアーはイレーヌを西ドイツに招待し、ドイツ各地で講演会を開くことになる。講演会でイレーヌの話を聞いた聴衆は、次々に自分たちの許しを求め、フランスとの和解を求めた。イレーヌの西ドイツ・ツアーをきっかけに、和解の気持ちを演じるためのミュージカル劇団が組織され、その後、ヨーロッパ各国で公演が行われるようになっていった。

それまでの歴史には、和解という概念がなかった。あったとしても、せいぜい戦争当事国同士の和解交渉の範囲で使われる言葉に過ぎなかった。戦争の犠牲者は国民である。その国民同士が、負けるか勝つかという弱肉強食のルールとはまったく違うレベルで、お互いの和解という平和の手法を生み出したのである。 今でこそ、各地の悲惨な戦争の戦後処理のプログラムに、相手国の個々の人々との和解を醸成するプログラムが作られるようになったが、その原形が生まれたのが、一九四六年のマウンテンハウスでの国際会議だったのである。 

もちろんイレーヌのドイツ・ツアーでフランスとドイツの和解が一気に進展したわけではない。ドイツは正しかったと考える人が大多数の時代がずっと続いた。しかし、ドイツとフランスとの間での最初の和解のきっかけは、こうしてアメリカ人牧師ブックマン博士の力によって、開かれたのである。 ブックマン博士は、なぜこのような国際会議を開いたのだろうか。 博士は、英国の大学で教えながら、ナチスのような恐ろしい考えを阻止するためには、心の道徳を再武装しなければならないと訴え続けていた。博士のもとで学んだ生徒たちはこの考え方を世界中に広めるために、博士の訴えを「道徳再武装運動」(モラル・リアーマメント・ムーブメント:MRA)と呼び始めた。 

MRAの運動を展開するためには、国際会議が開催できて大勢の指導者たちが宿泊できる施設が必要だ。そうした中、スイスの休眠していたホテルに着目したブックマン博士の弟子たちは、ホテルを管理していた銀行と交渉した。 再建をあきらめかけていた銀行は、ホテルを平和構築のための国際会議場にしたいというアイデアに興味を持った。現地の地方自治体も世界各地からのVIPの会議場へというアイデアを歓迎した。その結果、破格の値段で売却してくれたのである。 

こうして、このマウンテンハウスには全世界からの政治家や、財界指導者が集まることになったのである。マウンテンハウスは一貫して、異なった立場の人々と協調し和解するためにはどうしたら良いか、というテーマでの国際会議を行う場として機能し続けることとなった。MRAは現在ではイニシャチブ・オブ・チェンジと名前を変え、全世界で静かな運動、つまりお互いの誤解を解く運動を展開している。

(続く)      (c)菅原 秀 2009 

先を読み進みたい方は『ドイツはなぜ和解を求めるか』(菅原秀著、同友館)をお求め下さい。   

 
posted by 菅原 秀 at 12:16| Comment(0) | TrackBack(0) | エーミールの涙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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