2014年06月20日

NSCを無視したケネディ5

このシリーズ3では、ケネディが太平洋戦争で遭遇した敵、花見弘平少佐(当時)との運命的な出会いについて解説した。と、同時にケネディが海軍に入ったのは父のコネであることも解説した。つまり、当時の海軍長官ジェームズ・フォレスタルは、父ジョセフの投機事業の仲間だったのである。ケネディが第三次世界大戦の危機を回避することが出来た背景には、こうした複雑な出会いがモザイクのようにからんでいたのである。


★NSCのアイデアはウォール街から生まれた 

さてジョン・ケネディを魚雷艇の艇長にしたジェームズ・フォレスタル海軍長官とはどんな人物だったのだろうか。

フォレスタルは、父ジョセフと同じくアイルランド移民の子孫で、共にルーズベルトに財政支援をしたウォールストリートの投資会社の社長だったのであるが、戦後、ルーズベルト大統領から特別補佐官に就任しないかという誘いを受け、ワシントンにやってきた。

ほどなくフォレスタルは海軍長官に転進し、そこで商才を発揮することになる。投資会社時代の才覚によって戦争特需を生み出し、国家予算の増大に貢献したのである。

その手腕が認められ、今度はトゥルーマン大統領の下で働くことになる。素晴らしいチャンスが訪れた。国防総省が設立されるとともに初代長官に任命されたのである。

さて、トゥルーマン政権下で設立されたのが国家安全保障会議(NSC)である。大統領を議長として首席補佐官が司会をし、副大統領、国務長官、国防長官、統合参謀本部議長、CIA長官などを中心として協議する最高意思決定機関であるが、非公開で行われ、国民の意思が反映されないものの、国務長官や国防長官などのシビリアン(文民政治家)が権限を持つことで、軍部が勝手な動きをとれなくする仕組みを作り出そうというものだった。

つまり、シビリアン・コントロールという甘い言葉のオブラートに包まれた戦争遂行機関がNSCなのである。

フォレスタルは、戦争特需システムを恒久化するために、出来たばかりのNSCを利用しようと考え、トゥルーマンの共産主義に対する恐怖を利用することにした。
 
そこで、投資会社時代に副社長だったポール・ニッツェをワシントンに呼び寄せ、NSCを担当する政策分析官のポジションにつけたのである。1950年に、ニッツェはその後のアメリカの冷戦政策の指針となっているNSC68(国家安全保障会議文書68号)という極秘政策文書を完成させている。名目はトルーマン大統領からの依頼で作られたことになっているが、実際は、フォレスタルが当時台頭してきたソ連の共産主義に対するトルーマンの恐怖感を知っての上で、総合軍事戦略の策定を進言しての結果であった。

NSC68というのは、NSCの政策文書に名付けられる単なる通し番号なのだが、このNSC68だけは、アメリカが危機にさらされたときに極めて役立つ政策だとして何度も利用され、事実上の国家安全保障戦略の基本となっている。ブッシュ政権時代のアフガニスタン戦争も、そしてイラク戦争もこの文書のノウハウに基づいて遂行されているので、この文書はアメリカの軍事政策を知る上での必読書だ。一九七五年に極秘文書から解除されたので、今では誰でも閲覧できる。

その内容をおおざっぱにいえば、ソ連に対する封じ込め戦略を地球全体に拡大したものである。アメリカは平時にも予防戦争遂行能力を維持するための軍事予算を投入し、同盟国との相互安全保障に基づき、基地と通信網を維持しなければならないと明記してあり、さらに軍需産業の拡大は国を富ませることにもつながるというフォレスタルの考えもあからさまに反映されている。さらに仮想敵への対応策についても詳細に言及しており、常に最悪の事態を想定して事前に戦争準備を遂行することで、アメリカ国民及び同盟国を守らなければならないとしている。

★イラク戦争にも応用されたNSC68秘密文書

わかりやすい応用例として、ブッシュ(子)大統領が遂行したイラク戦争がある。トルーマン時代の政策文書がなぜイラク戦争に関係しているのかといぶかしがるむきもあると思うが、ブッシュ時代はいわゆるネオコンと呼ばれる人々が頻繁にNSCに出入りしていた時期にあたる。ネオコンと呼ばれる人たちは、日本では全共闘世代と呼ばれる人々と同じ世代に属し、かつてベトナム反戦運動を行っていたが、その後、右傾化の考えが強まってゆき、新しい保守派という意味でのネオ・コンサーバティブと呼ばれるようになった人々である。

当時のネオコンの人々が主張していた開戦の理由はイラクが大量破壊兵器を保持しているかも知れないというものだった。イラク政府は必死になって大量破壊兵器を保持していないという証拠をかき集めて、山のようなデジタルデータを公表しているが、CIAから上がってくる報告はそれと違うものだった。

新聞記者からの質問に対して、ネオコンのひとりと目されるチェィニー副大統領は「たとえ1パーセントでもその可能性があるなら予防戦争はやむをえない」と答えている。これはNSC68に記載されている考え方そのものであり、のちにCIAの報告がでたらめだということがわかった時点で記者たちから、「アメリカは、チェィニーの1パーセント・ドクトリンに踊らされてイラク戦争を遂行した」と揶揄されている。

少しでも可能性があれば先制攻撃をして危険を除去しなければならないというこの考え方こそが、SNCが伝統的に採用してきた政策であり、私たちが学ばなければならないのは、フォレスタルの意を受けてニッツェが編み出したこの政策こそが、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争と続いたアメリカ主導の戦争のバックグラウンドになっているということである。
 
さらにニッツェは、今まで125億ドルと決められていた軍備費の上限を500億ドルまでに拡大しなければソ連の封じ込めは難しいと詳述した。頭の切れるニッツェは文書のところどころに軍備費の拡大はアメリカの経済を疲弊させるどころか、特需を生み出すことで経済的効果にも貢献することが可能であるということを示唆する文面をちりばめていた。この軍事産業による特需の考え方は、ケインズの自由経済理論を軍事の立場から補完するものとして、ネオコンも引き合いに出すようになり、新ケインズ主義とも呼ばれるようになっている。

つまり皆さんも聞きなれている新ケインズ主義という考え方は、設立されたばかりの国防総省および軍事機関の集合体であるNSCの基本文書にニッツェによって盛り込まれたことから出発しており、ブッシュ(子)大統領が開始したイラク戦争の論拠ともなっているほど、アメリカの軍事戦略に大きな影響を及ぼしてきたのである。

就任したばかりのケネディは、NSCが採っている対ソ連封じ込め戦略の数々の水耕文書に署名しながら、大きな疑問を膨らませていったのである。

続く




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2014年06月05日

NSCを無視したケネディ4

★人種差別を嫌ったケネディ

裕福なケネディ家で金銭的な不自由を一切感じずに育ったジョン・ケネディだが、その心の中にはくぐまれていたのはアメリカのあちこちで、当たり前のようにまかり通っていた黒人差別への強い反発だった。太平洋戦争で敵の将兵に対しても、人間としての共感を覚えるすぐれた洞察力を持っていたジョンは、差別されていた黒人に対しても人間としての共感を持つ洞察力を備えていた。その力こそが、紛争当事国の相手を人間とし見る力が欠如している軍のエリートたちの机上の提案に対して、はっきりとフィルターをかけて判断する能力をはぐくむ原動力だったのである。

その力を生み出す原因となったのが、父親に対する愛憎がともなった、出自(しゅつじ)にまつわる考え方の違いであったことは言うまでもない。

★長兄ジョーの悲惨な空中爆発事故

当初父親ジョセフは、長男のジョーを後継ぎにして政界に進出させ、ゆくゆくは大統領にしようと考えていた。自分とまったく同じ名前のジョセフ・ケネディ・ジュニアという名前をつけていたことからもその意気込みがわかる。ジョーというのは呼称通称である。

しかしそのジョーは優秀な成績でハーバード大学を卒業したものの、ドイツとの戦争の最中に戦死してしまった。このときジョーが参加した戦いは実に無謀なものだった。若者のの命をむざむざと奪う。それが戦争というものである。決してあってはいけないことが、ジョーの身の上にも襲いかかったのである。

第二次大戦の末期にいたるにつれ、双方の陣営の兵器開発はどんどんエスカレートしていった。つまり極めて危険な大量破壊兵器を開発して、敵を一気に叩こうという考えを持つようになっていったのである。長男ジョンは、こうして大量破壊兵器開発競争がエスカレートする中で、犠牲になった一人である。

ドイツ軍はフランスを占領するとともに、フランスに敷設した軍事基地からロンドンに向けてV2と呼ばれる弾道ミサイルを発射し始めた。米英軍は、それに対抗するために、フランスのV2発射基地に対する空爆を開始した。しかしV2基地は堅固に建造されていたので、大きなダメージを与えることができなかった。

そこで米英空軍が協力して生み出した戦術が、無線操縦の爆撃機に大量の爆弾を搭載してフランスまで無線操縦するアンビル作戦だった。これは旧式の戦闘機からすべての機器や必要部品を取りはずしてトルペックス爆弾を11トン詰め込んで、フランスまで友機による無線操縦で誘導し、機長と副操縦士がフランス上空で起爆装置をセットするとともにパラシュートで脱出するというめちゃくちゃな作戦だった。
 
飛行機は編隊を組んでフランスまで飛ぶ。無線誘導される爆撃機には当時開発されたばかりのテレビモニターを搭載し、友機がその映像を見ながら無線で操縦してV2基地上空を目指す。爆撃機の乗組員の仕事は航空機を操縦することではなく、大量の爆弾の起爆装置をセットするとともにパラシュートで空中に脱出するという作業だった。

この作戦の機長に指名されたのが空軍で抜群の成績を上げていた29歳のジョー・ケネディ、そして副操縦士としてミルフォード・ウィリーが指名され、このふたりが搭乗するB17がV2のミサイル基地を爆撃することとなった。

1944年8月12日、二人のパイロットを載せ、無線装置以外のすべてを取りはずして、目いっぱい爆弾を詰め込んだ旧式爆撃機B17は、順調にフランス上空まで飛行した。ふたりは爆弾起爆装置をセットし、空中に脱出しようとした。

しかし、その瞬間、友機のテレビモニターの画像が消えてしまった。同時にB17は2度にわたって爆発し、跡形もなく消滅してしまった。爆撃波は友軍の編隊に強烈な衝撃を与えただけでなく、その破片は25キロ四方に飛散した。原因は不明である。

こうしてジョーは、フランス上空でその姿をあとかたもなく消滅させてしまったのである。

こうした悲惨な犠牲を出したにもかかわらず、その後も大量破壊兵器開発のエスカレートは続いている。第二次大戦が終了しのちもこの傾向は続き、米ソは地球を何個も消滅させることができるほどの量の核兵器を保有することになった。人類はいまだに過去の悲惨な数多いレッスンからきちんと学ぶことが出来ないままなのである。

★兄に代わって政治の道へ

悲しみの消えない父ジョセフは、その悲しみを打ち消すように、大統領の夢を次男のジョンに託すことにした。兄の身代わりとなって大統領への道を歩むことになったものの、優秀だった兄とは違い、ジョンは金持ちの社交界には興味がなく、あくまでも庶民の側に立って政治を行おうとしていた。

ジョン・ケネディは下院議員から上院議員へと選挙戦を戦う過程でも何度も「不正利得」のケネディ家のボンボンという揶揄を受け続けた。しかし彼には父親と違う夢があった。

ジョンには父親のようにアイルランド移民として卑下される屈辱を晴らそうという意志は少しもなかった。学生時代のジョンは、悪友たちと「マッカーズ・クラブ」(廃品回収業クラブ)を自称して、学校長の便器にかんしゃく玉をしかけるなどの悪さをすると同時に、差別されがちな黒人や貧乏学生たちと対等に付き合い、自分が金持ちであることはおくびにも出さなかった。

マッカーズというのはアイルランド人に多かった廃品業者に対する蔑称であり、父親とは違い、自らを卑下した呼び方をして平気だったのである。
 
アメリカでは選挙の際の戸別訪問が可能だ。ジョンはボストンの貧民街を一軒ずつ訪ね歩き、黒人や各国からの移民の子孫がどれだけ悲惨な生活をしているかということを実感していた。貧民街に詰め込まれて、毎日の食べ物にも事欠きながら、最低限度の生活にあえぐ黒人たち。ジョンは黒人たちのアパートを一軒一軒訪ね歩いては、彼らの悲惨さを自らの目に焼き付けていった。

大統領選挙のときもそうだった。父親はジョンを大統領にする夢のために、ジョンに悟られないように金持ちや上流階級のネットワークを使いながら、裏の選挙活動をしていたが、候補者であるジョン自身は、貧民街を訪ね歩いては握手をして歩くというどぶ板選挙を戦っていた。

しかし、このどぶ板選挙が大ヒットにつながることになったのである。

選挙戦も後半戦になったころ、公民権解放運動のマーチン・ルーサー・キング・ジュニアが、座り込みデモの最中に逮捕された。当時の刑務所では逮捕された黒人に対する悲惨なリンチは日常茶飯事だった。キング牧師が殺されるかも知れないというニュースが全米をかけめぐった。

ジョンはこの逮捕を憤り、すぐにキング夫人に電話して励ました。翌日、弟のロバートに頼んでキング牧師を有罪にした判事に電話をかけさせ、キング牧師を釈放させることに成功したのである。ロバートは、このときすでにワシントン議会の上院に設置された労働搾取問題小委員会の法律顧問の仕事をこなすほどの能力を有しており、地方の判事の決定を覆させるほどの、十分な法律知識を持っていたのである。

黒人の大部分はプロテスタントなので、プロテスタント系のニクソン候補を支持していた。しかし、この一件で多くの黒人グループがケネディ支持に鞍替えすることになったのである。全米の半数以上の黒人が、キング牧師を助けてくれたケネディの側につくことで、劣勢と言われていたケネディに勝利が訪れることになったのである。

ジョンは、大統領になってからも黒人の公民権獲得運動を支援し続けた。黒人を積極的に政府の重要ポストに採用し、白人しか雇わないことを明記している企業の求人は認めない大統領令を発令している。

大学への黒人の入学を拒否する州に対しては、軍隊を派遣し、入学を拒否した知事は連邦法に基づいて逮捕すると宣言するなど、黒人の側から見れば胸がすくような決定を次々に下しているのだ。

さらにジョンは、キング牧師が、ワシントンのリンカーン記念館前広場で行った有名な”I have a dream”の演説をしたその日の夕方にホワイトハウスの執務室に招き、「キング牧師、私も同じ夢を抱いているんです」と語り、連帯の意志を明確にしているのである。

戦争の悲惨さと、肌の色が違うからといって憎しみ合う愚かさ、そして庶民の気持ちも汲み取らずに勝手に国際紛争を力で解決しようとするエリートたち。ケネディは大統領の職責を通じて、そうした流れに一石を投じようという夢を抱いていたのである。


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2014年05月28日

殺虫剤を使わずにデング熱から身を守るには

海外旅行の伝染病予防に朗報が届いた。

今年はデング熱が世界各地で猛威をふるっている。おもに熱帯シマカが媒介する伝染病だが、たとえばフィリピンでは毎年2万人が死亡するなど、侮れない伝染病だ。

熱帯シマカは地球温暖化や都市化に伴って蔓延していると言われ、主に都会に住むヤブ蚊なので、南の国の大都市であるマニラ、台北、ジャカルタ、ムンバイなどに蔓延するという特徴がある。

もちろん死亡率は5%なのでデング熱にかかっても早めに対応すれば大丈夫だが、蚊にさされないようにするのが一番。でも殺虫剤はできるだけ使いたくないもの。

蚊ボトル.JPG

去年、マニラで発明された自分で作れる蚊取りペットボトルはとても効果的だ。なにせ蚊をおびき寄せる材料はどこのスーパーでも売っている黒砂糖とドライ・イートスだけ。大きめのペットボトルと水さえあればすぐ作れる。

このペットボトルが普及したおかげで、マニラではデング熱の死亡者が半減したそうだ。南の国に旅行するときは自分を守るためだけではなく、地元の人たちにまだまだ知られていないこの簡単な方法を教えてあげよう。きっと大感謝されることだろう。

●自作蚊取りペットの作り方

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2014年05月24日

NSCを無視したケネディ3

★兄の代わりに大統領への道を託されたジョン


父親が自分の夢を兄に賭けようとしているのを幸いに、次男のジョンのほうはガールフレンド探しに夢中になりながら、ありきたりの学生生活を送っていた。生まれつき背骨が悪くて病気がちだったこともあったと同時に、兄には絶対にかなわないというコンプレックスも持っていたようだ。成績が悪かったのでハーバード大学に入学するのは無理だったが、父親が裏から手をまわして入学させてしまっている。しかし在学中の成績はいつも落第ぎりぎりだった。

その間、ジョンは父の命令で、ドイツ遊学をしている。当時英国大使だった父ジョセフはヒトラーの政策を密かに支援していたので、遊学の際にもさまざまな便宜が図られたと思われる。

ジョンはその時に取材したミュンヘン会議での体験を卒業論文にすることにした。論文を見た父は友人の新聞記者に頼んで推敲させ、出版社に持ち込み書物にした。この本はヒットして8万部も売れ、万年落第生がベストセラーを出したことに驚いたハーバード大学はジョンに優等の成績を与えて卒業させることとした。

卒業したジョンは海軍に入隊した。ここでも父は、裏から手をまわしている。自分と同じく不正利得で稼いだ金で海軍長官の職を手に入れたジェームズ・フォレスタルに頼んで、ジョンを魚雷艇の艇長にしてもらっている。後述するがこのフォレスタルこそがNSCのメンバーとしてこの機関を戦争マシンに変貌させた張本人なのである。

しかし、この海軍での経験はジョンを生まれ変わらせるきっかけともなったのである。

ソロモン海域を掃海中、ジョンの魚雷艇は突如、日本軍駆逐艦天霧と衝突し、船体がまっぷたつに割れて乗組員十三人が海に投げ出された。

海に投げ出されたジョンの目に映ったのは、海上を機銃掃射しようとする日本兵だった。さらにその傍にいた司令官があたかも「溺れている敵を撃つのは侍ではない」といったようなしぐさでその兵士に停止を求めているのを見た。

この体験こそが、後に第三次世界大戦の危機を回避することになったケネディ自身の考え方の基本となっているのではないか。

「敵も自分も同じ人間なのだ」ということをはっきり認識し、その司令官に友情のようなものを感じると同時に、個々人の思惑を超えて敵と味方として戦わなければならない戦争の無常さを、太平洋の荒波の中ではっきりと悟ったのだった。

ジョンはのちに、日本人学者の力を借りて、このときの司令官が、花見弘平少佐(当時)だったことを突き止め、福島県の生まれ故郷で市長になっていた花見との文通を開始している。やはり自分が思っていた通り、花見は機銃掃射停止の命令を出していた。想像通りだった。その後、大統領になったジョンは花見に対しして大統領就任式への招待状を送っている。ジョンにとってこの体験は、それほど大事なものだったのである。

ジョンも花見も、戦争さえなければ敵として戦う必然性のない若者たちであった。国家主義者たちが煽る憎悪に踊らされた若者たちではなかった。そして任務を履行した後に待ち構えているであろう将来を築きあげる広い自覚を持っていたという共通項が、ふたりの侍魂から読み取れる。

残念なことに花見少佐との再会は果たせなかった。代わりに就任式に出席したのは花見少佐をつきとめた日本人学者だった。

★南海の無人島からの生還

ジョンは日本海軍の艦隊にうずめつくされた上に、サメがうじゃうじゃいる海域を6キロも泳いで、無人島にたどり着いている。しかも負傷した仲間を命綱で引っ張りながらである。米海軍はケネディたち十三人の行方を捜すために、豪州軍と連絡をとった。豪州軍は日本軍に警戒されないために、ポリネシアの漁師たちに捜索を依頼した。

6日後、漁師たちは無人島に漂着していたジョンたちを発見した。お互いに言葉が通じない中で、日本軍に見つからないように救出するのは至難の業だったが、成功し、ジョンたちは餓死寸前で本土に生還することができたのである。

この生還劇は新聞に取り上げられ、ジョン・ケネディは一躍英雄となった。 

ジョンはポリネシアの命の恩人たちも大統領就任式に招待している。しかし、渡米ビザの発給に当たった英国の職員が「お前たちは英語が話せないから駄目」といって拒否したことで、渡米はかなわなかった。

若かりし頃に体験して吸ったドイツの空気と、自らが敵と対峙する戦闘の場で出会った体験の中で、ジョン・ケネディは世界の人々は恩讐を越えてつながっているのだということを実感し続けてきたのである。

さらにアイルランド移民の子孫であるということを卑下してとらえていた父ジョセフの道を歩むことは決してなかった。逆にジョンは、自らの出自を誇るとともに、奴隷として下げずまれ続けてきた黒人との連帯の気持ちも持ち続けていた。

つづく


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2014年04月25日

NSCを無視したケネディ 2

今日は、2014年4月25日、昨日はオバマ大統領が安部首相と共同声明を発表し、尖閣諸島も日米集団安全保障の範囲内であることを明言した。記者団からの質問に対して、日中の問題に対して軍事行動は起こすことはなく、あくまでも平和的外交交渉による解決を目指すと述べておられていたものの、歴史はいつどう変貌するかわからない、「アメリカに見捨てられたら困る」という自民党の要請に応えて盛り込まれた文言なのだろうが、悪しき大航海時代の遺産である領土紛争の狭量な考え方を、青い地球全体から俯瞰して平和的に解決する方向を目指した文言にするといった知恵が日米双方に生まれるのには、まだ時間がかかりそうだ。

すでに日中間は数多くの進出企業を中核とした経済的きずなで強く結ばれており、国際結婚による家族もたくさん生まれている。すでに狭量な国粋主義は通用しない時代なのにもかかわらず、問題を解決する提案なしに相手を非難するだけの「提案なしの誹謗中傷行為」が多すぎる。
こうした挑発は無視して、解決の方法だけを考えるのが大人の知恵というものではないか。

そういった広い知恵を獲得することを目的として、この連載では、アメリカのNSCを素材として、なぜアメリカの軍拡路線が世界をこんなことにしてしまったのかを、引き続き考えてみよう。

★屈辱をはらすための父ジョセフの蓄財

ケネディ王朝の富を不動のものにしたのは父親ジョセフ・ケネディである。裕福なアイルランド移民の三代目としてボストンに生まれたジョセフは、どんなに努力をしても、アイルランド移民でありカトリック教徒であるという理由によって、ボストンの社交界からはシャットアウトされ続けた。

人種のモザイク社会であるアメリカは、黒人差別をはじめとしてさまざまな人種間の軋轢を抱え込んだ巨大なるつぼであるが、大統領ケネディの行動原理に大きな影を落としている原点がアイルランド移民の問題であることをとりあえず、頭においていただきたい。

さてジョセフの生まれたケネディ家は、すでにある程度の財を成していたようだか、ジョセフは自分たちが社交界からははじき出され続けてきた恥辱を晴らすためには、勉学をして出世し、さらに富を増やして世間を見かえすことが、安住の道だと考えたようである。極めてプライドの高い人物だったようだ。

そこでジョセフは、必死に勉学してハーバード大学に進み、卒業するとともにニューヨークとシカゴに拠点を置いて金融業を開始した。

当時の金融界には今でいうインサイダー取引や空売りが横行しており、才覚のある人間が短期間に大金を手にするのには絶好な環境だった。ジョセフはシカゴを拠点とするマフィア・グループと組んでタイミング良く株を売買して富を築き、造船、鉄鋼、映画、酒類販売など、次々に事業を拡大していった。

そのころのアメリカにはインサイダー取引を取り締まる法律などというものはなかったし、その汚いやり口を批判しようものなら、マファイアから命を狙われる時代だ。ジョセフは違法行為ぎりぎりの黒い金をかき集められるだけかき集めて、当時の世界最大のビルだったシカゴのマーチャンダイズ・マートビルを買い取って、世間をあっと言わせ、あれよあれよという間に東海岸一の金持ちとなったのである。


★ケネディ家の悲劇の始まり

アメリカ人はケネディ王朝を批判するときによく「フィルシー・ルーカ」(不正利得)という言葉を使う。これはジョセフが行った錬金術のことをさすが、ケネディ家の人々はこの言葉を投げかけられても反論できない。大きなジレンマとなって、今に至るまでケネディ家の人々の心を苦しめているのだ。しかし、これは時代が産んだ産物でもある。私たちは、アイルランド移民としていじめられてきた人々の気持ちを理解するという広い視野も持つ必要があるということを、ひとこと付け加えておく。

さて、ジョセフはその財力を利用して政界に進出しようとし、手始めに同じアイルランド移民であるフランクリン・ルーズベルトが大統領に立候補したときに巨額の財政支援を行っている。それが功を奏しジョセフは初代証券取引委員会委員長のポストを手に入れた。

世間からは不正利得で富を得た人物にこうしたポストを与えるのはとんでもないという批判が渦巻いたが、ルーズベルトは意に介さなかった。ルーズベルトにとっては、同じアイルランド移民の仲間であり、お前たち東部エスタブリッシュメントは自分たちを差別し続けれてきたのではないかという気持ちもあったからだ。

にもかかわらず、このポストに満足しなかったジョセフはルーズベルトに対して、財務省長官のポストを求めた。さすが元悪徳相場師を財務長官にすることは無理だったので、ルーズベルトは自分への非難を回避するために英国大使のポストを与えることにした。

英国の社交界と対等に付き合える大使の地位は、それなりに満足のゆくものだったらしい。アメリカを代表する大使であり、しかも駐在先は飛ぶ鳥をも落とす勢いで栄えた大英帝国である。英王室との交流もできるし、英国社交界からは常にゲストとして迎えられる立場である。こうしてジョセフは自分が若いころに味わったボストン社交界での屈辱も果たすことができたのである。

実のところジョセフはひそかにこの地位を利用して米英双方に人脈を作り、帰国してアメリカ大統領に打って出ることを夢見ていた。

ところがジョセフはユダヤ人を嫌っていたことから、同じくユダヤ人を嫌っていたヒトラーに理解を示し、ユダヤ人排斥の方針を打ち出していたナチスを強く支持していた。

ジョセフは新聞のインタビューで「英国はナチスと戦っているのではない、自己保存の戦いをしているのだ、英国の民主主義は死んだ」と思わずナチス擁護の本音をしゃべってしまったのである。

英米両国の国民はこの発言に怒り、ルーズベルトはジョセフを解任することで事態を収拾するしかなかった。ホワイトハウス入りを夢見たジョセフの野望はこうして自分自身の舌禍によって完全に断たれてしまったのである。
 
それにもめげず、ジョセフは自分が果たせなかった夢を長男のジョーに託そうとした、ハーバード大で優秀な成績だったジョーは、父親の夢に応えるために猛勉強して政界に入る準備をしていたが、ドイツとの戦争が勃発、海軍の特別任務に志願したジョーは特殊任務の訓練中、飛行機の爆発事故で死亡してしまったのである。

特殊任務とはドイツを攻撃するために、相手への打撃を最大にするために大量の爆弾を積んだ戦闘機のテスト飛行だった。ジョーの操縦する戦闘機の大量の爆弾が暴発し、機はこなごなに粉砕されたのである。

これは「ケネディ家の悲劇」と呼ばれる一連の事件の序章でもあった。

つづく





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2014年04月12日

NSCを無視したケネディ 1

 旭丘光志さんからコミック完全版劇画『J・F・ケネディ』(木本正次原作、旭丘光志劇画、少年画報社)が全国のコンビニに並んでいるよという連絡を受けた。さっそく近所のコンビニに行ったら、七〇四頁の分厚い劇画本が平積みになっていた。六四八円だったが、作画が大変な割にマンガ本というものは安いものだと思いながら買って帰り、一気に読んだ。

 旭丘光志さんは二十代で少年マガジンや少年ジャンプに数々の劇画によるドキュメント作品をものにした劇画家だ。劇画のタッチは、ゴルゴ13で有名な「さいとうたかお」さんの作風に似ているが、クールなさいとうさんの描写に対して、人物の温かさを感じさせる描写に特徴がある。

 その後、旭丘さんは作家に転じ、ドキュメント作品や統合医療に関連した書物を書き続けている。

『J・F・ケネディ』を手にして嬉しくなった私は旭丘さんに「この機会に劇画家として再デビューしてくださいよ」と言ったところ、「あんな徹夜続きの大変な世界はもういやだね」と笑っておられた。

 新装なったこの『J・F・ケネディ』は、ケネディの暗殺の六年後、徹底的な取材を行った元毎日新聞記者で、作家として『黒部の太陽』などのドキュメンタリー小説を発表していた木本正次さんの原作をベースとしたものだ。旭丘さんの仕事ぶりを知っている私には想像がつくのだが、連日のようにふたりで膝をつきあわせて、当時入手できたあらゆる資料をかき集めて制作したと思う。インターネットのない時代のこと、資料集めは大変な作業だったろう。

 アメリカで仕事をしたときに、米国議会図書館に通ってアメリカ史を多少かじったことのある私なので、この劇画が描く史実の正確さには舌を巻く。劇画で読めるケネディの伝記としてぜひ手元にそなえていただきたい。

★NSCの助言を拒否したケネディ大統領 
 
 さて日本政府は2013年1月に、国家安全保障会議を発足させた。日本版NSCと呼ばれているとおり、アメリカ大統領の軍事諮問機関として機能しているNSCをモデルとしたものである。
 しかし、アメリカのNSCはどんな機能を持ち、何を行ってきたかについて、一般の日本人にはほとんど知られていない。そこで、「NSCとは何か」ということについて、連続して解説することにする。

 私は旭丘さんの劇画を手にしたとたんに、脳裏に浮かんだのは、「ケネディはNSCの助言を無視することにした始めての大統領である」という事実である。

トルーマン大統領時代に生まれたNSCは、シビリアン・コントロールによって国家の安全を守るという理念のもとに生まれたものであるが、はたしてアメリカの国防にどれだけ役立ったのだろうか。むしろ世界各地で戦争を引き起こし、途上国の人々を苦しめ続けてきたのではないか。

 本土攻撃の経験のないアメリカにとって、NSCは「念には念を入れて」という考えのもとに作られた機関であった。しかしこの機関は今まで一度も本土防衛のために機能したことはなく、すべて外国での戦争を行う機関として機能してきたのである。

史上最年少の若さで大統領となったジョン・ケネディは、学生時代から平等を標榜しながら平気で黒人差別を容認し続けるアメリカのやり方に反抗してきた人物である。公民権運動のリーダー、マーチン・ルーサー・キングJrが座り込みで逮捕された時は、大統領選の真っ最中だったが、キング師夫人に電話して励ますと同時に、釈放のために奔走している。公民権運動を旗印にした初めての大統領でもある。
 
大統領就任直後は、右も左もわからずに、国の行方を左右するNSCの各メンバー機関の助言に従っていたが、その助言が机上の軍事戦略に過ぎないことに気づくや否や、NSCとは一線を画すようになり、以後一切、NSC会議を招集していない。
 
きっかけは1961年のCIA主導によるキューバのピッグズ湾事件だった。当時のNSCでは、飛ぶ鳥を落とすような勢いで反響スパイ工作を行っていたCIAが幅を利かせていた。CIAはキューバの共産化阻止を目的として、亡命キューバ人多数に軍事訓練をほどこし、2千人ほどの傭兵を組織した。この傭兵をキューバのピッグズ湾から密かに上陸させたのである。
 
しかしこの作戦は、20万のキューバ正規軍によって壊滅されて見事に失敗。アメリカの正体を見たカストロをソ連に急接近させることとなったのである。
 
初めてNSCの御前会議の議長としてピッグズ湾上陸作戦を承認してしまったケネディはこの失敗を深く反省すると同時に、以後一切NSC会議を開催しないことを決のこと意した。

 その一方、カストロの愁眉に気を良くしたソ連は、共産圏の仲間になってくれたカストロに大きなプレゼントをすることにした。いつアメリカによって第二のピッグズ湾事件が引き起こされるかも知れないので、キューバは軍備を拡張して襲撃に備える必要があった。しかし、サトウキビ産業のほか、さしたる資源を持たないキューバにとって軍拡は、大変な負担であった。それを見越したソ連は、キューバに空軍基地を贈与したのである。
 
 いち早く空軍基地建設をキャッチした各諜報機関は、ケネディ大統領に対し、急遽NSCを招聘して、キューバ攻撃の作戦を行うよう進言した。何せ、キューバはアメリカ本土のフロリダからわずか145キロしか離れていない。NSCを構成する国防省や、国務省、さらにCIAをはじめとする諜報機関はいきり立っていた。 

 しかし、ケネディは、NSCの進言を一切無視し、ホワイトハウスの執務室に籠もって、NSCのメンバーたちには想像もできないような作業を行っていたのである。

 もしケネディがNSCを召集していたら、コトは第三次世界大戦に発展したかも知れない。NSCのメンバーたちはキューバ攻撃を強く求めいた。キューバ攻撃が遂行されればどうなるか? 当然、ソ連が動くこととなる。そうなればどちらかの首脳が原子爆弾のスイッチを押すこととなるかも知れない恐ろしい賭けだ。

 ケネディはそのことの恐ろしさを明確に自覚していた。自覚していたからこそ、NSC
の進言を無視したのである。

つづく

 

posted by 菅原 秀 at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 民主主義とは何だろう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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