2009年08月02日

エーミールの涙(2)初めてドイツ人を許したフランス女性

●フランスの元レジスタンスの女性に届いた招待状

この話は、ヨーロッパとアメリカでは、何度も語られてきた話だ。もちろん日本にも伝わっている。しかし、何度でも繰り返し語り継がれなければならない話だ。「ヒロシマ」の語かたりべり部と同じように。 といっても、この話は「ヒロシマ」とはまったく質の違う話である。犯した罪の事実を知る話ではなく、犯した罪にどう対応すればいいかという話なのである。人間精神そのものにかかわる、重要な話である。 第二次大戦が終わった翌年の一九四六年、フランスの国会議員イレーヌ・ローのもとに、一通の招待状が届いた。

少女時代から、周囲の恵まれない貧乏な人々をどうやって助けたらいいかということばかりを考え続けていたのがイレーヌだった。困った人を見逃すことのできない性格のイレーヌは、土建業のビジネスマンだった父親の靴下をこっそり家から持ち出して、貧乏な労働者に分け与えるといったことを繰り返していたそうである。 そんな彼女は看護師となり、マルセイユの船乗りで社会主義の活動家でもあった

ビクターと意気投合し、やがて結婚した。ナチスがフランスに脅威を与えるようになると、夫とともに反ナチ・レジスタンス運動に加わり、苦しい戦いを続けることとなったのである。

フランスを占拠したドイツ軍のゲシュタポは、次々に仲間たちを捕えては殺害した。食糧の配給もとどこおり、子供達は栄養失調に苦しんだ。イレーヌは機関銃を持ったドイツ兵の監視の中でレジスタンスの仲間をかくまい、苦しい運動を持続した。そうした経験による心の傷が、ドイツに対する恨みとなって彼女の心の中を渦巻いていた。「ドイツ人はこの世から滅びて欲しい。ドイツという国の存在そのものをヨーロッパから消し去らなければならない」 しかし、行動的な彼女は、そうした憎しみを打ち払うかのように戦後第一回目の国政選挙に打って出て、みごとに国会議員として当選したのである。

さて、招待の主は、アメリカ人の牧師フランク・ブックマン博士だった。スイスの山村の古いホテルで、ヨーロッパの復興のための国際会議を行うので、出席して欲しいという要請だった。 ブックマン博士はロンドンに滞在しながら、フランスのレジスタンスに物心両面での応援をしてくれた人物でもあった。その博士が、戦火で疲弊しつくしたヨーロッパの復興に乗り出すことを知って嬉しかった。早速、出席する旨の返答をした。 そのホテルはジュネーブ湖に面したコーという山村にあった。まるでお城のような建物で、アルペンスキーに訪れる客のために建てられたものだという。戦前は冬季オリンピックの選手団の宿泊所として世界中のアスリートたちを集めていた豪華なホテルだったが、第二次世界大戦のために長いこと休業していた。そのホテルをブックマン博士たちがヨーロッパの復興のための国際会議の場としてマウンテンハウスと名づけて再生させたのであった。

湖を見下ろす小高い山の中腹に建ったマウンテンハウスは素晴らしい建物だった。にもかかわらず、隣国スイスでの戦後初めての国際会議に参加したものの、イレーヌは落ち着かなかった。大勢の参加者がドイツ語を話しているのを耳にしたからである。 イレーヌにとって、ドイツ語の響きは、はらわたが煮え返るくらい不愉快なものだった。フランスを奈落の底に引きずり降ろし、レジスタンスの仲間を次々に殺害した悪魔の響きであった。 

ブックマン博士としては、この会議にどうしてもドイツ人を参加させる必要があった。一九四六年当時のドイツ人は占領軍による特別査証がない限り、国外に出ることは許されなかった。ところが博士がアメリカ人であったということも幸いしたのであろう。連合国占領軍との粘り強い交渉により、百五十人のドイツ人が、このマウンテンハウスの国際会議への出席を許されたのである。 

ドイツ語を耳にしたイレーヌは、心の底に眠っていた憎悪が、ふつふつと煮えたぐってくるのを感じた。居ても立ってもいられなかった。そこで、荷物をまとめて帰国することをブックマン博士に伝えた。

博士は語った。「ドイツなしで、これからのヨーロッパをどうやって統合すればいいのですか。あなたはこれからのヨーロッパの平和を作り出すために、ここに来たのではありませんか」 イレーヌは博士の言葉にショックを受けた。部屋に戻るとそのまま閉じこもって、二日間考え続けた。「自分のこの憎しみの感情をどうやって消せばいいのか。この憎しみと復讐心は、自分が本当に求めていたものだったのだろうか」


●ドイツ人を赦したイレーヌ・ロー 

イレーヌは決心して、三日目の昼食に参加した。イレーヌのテーブルに、ひとりのドイツ人の女性が座っていた。イレーヌは彼女に向かって堰を切ったように語り始めた。「あなたたちのおかげで、フランスは信じられない苦しみを味わいました。あなたにはその苦しみはわからないでしょう。大勢の人々があなた方の手で殺されました。わが子であるルイが受けた苦しみがわかりますか? ドイツ兵は息子にあらゆる拷問を行ない、言葉を発することができない生ける屍しかばねにして、私の両腕に押し付けたのです」 ドイツ人の女性はテーブルの上に置いた手をぶるぶると震わせながら、イレーヌの話をじっと聞き続けた。「あなたたちによって、愛する仲間たちを失ったこの憎しみを、どうやって消し去ればいいのでしょう?」 

ドイツ人の女性はイレーヌの問いかけに、長いこと黙りこくっていた。やがて、静かに口を開いた。「もし許してもらえるのでしたら、話させてください。私の夫はヒトラーを暗殺しようとしたグループの一人です。夫は捕まり、絞首刑になりました。二人の子供は連れ去られて、偽名で孤児院で暮らすことになりました。終戦の後、やっと子供たちを取り戻すことができました。私たちはもっと早くナチスに対して抵抗をしていればよかったのですが、不十分でした。もっと大きな抵抗運動をすべきでした。そのためにあなた方に無限の苦しみを与えてしまいました。心からお詫びします」 

その女性は、ヒットラーの暗殺に失敗して殺されたアダム・フォン・トロットの未亡人だった。アダム・フォン・トロットはナチス時代の外交官だった。イギリスに駐在していたときにヒトラーのユダヤ人虐待を知り、それを止めるために一九三八年に帰国した。しかし、ナチスはすでに恐るべき殺人集団になっていた。トロットはやむなく、ヒトラー政権を打倒することを目的に設立されたクライザウ・サークルという小さなグループに加わった。やがてこのグループは軍の中枢部の人々とともにヒトラーを暗殺し、クーデターを起こす計画を立てたのである。

「七月二十日事件」または「ワルキューレ作戦」と呼ばれるこの暗殺計画は失敗し、関係者はことごとくナチスによって虐殺された。 話を聞いているうちに、自分以上の苦しみを味わってきたトロット夫人に深く同情したイレーヌの喉から嗚咽がこみ上げてきた。

二人は手を取り合って泣きじゃくり、お互いを許すことにしようと約束した。 翌日、イレーヌは集会場に集まっていたドイツ人たちの前で、自分の心の内を語った。「私はドイツ人を心の底から憎んでいました。ヨーロッパの地図からドイツを消し去りたいと思っていました。しかし、ここに来て気づきました。私が抱いていた憎悪は間違ったものだったということを。ここにいるドイツ人の皆さん、どうか、あなた方を憎悪していた私を許してください」 

居合わせたドイツ人たちは、次々に言葉を発した。「許しを請うべきなのは、私たちドイツ人です。ナチスによる侵略と虐殺を止めることができなかった私たちを許して下さい」 その場に、後に西ドイツ首相となるコンラート・アデナウアーがいた。アデナウアーはイレーヌの「許して下さい」という言葉を聞き、衝撃を受けた。 


●「和解」を訴える旧敵国ドイツへの旅

その後、アデナウアーはイレーヌを西ドイツに招待し、ドイツ各地で講演会を開くことになる。講演会でイレーヌの話を聞いた聴衆は、次々に自分たちの許しを求め、フランスとの和解を求めた。イレーヌの西ドイツ・ツアーをきっかけに、和解の気持ちを演じるためのミュージカル劇団が組織され、その後、ヨーロッパ各国で公演が行われるようになっていった。

それまでの歴史には、和解という概念がなかった。あったとしても、せいぜい戦争当事国同士の和解交渉の範囲で使われる言葉に過ぎなかった。戦争の犠牲者は国民である。その国民同士が、負けるか勝つかという弱肉強食のルールとはまったく違うレベルで、お互いの和解という平和の手法を生み出したのである。 今でこそ、各地の悲惨な戦争の戦後処理のプログラムに、相手国の個々の人々との和解を醸成するプログラムが作られるようになったが、その原形が生まれたのが、一九四六年のマウンテンハウスでの国際会議だったのである。 

もちろんイレーヌのドイツ・ツアーでフランスとドイツの和解が一気に進展したわけではない。ドイツは正しかったと考える人が大多数の時代がずっと続いた。しかし、ドイツとフランスとの間での最初の和解のきっかけは、こうしてアメリカ人牧師ブックマン博士の力によって、開かれたのである。 ブックマン博士は、なぜこのような国際会議を開いたのだろうか。 博士は、英国の大学で教えながら、ナチスのような恐ろしい考えを阻止するためには、心の道徳を再武装しなければならないと訴え続けていた。博士のもとで学んだ生徒たちはこの考え方を世界中に広めるために、博士の訴えを「道徳再武装運動」(モラル・リアーマメント・ムーブメント:MRA)と呼び始めた。 

MRAの運動を展開するためには、国際会議が開催できて大勢の指導者たちが宿泊できる施設が必要だ。そうした中、スイスの休眠していたホテルに着目したブックマン博士の弟子たちは、ホテルを管理していた銀行と交渉した。 再建をあきらめかけていた銀行は、ホテルを平和構築のための国際会議場にしたいというアイデアに興味を持った。現地の地方自治体も世界各地からのVIPの会議場へというアイデアを歓迎した。その結果、破格の値段で売却してくれたのである。 

こうして、このマウンテンハウスには全世界からの政治家や、財界指導者が集まることになったのである。マウンテンハウスは一貫して、異なった立場の人々と協調し和解するためにはどうしたら良いか、というテーマでの国際会議を行う場として機能し続けることとなった。MRAは現在ではイニシャチブ・オブ・チェンジと名前を変え、全世界で静かな運動、つまりお互いの誤解を解く運動を展開している。

(続く)      (c)菅原 秀 2009 

先を読み進みたい方は『ドイツはなぜ和解を求めるか』(菅原秀著、同友館)をお求め下さい。   

 
【エーミールの涙の最新記事】
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2009年05月28日

クメールの涙 司法無視のフン・セン首相

▼カンボジアから届いた今回の事件は、今のところ日本のメディアには報道されていない。小さな裁判事件にしか見えないからかも知れない。しかし、カンボジアの人々は、未だにきちんと司法や立法にアクセスできない状態に置かれているのである。まさにその状態を象徴する出来事として注目すべきである。(菅原秀)

●カンボジアの大虐殺に気づかなかった日本

カンボジアのど真ん中にあるトンレサップ湖は、人々に大量の魚をもたらす恵みの湖だ。はるか遠くのヒマラヤからの水は、いったんこの広大な湖に貯め込まれて魚介類に栄養をもたらし、さらにカンボジアの農地に恵みの水をもたらしながら南下してゆく。しかし雨期になるとメコンの流れは北に向かって逆流し、トンレサップ個を何倍もの大きさに膨れ上がらせ、場合によっては近隣の村々をも飲み込み、田畑を水浸しにしてゆく。

だからカンボジアの農民は「浮き種」というモミを水田に蒔くという農法を古くから行ってきた。トンレサップ湖の魚から作られる魚油と、たっぷりと水につかりながら育ったコメが、カンボジア人の命綱だ。そうしたつつましやかな生活を続けてきたクメール人(カンボジア人)に最大の厄災をもたらしたのがクメール・ルージュ(ポルポト派)だった。

彼らによって虐殺された人々は200万人とも300万人とも言われるが、その実数は未だにわからない。当時、共産主義を標榜したクメール・ルージュ政権の友邦国であったユーゴスラビアのテレビ・クルーが、首都プノンペンの人々の数が異常に少ないことに気づいて、極秘の調査を進めるまでは、大量虐殺は一切外部には伝わらなかった。ユーゴスラビア当局者が秘密裏に調査をし、虐殺が行われていることを国際社会に伝えたが、それが事実と分かるまでには長い時間がかかっている。

日本もご多聞に漏れず、そうした事実を認めたのは欧米の友邦国が事実を確認したずっとあとのことだった。かつてプノンペンに支局を持っていたマスコミ各社も、1975年に一斉に現地から撤退していたにもかかわらず、虐殺の事実をまともに調査しようとはしなかった。

クメール・ルージュ政権崩壊後の1979年には、カンボジア難民が命からがらタイ東部に逃れていき、日本のNGOとマスコミに虐殺の事実を訴え続けたのだが、マスコミはその報道をためらい続け、その後10年間に渡って多くの記者が「カンボジアの大虐殺の噂は嘘だ」といい続けてきたという有様である。

そのカンボジアは国連の介入による選挙を経て、ひどい回り道をしながら民主化を目指してきた。

しかし人民党のフン・セン首相は98年の選挙でその座を手に入れて以来、徹底的に野党を弾圧しながらその政権を維持してきている。フン・セン首相の下で蔓延しているのは国全体の汚職である。役所の手数料の上乗せ請求、学校教師の生徒からの賄賂、医療機関が求める賄賂、さらに極めつけは森林伐採に関する伐採権をめぐる賄賂や、取締官への賄賂などである。

危機感を抱いたアジア開発銀行は2000年にカンボジア政府に対して、森林伐採の全面禁止の勧告を行っている。収入の大部分を海外に依存しているカンボジア政府は渋々その勧告に従い、悪質な伐採業者3社を放逐しさらに、今までの業者にもモラトリアムの規制を行ったようだが、世界各地の環境団体がカンボジアのモラトリアムは機能しておらず、森林は消失する寸前であるという強い警告を出し続けている。

先進各国はこうした状況に危機感を抱き、フン・セン政権に対し、汚職をなくし、民主化を推進するよう強く迫っているが、当のフン・センは耳を貸さない。それどころか国内で汚職撲滅を強く訴え続けるサム・レンシー党の議員たちを集中的に弾圧し、開会中に逮捕することをほのめかして、議員が亡命せざるを得ない状況を作るなど、気ままにふるまっている。

遠く離れた地域で起きている危機に特に鈍感なのが、日本の政府とマスコミである。これから書こうとする出来事も、すでに国際社会が注目し始めているにもかかわらず、日本の政府とマスコミがだんまりを決め込んでいる例だ。


●クメール女性の尊厳を守る戦い

日本にも来日したことのあるカンボジアの元女性大臣ムー・ソクアさんが、フン・セン首相を訴えたのが今回の事の始まりである。

ムー・ソクアさんをローマ字綴りにするとMu Sochua。クメール語では子音が呑み込まれるので、ソッファという風に発音するそうだが、日本ではムー・ソクアさんとして知られている。

ムー・ソクアさんは1954年生まれ。ベトナム戦争の最中、高校を出るとと同時に海外に逃れざるを得なくなり、フランス、イタリア、アメリカで18年間にわたって亡命生活を続けた女性だ。その間、カンボジアにとどまっていた両親の行方は分からなかった。 

ポルポト派の崩壊後、彼女はタイの難民キャンプに向かい、ボランティア活動をしながら両親を探したが、情報を得ることはできなかったようだ。

1989年に新生カンボジアに帰国した彼女は、フンシンペック党のメンバーになると同時に、女性問題と人権問題に真剣に向き合い続け、1998年にはダッタンバン州選出の国会議員に当選、女性・復員軍人省の大臣になる。

その間、カンボジアが直面している女性や子供の人権問題や人身売買問題を積極的に取り上げ、アジア各国のNGOと連携しながら問題の解決に取り組んだ。来日した際も日本政府やNGOとの活発な会議をこなし、カンボジアから日本に売られてくる人身売買のルートを根絶するための最大限の努力をしている。そうした活動は各国から評価され、ヒラリー・クリントンが主催する財団「バイタル・ヴォイス」の国際人権賞を受賞したのを皮切りに、数々の賞を得ており、ノーベル平和賞にも例年のように推薦され続けている。

2004年に大臣の任期を終えたムー・ソクアさんは、野党第1党のサム・レンシー党に移籍し、カンボジアの最大の問題である汚職問題に取り組むようになった。サム・レンシー党は海外からの支援は国民に届くことなく、独裁者として君臨するフン・セン首相の政権維持とのために機能しているに過ぎないと、厳しく啓発し続けてきた。そのグループに彼女も加わったのである。


●発端はフン・セン首相の侮辱発言

サム・レンシー党の汚職追放活動を快く思っていなかったフン・セン首相は09年の4月、明らかにムー・ソクアさんに当てつけた侮辱的な発言を行ったそうである。現地のプノンペン・ポストの報道によればフン・セン首相は、4月上旬カンポット州に出向き、「カンポット州にはチェウン・クラン(強い脚)の女がいる。あえてその女の名前を言う必要もないが、その女は人々を扇動して政府を攻撃することしかしていない。選挙戦の最中にも男に抱きついて、自分にキスをさせるためにブラウスのボタンをはずす始末だ」といった内容の侮辱的な発言を行ったとのことである。

「チェウン・クラン」というのは女性を侮辱する極めて強い言葉だとのこと。この言葉に対し、クメール女性として最大の侮辱を受けたと考えたムー・ソクアさんは4月23日、プノンペン地裁にフン・セン首相を相手取って名誉棄損罪の提訴を行った。請求金額は500リエル。日本円にすれば約12円程度の少額で、フン・セン首相側が謝罪してくれることを求めたものである。

これに対してフン・セン首相は24日、「彼女を名指ししたわけではないので、こうした訴訟は不当である。名誉を傷つけられた」としてムー・ソクアさんとその弁護士のコン・サム・オン氏をされぞれ名誉棄損罪で逆提訴した。ふたりへの請求金額それぞれ100万リエル。日本円で約25万円。公務員の月給が3千円程度のカンボジアでは、かなり大きな金額なので、敗訴した場合はふたりに大きな経済的負担がかかることになるだろう。

フン・セン側が雇った弁護士はキー・テック氏。元弁護士会の会長だ。このキー・テック氏はフン・セン首相の意向を受けて、ムー・ソクアさんが依頼した弁護士コン・サム・オン氏の弁護士の資格を剥奪する動きに出た。フン・セン氏は定員123人のカンボジア国会の圧倒的多数を占めるカンボジア人民党の
党首として、強い権力を保持している。

カンボジアの弁護士協会は、そのフン・セン首相を永久会員として遇しており、元会長の鶴の一声で、コン・サム・オン氏の聴聞作業を開始している。容疑は「政治的意図のもとにカンボジア首相を告訴した」と報道されている。自分が告訴されたことに腹を立てて、弁護士資格を剥奪する動きに出るなどというのは、
司法そのものを否定する行為である。司法の独立をまったく尊重しないフン・セン首相の体質が露呈されたと言えよう。

さらに与党人民党は、ムー・ソクアさんの議員不逮捕特権を剥奪する動議の準備をはかっている。「議員の不逮捕権を剥奪するなんて簡単なことだ」という24日の記者会見でのフン・セン首相の発言は、そうした可能性を示唆するものである。

フン・セン首相は、ムー・ソクアさんが告訴を取り下げれば自分も告訴を取り下げると語っているとのことだが、ムーさんは「フン・セン氏の側から取り下げない限り、取り下げない」としている。しかし弁護士が懲罰委員会にかけられている今、彼女の裁判をあえて引き受ける弁護士はいないであろう。弁護士なしでの法廷を戦わざることになる可能性が大きいのである。

こうした動きを知ったプノンペンのNGO9団体は、政府に弾圧されるという危険を承知で声明文を出した。さらに海外、特にアメリカのラジオ局が一連の動きをフォローしているが、アメリカの「ヴォイス・オブ・アメリカ」からの質問に対して各NGOの代表が次のように語っている。

「女性の尊厳を訴えてささやかな告訴をしてムー・ソクアさんに男らしく謝罪することができないどころか、強圧的な態度で抑えようとするフン・セン氏は、女性が声を出そうとするのを頭ごなしに抑えて、おびえさせている。今、私たちが声を上げなければ、せっかくここまで築き上げてきた女性の声が政治に反映されなくなる」セン・テアリーさん(NGO社会開発センター代表)

「政府も野党も、1992年に女性差別をなくすための条約である「女性に対するあらゆる形態の差別撤廃条約」(CEDAW)を批准して、共に女性差別をなくそうと立ち上がったはずではないか。その精神をないがしろにする不法行為である」プン・チック・ケックさん(NGOリカド代表)

東京在住のメコン・ウォッチャーとして著名なバーナード・クリッシャーさん(元ニューズウィーク東京支局長は日本政府に対して次のように問いかけている。

「他国に干渉しないという原則は、ヒトラーが6百万人のユダヤ人を絶滅キャンプに送り、ポルポトが200万人のカンボジア人を殺害することを許した。今、そうした不干渉主義によって、アウンサン・スーチーの刑務所への収監を許容されようとしており、ムー・ソクアとその弁護士への弾圧が許されそうとしている。隣の家で子供が虐待されているのに何もしないのは人道主義に反する」(カンボジア・デイリー09年5月18日号)

相手国に対して人権侵害をただちに停止するよう明確なメッセージを発することをめったに行わないのが日本政府の外交方針である。しかし、それを知って自国の民主化に手をつけようとしないフン・セン首相のような独裁者をこれ以上甘やかし続けてよいのだろうか。苦しんでいるのは支援する相手国の最下層にいる人々なのである。
                      
posted by 菅原 秀 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | アジア基礎知識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月09日

エーミールの涙(1)ベルリンで見たエーミールの痕跡

▼ケストナー好きの機内乗務員

ベルリンと聞くと私が真っ先に思い出すのは、エーリヒ・ケストナーによる子供向けの物語『エーミールと探偵たち』だ。子供の頃の私はこの物語を、胸を躍らせながら、おそらく十回以上も読んだものである。それほど面白い本だったのはなぜだろうか。あの山高帽の詐欺師を大勢の子供たちでやっつける場面は、子供の心にとって実に爽快だったからと
いう理由だけだろうか。恐らくケストナーの描写力に、子供の魂を揺り動かす何かがあったに違いない。二〇〇七年五月、そのベルリンヘ向かうために私は、六人の記者団の一員としてルフトハンザの機内の客になっていた。今回の旅は、ドイツ文化センター(ゲーテインスティトゥート)の企画によるものだった。日本の記者をベルリンに招いて、ドイツ
の各機関が過去の清算をどう行ってきたのかをつぶさに見てもらおうという、しごく生真面目な企画である。

九日間の旅であったが、五人の記者と大学教授一人による総勢六人の一行は、忙しい中でスケジュールをやりくりしたので、飛行機の座席についてからやっと、下調べを開始するという状態だった。それぞれ眠い目をこすりながら、これから訪ねていくベルリンの各機関の資料を読み込むのに余念がない。

私の前の座席には四十歳ぐらいの日本人の母親と、小学低学年の男の子が座っていた。ベルリン行きの直行便はないので、この飛行機はミュンヘン行きだ。その親子はミュンヘンに赴任している父親を訪ねての旅だということが話の端々からうかがえた。数時問後、椅子で眠っていたと思ったその母親が立ち上がり、棚の荷物を降ろそうとして手を伸ばした
とたん体がふらついた。そのままよろけて通路に倒れてしまった。通路をはさんで隣に座っていたドイツ人の若い女性と私が思わず立ち上がり、ふたり同時に手を伸ばして母親を助け起こした。「ドシン」と音がしたのだが、通路に打ったのは頭ではなく、お尻のようだった。怪我はないようだが顔面は蒼白だ。子供が泣きながら「お母さん、お母さん」と叫んでいる。

恐らく、例の「エコノミー症侯群」というやつだろう。母親はしきりに「大丈夫です。大丈夫です」というものの、「エコノミー症候群」を心配した私は、とりあえずトイレに行くように促した。さらに私は、母親がトイレに行っている問に日本人の乗務員を呼んできて、隣のドイツ人女性と一緒にことのいきさつを説明した。

トイレから戻ってきた母親の顔面に赤味が差していたので、ほっとした。心配顔の日本人乗務員が何度も母親の席に来て、薬やタオルの類を運び、声をかけてくれる。献身的な彼女は、私や隣のドイツ人女性にも、「お怪我はありませんでしたか」と気を使ってくれる。

「いやあ、日本人の乗務員がいてくれて、助かります」
という私の言葉を聞いた彼女は、
「私は子供の頃にドイツの本を読んで、ドイツが好きになり、ルフトハンザに就職したのです」
にっこりしながら、自分のことを話し始めた。
「へえ、どんな本を読んだのですか?」
「ケストナーです。全部読みました」
私の大好きな作家の名前が出たので、驚くとともに嬉しくなった。

「え、あのエ-リヒ.ケストナーですか。私も大好きで、子供向けの本は全部読んでいますよ」
「ケストナーはナチスが大嫌いだったんです。子供の目線に立ってナチスを批判し続けたケストナーがいる国に行きたい。そう思ってケストナーのことを調べているうちに、ドイツ語を勉強するようになり、その結果、こうしてルフトハンザで働くことになりました」
「それは素晴らしい。ケストナーのおかげで仕事が見つかったんですね。ルフトハンザには日本人は何人勤めているんですか」
「四百人です」
「え、そんなに大勢、働いているんですか」
「でも、大きな会社ですから、日本人は少数派ですよ」
四百人もいるのに少数派だなんて、驚いた。ルフトハンザはそんなに大きな会社だったのか。と同時に、この四百人という数は日本とドイツの長い交流の歴史を物語っているのではないかとも思った。

私は、『エーミールと探偵たち』のあらすじを思い浮かべながら、とても大事な質問をした。

「私はベルリンが初めてなんですが、ケストナーの小説に書かれているベルリンの町の名前や通りは全部覚えています。今でも残っているんでしょうか」
彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「ベルリンに行ったらびっくりしますよ。エーミールたちが集まった広場も、山高帽の男が泊まったホテルも、映画館も、郵便局も、駅も、もちろん新しくなってはいますが、皆昔の場所に残っています。『エーミールと探偵たち』を手にしながら、ベルリンを回って歩く文学ツアーをしている人もいるんですよ。


▼ベルリンの町にはエーミールの足跡があった


今回の旅は、ドイツの戦後補償の実態を知る視察旅行だ。難しい話の連続で疲労困響る旅になるかも知れないと思つていたが、ルフトハンザの乗務員のおかげでベルリン行きの別の楽しみが生まれた。

さて、ミュンヘンで国内便に乗り換えてベルリンに着いた私たちを迎えてくれたのはヴォルフガング・バウアーさんという学者だ。今回の私たちのための通訳兼旅行案内人だ。北海道大学大学院で八年問経済学を研究した人で、最近ドイツに戻り、仕事を探しているうちに案内人の話を引き受けることになったとのことだ。ドイツでは彼のように四十歳を過
ぎても就職していない人はざらである・高等教育機関で長いこと研究活動をして実績を積んでから、しかるべきポストを探すという人生の生き方を選んでも通用する社会がドイツという国なのだ。

私たちを迎えてのオリエンテーシヨンは、その日の夜。シュプレー川の美しい川面に接しているホテルのテラスで行われた。のっけからビールを注文しながら、バウアーさんが翌日からの視察計画を説明する。

「明日から、かなりタイトなスケジュールが始まりますが、朝の一時間ほどを使ってベルリンの町をミニバスで一周しましょう。ベルリンがどうなっているかをいったん頭に入れることで、今後の旅の参考になると思いますから」

この提案に、私は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「エーミールの探偵事件の足跡を見て回れる!」
他のメンバーは、なぜ私が大喜びしているのかわからなかったようだ。長旅で疲れているのにミニバスから町を眺めるだけのために、わざわざ朝早く出発するのは面倒くさいという顔をしていた。しかし、私がバウアーさんの提案を全面的に支持したので、翌朝の特別観光旅行が決行されることとなった。

私はミニバスの一番前に座って、バウアーさんに質問をし続けた。

「なるほど、これが動物公園(ツォー)駅ですか。この近所にノレンドルフ広場というのがあるはずですが、どっちの方向ですかね」
バウワーさんと運転手が、ああだこうだと議論しながら、ノレンドルフ広場を見つけてくれる。

「ノレンドルフ広場に面した場所に、中庭つきのホテルがあると思うんですが、ホテルの向かいには地下鉄の入り口があるはずです。ケストナーの小説ではホテルの名前は、ホテル・クライトになっていますが。
「え、ケストナーって、あのエーリヒ・ケストーのことですか」
「ルフトハンザの乗務員から聞いたのですが、『エーミールと探偵たち』に出てくる子供たちが活躍した場所は、今でも残っているそうですね」

そのうち、バウアーさんと運転手さんも私の話に乗せられて、古いベルリンの町を探る旅に付き合いだした。記者団の仲問たちにとってはいささか迷惑だったのかも知れない。エーミールが大金を盗まれて困り果てていることを知ったベルリンの子供たちは、このノレンドルフ広場を拠点にして山高帽の犯人を見張り、工ーミールの応援を開始し始めた。そ
の一方で子供たちは、ニコルスブルグ広場にも連絡拠点を構えた。広場の近所の金持ちの家の子が、連絡係に指名された。何せ自宅には電話があったからだ。子供たちは自転車を使ってベルリン中を移動し、応援の仲間を集める。どうやって犯人を追い詰めるのかは、ぜひ小説を読んでいただきたいが、スリルあふれる尾行劇の中でケストナーが描いている
のは、活き活きとしたベルリンの街角と、そこに生きた人々だ。

エーミールが、いとこのポニーと待ち合わせるはずだったフリードリヒ通り駅前の花屋さんは、東ドイツに組み入れられた後も営業していたそうだが、残念ことに壁崩壊後の再開発で消えていた。駅のガード下に花屋さんがあったので、聞いてみた。

「うちは戦後始めた店だから、エーミールの花屋さんと関係ないわ。でも、うちの店の写真を記念に撮っていく人がたくさんいるわ。お蔭様で宣伝になっていますわ」
ということだった。

どうしても見っからなかったのが、カイザー通りという地名だった。山高帽の男は、動物公園駅で市電に乗り、カイザー通りを下っていく。エーミールは自分の大事なお金を盗んだ山高帽の男を逃がすまいと、無賃乗車で市電に乗る。そのカイザー通りを見つけることができなかったので、その日の夜、シュプレー川べりのホテルに戻った私はベルリン地図
を広げながら、ホテルのフロント係にカイザー通りのありかを調べてもらっていた。
「エーミールが動物公園駅から乗った二両編成の市電は、カイザー通りを走っていったと書いてあるんです。駅の近くにその通りがあるはずなのですが、戦後は通りの名が変わったということを聞いていませんか」


▼私に話しかけてきた老婦人の生い立ち


フロント係と私の話を聞いていた八十歳ぐらいの老婦人が、明瞭な英語で話しかけてきた。
「カイザー通りというのは、この大きな教会のある通りよ。昔は市電が走っていたのよ」
彼女は私がケストナーの足跡を探していることに興味を持って、話しかけてきたのである。
ベルリンで生まれた彼女は、ナチスからスイスに逃れた両親と共に移住し、ずっとジュネーブで育ったとのことだ。

「ケストナーという人は、変わった人で、焚書事件の時、わざわざべーベル広場の現場に出かけて白分の本を燃やされるのを見ていたのをご存知?」
「いや、焚書事件というのは知っていますが、ケストナーが現場にいたんですか?」

焚書事件というのは一九三三年五月に発生した言論弾圧事件だ。ナチスが組織したヒトラー・ユーゲントや自警団が、国家を侮辱する内容の本をリストアップして、全国一斉に本を燃やすデモンストレーションを行ったという、とんでもない事件である。

その老婦人は、ケストナーは仲間たちがフランスやスイスにどんどん亡命していったのにもかかわらず、戦争が終わるまで国内に踏みとどまってナチスに精神的に反対し続けようと決意し、ずっとドイツを離れなかったのだと語ってくれた。踏みとどまったケストナーは、その後、何度かナチスにっかまっているが、生き延びることに成功し、戦後は西ドイ
ツ・ペンクラブの会長としてドイツ文学の復興に全力を捧げている。

「いろんな本が燃やされましたが、文学書で狙われたのはヘミングウェイなどの外国のものが多かったのです。ドイツ文学ではハインリヒ・マン、トーマス・マンそれにエーリヒ・ケストナーの三人の作品が目の仇にされました」
「ケストナーのどんなところがナチスにとって気に入らなかったのですか」
「ケストナーは自由思想の持ち主です。物事を奔放に白由に見る態度が退廃的だと思われたのでしょう。焚書についてはヒツトラーが直接命令したのではなくて、大学教授と学生が中心になって、ドイツの国威発動に不都合な書物を選び、ヒトラーユーゲントやSA(突乳隊)がそれらの本を集めて回ったのです。マスコミもそれに同調して国民運動として広がっていったのです。学問の自由を大学自らが否定し、思想の自由をマスコミが否定したのが焚書事件です。大勢の国民がヒトラーという悪魔に手を貸して、おべっかを使ったのが焚書事件です。私の父はずっとそう語っていました」

「お父さんは何をしていらしたのですか」
「フンボルト大学の助手でした。自分自身も物事を深く考えずに焚書に手を貸してしまったので、スイスに亡命して新しい人生をやり直そうとしたらしいです」
初日目から、ナチスの爪あとに触れる旅になってしまった。
しかし、この老婦人に会えたことはおそらく偶然ではないだろう。エーミールたちが活き活きと活躍していた戦前のベルリンの魂が、七十年以上の時空を越えて私たちに語りかけてくれたのだ。ベルリンの旅は、こうして始まった。

続く



     
 


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2008年05月25日

ビルマ軍事政権にこれ以上騙されるな(1)

▼サイクロンの被害を受けた国民100万人を何もせずに放置し、そのどさくさを利用して憲法策定の投票作業を強行したビルマ軍事政権。国際社会は怒りを持ってこの非道な政権に対峙し、彼らに支配された国民を一国でも早く解放しなければならない。▼ビルマの軍事政権をつけあがらせてきた国が中国であるが、今回の四川地震ではおおむね国民を守ろうとする姿勢を維持しているようだ。この機会にぜひ反省してもらい、ビルマへの支援政策を見直すように働きかけていかなければならない。▼中国ほど知られていないものの、日本もビルマ軍事政権を甘やかしてきた国の一つである。軍事政権がこれから強行しようとする「でっちあげ国民投票政策」を容認すれば、いつまで経ってもビルマの人々に平和と自由は訪れない。日本がどうなってビルマを甘やかしてきたかを2回にわたって報告する。(08年5月25日 菅原 秀)



◆軍事政権を国家承認してしまった日本の失政


 ビルマ軍事政権は、国家平和開発評議会(SPDC)という任意団体である。この任意団体は88年の発足当時は国家秩序回復評議会(SLORC)という仰々しい名前をつけて「国家の秩序を維持するために国を統治する」と宣言した。権力掌握と共に「秩序維持と平和の回復」「交通インフラの確保」「経済活動の保証」「複数政党制への民主化実現」を約束した布告1号を発表した。

しかしどの約束も、いいかげんな朝令暮改でごまかしてきたことから、信用を回復するために人気のないSLORCという呼び名を廃止して、SPDCとして再デビューした。しかしデビュー後も、軍備拡張以外には何の仕事をしようともせず、20年間に渡って権力の座に居座ってきた。

 この任意団体SPDCが軍事組織を保有しているのだから、始末に終えない。 

 07年9月のヤンゴンのデモで長井健司さんを殺害し、さらに08年5月のサイクロンでは自国民被害者100万人に救いの手を述べることなく放置し続けた。

 ビルマ軍事政権の信用を国際的に失墜させただけでなく、その軍事政権を甘やかし続けてきた日本政府の信用も問われなければならない、重大問題なのである。

 さて、この私の文章を見て、
「なんでビルマと書くのだろう。あの国はだいぶ前にミャンマーと国名を変更したのではないか」
と思われる人が多いかと思う。実は日本と違って他の国々には、この国の呼称変更を認めない人が多く、特に世界のジャーナリストの大部分は未だにビルマと呼称しているのである。

 まずそのことから説明しないと、話がわかりにくくなる。ビルマの人権問題と深く関わっているからだ。
 1989年6月、ビルマ軍事政権は国連に対して、英語での呼称の変更を届けた。それまでのユニオン・オブ・バーマを、ユニオン・オブ・ミャンマーとしたのである。国連のルールでは議席を持っているその国の政権が国名変更を届ければ、自動的に受理しなければならない。したがって国連での国名変更は自動的に行なわれた。

 しかしこの変更に対して、アメリカ、ヨーロッパ各国、北欧各国などが強く反発した。1990年の総選挙でアウンサンスーチー率いるNLDが圧勝したにもかかわらず、政権を委譲せず、そのまま居座っている軍事政権が、国民の信を問うことなく勝手に国名変更することは容認できないと考えたのである。(アウンサンスーチーの日本語表記は、新聞ではアウン・サン・スー・チーだか、本人はビルマの人名表記原則を尊重してアウンサンスーチーにして欲しいと言っている)

 さて変更の理由は何か。
 事情に詳しい田辺寿夫氏は、次のように解説している。

「ビルマ語による国名は、ピダウンズ(連邦)・ミャンマー・ナインガン(国)のまま変わっていない。国名の変更にあたって軍事政権の担当者は、英語のバーマのもとになったバマーがビルマ族をさし、ほかの多くの民族が共住する連邦国家としては、そのすべてを包含するミャンマーという呼称のほうが寄りふさわしいと説明した。しかし、この説明が正確でないことを、内外の多くの識者が指摘している。バマーとミャンマーはもともと同じ語源の言葉で、おもにビルマ族とその国土を指すことは明らかであるからだ。バマーは交互としてよく使われ、ミャンマーはもともとビルマ語の国称として使われているように文語的な表現である。人々はこれまで、この二つを同じ意味の言葉として、とくに意識せずにごくふつうに使ってきた」『ビルマ 発展のなかの人びと』田辺寿夫著 岩波新書

 現軍事政権を認めていない英語圏ではこの国を今でもBurma,北欧諸国はBirmaと呼び、各国のマスコミもそれに習っている。(ビルマという日本語の呼び方は北欧形なので、江戸時代にオランダから伝わったと思われる)

 にもかかわらず日本政府とマスコミは、軍事政権の提案をいとも簡単に受け入れている。

 まず89年に7月から外務省と内閣法制局が今までのビルマ呼称をやめてミャンマーとすることを決定。それを受けた日本新聞協会は「現地の呼び方を尊重する」という理由で、89年8月からミャンマーという表記に切り替えている。

 前提となったのが、89年1月の閣議決定である。88年9月にビルマ軍はヤンゴンのデモを軍事力で制圧、数千人を殺害しビルマ連邦の全権を掌握した。軍は戒厳令をしくと同時に、国家秩序回復評議会という暫定国家管理組織をつくり、治安を押さえ込み、総選挙を行なうと明言した。日本政府はこのグループが治安を回復したことを評価し、閣議決定としてこの国の国家承認をしてしまったのである。


◆マスコミはビルマ表記に切り替え直すべきだ

 90年6月、約束どおり総選挙は実施され、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が485議席のうち392議席を獲得した。軍事政権支持政党である民族統一党(UNP)はわずか10議席というありさまであった。しかし、その結果は反故にされ、逆に当選したNLDの国会議員たちを全員逮捕して、軍事政権をそのまま維持したことは周知のとおりである。

 日本政府は、ここで国家承認を取り消せばよかったのだが、ODAを一時凍結しただけで様子見をすることにした。この時点で本質を見誤ったのである。

 ここから日本政府と国際社会とのボタンのかけ違いが始まることになる。
 そうした経緯の結果、見事なほどすっきりと国名呼称がミャンマーに切り替わったのが日本だ。ビルマ軍事政権の対日心理工作はみごとに成功したのである。

 しかし英語圏からのニュースであるCNNやBBCなどの国際ニュースを聞いていただきたい。どのニュースのアナウンサーも、あいかわらずBurmaと呼称していることに気づくはずだ。

それに対して、ビルマ軍事政権を支持する国であるロシア、中国、シンガポール、北朝鮮などから発信される英語放送を聞いていただきたい。これらの国の放送局では必ずMyanmarと呼称している。

 また両者を混合している国もある。タイ、バングラデシュ、マレーシア、それに加えてASEAN諸国の、ビルマと深い利害関係を持つ国々である。これらの国々は好むと好まざるに関わらずビルマとの接触を続けなければならない運命にあり、全体的にコンストラクティブ・エンゲージメント(建設的関与)という外交手段を採っている。これらの国々では、政府系メディアはミャンマー、反政府系メディアはビルマという形で報道し、それぞれの番組や記事の中では、ばらばらにふたつの呼称が併用されている状態である。

 つまりビルマ軍政を支持する人々はミャンマー、軍政の居座りを許容しない人々はビルマという風に、全世界の世論を二分し、呼称自体が政治的なものになってしまったのである。

 日本では、在日ビルマ人による民主化団体と、日本人の支援団体がこの国の民意抜きの呼称変更を認めずに、ビルマと呼んでいる。テレビや新聞などのマスコミは別段ビルマ軍事政権を支持しているわけでもないのに、一律にミャンマーと呼んでいることから、大部分の日本人がマスコミの報道を受け売りしてミャンマーと呼ぶようになった珍しい国が日本だ。

 私は、選挙結果を無視し、国会の機能を17年間も停止し続けたまま権力にしがみついているこの軍事政権を許容するわけにはいかないので、ビルマと書き続けている。ジャーナリズムには、表現の自由を守る使命がある。表現の自由を完全に否定している政権が勝手な国名変更をしたことを許すのはジャーナリストの職業倫理と矛盾しているからだ。さらに国際ジャーナリスト連盟(IFJ、会員数1億5千万人)を始めとするジャーナリスト団体のほとんどが、言論の自由を否定するこの政権に抗議する立場でBurmaの表記を採用しており、国際的なジャーナリズムの連携をはかるうえでも、Myanmarという「踏絵的」な表記は不適切であるからだ。

 こうした説明をすると、多くのジャーナリストが賛意を示してくれる。しかし、いったん呼称を切り替えてしまった日本のマスコミにも面子がある。ビルマ学者の投稿などにビルマ(ミャンマー)と記載してお茶を濁している程度が精一杯のようだ。ここで各メディアの記者は勇気を持ってビルマ表記を社内に通用させるようにして欲しい。 

 長井さんの死を無駄にしないためにも、せめての抵抗の意味で堂々とビルマと書き直していただきたいのである。言論を弾圧した軍事政権が民意に基づいた手続きをおこなわずに変更した国名を垂れ流すのは、言論の自由を守るジャーナリストという立場に相反するのだということを熟慮していただきたい。

さて89年の流血の弾圧の直後に国家承認をして、ビルマ軍事政権を甘やかし続けてきた日本だが、その後現地に派遣された歴代の大使たちも、民主化勢力に対する弾圧に対して毅然とした態度を採っていないのが目立つのが日本の外交だ。
特に93年から大使を務めた田島高志氏と、95年から大使を務めた山口洋一氏は、一貫して軍事政権の側を支持し、軍事政権と外務省の蜜月時代を築いてきた。その悪影響は今でも続いている。


◆ビルマとの蜜月時代を演出した大使たち

山口氏が大使になった頃、私はオスロに本部のあるNGOワールドビュー・ライツの職員としてビルマ民主化支援活動を開始した。
さっそくビルマを担当する外務省南東アジア1課を訪問し、今後の活動への協力を要請した。そのとき応対したM課長は、私に対して次のように語った。

「日本ではミャンマー国民の大多数がスーチーのNLDを支持していると報道されていますが、それは90年の選挙のときだけの一時的な現象です。今では彼女を支持する人はビルマ全体で500人程度しかいません。軍事政権がまじめに国を運営しているのにもかかわらず、NLDは欧米から資金を得て、嘘の情報を流し続けています。決してNLDや亡命政権であるNCGUB(ビルマ連邦国民連合政府)などの情報に振り回されないようにお願いします」

 私は開いた口がふさがらなかった。
500人という不思議な数字にまず驚いた。当時日本に在留していたビルマ人の数だけでも一万人がいた。大部分はノンポリであるものの、大使館の職員やその家族を除いては、軍事政権の支持を表明する者はいなかった。つまり日本にいるビルマ人の少なくても9割以上はNLDを支持していたのである。90年選挙のときのパーセンテージは日本に来ても同じだった。M課長は、日本だけでもNLDを支持する9千人以上のビルマ人がいるのに、ビルマ本国に500人しか支持者がいないと言ったのだ。

 しかし、それが山口洋一氏の受け売りであることがあとからわかった。山口氏があちこちで「スーチーは欧米から資金を得て政府を苦しめる策略をしているが、彼女の支持者は全体で500人程度しかいない」と話しているのを知ったからだ。

 田島氏と山口氏は、ビルマへの最大の援助国として常に国賓待遇で扱われており、彼らの著書の中で軍事政権から数々の便宜供与を受けていたことを自慢している。

 ゴルフ接待から始まり、地方視察の際の特別機や特別列車の提供など、自分たちの家族も含めて王侯貴族のような扱いを受けていた。国際公務員がこうした便宜供与を受けることには倫理上おかしいと思うので、国際法の専門家が私宛にご意見を寄せていただければありがたい。

 さて山口大使の時代に、ある出来事が持ち上がった。自衛隊や外務省などの日本政府職員7人が、ビルマとタイの国境の難民キャンプを視察し、食糧事情や水道事情を調査したのである。難民キャンプの住民を支援しているビルマ国境コンソーシアム(BBC)という国際NGOからの要請による草の根無償支援の実態調査のためだった。調査団はその結果を本庁に報告し、700万円の食糧支援を行なうことが決定された。

 しかしその決定は実行されず宙に浮いたままだった。情報をキャッチしたフォトジャーナリストの山本宗補氏が外務省に問い合わせたところ、「ビルマ軍事政権からカレン民族同盟(KNU)の武器に流用される恐れがあるので、支援しないようにと言われ棚上げになっている」という話だった。

 真相はこうだった。バンコクの日本大使館の職員がこの草の根支援の計画を聞きつけて、日頃親しく付き合っているバンコクのビルマ大使館の職員に電話をした結果、ビルマ側が支援をしないように強く要請したのである。

 大量の難民を生み出した抑圧側政権に電話をすれば、こうした答えが来るのは当然であり、外交官の責任を大幅に逸脱した背信行為である。この対応に対して市民団体が強い抗議をした結果、宙に浮いていた支援はBBCに届けられた。

 そのBBCの本部を訪ねた私は、翌年も草の根資金援助の申請をするのかと尋ねた。責任者はこう答えた。

「もうこりごりです。突然日本大使館に呼び出され、授与式で日本の大使とタイ外務大臣に対する感謝の言葉を述べよと言われたのです。私たちはさまざまな国からの支援を受けていますが、官僚に対するお礼を強要されたのは初めてです。私たちの活動が外交上の取引に利用されていることを知って、正直がっかりです」

 さて山口元ビルマ大使は、長井さんが殺害された事件の直後から不思議な行動を開始している。雑誌、テレビ、あげくの果てには外国人記者クラブにも登場して、ビルマ軍事政権擁護の発言をし続けているのである。

 その論理があまりにも変わっているのでマスコミは飛びついた。「軍事政権が一般市民、ましてや外国人ジャーナリストに発砲することはありえない」「スーチーは市民に金を渡してデモに参加させた」「スーチーは96年に自動車での移動中市民から、外国人女は出て行けと言われた。こわくなったので警察に泣きついてその後、軟禁という形で保護してもらっている」「スーチーは英国に操られ、ビルマを混乱に陥れようと策動している」などの独特の論理をまくし立てたのだ。


続く                 (c)菅原 秀 2008
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2008年05月02日

コッチェビの涙(4)ケソンの労働者たち

韓国の大統領が代わると同時に北朝鮮は、南北の共同開発の象徴である城」(ケソン)産業コンプレックスの韓国企業に圧力をかけた。この工業団地は韓国統一省が窓口になって、現代俄山社を仲介企業とし、北朝鮮と連絡を取りながら運営している経済特区である。全体の一割程度が完成されているが李明博大統領が当選して以来の動きが不透明になっている。さて、どんな場所なのか。統一省によればまだ日本の政治家は訪れておらず、ビジネス関係者と少数の記者が見学したに過ぎない。昨年3月、韓国記者協会による外国人記者団の北朝鮮訪問の旅の一環として、日本にはほとんど知られていないこの「開城」(ケソン)産業コンプレックスを訪れることができた。その時の見聞の一部をお伝えする。


▼10年計画の巨大プロジェクト

韓国統一省の将来を見すえた事業のひとつが、現代俄山社(ヒュンダイアサン)が中心になって、ソウルの北方80キロにある北朝鮮領内の開城(ケソン)市に産業コンプレックスを整備する巨大事業だ。

開城市は板門店から軍事国境線を北上し、38度線の手前に位置する高麗王朝の古都である。朝鮮戦争で米軍が死守しようとしたが、結局、北側に属することになってしまった都市である。現在の人口は約35万人。北から南下してきた避難民が足止めを食い、最大数の離散家族を生んだ都市で、市民の7割が離散家族だという。

その開城市の東部の原野を開拓し、10年計画で従業員40万人を越える産業コンプレックスを作ろうというのが「太陽政策」の柱だ。東海岸の北朝鮮領金剛山と違って、こちらの方は一般の人が訪問するのは難しい。すでにパイロット・プロジェクトは完成しており、現在、北朝鮮労働者12000人、中国籍朝鮮人労働者12000人が勤務し、アパレル製品や手工芸品を生産している。

北朝鮮領内なのに、給料はどうなっているのか、それで食べてゆくことができるのか、政府や企業はどれだけ搾取するのかなど、記者団にとって興味津々なことばかりだった。

私たちが訪ねたのは、その広大な造成地区のごく一部、敷地全体の1%程度のところに建てられた20社ほどの工場群である。広大なコンプレックスの敷地は、造成中であり、あちこちに巨大な重機が入っている。これらの土木作業をしているのは韓国人男性労働者。連日700人ほどが泊り込んで、土ぼこりの中での作業を継続している。

最初に案内されたのが、800人の労働者が働いているというアパレル企業である。現代俄山社の担当者から「従業員には決して声をかけないように。もし声を掛けた場合は、見学を中止します」というきついお達しを受けた。

といっても、朝鮮語ができる人はほとんどいないので、声のかけようがないのであるが。私たちは1000平方メートルほどある生産ライン現場に案内された。20代から40代の女性200人ほどが、一台ずつのミシンに向かって縫製作業をしている。別な部署では、巨大な裁断作業台や、アイロン台の前で、黙々と女性たちが働いている。

工場内は極めて清潔で、労働者も清潔なユニフォームを着ている。そこに、140名の外国人の記者団が、どどっと押しかけたのであるから、彼女たちにも緊張感が走っているのがわかる。全員が「外国からのお客様が来るからしっかり作業するように」といわれたのだろうか、一切の私語もせずに、真面目に作業をし続けている。私たちと目を合わせようともしない。

そこを私たち全員が、バシバシと写真を撮る。私たちは朝鮮語が出来ないので、無言のまま写真を撮る。異常な光景である。

さらに私たちは、2階、3階と案内され、別な生産ラインや、北側従業員がパソコンで会計管理をしている部屋、従業員休憩室などを見学した。

私は、トイレに行くふりをして、最初に見学した大きなミシン工場に降りていった。やはり、思ったとおりだ。外国人見学者がいなくなったあとの彼女たちは、お互いに冗談を飛ばしあいながら、私たちが見学していたときとは打って変わって、リラックスして作業をしていた。彼女たちはロボットではない、同じ人間なのだ。

興味深かったのは従業員休憩室である。小さな休憩室はあちこちにあるのだが、コンプレックス内のどの会社の従業員も利用できる独立した休憩室(ヒュゲシル)という建物に案内された。すると中は、礼拝堂になっているのである。真ん中に祭壇があって十字架がはめ込まれている。

北朝鮮の共産主義のもとでも、人々のよりどころがキリスト教になっていたことを知って、考えさせられた。共産主義は人の心を支配することは出来ないのだ。

しかし、ここは北朝鮮。従業員の賃金は「開城経済コンプレックス労働法」に基づいて支払われている。現代俄山社の担当者が、従業員の給料は残業を入れて月あたり60ドル弱。給料の一部は各社が預かって現物に変えて支給している。との説明をした。

▼経済支援か、北の労働者の新手の搾取か?

しかし記者団は納得出来ない。「国際基準から考えても極端に安い給料ではないか。現代俄山は北の人々に就労の機会を与えているのではなく、北朝鮮が賃金を安いことにつけこんで、搾取をしているのではないか」などの質問が次々に発せられた。

担当者は、「私たちとしてももっと支払いたいのですが、北側政府が決定した賃金であり、当然北全体のバランスを考慮しなくてはなりません。しかしここの工場で働いている人々は、皆、喜んでいます」喜んでいるといわれても、従業員に話し掛けていけないのだから、どんな風に喜んでいるのか、われわれは把握しようがない。

各工場の裏手の自転車置き場には、従業員たちの自転車が並んでいる。どの自転車にもナンバープレートがついている。ここ北朝鮮では、自転車は登録制度なのである。

その自転車で、開城市の自宅からここまで、約30分の道のりを通ってくるのである。

平壌政府の思惑と、韓国統一省の思惑、さらに開発を任せられている現代俄山社の思惑が合致したところで、建設されているのがこの開城経済コンプレックスなのであろうが、ここは新聞でよく報道される幻の経済特区ではなく、まさに北と南が真剣勝負に出ている経済特区であるということだけは、この目ではっきりと確認できた。

開城経済コンプレックスを見学せずに、北朝鮮の問題について語ってはいけないということを、心の底から実感できる場所でもある。

北と南は、ソウルからここ開城と平壌を経由して、さらにモスクワ、パリ、ロンドンに至る鉄道を開通させる計画を持っている。ソウルと平壌の鉄道はすでに開通しているので、政治的問題が解決すればいつでも運行可能なのである。

太陽政策というのは、単なるイデオロギーではない。統一が実現した場合に、南側はかなりの経済負担に耐えなければならない。それに耐えられるようなソフトランディングを目指すための産業開発が、開城経済コンプレックスという具体的な事業として進行しているのである。

こう見てくると、南も北も、将来必ず統一するという合意に向かって、さまざまな手立てを整えていることがわかる。韓国人が求めるのは突然の性急な統一ではない。あらゆる立場の韓国人が口をそろえて「統一には時間が必要だ」と語るのは、そうした意味である。

最近になって北朝鮮がこの経済コンプレックスへの韓国人の出入りを制限するなどの揺さぶりをかけているが、開発の巨大さを目の当たりにすれば、北朝鮮特有の「ゴネ徳」路線で、新政権からのお土産を期待していると考えればほぼ正解であろう。北にとっては決して手放せないのがこの開城経済コンプレックスなのである。

李明博政権によって北と統一が遠のくと考える人もいるようだが、韓国の人々でそう考える人はほとんどいないであろう。韓国全体が「統一」に向けた作業をこれからも継続することは、こうして現地を確認することで得心できる。つまり机上のプランではなく、すでに膨大な金額を投資した基盤作りが開始されているのである。体制の違う分断国家の統一には、長い時間をかけた基盤作りが必要だということを、彼らは良く理解している。

拉致問題の解決の道筋を見つけるためには、まず、こうした南北の融和の動きの中から交流のカードを探し出す必要がある。日本の政府関係者に心して欲しいのは、「カードなしでは拉致問題は解決しない」ということを肝に命ずることである。

さて開城経済コンプレックスを最初に訪問する日本の国会議員は、誰だろうか?

了                 (c)菅原 秀 2008
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2007年11月16日

ノーベル平和賞を受賞するにはどうすればいいか

最近下火になったが、「日本国憲法にノーベル賞を!」というキャンペーンが行なわれてきた。

日本国憲法には、官僚がNPOをいじめるときによく使う憲法89条をはじめ、おかしな条文や時代遅れな条文がたくさんあるが、戦争を絶対にしないという憲法9条だけは、ぜひとも後世に残すべき人類の知恵である。

「日本国憲法にノーベル賞を!」と言っている団体の人々に聞いてみたところ、オスロのノーベル委員会に皆で手紙を書いているという。下手な鉄砲数打ちゃ当たるのかな?と思ったものの、とても気になる。そこでオスロを訪問した折にノーベル財団を訪ねてみた。

▼平和賞の本部はストックホルムではなく、オスロだ
 
ノーベル財団の本拠地はストックホルムにあるが、オスロのノーベル財団はノーベル平和賞だけを扱うために、ノルウェー国会の管理のもとに運営されている。オスロの中心街からタクシーで10分ほど行った郊外にある古い建物でいかにも北欧の研究所という感じだ。一階の吹き抜け天井がとても高いのが印象的だった。

さっそく応対してくれた女性の担当者にたずねて見た。

「日本国憲法に平和賞をという動きがあることをご存知ですか」
「ええ、知っています。よく手紙が届きます」
「その手紙をどうしているのですか」
「返事は書きません。というか所定の推薦者以外の人からの手紙への返事は
書けないことになっています。推薦の要件を満たしていないからです」
「推薦の要件というのは、どうなっているのですか」
「推薦の資格を持った人による推薦書でなければだめです」
「では、推薦の資格を持った人が日本国憲法を候補として推薦すればいいわけですね」

「いいえ、推薦を受ける人は人物か団体でなければなりません。日本国憲法を推薦するというのは面白いアイデアですが、それを作った人とか、守っている組織とかでなければ受賞の対象になりません」

そう説明した彼女は、ノーベル賞の推薦システムの解説書を私に渡しながら、付け足した。

「この件では、たくさん手紙が届いているのですが、アン・プロダクティブであるということを日本の皆さんに伝えていただけませんか。推薦は資格を持った人が1通だけ、英文によるできるだけ詳細な推薦理由を書いて送ってくださればいいのです」

▼ノーベル委員会が受賞者を選考、推薦の多数とは無関係

ノルウェー国会は、5人の平和賞委員を任命し、極秘の審査ののちに授賞者を決定する。各国からデータを集めるのは、ノルウェーのノーベル財団であり、財団によって分析された後、5人の委員に届けられる。この5人へのロビー活動などは決して認められず、ノルウェー国会もその決定作業に関与することはできない。

ときどき「○年のノーベル賞にノミネートされた○○博士」などという文章を見かけるが、ノミネートの発表などは、一切なされないそうである。そうした文書を見たら詐欺師だと思ったたほうが良いだろう。

しかし最終選考に残った人物だけは発表されるので、「最終選考に残った○○」という表記なら、詐欺行為に当たらないであろう。

平和賞候補を推薦する資格があるのは、「今までの平和賞受賞者」「列国議会同盟メンバー」「国際法学会メンバー」「元ノーベル委員」などである。

この中で、列国議会(IPU)というのは耳慣れない団体であるが、この団体は全世界の国会議員が加盟する団体であり、日本の衆参両院の国会議員も自動的に加盟することになっている。従ってノーベル賞を与えたいなと思う人がいたら、国会議員に頼むのが一番近道だろう。

日本の国会議員も、時には推薦状を書く活動をしている。かつては日本の議員が中心になって佐藤栄作を強く推し、ノーベル平和賞受賞を実現した経緯がある。その後も、日本の国会議員は、中国の人権活動家や、日本のNGO活動家を強く推したことがあるが、最近の日本からの推薦活動は、下火のようである。

また、新聞で報じられている通り、佐藤栄作への授賞については、ノルウェー側もノーベル平和賞の趣旨にかなわないものではなかったかと考えているふしがある。ノーベル財団が学者に頼んで書いた歴代受賞者を詳述した書物の中でそのことに触れられている。残念ながら日本語訳は今のところないようだ。

佐藤栄作の受賞理由は、非核三原則を導入して、日本を核を持たない国にする努力をしたというものである。日本の核武装を恐れる国際社会に対して、強い安心感を与えることになった。しかし、ノーベル平和賞には、「受賞の是非を問う論争の的にならない人物」を選考するという基準がある。

佐藤栄作の場合は、日本国内での是非を問う論争が持ち上がり、特に野党支持者の人々がノーベル平和賞の権威を認めないようになってしまったという経緯がある。こうした結果が生じるような選考は、ノーベル賞が持つ信頼醸成を損なうことになる。ノーベル委員会はより慎重にならざるを得ないことになったのである。

その意味では07年のゴア氏の受賞も、アメリカ国内での環境グループからの批判が強いことから、将来、問題が起きる可能性があるといえよう。もちろん、委員会は米国内で騒動が起きるなどとは予測せずに、純粋に地球温暖化阻止のシンボルとして選考したのであろう。いささか調査不足であったと言えよう。

ノーベル財団の事務局長の話では、平和賞候補は毎年百人以上いるそうである。また過去には75万通の推薦の手紙が届いた候補もいると言う。その候補は、受賞することが出来なかったとのことだ。つまり組織票は役に立たないということを証明している。

従って、推薦の手紙の数は、財団への心理的圧力にはなるかも知れないが、選考への影響は極めて少ない。ではどうやって選考するかといえば、ノーベル財団の職員が推薦状に書かれている内容をもとに、候補者の経歴や業績を調べ上げ、事務局長がその膨大な資料を編集して、5人の委員に提出する。委員たちは8カ月にわたって、これらの資料を読み、不明点があれば何度もノーベル財団に質問し、追加調査を依頼する。

推薦状の締め切りは毎年1月の末頃である。(私の記憶が間違っているかも知れないので詳しくは直接ノーベル財団へ 電話+47 22 12 93 00 )

あなたもぜひ、これはと思う人の詳細な推薦状を作成して、知り合いの国会議員に頼み込んで、ノーベル財団に送ってみてはいかがだろう。そろそろ日本からノーベル平和賞受賞者を出してみたいものだ。
                      


posted by 菅原 秀 at 22:52| Comment(1) | TrackBack(1) | ノーベル平和賞のしくみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする