2009年03月09日

エーミールの涙(1)ベルリンで見たエーミールの痕跡

▼ケストナー好きの機内乗務員

ベルリンと聞くと私が真っ先に思い出すのは、エーリヒ・ケストナーによる子供向けの物語『エーミールと探偵たち』だ。子供の頃の私はこの物語を、胸を躍らせながら、おそらく十回以上も読んだものである。それほど面白い本だったのはなぜだろうか。あの山高帽の詐欺師を大勢の子供たちでやっつける場面は、子供の心にとって実に爽快だったからと
いう理由だけだろうか。恐らくケストナーの描写力に、子供の魂を揺り動かす何かがあったに違いない。二〇〇七年五月、そのベルリンヘ向かうために私は、六人の記者団の一員としてルフトハンザの機内の客になっていた。今回の旅は、ドイツ文化センター(ゲーテインスティトゥート)の企画によるものだった。日本の記者をベルリンに招いて、ドイツ
の各機関が過去の清算をどう行ってきたのかをつぶさに見てもらおうという、しごく生真面目な企画である。

九日間の旅であったが、五人の記者と大学教授一人による総勢六人の一行は、忙しい中でスケジュールをやりくりしたので、飛行機の座席についてからやっと、下調べを開始するという状態だった。それぞれ眠い目をこすりながら、これから訪ねていくベルリンの各機関の資料を読み込むのに余念がない。

私の前の座席には四十歳ぐらいの日本人の母親と、小学低学年の男の子が座っていた。ベルリン行きの直行便はないので、この飛行機はミュンヘン行きだ。その親子はミュンヘンに赴任している父親を訪ねての旅だということが話の端々からうかがえた。数時問後、椅子で眠っていたと思ったその母親が立ち上がり、棚の荷物を降ろそうとして手を伸ばした
とたん体がふらついた。そのままよろけて通路に倒れてしまった。通路をはさんで隣に座っていたドイツ人の若い女性と私が思わず立ち上がり、ふたり同時に手を伸ばして母親を助け起こした。「ドシン」と音がしたのだが、通路に打ったのは頭ではなく、お尻のようだった。怪我はないようだが顔面は蒼白だ。子供が泣きながら「お母さん、お母さん」と叫んでいる。

恐らく、例の「エコノミー症侯群」というやつだろう。母親はしきりに「大丈夫です。大丈夫です」というものの、「エコノミー症候群」を心配した私は、とりあえずトイレに行くように促した。さらに私は、母親がトイレに行っている問に日本人の乗務員を呼んできて、隣のドイツ人女性と一緒にことのいきさつを説明した。

トイレから戻ってきた母親の顔面に赤味が差していたので、ほっとした。心配顔の日本人乗務員が何度も母親の席に来て、薬やタオルの類を運び、声をかけてくれる。献身的な彼女は、私や隣のドイツ人女性にも、「お怪我はありませんでしたか」と気を使ってくれる。

「いやあ、日本人の乗務員がいてくれて、助かります」
という私の言葉を聞いた彼女は、
「私は子供の頃にドイツの本を読んで、ドイツが好きになり、ルフトハンザに就職したのです」
にっこりしながら、自分のことを話し始めた。
「へえ、どんな本を読んだのですか?」
「ケストナーです。全部読みました」
私の大好きな作家の名前が出たので、驚くとともに嬉しくなった。

「え、あのエ-リヒ.ケストナーですか。私も大好きで、子供向けの本は全部読んでいますよ」
「ケストナーはナチスが大嫌いだったんです。子供の目線に立ってナチスを批判し続けたケストナーがいる国に行きたい。そう思ってケストナーのことを調べているうちに、ドイツ語を勉強するようになり、その結果、こうしてルフトハンザで働くことになりました」
「それは素晴らしい。ケストナーのおかげで仕事が見つかったんですね。ルフトハンザには日本人は何人勤めているんですか」
「四百人です」
「え、そんなに大勢、働いているんですか」
「でも、大きな会社ですから、日本人は少数派ですよ」
四百人もいるのに少数派だなんて、驚いた。ルフトハンザはそんなに大きな会社だったのか。と同時に、この四百人という数は日本とドイツの長い交流の歴史を物語っているのではないかとも思った。

私は、『エーミールと探偵たち』のあらすじを思い浮かべながら、とても大事な質問をした。

「私はベルリンが初めてなんですが、ケストナーの小説に書かれているベルリンの町の名前や通りは全部覚えています。今でも残っているんでしょうか」
彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「ベルリンに行ったらびっくりしますよ。エーミールたちが集まった広場も、山高帽の男が泊まったホテルも、映画館も、郵便局も、駅も、もちろん新しくなってはいますが、皆昔の場所に残っています。『エーミールと探偵たち』を手にしながら、ベルリンを回って歩く文学ツアーをしている人もいるんですよ。


▼ベルリンの町にはエーミールの足跡があった


今回の旅は、ドイツの戦後補償の実態を知る視察旅行だ。難しい話の連続で疲労困響る旅になるかも知れないと思つていたが、ルフトハンザの乗務員のおかげでベルリン行きの別の楽しみが生まれた。

さて、ミュンヘンで国内便に乗り換えてベルリンに着いた私たちを迎えてくれたのはヴォルフガング・バウアーさんという学者だ。今回の私たちのための通訳兼旅行案内人だ。北海道大学大学院で八年問経済学を研究した人で、最近ドイツに戻り、仕事を探しているうちに案内人の話を引き受けることになったとのことだ。ドイツでは彼のように四十歳を過
ぎても就職していない人はざらである・高等教育機関で長いこと研究活動をして実績を積んでから、しかるべきポストを探すという人生の生き方を選んでも通用する社会がドイツという国なのだ。

私たちを迎えてのオリエンテーシヨンは、その日の夜。シュプレー川の美しい川面に接しているホテルのテラスで行われた。のっけからビールを注文しながら、バウアーさんが翌日からの視察計画を説明する。

「明日から、かなりタイトなスケジュールが始まりますが、朝の一時間ほどを使ってベルリンの町をミニバスで一周しましょう。ベルリンがどうなっているかをいったん頭に入れることで、今後の旅の参考になると思いますから」

この提案に、私は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「エーミールの探偵事件の足跡を見て回れる!」
他のメンバーは、なぜ私が大喜びしているのかわからなかったようだ。長旅で疲れているのにミニバスから町を眺めるだけのために、わざわざ朝早く出発するのは面倒くさいという顔をしていた。しかし、私がバウアーさんの提案を全面的に支持したので、翌朝の特別観光旅行が決行されることとなった。

私はミニバスの一番前に座って、バウアーさんに質問をし続けた。

「なるほど、これが動物公園(ツォー)駅ですか。この近所にノレンドルフ広場というのがあるはずですが、どっちの方向ですかね」
バウワーさんと運転手が、ああだこうだと議論しながら、ノレンドルフ広場を見つけてくれる。

「ノレンドルフ広場に面した場所に、中庭つきのホテルがあると思うんですが、ホテルの向かいには地下鉄の入り口があるはずです。ケストナーの小説ではホテルの名前は、ホテル・クライトになっていますが。
「え、ケストナーって、あのエーリヒ・ケストーのことですか」
「ルフトハンザの乗務員から聞いたのですが、『エーミールと探偵たち』に出てくる子供たちが活躍した場所は、今でも残っているそうですね」

そのうち、バウアーさんと運転手さんも私の話に乗せられて、古いベルリンの町を探る旅に付き合いだした。記者団の仲問たちにとってはいささか迷惑だったのかも知れない。エーミールが大金を盗まれて困り果てていることを知ったベルリンの子供たちは、このノレンドルフ広場を拠点にして山高帽の犯人を見張り、工ーミールの応援を開始し始めた。そ
の一方で子供たちは、ニコルスブルグ広場にも連絡拠点を構えた。広場の近所の金持ちの家の子が、連絡係に指名された。何せ自宅には電話があったからだ。子供たちは自転車を使ってベルリン中を移動し、応援の仲間を集める。どうやって犯人を追い詰めるのかは、ぜひ小説を読んでいただきたいが、スリルあふれる尾行劇の中でケストナーが描いている
のは、活き活きとしたベルリンの街角と、そこに生きた人々だ。

エーミールが、いとこのポニーと待ち合わせるはずだったフリードリヒ通り駅前の花屋さんは、東ドイツに組み入れられた後も営業していたそうだが、残念ことに壁崩壊後の再開発で消えていた。駅のガード下に花屋さんがあったので、聞いてみた。

「うちは戦後始めた店だから、エーミールの花屋さんと関係ないわ。でも、うちの店の写真を記念に撮っていく人がたくさんいるわ。お蔭様で宣伝になっていますわ」
ということだった。

どうしても見っからなかったのが、カイザー通りという地名だった。山高帽の男は、動物公園駅で市電に乗り、カイザー通りを下っていく。エーミールは自分の大事なお金を盗んだ山高帽の男を逃がすまいと、無賃乗車で市電に乗る。そのカイザー通りを見つけることができなかったので、その日の夜、シュプレー川べりのホテルに戻った私はベルリン地図
を広げながら、ホテルのフロント係にカイザー通りのありかを調べてもらっていた。
「エーミールが動物公園駅から乗った二両編成の市電は、カイザー通りを走っていったと書いてあるんです。駅の近くにその通りがあるはずなのですが、戦後は通りの名が変わったということを聞いていませんか」


▼私に話しかけてきた老婦人の生い立ち


フロント係と私の話を聞いていた八十歳ぐらいの老婦人が、明瞭な英語で話しかけてきた。
「カイザー通りというのは、この大きな教会のある通りよ。昔は市電が走っていたのよ」
彼女は私がケストナーの足跡を探していることに興味を持って、話しかけてきたのである。
ベルリンで生まれた彼女は、ナチスからスイスに逃れた両親と共に移住し、ずっとジュネーブで育ったとのことだ。

「ケストナーという人は、変わった人で、焚書事件の時、わざわざべーベル広場の現場に出かけて白分の本を燃やされるのを見ていたのをご存知?」
「いや、焚書事件というのは知っていますが、ケストナーが現場にいたんですか?」

焚書事件というのは一九三三年五月に発生した言論弾圧事件だ。ナチスが組織したヒトラー・ユーゲントや自警団が、国家を侮辱する内容の本をリストアップして、全国一斉に本を燃やすデモンストレーションを行ったという、とんでもない事件である。

その老婦人は、ケストナーは仲間たちがフランスやスイスにどんどん亡命していったのにもかかわらず、戦争が終わるまで国内に踏みとどまってナチスに精神的に反対し続けようと決意し、ずっとドイツを離れなかったのだと語ってくれた。踏みとどまったケストナーは、その後、何度かナチスにっかまっているが、生き延びることに成功し、戦後は西ドイ
ツ・ペンクラブの会長としてドイツ文学の復興に全力を捧げている。

「いろんな本が燃やされましたが、文学書で狙われたのはヘミングウェイなどの外国のものが多かったのです。ドイツ文学ではハインリヒ・マン、トーマス・マンそれにエーリヒ・ケストナーの三人の作品が目の仇にされました」
「ケストナーのどんなところがナチスにとって気に入らなかったのですか」
「ケストナーは自由思想の持ち主です。物事を奔放に白由に見る態度が退廃的だと思われたのでしょう。焚書についてはヒツトラーが直接命令したのではなくて、大学教授と学生が中心になって、ドイツの国威発動に不都合な書物を選び、ヒトラーユーゲントやSA(突乳隊)がそれらの本を集めて回ったのです。マスコミもそれに同調して国民運動として広がっていったのです。学問の自由を大学自らが否定し、思想の自由をマスコミが否定したのが焚書事件です。大勢の国民がヒトラーという悪魔に手を貸して、おべっかを使ったのが焚書事件です。私の父はずっとそう語っていました」

「お父さんは何をしていらしたのですか」
「フンボルト大学の助手でした。自分自身も物事を深く考えずに焚書に手を貸してしまったので、スイスに亡命して新しい人生をやり直そうとしたらしいです」
初日目から、ナチスの爪あとに触れる旅になってしまった。
しかし、この老婦人に会えたことはおそらく偶然ではないだろう。エーミールたちが活き活きと活躍していた戦前のベルリンの魂が、七十年以上の時空を越えて私たちに語りかけてくれたのだ。ベルリンの旅は、こうして始まった。

続く



     
 


posted by 菅原 秀 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | エーミールの涙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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